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【映画】『第9地区』と無自覚で罪悪感のない加害行為
映画『第9地区』を観ました。
エイリアンが地球にやってきて数十年。主人公の会社員ヴィカスは、エイリアンたちの住む「第9地区」に立ち退き命令に向かう。とあるアクシデントから、その生活は脅かされて…という話。
■共感できない主人公ヴィカス
第9地区では主人公ヴィカスに感情移入できないまま、物語が進む。この扱いが良かったです。
ヴィカスは、社長である義父(妻の父親)のおかげで、大事な仕事のポジションを任されます。決して自身の力で勝ち取った立場ではありません。
エイリアンたちが住むエリアに行って立ち退き命令を指揮するが、交渉がうまくいく描写は少ない。同僚にもないがしろにされる。決して有能ではないことがわかります。
そして、カメラの前で大げさに自分の手柄をアピールしたり、エイリアン(通称エビ)たちの卵を「中絶だ」と嬉々として処分する姿がひどい。
配慮が少なく顕示欲に満ちた、いけ好かない小役人。そんな、どこにでもいる普通の人(の悪い面)が物語序盤では描かれています。
しかし、ヴィカスがアクシデントに遭い、変容するあたりから物語は急変。
今まで味方だった組織にボロボロにされる。愛する人にも見放される。最初こそ、ヴィカスがひどい目にあう姿を見て、自業自得だと思っていました。
しかし、徐々に感情移入してしまう。この作りが見事。
そして、最後にヴィカスは、主人公らしさを発揮。身を挺して他者を救うという行動をとります。このカタルシスが最高。自分勝手な人間の利他行為って、グッとくる。
■無自覚で罪悪感のない加害行為
エイリアンを差別する立場の主人公が、変容し差別される側に変わっていく。加害者が被害者になることで、自身の無意識の行為の酷さに気づいていく。
「無自覚で罪悪感のない加害行為」が浮き彫りになった映画でした。
そういえば私も子供の頃、トンボの羽を無意味にむしり取っていました。なんて残酷なんだと今なら思いますが、当時は「レゴブロックを分解して遊ぶ」のと同じように、命を物として見ていた気がします。
自分は上の立場であり、下の立場のものには何をしても良い、という傲慢なのかもしれない。「対象」を同格に見ていたら、決してできない行為です。
この映画でも、エイリアンをエビと蔑称する人間たちの姿が描かれています。「エビは我々人間とは異質で、下等な生物」という前提をヴィカス含めたみんなが持っている。一方的な立ち退き命令も、命(卵)を笑いながら潰すことも、エイリアン側のことを思っていたら、とてもできない。
製作者側の意図を感じる作りですよね。エイリアンの姿は妙にグロテスク。知能がないような行動。理解不能な「猫缶」好きという特性。序盤できっちりと「エイリアンは人間以下の、理解不能な何か」と印象づけています。
そんな中で、高度な科学技術と知能、愛情と慈悲の心を持つクリストファーというエイリアンが"後から"登場します。この順番が大事です。
映画を見ていると、なんならクリストファーのほうが(良い)人間らしいと感じます。終始、仲間と子供を思い、自分を迫害する人間ですら心配していました。
主人公ヴィカス、そして視聴者は、クリストファーとの出会い、迫害される側の立場を通じて「エイリアンも同じ生命だし、愛情もあるし、当たり前に生きる権利のある存在」だと考えが変わっていきます。
物語の後半でやっと「あぁ、ヴィカスを含めた人間がやっていた行為は、無自覚で罪悪感のない加害行為だったのだな」ということを体感します。
「無自覚で罪悪感のない加害行為」が成立するためには、命を命と思わず、相手の立場を考えず、一方的に下にみなすパラダイム(見方)がある。それが悪いとわかっていても、そのことに気づくのは容易なことではありません。
想像力の欠如を補うためには、ヴィカスのような「きっかけ」が必要なのか。あるいは暗闇で石を投げるごとく、どこかに続くきっかけを探して、感受性を広げるしかないのか。
きっと今の自分も、子供の頃トンボを殺してしまったように、どこかの誰かに対して「無自覚で罪悪感のない残酷な加害者」に違いない。その意識を忘れずに生きていこうと思えました。