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ウクライナ支援ブーム?

ロシア進攻で苦しむウクライナの人々に対して、日本政府は避難民対策・人道支援(2億ドル、240億円ほどを)を提供するほか、ウクライナからの避難民の国内受け入れにごく積極的だ。自治体や民間企業からも避難民の受け入れに次々と手が挙がっている。
 国連UNHCR協会への寄付金も短期間で数十億円になっているらしい。ほかの日本の国際系NPOに対する寄付も同じように増えているだろう。今やウクライナ人道支援は、あえて言うなら「ブーム」となっている。
 難民や避難民問題に関心が低いといわれる日本で、遠く離れたウクライナでの戦争避難民に対する官民の人道支援がこれほど多いのはなぜか?同じような人道危機にあるミャンマーやアフガニスタン、シリア、さらにはイエメンなどの難民、避難民には反応が少ないのはなぜなのか?人間としてはみな同じで、等しく人道支援を求めているのに、なぜこれほどの違いが出るのだろう。いつまで続くのだろう。可能な説明はいくつかあるだろうが、あえて3つの要因を掲げてみたい。
 第1の要因は、メディア報道と社会的反応のあり方だろう。連日、病院や学校が爆撃され、爆撃の恐怖の中で避難民が地下室に隠れていたり、ひと月足らずで女性と子供が大半の350万人近くがポーランドなどに逃れ、受入国の人々が献身的に世話をする姿がテレビや新聞にあふれる。幼子を抱えた(金髪碧眼の)若い母親の涙は、日本人にも同情の念を呼び起こす。ただ、大半のメディアは事実を伝えるだろうが、すべての事実を伝えるわけではない。2015年、トルコの地中海海岸に打ち上げられたシリアのアイラン・クルディ君の遺体の写真は日本でも大きく報道され同情を呼んだが、実際には欧州に流れ込む難民・避難民には若い単身男性が多いことが分かり、持続的な同情と共感を難しくした。
 共感と言えば、軍事大国ロシアによる市民を標的にした無差別攻撃に対して、軍事力で圧倒的に劣るウクライナが国の独立を守るために善戦していることを見て、「判官びいき」、「弱者への同情」が日本人の間にあろう。ゼレンスキー大統領が降伏や亡命を拒否し、「我々は決して降伏しない」と国民を鼓舞する姿に、国家存亡の危機に際しての望ましい指導者の姿を見て、応援したくなるのだ。
ミャンマーの若者による命がけの反国軍運動も広く共感を呼んだが、時間がたち、新たなウクライナが報道の中心になるにつれ、相対的な関心が薄れてきている。ただ、ウクライナへの同情も、避難民がさらに増えて滞在が長期化すれば減少する可能性はある。
 第2に、今回のウクライナ戦争は、国際法を無視した軍事大国ロシアの領土奪取と国際秩序破壊の試みであり、国内法・国際法も守る「順法精神」の高い日本政府・日本人にとっては赦せないことだ。本来なら国連安保理の常任理事国として国際間の平和と安全を守る責任のある国が、国際法を無視し、なりふり構わず自分の利益だけを追求することへの怒りは大きい。国連に対する期待が高い日本であるからなおさらだ。侵略国への懲罰とともに、侵略の被害者であるウクライナを支援しようとする世論が高まる。
 日本との間で北方領土問題を抱えるロシアが隣国ウクライナを武力侵略していることは、国際法を順守するだけでは自国の安全は守れないという「国際法の限界」についての認識をもたらし、何かをしなければ、という気持ちを起こさせる。
 アフガニスタンやミャンマーからの難民・避難民は、統治に失敗して内戦に陥った国から逃れてくる者で、外国の一方的な侵略の被害者である国から逃れてくる者ではない点で、背景が異なり、日本(人)の反応も違ってくるのだ。
 第3の要因として、今回は日本政府が明確に「侵略戦争」だと非難し、G7諸国などと連帯して強力な経済制裁を決めたことが民間での「ブーム」を後押ししている。ロシアの侵略は世界の秩序を力で変える行動であるとして、抵抗するウクライナを政府が支持することで、民間の支援に正当性とお墨付きを与える。今回の事態を放置すれば、中国による尖閣諸島や台湾における力による現状変更の呼び水になるかもしれない、日本を取り巻く政治的軍事的環境が一挙に悪化するかもしれないという危機感が、ロシアの侵略阻止とウクライナ防衛のために行動が必要だとの考えを政府にも国民にも持たせる。このように官民が政治的に合意することは珍しい。
 今回の人道危機は軍事的侵略の結果だが、軍事行動の遠因はロシアとウクライナをめぐる欧州諸国の利害の政治的調整の失敗にあると言える。人道危機の根本的解決は究極的には政治的解決にしかないと言われるゆえんだ。
 イエメンやシリア紛争も大きな人道問題だが、中東地域の問題であって、日本周辺の国際関係に直接的な悪影響を及ぼす事態ではないという認識から、積極的行動への意欲が下がる。全ての国の全ての人道危機に際限なく支援し続けることは、どの国にとっても不可能であり、「誰を助けるか」についての優先順位づけと選択は避けられないのが現実だ。
 このように今回の「ブーム」の背景には、社会的、法的、政治的に特有の要因がある。それが今回の人道支援が例外的に積極的である理由だろう。
 ウクライナの惨状に毎日胸を痛める中で、「私に何かできるだろうか?」という問いが生まれる。ウクライナへの直接的な支援ができないのなら、せめて日本に逃げてくる数百人のウクライナ人は暖かく受け入れ、また寄付を通して少しでも「助ける人を助けたい」..。多くの日本人のそのような善意と人道主義が今回の「ブーム」を呼んだ。
 しかしメディア報道が下火になるにつれ「ブーム」は去る。かつ人道主義は必要条件だが十分条件ではなく、限界がある。今回のウクライナ戦争を機に、国際政治の現実を直視し、国際的安全保障を考えつつ、各地の紛争の犠牲者救済のための、日本の人道支援を一過性のものにしない覚悟がいる。

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