「あいまいな死」を追悼する――彩瀬まる『やがて海へと届く』(講談社文庫、2019年)
東日本大震災における被災の苦しみを特徴づけることばとして、「宙ぶらりん」という語彙がよく用いられる。例えばそれは、津波にさらわれ遺体が見つからぬままであるような誰かを身近にもつ人びとの心情であったり、それがどういう影響を自身とその家族にもたらすのかがわからない低線量被ばくに見舞われた人びとの境遇であったりする。自分にもたらされた〈傷〉があいまいであるため、それをどう位置づけたらよいかわからず、よって通常であれば次第に始まっていくような回復や治癒のプロセスがいつまでたっても起動しない。
本書の主人公・湖谷真奈(28歳)もそうした「あいまいな喪失」のなか、死者をただしく追悼する術を見失ったまま、終わらない喪の時間を生きている。すでにあの震災から4年が経っているが、学生時代をともに生きのびてきた親友のすみれを忘れることができない。すみれは、2011年3月のあの日、ひとり旅で東北を訪れ、おそらくはそこで津波に巻き込まれ行方知れずのままである。物語は、此岸の真奈と彼岸のすみれのそれぞれの遍歴を描いていく。たどりつくべき場所を失ったふたつの魂は、果たしてその遍歴の果てにどこにたどり着くことになるのだろうか――。
著者は、自身も仙台から福島へ向かひとり旅の途中で被災し、いくつかの偶然の結果たまたま生きのびることができたという経験をもつ小説家。その体験を綴ったノンフィクション『暗い夜、星を数えて 3・11 被災鉄道からの脱出』(新潮文庫、2019年)によるなら、本作のすみれとは「津波にのまれていたかもしれない彩瀬まる自身」である。つまりこの物語は、そこから生存はできたもののトラウマを抱えることになってしまった著者が、自身のあいまいな〈傷〉と向きあい、それを象徴的に葬るための作業を言語化したものだということができる。
生きている真奈だけでなく、もう生きてはいないはずのすみれの物語を描くというこの小説の手法は、ともすれば死者という表象不可能な他者を安易に表象し、生者に都合のよい意味づけを負わせてしまうような危険とも隣り合わせである。だが、「宙ぶらりん」のまま膠着状態に陥り、あの日から時間が止まったままの人びと――著者自身もそのひとりであったのだろう――の背中を押し、彼(女)らが再びその歩みを始められるようにするためにこそ、彼女はそのあぶない橋を渡ることにしたのだろう。震災文学というもののひとつの機能をそこに見ることができるように思われる。(了:2023/09/17)