見出し画像

愛憎芸 #1 『人と映画を観に行く』

 人と映画を観に行ったのは『鬼滅の刃無限列車編』以来のことだった。わたしは2020年以降、およそ100本程度の映画を映画館で見たのだが、上記の例外を除いて全てひとりで観に行っていた。

 行動のたいていは、ひとりである。コロナ禍により、ひとりであることに大義名分が与えられた。カレーもラーメンも映画館も。わたしのGoogleMapにつけられたハートマークの実に7割程度は、一人で足を運び、気に入った場所だと思う。

 シネコンの場合、上映予定時刻からおおよそ10分ほどは、予告編を上映する時間がある。ひとりで映画を観るようになると、それを見越して予定時刻の5分後くらいに到着する癖がついている。だからあまり予告を観る機会がない。ただ今日はそもそも、映画を観る前にその人と飲んでいたので、余裕をもって客席に座った。ていうか初対面の人と映画を観るなんてなかなかに、と思ったがその人は最近、アプリで会った人としか映画に行っていないらしくて、多様な生き方の存在は机上ではなく目の当たりにすることでようやく認知できるものなのだとつくづく思う。

 予告編のあいだ、話していいものだろうか。逡巡しているうちに予告編に見入ってしまって、結局わたしは一言も話すことなく、眼前は本編に突入した。

 鑑賞したのは『もっと超越した所へ。』という映画だった。劇作家の根本宗子さんの同名演劇が原作なだけあって、演劇的なギミックが作品において大きな役割を果たしていた。エンタメは人を楽しませるためにあるのだと、純文学を志望しているとつい忘れがちなポイントを思い出す体験をした。なんだか、自分の香水であろうイソップのタシットが何度か香った気がした。

 大学生の時は、いわゆる「一緒に映画を観に行く友達」がいて、この前京都に帰った時その友達に自分の映画鑑賞状況を伝えると「なんでなん」と言われたので「君が東京にいないからやん」と言った。『きみの鳥はうたえる』、『寝ても覚めても』、『愛がなんだ』、『生きてるだけで、愛。』…2010年代後半邦画群は彼女と観た。もともと商業映画を主に観ていた私たちは、それらの映画を観た帰り道でたいてい唸り声をあげていた。文学部で培った読解力を存分に発揮すればいいのだが、映画というものは登場人物のどこかしらに自分と重なるものが見つかったりそらを探してしまったりして、なかなか一線を引けず批評に至らない夜ばかりだった。それは、映画を観たことで浮かび上がった感情を吐露する相手がそこにいたからなのかもしれない。ひとりで映画を観られるようになってから、すっなり作品との一線を引けるようになってしまった。感情移入したところでそれをこぼす相手もいない。Filmarksにこぼしたってそれを見る人たちは私のことを知らないから意味がない。そうやっていくうちに『ウエスト・サイド・ストーリー』に過剰な感情移入をする人たちをみてドン引きしたりするようになってしまっていた。

 誰かと過ごすことで、少しでも感情移入する人間に近づけるのだろうか。この連載エッセイのタイトルを「愛憎芸」とした。もともと小説の仮タイトルとして考えていたものだが内容とマッチしなくなってきており、かといってこの造語はとても気に入っていてどこかで使ってみたかった。人生を演劇に例えたのはゼミの教授だったか。けれどわたしはいつだって人生を面白くしたくって、それはときに憎しみでも愛でも、どうやっても一つの作品になる。それを表す言葉は、劇より芸の方が、なんだか地に足のついた言い回しであると思った。週に一度、1500字で見える世界を作り出していく。


いいなと思ったら応援しよう!