【#01】ヒ・ミ・ツの民法★復刻コラム
こん宅建ダイナマイト合格スクールの市販教材が“エロ本時代”だったころに掲載していたコラムです。
自分で言うのもなんですが、いま読んでみると「へーそうだったんだー」と(笑)。
自分で書いてても、忘れてるんだよなー。
あは〜\(^o^)/
“エロ本時代”をご存知ない方も多く(←そりゃそうですよね)、これから宅建の受験を検討される方もいらっしゃるかと思いましたので、復刻してみました。
1.驚きの民法。バツグンの古さ。
とにかくね、いまの「民法」は古いんです。
いつ成立・公布されたのかというと、さかのぼること約130年前の明治29(1896)年。
そんで実際に施行されたのが明治31(1898)年7月16日。
時代は19世紀末。
ちなみにですね、いま生きている法律で民法よりも古いのは5つしかないみたい。
たとえば「決闘罪ニ関スル件(明治22年12月30日法律第34号)」とか。
なんじゃこりゃ(笑)
そんな「民法」なんだけど、いままでどうにかこうにか、時代に合わせた解釈(←これがクセモノ)で、現代の契約社会に対応させているワケです。
ある意味すごいかも。
だってさ、「19世紀末の内容」で「21世紀の諸問題」を解決・対応させちゃうんだもんね。
さすがニッポン。
芸が細かい。
こんなことは諸外国じゃムリ(笑)。
でもね、さすがにそろそろ全面的に見なおしたほうがいいんじゃないかというノリになってきまして。
まぁそういうことと次第で、ご存知の方も多いでしょうけど、いま国をあげて民法改正(債権法)に取り組んでいます。
改正の大きなポイントのひとつに「国民一般にわかりやすいものとする」っていうのがある。
そうなんです。
いまの民法、一般の人にしてみると、とってもわかりにくい。
抽象的な条文が多いし、不明確だし。
それはなぜか。
なぜ「民法」がそうなっているのか。
そこにはですね、なんと、な、な、なんと、驚きの真実(歴史的経緯)があったのでありました。
2.ニッポンが「民法」制定を急いだ理由−その1
「民法」が生まれたのが明治29(1896)年。
ピンとこないでしょ。
えーとね、調べてみますと、日清戦争が終結した翌年。
電話による長距離通話(東京・大阪間)が始まったのが3年後の1899年。
そんな時代の内容で、いまのネット社会に対応しようったってね、それってどーなの(笑)。
まぁそれはそれとして、上述のとおり、民法の内容はわかりにくい。
なぜそうなったのか。
今回はちょっと歴史を振り返ってみようかと。
当時、とにかくニッポンは「民法」制定を急いでいた。
それはなぜか。そのときニッポンは、なんと、な、なんと、西洋列強の植民地になりかけていたのであった。
ニッポン危うし。
ヤバイぞニッポン、頑張れニッポン、ニッポン・チャチャチャ♫
みなさんも聞いたことあるでしょ。
不平等条約。
日米修好通商条約をはじめとして、徳川幕府が安政時代(←これも強烈に古い話でしょ)に結んだ西洋列強との通商条約は、ニッポンにとってメチャメチャ不平等な内容であった。
たとえばね、関税の自主権もなく、治外法権(外国人が悪さをしてもニッポンの裁判所で裁けないという制度)も盛り込まれてましてね。はっきりいうと、ヤツらから独立国としては見られていないというワケだ。
3.ニッポンが「民法」制定を急いだ理由−その2
ちなみにこの手の不平等条約のはしりは、イギリスと清国がアヘン戦争後の1842年にむすんだ南京条約らしい。
その後、西洋列強は次々と清国と不平等条約を結ぶ。
不平等条約がいったん結ばれるとどうなっちゃうか。
「ぐふふ」ほくそ笑む西洋列強。
そしてそのうち、ヤツら不平等の度合いを大きくしていく。
するとどうなるか。
ヤツらは何を狙っているのか。
おぉ〜、なんてこった。
清国は領土の分割までさせられちゃったじゃないか。
そうなのだ。
事実上、ヤツらに植民地化されてしまったのであった。
おーまいがぁ〜(涙)
次のターゲットはニッポン。
えぇーマジっすか。
やばい、かなりやばいっす。
どうするニッポン。
そんなさなか、激動の明治維新。
おいっ!! 政府はどこ行ったぁ〜!!!
ということで明治政府の最大の外交案件は、安政時代に西洋列強と結んだ条約の「改正」であった。
そりゃそうだ。
よっしゃ気合だぁ〜。
かくして明治政府は「おいコラ西洋列強、ナメたまねしてくれたじゃないか(・・・といったかどうかわかりませんが)」と果敢にアタック。
受けて立つ西洋列強の答えは「おー、いい度胸してんなニッポン、NOに決まってんだろ、このボケ(・・・といったかどうかわかりませんが)」。
でもね、NOにはNOの理由もある。
彼らは言った。
「法律も司法制度もないヤツらと、対等な条約など結べるかっ!!」と。
続きは#02にて。