書くラジオ「誰かせいにするのはやめて、自分の話をしろって!」
大学の頃からの友人とラジオをしている。そんなラジオで僕は、自らが始めたラジオなのに誰かのために話そうとすることが多かった。一見すると誰かのために話すとは良いことのように映るが、そこには不安から来る自信の無さが潜んでいた。それに対して友人からお前の話をしろよ!と指摘された。
自分でも何かのためにと言っているが、何かのせいにしているとは薄々気づいていた。
そこには優しさに見せかけた保身がある。優しさを担保にする保険は簡単で楽なのである。基本的に優しいってのは咎められないからだ。
けど、僕は何かのためにやることを否定しているわけじゃない、僕が自分に言いたいのは何かのせいにしないことである。
だからまず、僕の話だと自覚しようと思ってる。自覚と言っても、様々な環境要因が作用していて、自分の意思が全てではないと思うが、一旦、自分の話だと引き受けて話し出してみる。話すなら話してみるのである。
そうやって自分で引き受けた上なら、人のためでも、何かのためでも、自分のためでも、好きにしたらいいと思う。なんのためでもなくなったていい。
問題はそもそもの出所を人のせいにしないことである。
誰かを自分の不安を軽くさせるだけのために利用しないことだ。
不安はある。怖いし、間違ってるかも知れないし、誰にも求められてないかも知れないし、望まれてないかも知れないし、何とも思われてないかも知れないし、傲慢かも知れないし、独りよがりかも知れないし、誰かのためになってるかも知れないし、誰かを傷つけているかも知れないし、無責任なのかも知れないし、道楽なのかも知れないし、意味があることかも知れないし、くだらないことなのかも知れないし、愚かなのかも知れないし、下品なのかも知れないし、よくある悩みなのかも知れない。
このような不安を何かのためにという言葉で誤魔化さないで向き合ってみる。それはとてつもなく面倒だが向き合ってみようと思っている。面倒くさいからって人のせいにしない!
そして、このラジオは、その向き合い方についてどうしたら良いのかを生活する中で考え実践し話し合っているのである。向き合い方について話が盛り上がったのは、「大人になってからの勉強方法」の回や「オレは再び時間に挑むぜの話、時間的安全性について」の回である。直接的な不安への向き合い方の話ではないが、具体的な方法の話をしているので興味を持った方は是非聴いて下さい。
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