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愛憎芸 #2 『70年後を演出する』

 「再来年にはどっちか死んでるかもしれんし、もしかしたらなんかのきっかけで絶縁してるかもしれへんねんで」と、変わりゆく下北沢の、新しくできた商業施設「ミカン」にあるサードウェーブのコーヒーを扱うカフェで友人が言った。妙に酸っぱくてこれは酸味とはちょっと違うと思う。下北沢、ピーコック側の旧小田急線路は結局ロータリーになるみたいで、「街の上で」で青が言っていた「街もすごくないですか。変わっても無くなっても、あったってことは事実だから」という言葉を必死に反芻して、これも悪くない、悪くない...と考えるようにするけれども、さすがに、という思いだ。あまりにもコンサルに目をつけられてしまった感が否めない。ここ稼げるぞ、と。またMIYASITA PARKみたいなことになってしまうのだろうか。そうなると下北沢の場合、追い出される恐れがあるのは演劇や音楽なのだろうか。しかし演劇と音楽のない下北沢など、残るのは古着なのか?カレーか?どの街も似たような感じになってしまうことにやりきれない思いを抱く。京都の新風館がリニューアルした時のなんとも言えなさ。しかしお金を稼がなければならないことも、よくわかる。わかるからこそ、街には純朴であってほしいとか、無理なお願いをしてしまうのだ。

 その友人は「ちゃんころ稼がな」と言う(きょーび使う語彙では無い)。結婚しないという選択肢もあるけれどやっぱり社会はそう簡単には変わらないわけで、孤独から身を守るためにもやっぱり婚活はしたほうがええ、という話をしていた。思想の自由!あなたはあなたらしく!と叫ばれたところで、その叫んでいる人たちは別に、その先に訪れる私たちの孤独を埋めてくれるわけではない。「二人とも結婚できなかったら一緒に住もうな」と言いつつも孤独を恐れている。昨年もこんなこと言っていたねと言えるから幸せである。20代後半というのはいつだって変化の可能性を孕んでいて、インスタグラムで次々に展開される結婚式ストーリーズたちがそれを物語っている。26歳で結婚ラッシュに怯えるなんてありふれているが許してほしい。相変わらず私は下北沢や吉祥寺、三軒茶屋に飯田橋、そして神楽坂という街を歩いているだけだった。死ぬ間際に放映される走馬灯に、秋の夜長というのは収録されるのだろうか。ありふれた景色はカットされてしまうのだろうか。自分の人生の構成は自分が決められる。だったら引き続き日常を愛して、死に際を演出する。

 先週はアシスタントさんが出産立ち合いで産休を取られていて、その方の分まで仕事をしていたものだから毎日帰りが遅かった。その反動のように金土と映画を続けて観た。

 『秘密の森の、その向こう』。自分の親と、同じ年代になって一緒に遊んだら、ということを考えたことがなく、それだけはできないということのさみしさと、はしゃぐ彼女たちを見て涙を流していた。

 『四畳半タイムマシンブルース』。今年一の映画としてしまうかもしれない。森見登美彦を決して多く読んできたわけではないのだけれど、何も自ら進んで落ち込みながら純文学に身を投じる必要もないのだ、芸術というのはオモシロエンタメのあとにふと訪れる夕暮れにも存在するものなのだと気づけた。夕暮れの鴨川デルタ、そこにある哲学。上田誠の脚本面白すぎる!ヨーロッパ企画すごい!同志社の星です。

 四畳半もそうだし、ふと思い出して、自分が11年前にFC2小説に載せていた『焼きそばパンの彼』という小説を久々に読んだ。日々に疲れた少女が、逃げ込んだ街で飢えかけるが、ある少年に焼きそばパンを差し出されて...という話。いい児童文学で、下手しい今の自分の短編より好きかもしれなかった。

 ポップでいたいという欲望がある。そんな人間が無理やり芸術家気取ったって書きたいものも書けやしないのではないか?作りかけていた小説のプロットを本当に自分がやりたいように解きほぐしていく。すこしだけ登場人物が人間に見えてくる。私が70年後を見据えるように、彼らにも確かな人生が存在しなければならない。

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