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愛憎芸 #28 『未夏』

 7月になってしまった。誕生月は夢の中で、それ以外はリアルだと思う。それは、自分も他人も。大事なひとの誕生日はできる限り忘れないように努めている。忘れずに声をかけることでその人の特別さの一翼を担えるし、ものを贈れば恒久的に寄与できる(場合もある)から。

 梅雨らしい雨が続く日々は徐々に終わりに近づき、2023年の地球がもたらす、35度を超えるような灼熱がわたしの体をむしばんでいく。それでもなお高い湿度が、まだそこは梅雨であるのだ、これは夏ではない、未だ、夏ではないと後ろからまとわりついてくるようだ。

 今年の梅雨はときにずっと海辺にいるような、そんな気分になるほどの湿度の日もあった。湿度は100パーセントまでしか存在しないが、体の芯まで染みわたるそれはもう120パーセントくらいあった。あゝ酸性雨。もう少し優しく雨は降れないものか、とまた、自分の力ではどうにもならないものに思いを馳せてしまい、徒労だ…と思った。

 梅雨を愛せるかどうか。わたしは梅雨に生まれた子どもなのに傘をよく忘れるし、天気予報をあまり見ない。かつて天気予報がなかった時代、人々はどうしていたのだろう?と思って調べてみると「観天望気」ということばにあたった。空の色や風向き、雲や霧などの自然現象、さらには生物の行動の様子(!)から天気を予測していたというのだ。そういえば、小学生の頃「今日の野球行きたくない…」と思いながらユニフォームのズボンを履いていたときのわたしにとっての希望の光は、窓の外で降り注ぐ雨のさまだった。しかしその希望の雨をかき消すのが鳥のさえずりだったのである。「鳥が鳴いてるからもう晴れてくるわ」と言ったのは母だったか。毎度そうだったかはわからないがたいていほんとうに晴れた。晴れてしまった。それを繰り返すうち、わたしはぬか喜びをやめた。「鳥が鳴いとる…」と絶望しながらユニフォームを履いて、着て、さらにその上からカッパを着て自転車にまたがる。走っているうちに雨は上がるが、自転車に乗っている途中にカッパを脱ぐことはできず、小学校に到着する頃にはすっかり晴れているのにカッパを着たまんま。そんな小学生が何人も合流して、水たまりだらけのグラウンドに向かうのであった。そんな記憶を思い出すと、雨に希望を見出したこともあった、ということになる。

 あめ、というのは空から水が降ってくるという、考えようによってはなかなか神秘的なものである気がするのに、生きるうえでは確実に邪魔なので、その美しさはあとまわしだ。そんなことが、この世界には溢れているような気がする。

 さらさ feat. 松尾レミ(GLIM SPANKY)の『火をつけて』があまりにも良くて毎日聴いている。グリムスはデビュー当初よく聴いていたものの、ロックをあまり聴かなくなったのもあってしばらく離れていたが、この曲の松尾さんの歌唱はあまりにも素敵だ。2人の重なりをまざまざと見せられるような名曲に目眩さえがする。

 「雨の日に言ったことは全部、チャラにして頂戴」という歌詞。初めて聴いたのがただでさえ湿っぽい東京の梅雨だったからかやけに印象的だった。そしてどこかで聴いたニュアンスだな、と思った。そう、愛憎芸ではおなじみのバンド、Laura day romanceの『happyend』だ。この曲にも「大切なんて雨の日に思い立ったから言ったんでしょ」というフレーズが登場するではないか。雨の日のことばは信用ならない、というのは雲に覆われる地域ではうつ病になりやすいといった日照と心の関係に裏打ちされるのだが、つくづく人間は天気に支配されている。それを思うたびに、『天気の子』で「町中が着替えていくような」というモノローグとともに描かれたあのシーンを思い出すのだ。

 さいきん、スポーツクラブに通い始めた。シャワーを浴びたのち外に出ると、いつもにまして湿度を感じ、これはきっと未だ夏ではない、夏はもっとカラっとしている、と思う。それは夏への渇望でもありながら、どこかに梅雨という季節への愛着があるのかもしれない。わたしは紫陽花を見に行くことをしないのだけれども。

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