愛憎芸 #18 『マラソン完走者の特権』
山手線に乗ったら、東京マラソン完走者である証たるタオルを羽織った人を幾人か見かけた。彼らは今日、日本で一番偉い。立っているのが不思議なほど脱力した足、自分のものとは到底思えない浅い呼吸、それらによって漂う浮遊感——全てが42.195kmを完走した証だった。
マラソンを走る人間と走らない人間、これほどまでに自他境界線が如実に現れる機会もそうない。わたしは数年前に、京都マラソンをたいした準備もせず制限時間10分前に完走した経験がある。忘れられないのは、あまりに他者的な「沿道の応援」だった。
「今走らないつ走る〜!」
残り1kmを切り、岡崎公園に入るかどうかというところで聞こえてきた沿道のおばちゃんによる声援だった。残り1kmということでもう体にはほとんど何も残っておらず、なぜ今自分は走ることができているのか疑問にすら感じるレベルでの走り。とにかくゴール、それに縋り付くように。サブ4でもない、サブ5でもない、誤ってフルマラソンに参加してしまった人間の末路というものを、今ここで見せつけていた。幾度も歩いたし、人生で初めて両足を攣り、本当の意味で前へ進むことができなくなったこともあった、それでも人間の体は不思議なもので、ある程度伸ばして水分と塩分を摂ればまた動くようになる!それを何度か繰り返し、血の海に見える鴨川を尻目に前に進んでたどり着いた先。そこでかけられた上記の声援に、わたしは殺意すら覚えた。自明のこと、あまりにも自明のことなのだ。それを言った後に「フフ」と言って「沿道の声援」をやった気になっているのも気に食わない。命、削ったことありますか?
不思議なのは、あれほど体力が限界値まで到達していたにもかかわらず怒りが湧いてきたことだった。別にその怒りが前に進む原動力になったわけでもなくただただイラついてしまった。その声援がおそらく100%の善意から来ていることを慮る余裕はないのに、イラつきというものは湧いて出てくるものだ。自分が死ぬ瞬間にイラつきがよぎったらどうしよう、めちゃくちゃ嫌だな。「今生きずにいつ生きる〜!」と叫ぶ医者がいるとでも?
42.195kmを自分の足で走るなんてやっぱりわけがわからない。現代では全く必要のないことだ。飛脚じゃないんだからさ。
死んでるやん。市民マラソンってほんとうにヤバいと思う。確かにマラトンの戦いのころと比べれば人間は進化しているし、大谷翔平の2本のホームランを見て正直宇宙人だと思った(野球星の)。けれど私たちはいまだに小市民であり、その声は小さいし筋肉は少ない。それなのに42.195kmを走ろうというのはほんとうにちゃんと物事を考えてから行動していますか?
そんな愚か者たちの中でも、本当に自戒でしかないのだが、あまり準備せずに本番に臨もうとする一部の人間たち。本当に死んでしまうぞ。そういう「あんまり準備してなかったけど頑張ってみてクソきついwでもなんとかなりましたw」的なこと、学生時代は手ごろにいろいろ転がっていた(それこそ年に1度の適応マラソンとか、阪急電車を端から端まで、サイコロふって出た目で降りて飲む、みたいなやつ)のだが、大人になるとそれが42.195kmに変貌する。マラソンってそういうものじゃないのだ。村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読みましょう。村上春樹はかつてサブスリー(3時間前後)でフルマラソンを走っていた人です。毎日10km走られていた。生きるってどうやっても積み重ねだと、分かってはいるのだけれど、それでも電車で未だ呼吸が浅くなっているそのおじさんをみたときに、今日だけはあなたが一番偉いのであると思うことで、3年前の自分を肯定していた。