愛憎芸 #8 『モテキの長澤まさみ、他人の婚姻、他人だけの不思議』
東京に出てきてから最初に好きになった女の人が映画版『モテキ』の長澤まさみにそっくりなので、私は「なんもやる気が起きない日曜の昼下がりに映画版『モテキ』を観て長澤まさみに悩殺される」というイベントを定期的に開催している。ほんとうにあんなイメージの女性だった。自分がそれまでにかすかにも抱いていた価値観めいたものを一瞬で無為にしてしまう、そういう人間。それほどの(モテキの長澤まさみに現実で出くわすほどの)衝撃を与えられてしまい、かつその恋が成就していない場合その後の人生は地獄だ。恋愛の基準が変わってしまう、いや変わる基準は恋愛ではないかもしれない。自分の中の「好き」の基準が変わってしまうのだ。私はこれまでの人生、うまいこと叙々苑に行く機会を避けて生きてきた。それは叙々苑の味を知ってしまったら、焼肉ライク(先週の愛憎芸を参照)や牛角やチファジャが、しょーもなく感じてしまうかもしれないからだ。不味く感じる、とかではないと思う。「なんでわざわざ牛角に?」と、叙々苑がある世界でそれ以外の焼肉を食べるという行為に価値を見出せなくなってしまうのである。恐ろしい。恋愛において自分は今、そういう状態にあるのかもしれなかった。焼肉を食べるというそもそもの行為、人に恋するというそもそもの行為・現象、ではなくてモテキの長澤まさみ(似の目黒区女子)に恋をするという行為のみに価値があると思い込んでしまっている脳みそ。幸世の言葉を借りるなら「自己完結」。いったいいつまで?昼寝をしたら17時をすぎていてクソな日曜をやってしまった。FIFA'20を起動しアルゼンチンVSドルトムントをやる。勝った。アルゼンチンVSヴィッセル神戸、負けた。なんで?ってドイツもスペインもいま、思っているのだろうか。
※ところで長澤まさみといえば『エルピス』が本当に良い。
土曜日は職場の先輩同士の結婚お披露目パーティーだった。友達選びがうますぎて、結婚式に行くレベルの友達が誰も結婚しないので、結婚関連のイベントに参加するのは初めてのことだった。そういうば持っていなくてユナイテッドアローズでクラッチバッグを現地調達した。カバンが小さいのは意外と便利だ。
無条件な祝福の場に慄きつつも自分もその祝福の一部を構成していた。これほどまでに「おめでとう」という言葉が飛び交う場をかつて経験しただろうか?大会で優勝したりしたのは少年野球まで遡るが、あの時だってコーチたちは——コーチたちはたいていよくできたサラリーマンだったので——「次が大事だぞ」と、その場の歓喜をある一定までで諌めていた。もちろん、結婚式でも「末長く」などと未来志向な言葉が出ないわけではないのだが、ともかく2人が「そこ」に到達したことが何より尊ばれるのである。人と人の歩みが交わることは、これほどまでに。2人のプロフィールが読み上げられて、挨拶をして、ああ、どんな人も「そこ」にたどり着けば主役になるのだ、と。「もう結婚式と葬式くらいしかないで」と友達が言っていた、しかも葬式は自認できないから、芥川賞でもとらない限り本当に「そこ」が最後なのかもしれない。
結婚式をするために結婚するのはそうとう本末転倒なことだとは思うけれども、二つの人生を交わらせることはめちゃくちゃしたいと思った。源さん、俺も「不思議」ですよ。これは「他人だけの不思議」だと本当に思う。『不思議』は未来永劫ウエディングソングとして定番化されてほしいけれどあんまりそんなことないんでしょうね。星野源と新垣結衣の入籍が発表されたあたりのタイミングで出たのがこの『不思議』だったわけである。本当に奇跡的なタイミング。なんかこう、中身の抜けたポンプみたいにプシュプシュ言わしているのが今の自分の「好き」で、そういうすぐ気化してしまうようなものはとても交われない。骨太な思いが欲しい。そのためには、相手に迷惑をかける覚悟がないとダメだ。プシュプシュ、ではなくドスドス、四股を踏むように恋愛をするのだ。そういう覚悟を持つのだ。
ああ、「やがて同じ場所で眠る 他人だけの不思議を…」