自己紹介:仕事が出来なくて生意気だったあの頃の私、けど逃げ出さなかった私
高卒で新人入社し、ちょっと荒れた高卒のまま生意気に振舞った結果誰にも相手にされなくなった私でした。
そこから少しずつ、色んな人に諭され、叱られ、鬱になりながらもコツコツと這いつくばり人並みになる事が出来ました。
そんなちょっと戒め的なお恥ずかしいお話を書いていこうと思います。
今の自分に自信がない、ちょっと調子乗ってるかな?とか思う人、そんな人を教育している人に少しでも参考になればいいかなと思います。
飛んでもなく生意気でさぼり癖のある高卒がやってきた
きっとそんな社内の印象だったと思います。
どんな感じであったかと振り返ると
・仕事はダラダラとのんびり定時まで流していた
・少しでも気分が乗らないと休みをとっていた
・理屈屋で聞きかじった理屈を並べる事に全力だった
文面だけでも相当手を焼く新人ですよね(笑
まだ暴力沙汰などないだけマシなのかな・・・でもないか
そんな当時の彼は当然周りからも相手にされることはなく、だんだんと簡単な仕事しかもらえず、その日限りの経験値にもならないような仕事ばっかりをする毎日でした。
1つ目の転機:突然舞い降りた担当案件
当時、あまりにも人手不足でとうとうそんな彼にも担当案件を持ちました。
彼もこればっかりは逃してはならないと一生懸命に夜遅くまで仕事をしましたが、当然仕事をやり切るには技術不足。
完成した状態とは言えないままに納品しに行くことになりました。
現地のお客さんに商品を納品、完成度も7割と言ったところでしょうか。
なんとか使って頂く状態にはなったものの、その後も何度か現地へ通い対応することになりました。
片道車で5時間、赤字案件だったため(今の時代では考えられないが)宿泊費は出せないとのことで日帰り対応が原則でした。
そんな事を続けていくうちにお客さんとは幸いにも良好な関係を築けました。
お客さんもさすがは技術者、最初はメーカーの人と言う事で口を出すことはしませんでしたが、だんだんに技術についてお互いに色々意見を交わしやらせていただけるようになりました。
そう、私が最初に仕事を教わったのはお客さんでした。
恐らく、その方が居なかったら今でも腐った人間のまま成長していたかもしれません。
当時19歳頃でしたが、そんな肉体的にも精神的にも辛い中で、仕事の本質や人との付き合い方を教えてくれた方でした。
2つ目の転機:大型案件の部門リーダーの経験
それで多少振る舞いが変わった私はコツコツと仕事に励みました。
まだまだ、やる前から理屈屋なところが嫌われる要素としてありましたが、腕は認められ、とうとう大型案件の部門での主担当(リーダー)をやることになりました。
当時も人手が足りない中での抜擢でしたが、一生懸命にやった記憶があり、今でも大きな人生の転機になっていたと思っています。
して、大型案件なので、新人さんから年配のスタッフまで幅広い層の人に指示を出し仕事を進めていかなくてはなりません。
最初のうちはもちろん仕事を上手く回すことが出来ずに「段取りが悪い」など叱咤激励されながら夜中まで駆けずり回っていた事を思い出します。
時には言う事を聞かない年配の方、昔の自分を見ているような新人さん、とても優れた組織ではない状況でした。
私がそこで学んだのは「如何に人を上手く操るか」を実践し学んでいきました。
操ると言う言葉は少々表現が嫌いですが、当時はそう思っていました。なんせやれどやれど仕事が終わる気配がない状態でした。
如何に目のまえの山積みで昼夜を問わない状況を打破するか・・・身の振りもかまっていられない状況でした。
段々とそんな毎日をするときに感じたことは「感謝する」事の大切さでした。
少しでも、大した仕事でなくても、自分の代わりにやってもらっているのだから「ありがとう」と「よろしく」をキチンと伝える様になりました。
そうしている間に、最後納品間近ではどこよりもスムーズに仕事が進むチームワークとなり、それがなんとも言えない達成感を感じました。
