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愛憎芸 #4 『Filmarksで星1をつける権利』

 好きな映画のFilmarksの評価は極力4.1であって欲しい。邦画によくある傾向だが、封切直後は4.2が付く。そして幅広く見られるようになってから4.1となり、レンタル~アマプラやネトフリの見放題解禁、というタイミングで4.0へ落ちて、やがてその評価は3.9となり、だいたいそのあたりで落ち着くのだ。『ドライブ・マイカー』、『花束みたいな恋をした』など2021年多大な評価を得た輝かしき邦画も今や3.9である。

 いや、そんなレビューサイトの評価が何であろうと自分の中のそれらへの評価は5.0だったり無印だったりするのだが、気軽にみられるようになればなるほど評価が下がっていくということが、由々しき問題だという話をしている。より踏み込むならば、「配信で映画を観た人はその映画の価値を決められるのか」ということだ。

 家で映画を観る際、正直なんだってできる。のど乾いたから手元のドリンクを、ではなく、最中にコーヒーを淹れることもできてしまう。豆を挽いて、ドリップすることだって。そういう時は集中力が切れた時で、実はFilmarksには「途中で集中切れた」とか「よくわかんなくなって途中でやめた」レビューがそれなりに書き込まれており、そういうやつに限って星1をつけている。

 星1をなめるなよ。私は「ウエスト・サイド・ストーリー」が生理的に無理なので星1をつけているのだが、星1をつける――まして私情で――となると、そうとうな説明が求められるべきでありそう思ったので長文を添えている。人によってその度合いは違う?多様性?F**Kですよこの場合には。人の作ったものに点数をつけるという行為がどういうことであるか。配信で見ながらコーヒー淹れたり、シーンを見落としていたり、1900円払っていないくせに、星1をつける、そういう悪行がこの世の中では働かれているのです。

 ファスト映画という話もあるじゃないですか。確かに最近私も集中力がえらい落ちてきていますけれどそれでもやっぱり映画館で映画をみるという行為は特別です。先週末は今泉力哉監督の『窓辺にて』を観ました。140分超え。大きな事件は何一つ起こらない。けれど長回しの会話劇一つ一つが物語を醸成していく快感。『街の上で』のように終盤に伏線回収の心地よさが訪れるタイプの映画ではないのだけれど、もう一度見たいしシナリオブックが欲しい。自分の中に存在しているかもしれない感情に気が付く、こういうのも、他者の人生を映し出す、映画という芸術を堪能する醍醐味ではなかろうか。

 権利、と仰々しく書いたけれどすべての人が権利を持ち合わせている。お前が星1だと思えば星1をつければいい。けれどその星1は主観であることを絶対に忘れてはならない。配信で映画を観たっていい。私の一番好きな映画こと『四月の永い夢』、これまだ映画館で観られてませんから。そういうこともあるんです往々にして。矛盾?最近その言葉が一番嫌いな気がする。もう、整理できない感情ばかりじゃないですか生きていくことなんて。「考察班」への苦手意識も全ての根源はきっとここにある気がするのだ。わかった気になるなよ。『天気の子』の須賀さんの奥さんが天気の巫女で~とかすごい苦手。

 このエッセイに「愛憎芸」という名前を与えたのだった。たくさん愛したいものもあるけれど一方で憎らしいものも多々あり、時に書き連ねなければならない、そんな衝動に駆られることがある。決壊するほど流出する思いに歯止めをかけるのが字数制限なのだろう。今日もここら辺にしないといけない。もうすぐ新海誠の新作が出る。映画館で観ろ。金を払え。それが言いたい。

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