信心があれば救われるのか?
宗教というのは一般的に神様がいて
彼らや彼らを代弁する者の言うことが正しいと信じ、従うというイメージ
現代の宗教とは本当に社会システムや倫理、悟りの教えから善悪の考え方まで多岐に渡っているので一概にどうとまとめることはできない
私の身の回りでも子供は幼稚園でキリスト教にお世話になっていたし、家族も仏教には恐らく大変お世話になっていると思う
ウチの死んだばあちゃんは大変熱心な仏教の門徒さんであり、非常に素晴らしい死に方をしたと思ってる。私もばあちゃんのようでありたい。
いろんな体の場所が痛いはずなのに痛みを訴えるわけでもなく、有難い有難いと言いながらみんなにひたすら感謝をして死んでいった。私のことなんか気にしなくていいからおまえはおまえのことを一生懸命やりなさいと。
私も宗教はあって当然だと思いますし、特に嫌いな宗教なんかもない
しかし、それが自分の考え方に沿っているかどうかも学ばず判断せずに盲目的に信じるのはやっぱり違うと思っているし、とても危険な行為だとも思う
信心するというのはどういうことか?
今回はこれを少し話していけたらなと思います。
手の中にある絡まったヒモ
がんじがらめになってしまったヒモがあります
あなたはこれを一人でほどくことができません
とってもとっても大事なヒモです。到底人に見せたくありません
取られたらシャレになりませんし、自分のヒモがこんなにがんじがらめになってるなんて、もちろん誰かに知られたくもありません
信心とは
このヒモを信頼できる方に見せて、ヒモをほどいてもらう
こんなようなもんだと理解しています。
疑い深い人って言うのはどんなに
「そのヒモほどきかたわかりますよ?ほどきましょうか?」
といって解こうとしても、ぎっちりと自分のヒモを離さずに握っており
「ほら?ほどけないだろ?早くほどけよ」
みたいな感じなんじゃないかなと思うんです
そりゃあ、ほどけないよ 自分で思いっきり握りしめてるんだから
と、いうことになってしまいます
ですから、本当に誰かを信用してその人に完全にその自分の大事なヒモをお任せすることができれば彼は救われるということになるかもしれません。
そしてその凄さを知り
「ほんとだ!あんなに絡まっていたヒモがほどけた!」となり、
信者になっていくと・・・。
それ自体はとても素晴らしいことです。
やっぱり可哀そうなのは
「人に自分のヒモを本当は解いてほしいのに、自分が手を離さないせいでいつまでもヒモが解けない人」
だと思うんです。
私も大分疑り深い方なので
私の場合は独学でいろんな本を読み、ヒモの解き方を自分で考えて学ぶことにしました
その結果、私のヒモは大分ほどけたような気がしています。
小学校の頃から仲間外れに外れにされるたびに死のうかなって思いましたし、大好きな彼女にフられた時、本気でもう生きてる価値なんかないんだと何度も何度も死のうと思ったことはあります。10代の頃、私の生きる理由は「死ねないから生きている」こういう心持ちだったと記憶しています
時間と言うのは良くも悪くも過ぎ去るもので、誰に救ってもらっても構わないし、逆に救われなくたって人生は進んでいきます
もちろん頼りになる信頼できる宗教や哲学書があるのならそれでも十分だとは思いますが
ですが、もう少しあなたに知恵と勇気があるのなら
自分で解いてみるって方法もあるんだよ!と
そういう手もあるんだよってことを今回言いたい。
信心がなくても自分の生きる意味、なぜ人は死ぬのか?という根源的な疑問は解決することができます。
しかし、とてもこの道は苦しいです。何度も死にそうになります。
思春期には人間関係に悩み、進路に悩み、社会人になれば派閥や壮絶ないじめ、男女の関係にお金の悩み、家族の悩みに病気の悩み。老後になればなったで年金数えながら死後の悩みまでしなきゃならない
人生は苦しいことしかないと言ってもいい
とても重要なことなのでもう1度いいます
人生は苦しい
考えに考え抜いてほしいのです
「生きることについて」「死ぬことについて」
そうすれば、きっと面白い答えが見つかると思います。苦しいですけど
生きること、死ぬこと、願わくば本質はそれ自体が問題ではないことに気が付くことを願っています。
頭で理解し、腑に落とす。そして最後に自分の考えをもって体現していく。
自分自身で自己完結する道もあることを記憶の片隅に留めておいてください。
もちろん信心も素晴らしいです。
しかし、死ぬときには家族もお金も名誉も神様でさえも持ち運ぶことはできません。死ぬときはあなた、ただ一人で死ぬ
それのみです。
誰も一緒にあの世には行ってくれません
だから死に対する自分なりの明快な答えが必要になるのです。
瞑想は、とても良い気付きの練習だと思います。生きている実感を得ることができます。これはなかなか言葉で説明することはできません。
私は仏教は好きですが、仏教徒ではありませんし、その辺にいる何も深くは信仰していない人間です。
しかし、自分なりの考え持って自分の人生を生きていきたいという願いからいろんな哲学書や宗教の本を読み、そのたびに今出せる答えを出してきました。もちろんその年代で答えは少しずつ変化しました。
信心というものは本気で信じる者は救われると思います。信じるパワーというものは凄まじいものがありますし、祈りというものも潜在意識や自己催眠という観点からとても効果的だとも思っています。
もし、現在悩んでいるのなら、その本質、原点、その親分的な要因はなんなのかを徹底的に考えて見て下さい。
「考える」ことは「信心」と同様に非常に強い力を持つアクションだと思います。
1人でも多くの方が人生という苦しい作業の連続に打ち勝ち、その中で幸せを得ることができるように願っております。
現代ではこういうことを話し合う場なんてほぼないですし、何が良くて何が悪いかもなんだかよくわからない時代になってきました。こういった自分の芯になる考え方を強化することでこの難局を共に乗り切って行きましょう!