自分史とヒルクライムの話 その3
今のところ自分史が先行していて、ヒルクライムのことがこれっぽっちも出てきていないのですが、そろそろ出てきますので、ご辛抱ください。
高校卒業後、イタリアを経てフランスへ。そこは思っていたのとは別世界でしたが、それからの自分を形作る原点のような場所でした。(その辺の話はまた次の機会に書くということで細かいことは割愛します。。)
フランスでの滞在場所は、フランスの中央山塊Centre-valcanにあるクレルモン・フェランの近く、シャマリエというところでした。チームのオーナーの知人のホテル(今は夫婦とも他界してしまったので、そのホテル自体存在していません。)に滞在していたのですが、標高400mくらいの場所で西南北は全て山、東側が平坦という地形で、まさに玄関開けたら2秒で勾配8%でした。トレーニングは上っていくか、下っていくかの2択で、下っていくコースは街中を通らなければいけないので、自分は比較的上らないVolvic方面へ行くコースが定番でした。(ちなみにVolvicはあの水で有名なVolvicです。)しかしそれでもスタートから上りを上っていくコースだったので、毎日のようにトレーニングは上りから始まっていました。今Google Mapを見てトレーニングコースを見直してみましたが、昔のこと過ぎてコースを忘れてしまっていて、景色をみてもピンとこない。その当時に現代のテクノロジーがあれば、トレーニングコースも記録でき、どのくらい走ったのかも残すことができたのに。。。また同じ場所に行って、同じコースを走りたい。
では、ここで当時のフランスのクラス分けの説明をします。当時はプロがエリート1、アマチュアの最高峰がエリート2、その下がナショナルカテゴリー、そしてレジオナルカテゴリーとこんな感じでした。フランスに行ったら通常レジオナルカテゴリーから始めて、優勝や入賞をしてナショナルカテゴリーに上っていくシステムなのですが、自分はレジオナルをぶっ飛ばしてナショナルから出場していたので、カテゴリーがよくわかりますが、システムがよくわかっていません。とにかくすぐにエリート2に上がりたいと思っていたので、ナショナルカテゴリーでもジレンマを感じていました。というのも、自分が出場していたレースはほとんどと言っていいほどクリテリウムが中心で、大きなレースはラインレースが多いのですが、それは1軍のエリート2のチームが出場していたからです。自分も早く大きなラインレースを走りたいと思っていました。それに同期の選手たちがイタリアでプロ予備軍のレース、U23カテゴリーで走っていたこともその要因になっていました。(フランスとイタリアではカテゴリーのシステムが違っていました。)
それで、自分が出ていたレースは大体10km未満の周回コースが多く、ひたすら立ち上がりとスピードレースでした。平坦でもトレーニングはしていましたが、日本からいきなり来た若造がそんなレースでいきなり結果を出せるほど甘い世界ではなく、最初はレースに馴染めずにあまり結果が出ませんでした。当然走れている実感なんて持てていませんでした。そんな中でもシーズンをこなすにつれて、表彰台に乗ることはありませんでしたが、だんだんとレースを走れるようにはなりました。フランス1年目の最後のレースは、エリート2のレースでしたが、スプリントポイントに絡んだりしながら完走もして、自信を持って次の年に進めました。
そしてU23の2年目に入ってシーズン初めはイタリアで迎えたのですが、なぜか他の選手に比べて上りが登れている。当時そのチームのスイス人のエース格の選手たちと一緒のグループで走れていて、自分でも何がなんだかわからない状況でした。原因の一つには、自分の心拍数が平均より20拍くらい低く、トレーニングで指定されていた心拍数とあっていなかったということもあったと思われます。3月にフランスで行われたナショナルカテゴリーのレースでU23の2年目にして3位に入ることができ、チームの中でもだいぶ認められてきて皆に期待されていた矢先、乗っていたポジションが悪くアキレス腱を痛めてしまいました。そしてその年の5月にイタリアで行われたU23の国際レース、ジロ・デル・レジオーニでは第1ステージはいいところでフィニッシュできたのですが、第2ステージでそのアキレス腱の痛みでリタイアになってしまったのは非常に心残りです。その後はなかなかうまくいかず、そこそこのシーズンで終えることになりました。またテクノロジーの話になりますが、当時のリザルトも写真もほとんど残っていないので振り返ることも許されません。ネット上の記録の断片をみたら、2000年のレジオーニの結果もそうそうたるメンバーだったようですが、その時は全く知る由もありませんでした。
そしてU23の3年目は場所が変わりPoitiersという街で迎えましが、ここには長い上りがない。あっても勾配のきつい丘のみ。レースは頑張って走っていましたが、自分の能力をうまく発揮できる場所もなく結果は鳴かず飛ばず。もう才能ないから自転車をやめようかなとも思っていました。そんな中、日本に帰国して出場した6月の実業団の栂池大会。17kmのヒルクライムのロードレースと、11.7kmのヒルクライム個人タイムトライアルの合計タイムで順位を決めるレース。この大会で3位に入りました。この年は全日本選手権と日程がかぶっていたため、強豪チームはほとんど出場していませんでしたが、タイムはそこまで悪いものではなく、どうやら自分は本当に上りが上れるようだということがその時初めてわかりました。それからは常に自信を持ってヒルクライムに臨むようになりました。ただロードレースの場合はそればっかりでは勝てないので、ヒルクライムは自分の必殺技として磨きをかけるというイメージでトレーニングをするようにしていました。
ここに来るまでに、常に心がけていた尊敬する先輩からの助言と、自分で思いついたヒルクライムのトレーニングにおけるコツのようなものがあるのですが、それはまた次の機会に。