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書くラジオ「自分はありがとうを言えない人だった」

僕は24年間ありがとうを言えなかった。その話をラジオでした、今回はそれをまとめて書いてみようと思う。

僕がありがとうを言わない理由しては、ルソーの言う所の自然状態を志していた所がある。枠組みを超えて飛び交う世界、自然な邂逅と振る舞いを僕は夢想していた。それ故に各々がありがとうなどと言わないでもいいという思っていた。

つまり、僕はありがとうと思われなくてもするよと思ってる。ありがとうを言って欲しいという見返りを求めてやってるんじゃないんだから、ありがとうと言っていらないと思っていた。だから、極端かもしれないが、僕自信も相手に対してありがとうと言わないのである。やりたくなかったらやらなくていいと思っているから、やるならやってくれと思っていた。

後、僕はありがたがることが抽象的というのもある。ラジオで話しているが、怪我をした時に絆創膏を貼ってくれた人に対して基本ありがとうを言うのだが、僕は絆創膏の存在自体にありがたがってしまう。そして手当をしてくれてる本人の前で「絆創膏ってありがたいよな」と言ってしまうのである。手当をしてる当人からするとありがとうを言われた気にはならない。むしろ腹が立つと思う。

以上の理由から僕はありがとうを言わなかった。意識が自己に向いていて、人の気遣いに気づくことや相手の行動に注意できなかった側面ももちろんあるとは思う。

けど、僕、個人的に言えば、全員ありがとうなんて言わないでくれとも思っていた。僕はありがとうを言うことで成り立つコミュニケーションが苦手だった。
何かの行為に対して、ありがとうと言うとき、そこにはありがたがるAが存在して、ありがたいことをしたBが存在してしまう。

僕はその見返りを求める、その瞬間が嫌なのである。
ありがとうに還元され、した側とされた側に分かれ、ありがたい事をされた側が、そのお返しとしてありがたい事をしようとなる、その形式の発芽を感じた時に嫌悪感を感じるのである。そんな事なく回っていた所に勝手に線引きをされた気分になるのである。物凄く極端な事を言っていることも分かる、それはコミュニケーションの否定であり、各々が自らの意思だけを優先して動く事の肯定だからである。それで円滑に回ればいいが、同じくらい、円滑に回らない可能性も含んでいるんじゃないかと思ってしまう。

そんな僕だが、周りの近しい人とありがとうについて話す中で気づいたことは、そこまでありがとうに対して意味を付着させてないことである。挨拶程度に使用していると言う事だった。

そこでさらに気づいたのは、馬鹿みたいに思えるだろうけど、ありがとうは気持ちいいと言う事である。僕はこの発見がすごく嬉しかった。行為自体はなんでもよく、それに対してありがとうと言うのは、気持ちのいい事なのである。やればやるほど気持ちがいいのである。そして、ありがとうは基本誰ともできるのである!そう思うとありがとうってヤバいなと思う。

僕はありがとうに意味を乗せ過ぎていた。その悩んだ挙句に、ありがとうを言わない時期を過ごして、指摘されてありがとうを言うようになった。

それらを踏まえて、今思うのは、ありがとうを言う明確な理由なんてなかったということだ。ありがとうを言う明確な理由はない。なぜ言う必要があるのか質問を続けた先に意味がないということが待っていたのである。

特に理由はないということがあるのである。わからないことがあると言い換えてもいい。

つまりありがとうはありがとうを言うためにある、ありがとうそのものがありがとうの理由なのである。

ありがとうを言うからありがとうがあるのである。

僕はいつも、特に理由がないことに気づいた時、この世界の偶然性に感動を覚える。自分の考えがあまりのもちっぽけで、意味を必死に乗せていた、小さな小さな1人の人間が愛しくなる。そして、自らの存在もまた特に理由がなく存在しているんじゃないかなんて思ったのである。

ありがとうの話をしている時のラジオです!是非聴いてください!

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