学説なんて稗田阿礼方式で対応
滝川沙希です。
大学生になって驚くのは、友人と一緒にいる時間が激減すること。
その気になれば0時間にすることもできます。
ま、それはボッチなんですが。
それに試験対策上お勧めはしません。過去問を入手する、情報を収集するのは、どうしても人づてのアナログな世界でやるしかない部分が残っています。そこは面倒でもやっておいた方が、「楽」になりますよ。
雑音
要は、自分のライフスタイルをデザインできるので、雑音から逃げることも有用ではと、ご提案させていただきます。
法律系の勉強をしていると、合格という目標から離れていて、「○○説は・・・」と論じる方が出てくることが多いです。もちろん、議論は重要です。それで理解が深まることもありますし、それがゼミでしょう。
そうではなく、どういうわけか、○○説が自分の人生のようになってしまって、それに対する否定が自分の人格否定に感じられる方が散見されます。
こういう方と議論をすると、まずいです。終わりません。敬して遠ざけるほかありません。雑音です。
私は、「そういう批判に対する応接は、説を唱えた学者本人に任せておけばよい」と考えています。そして皆さんが目標にするべきは、合格です。
違いますか?
学説唱えるなんて、稗田阿礼みたいでは?
そもそも論なのですが、学者も学説と人格を結びつけてはいない節があります。自分の先生の説をそのまま継承するだけの存在だったりします。そこに少しでも付け加えられたら良いですねっていうところです。
昔、稗田阿礼でしたか。古事記の編纂で覚えてたのを書いていった。
私なんか、それを思い出しますけれども。
学者の私見の扱い
学者に意見があるとして、公にそれが求められるのは、何か社会的にインパクトがある事件が出てきて、そこで対応を迫られることがある程度。
例えば憲法学説は宮沢→芦部→長谷部恭男先生と継承されていますが、集団安全保障法制のときに、長谷部先生はご自身の見解を述べられました。
芦部先生はご存命でないので、長谷部先生が自説を述べた。それだけです。
そのときにたまたまポストにいたというだけ。(鑑定書は公じゃないですよね)。
話が飛びました。皆さんの生活は、そういうところとは無縁のはずで、まずは合格なさってください。政治活動や学説の研究をしたいなら、合格してからやっても良いではないですか。
早くからやりたいのなら、勉強なんてやめて、学生なんかもやめておやりになればよいとおもいますよ。学校に行かない、北欧のグレタさんとか、日本にも沖縄に未成年のyoutuberがいらっしゃいますね(茶化しているのではなく本気で)。
みなさんも稗田阿礼に
学者の方も稗田阿礼なんですから、みなさんも稗田阿礼方式でどうでしょうか。力を抜きましょう。
念のため。素晴らしい業績を上げていらっしゃる先生もいます。丹念に、過去の文献を調査して、「あなた、稗田阿礼じゃないよね」。
「ちゃんと覚えてないじゃん。なにやってんの?」と指摘している学者もいますよ。
なあなあじゃない学者もいらっしゃることは、最後に強調しておきます。
まとめ
ボッチ飯をするほどの孤立は避けて、しかも熱くはならずに。
※トイレ飯は避けましょう。衛生上も良くないし、学食で一人で食べていても、周囲は気にしていません。