恐らく、今でも組織論やチームワークを大切にするのはここで得た一人で完結することない仕事、全員で成し遂げるとてつもないパワーを感じたことから今でも根っこの価値観であり、私のやりがいにもなっています。
3つ目の転機:初めての過労と鬱
そんな、労働基準監督署が喜びそうな(不謹慎ですね)環境で大型案件がリピートが続き、各拠点を行き来し殆ど地元にいる事はなかった頃に等々体が限界を迎えてしまいました。
会社に向かおうとすると、吐き気と倦怠感、立っていられないほどの重力に倒れてしまいそのまま病院で精密検査を受け、「精神的過労」俗に言う鬱の診断をもらいました。
元々線の細いタイプでしたが、当時173㎝、体重は46㎏にまで痩せてしまっていました。
そこからは診断書を提出し、案件は他の人が引継ぎ療養に入りました。
とても、生きた心地がせず仕事を抜けてしまった事を考えると申し訳なるとともに、仕事の事で体は震えごはんは喉を通りませんでした。
何をしていても勝手に脳内会議が繰り広げられ、それによって体に反応が起きて、それによって生きた心地がしない毎日を過ごしていました。
そこで長い時間をかけて自然と今までの自分を振り返っていたのですが、気づいたことがありました。
私は今まで、人に心底認めて持った経験が薄く、きっとそれが現実になって行く段階で依存していたのだと
アドラー心理学で言うところ、承認欲求の魔物だったのでしょうね。
そんなことに気づき、少しづつ自分を自分で認めていく努力をして行くうちに一か月はあっという間に立ち、なんとか復帰しました。
当時23歳でした。まだまだ、若かったのだろうと思います。
話は変わりますが、私は痩せの大食い派だったのですがこの鬱を境に、ごはん一かけらを食べるのがやっとで、普通の牛丼並盛を食べるのに3年かかりました。
皆さんも鬱や過労が想像の100倍辛いですよ。
是非少しでも疲れたらご自愛ください。
4つ目の転機:コーチングとの出会い
そうこうしているうちに、年を重ね20代半ばで役職に付き、晴れて正式に部下をもつことになりました。
業務や技術を教えることに関しては、なんの問題もなく世話好きな性格が高じて教育を進めていきました。
自慢ではないですが(自慢ですが)私のところで仕事した新人は、その年の新人の中でも群を抜いて仕事が出来るような人に毎年出来ました。
そんな周りからの評判が良かった私ですが、ずっと引っかかっていたことがあり、「マネジメントとは何か?」をずっと考えていました。
その頃から、マネジメントの勉強、組織論の勉強、心理学、人材育成、カウンセリングなどの勉強ばっかりするようになり、ある時に「コーチング」と出会いました。
出会ったときにはすぐ「自分の考えていたものはこれだ!」と感じ、そこからのめりこむように勉強し、実践していくようになり、前にも増して部下や周りの人との信頼関係を築いていきました。
人は完璧じゃない、未完成を個性と呼び、人と人が集まって完成する
私の組織論、育成論はここにあります。
私も醜いほどに未完成の人間でした、それがそこそこに苦労して、汗も涙も血も、魂までも削って少しは成長しました。
まずは、こんな苦労を誰にもさせたくない気持ちがあります。
「若いうちの苦労は買ってでもしろ」そうは思いますが限度があります。
またストレス耐性は人によっても違います。
そんな辛いやり方ではなく、もっと自然に受け入れられるような気持のいい苦労があると思います。
どこまでもどこまでも完成することがないのが人間で、その未完成である部分も含めて個性と呼びましょう。
そんな様々な個性が集まって、それぞれの完成した特異な部分で補完し合って初めて完成した組織が出来ると思います。
それにはお互いに良い面も悪い面も受け入れて、尊重し、信頼して仕事をすればいいのです。
これこそ「お互い様」だと思います。
そんな個や多様性に寛容でいて、纏まりのある世の中にしていきたいですね!
話は長くなりましたが、こんな感じの人生でした。
これからもっともっと書くこと満載な人生にしていけたらいいなと思います!
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ではでは