「満たされてない」から良い

 いわゆる未成年の非行少年・非行少女というのは、家庭環境が劣悪だから非行に走るという訳だけではなく、親御さんは立派、お家も割と裕福、厳しく家庭内で躾けられた訳でもなく、学業も自分の望み通りに行かせてもらえて、世間から見ると「なぜそんなに幸せな境遇で非行に走ろうと思ったの??」と思わせてしまう人も少なくないらしい。

 思春期における自我の芽生えが良い方向にも悪い方向にも作用して、「こうしなければいけない」、「こうした方がいいんだろうな」、「わかってはいるんだけれども、こうしたくない自分がいる」という葛藤が誰にでも芽生えて、そのどうしたらいいかわからない「怒り」みたいな何かをスポーツや勉強にぶつける人もいれば、友達関係で解消する人もいれば、環境や境遇のせいにして自分を納得させる人もいて。でも学業も満たされてて、交友関係も満たされてて、家庭環境にも恵まれていると、自分に対するいいわけがどうにも出来なくなってしまう人もいる、という事。

 わたしは二十歳くらいの頃に思った。「満たされてないと思う事は自分が成長する上でとても大事な事。満たされたと思ったらわたしは成長を止めてしまうと思う。だけれども、いつまでもわたしは満たされないのだ、と思うと、それはそれでなんだか凄く虚しいというか、悲しい気がする。このバランスをみんなはどう受け止めているのだろうか。」

 少し遡ること、わたしが8歳の頃。両親が離婚をして名字が変わったけれども、小学校での手続きを放置しててずっと旧姓で通学をしてた。特に意味はなく、小学六年の頃に担任の先生に「そういえばわし、とうの前に名字が変わってるけん、学校でもそっちに変えておくれやす。」(※実際はもっと普通に言ってます笑)と伝えたら、担任の先生が大層驚いたのを凄く覚えている。その年の三者面談でうちのオカンに「名字が変わって、学校でも名前を変える事を恥ずかしがらずに堂々とハッキリと言えて、凄く立派だと思います。」といったのを凄く覚えていて、子ども心にも「どういう事??」とめちゃくちゃに違和感があった。今思えば、担任の先生は「両親が離婚している=恥」とまでは言わないけれども、とにかく名前が変わる事なんかは後ろめたい事なんだと思っていたのだろう。そういう価値観が世の中には存在するんだという事を知るのは、もっともっと後の事。

 今でも「あ、あの時のあのひとはこういう事を思って、こういう事を言っていたのか」と新しい価値観を知る事が全然ある。知らん事、わからん事、いっぱいある。というか、知ってる事、わかってる事の圧倒的少なさ。

 最近はそういう「満たされてない事」である事がどうにも楽しくなってきた。この腹ペコ青虫はどんだけ食べても、「まだ食べたい」と思える限りは絶対にお腹がいっぱいになる事がないらしい。

 なるほど、わかった、満たされないからこそ、楽しいんだな。満たされないから、ワクワクしているのかも。満たされないからこそ、良い。もしわたしが、常に満たされる幼少期だったら、どうなってたんだろうかしら。


いいなと思ったら応援しよう!

瀧澤克成
もしお気に召して頂けましたら投げ銭などはいかがでしょうか。1000円貯まると僕がサイゼリアでベルデッキオを注文出来る様になります。飲ませて下さい、ベルデッキオ。