新制「宅地・建物取引員」資格試験問題解答集「受験案内と合格法」
タイムスリップしてみましょう。
昭和三十四年一月二十五日 印刷
昭和三十四年一月三十日 発行
定価 百二十円
こちらの古文書。
持っているんですワタクシ。
何年か前になりますが、ふいに思い立って、探してみました。
そしたらあったんですよ、この手の書籍が。
令和のいまも連綿と続く宅建試験の「第1回」試験問題。
過去問です。
2冊も見つけまして、速攻で書いました。
1.この試験が設けられた理由
「はしがき」からの引用を続けます。
ちなみにですね、「なかつたため」とか「もつて」などと、まだこのときは『歴史的仮名遣い』で書いてたんですね。
だから『つ』が大きい。
でね。
いつから「現代仮名遣い」の『っ』になったのかというと、法令だと昭和63年からみたい。
最近といえば、まぁまぁ最近です。
『法令における拗(よう)音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について(通知)』というのが昭和63年7月20日に出されています。
それによると「昭和六十三年十二月に召集される通常国会に提出する法律及び昭和六十四年一月以後の最初の閣議に提案する政令(以下「新基準法令」という。)から、小書きにする」とのこと。
2.どんな試験問題だったか
ではここで『輝け★第1回宅建試験』、当時は「宅地建物取引員試験」と呼ばれていましたが、その【問1】はどんな問題だったでしょうか。
上述のとおり、令和になっても連綿と続く宅建試験、その源流ともいうべき【問1】です。
宅建試験の長い長い歴史は、この問題から始まりました。
で、土地台帳ってなに(笑)。
ってか、土地台帳をまだ出題していたんですね。
ってか、あれ、昭和33年の時点でも不動産登記法(登記制度)のはずなのに、なんで?
併用されてたんでしょうか。
というのも、不動産登記法(登記制度)ももちろん出題されていて、それも3問も。
問7(借地権の対抗要件)
問8(登記がなくても対抗できる場合)
問9(物権変動の対抗要件)、
当時の出題者に事情を聞いてみたい。
恐山にいったときにイタコに頼んでみます。
3.当時から「笑える問題」も出題されていた
令和になっても連綿と続く「笑える問題」。
「笑える問題」は宅建試験の“伝統芸”なんですね。
歴代の「笑える問題」ご担当の出題者の皆々様、ありがとうございます。
それでは第1回の“伝統芸”、いっしょに笑いましょう。
選択肢1、ダメだってば。笑える!!
選択肢4、なんか切ない。
ではこちらの“伝統芸”もお楽しみください。
選択肢1、実際そうだったけど違うってば。笑える。
4.ちなみに合格率は
いまは「宅地建物取引士」で、この名称になる前は、つまり平成26年ま
では「宅地建物取引主任者」で、さらにさらに昔にさかのぼると「宅地
建物取引員」だったわけですが、お読みいただいたとおり、試験は昭和33 年から始まったのでありました。
当時の規定、いにしえの条文によると「宅地建物取引業者は、その事務所ごとに、宅地建物取引員試験に合格した者(以下「宅地建物取引員」という」であつて左の各号に該当しないものを、専任の取引主任者として一人以上置かなければならない」となっていた。
「左の各号」あるのは、条文は縦書きだから。
今だと「以下の各号」となりますよね。
「左の各号」として、つまり今でいうところの「登録不可となる基準」として、たとえば「営業に関し成年者と同一の能力を有しない未成年者」とか。
当時から同じなんですね。
そんな宅地建物取引員を『専任の取引主任者』として、事務所に一人以上置け、という話です。
事務所の人数にかかわらず、ということなんですね。
とにかく、「1人」でいいから誰かしら確保しろ、と。
で、このルールはいつからか。
だから「昭和33年」からです。
となると・・・・
やべー。
急にそんなこと言われったってよ~、そもそも世の中に「宅地建物取引員」なんて一人もいないじゃんかよー。
そりゃいないですよこの世に。
だっていま作ったルールなんですからね。
あは〜\(^o^)/
なので、この世の中に「宅地建物取引員」を生み出すために、ご覧のとおり、当初の試験はメッチャ簡単なものとなった。
【昭和33年】3万6,446人受験・合格者3万4,065人(合格率93.0%)
【昭和34年】1万2,876人受験・合格者1万2,649人(合格率98.2%)
【昭和35年】1万5,051人受験・合格者1万2,502人(合格率83.1%)
ちなみに当時は、試験会場に法令集等(←テキスト類ですね)持ち込みオッケーなのでカンニングし放題。
出題は30 問。
オマケに試験時間は2 時間30 分。
こうなってくると【昭和34年】に不合格となった1.8%の人(227 名)に「なにしてたの?」と聞いてみたい。
「宅地建物取引員」が「宅地建物取引主任者」となったのが昭和40年、申込者数が10万人台に乗ったのが昭和46年、そしてバブル景気が始まった昭和62年(ワタクシが合格した年です)には、20万人突破。
宅建講師稼業に足を突っ込んだのが平成元年で、バブル全盛期の平成2年には、ついに受験生がド派手に40 万人台となったのでありました。
ということで今回は「宅建試験はじめて物語」でございました。
いかがでしたか。
とくに本日、みなさんにお伝えしたかったことは、宅建試験の「笑える問題」は“伝統芸”であったということです。
これからも“伝統芸”をみんなで楽しんでいきましょうね。