見出し画像

【短編小説】君から君へ (一話完結)

 十二月三十一日の長岡駅発寺泊てらどまり行きのバスは、十六時が最終だ。

 こんな日まで仕事をしているなんて自分でもどうかしていると思うけれど、とりあえず最終には間に合った。発車時刻まで停車しているバスに乗り込み、一番後ろの座席に着くと僕は安堵して温かい息を手に吹きかけた。

 さすがに大晦日だ、客なんてほとんど乗っていない。そとはみぞれまじりの雨。ガラス窓に吹き付けては、すっと流れて消えてゆく。

 バスのなかは暖房が効いている。乗り込んでから自分の身体が凍えていることに気づいて、大きく身震いし身体を縮こまらせた。

 十六時の出発直前、ひとりの少年が駆け込んできた。ネイビーのキャップを深く被り、赤いマフラーで首をぐるぐる巻きにして、布製の大きなバッグをたすき掛けにして大事そうに持っている。

 少年を初めて見たときから違和感があった。既視感というべきなのか。

 こんなことが前にもあったような気がする。記憶のずっと深く深いところで、僕はこの少年を知っているような気がした。

 少年は僕のふたつ前の座席に腰かける。布製のバッグを気にしている。バッグのなかから、まだ幼い子猫のような鳴き声がかすかに聞こえ始めた。みうー、みうーって。少年の背中から、不安な気持ちがにじみ出ている。

「メロー。だいじょうぶだよ、きっとだいじょうぶだからね」

 少年が小声でバッグのなかに話しかける。その「だいじょうぶ」は自分に言い聞かせているようにも聞こえる。

 メロー。その呼び名には覚えがあった。

 メローは、僕が小学校四年生のときに拾ってきた子猫だ。すぐに捨ててくるようにと親に言われた。うちは飲食店を営んでいたから、動物を飼うのは禁じられていたのだ。

 大晦日に長岡駅までメローを連れて行って、勇気を振り絞ってもらってくれるひとを必死で探して、でもいくら探しても見つからなくて。

 後ろから見える少年の横顔を、まじまじと見つめた。穴のあくほど見つめた。

 似ている。子供時代の僕にそっくりだ。そのものと言ってもいいくらいだ。あの赤いマフラー、見覚えがある気がする。少年が被っているネイビーのキャップも。

 いや、いやいやいやあり得ない。僕は少し疲れているのだ。

 そのとき僕は発見してしまったのだ。少年のキャップの斜め後ろ辺りに、アルビレックス新潟の缶バッヂが取り付けてあるのを。

 あれは子供の頃、僕が大切にしていたものと同じだ。見たところ、缶バッヂは新しそうに見えるけれど、かなり昔に発売されたデザイン、いまはたぶんもう販売されていないものだ。

 そして、かつて僕が大切にしていたものと同じように、その缶バッヂにはアルビレックスの大橋選手のサインが書かれているのだ。

 間違いない。あの子は、僕だ。
 
 どうしてそういうことになってしまったのかわからないが、いま少年時代の僕とおとなになった僕が、同じバスに乗り合わせているのだ。

 この不可思議な現象を、僕は驚くほど素直に受け入れていた。あの子は、僕なんだ、子供時代の僕なんだと。

 バスはシャッターの閉まった商店街を通過してゆく。三十年以上代り映えのしないこの街では、いまがいつかもわからない。

 街も、バスも、景色も、なにひとつ変わらない。

 僕が過去に来たのか、少年が未来に来たのか、それすらもなにもわからないままに、僕は素直に受け入れていた。

 こんなどんよりした大晦日の夕方、ほとんどひとの乗っていないバスのなかでは、不思議なことだって起こってもおかしくないような気がしていた。

 不安げな少年の横顔を、愛おしいと思う。よくがんばった、だいじょうぶだ。そう言って抱きしめてやりたい。

 あのときは、僕が少年だったときには、確かおとなの男のひとが、僕を助けてくれたんだ。

僕か?

僕があの子を助けるのか? あのとき助けてくれたのは、おとなになった僕だったのか? 

 あのひとは当時の僕の目には、随分おとなに見えたものだった。優しく、冷静で、まるですべてをわかっているかのような。

 僕はいまもあいかわらずわからないことだらけで、戸惑い、迷いながら日々を生きているというのに。

 勇気。勇気が必要だ。深い呼吸をひとつすると、僕は少年のすぐ後ろの席に移動した。

「どうした、坊主。ずいぶんと元気がないじゃないか」
 僕がわざと明るく話しかけると、少年は僕のほうを振り返った。その顔を見て、改めて確信する。この子は、僕だと。

「メローが……」
 少年は小さく呟く。そして意を決したように
「おじさん、猫をもらってくれませんか?」
 と言った。

「すごく可愛い子猫なんです。グレーの毛並みの、男の子です。うちでは飼ってはいけなくて、捨てて来なくちゃいけなくて、でも僕、どうしても捨てられなくて……」

 少年の瞳はまっすぐでひたむきだった。こんな綺麗な目を、かつての僕はしていたのだ。

「その布袋に入れているの? さっきから鳴き声がしているけど。おじさんにも見せてくれないか?」

 前の席の背もたれに両肘をついて、布袋を覗き込む。

 少年がそっと布袋を開けると、タオルのたくさん敷き詰められたなかにメローがいた。目の前の猫はあどけなく小さく映る。この秋生まれた子猫なんだろうから、もう生後二か月か三か月か。

 でも懐かしい。このグレーの縦縞と、ビー玉みたいな綺麗な瞳。みうー、みうー、とメローは鳴いた。

「おじさん、どうですか? メロー可愛いでしょう? もらってくれませんか?」
 少年は必死でメローを売り込んでくる。

「いいよ。メローはおじさんが飼うよ。大事に育てると約束する」
 少年の頭を、不器用にぽんぽんと叩いた。

「ほんとですか? ほんとに?」
 少年はいまにも泣き出しそうであった。それから僕は少年の隣に移動して、布袋ごとメローを受け取った。

 メローのぬくもりを感じながら、おとなの僕と子供の僕はしばらく無言でバスに揺られた。

 ごめんな。おそらく君が思っているほど、君の人生は優しくないよ。楽しいこともあるけれど、つらいこと、苦しいこともこれからたくさんあるだろう。

 来年、五年生になったら、君のクラスは学級崩壊するよ。六年生はその流れで、いじめの標的にされてしまうだろう。だから中学は私立の学校に通うことになる。

 高校のとき好きだった女の子は、バスケ部のやつとこっそり付き合ってるよ。それを知って君はショックを受けるだろう。

 二十一歳のとき、君のお母さんは病気で死ぬよ。君は悲しみと不安と絶望で、しばらく立ち上がれないだろう。

 君は四度めのチャレンジで国家試験に合格し、税理士になる。

 大学時代から支えてくれた彼女と結婚するよ。妻は優しくて温かい、素敵な女性だよ。子宝には恵まれそうもないけれどね。

 つらいことのすべてから君を救ってあげることはできないんだ。僕にできるのは、いまただメローを受け取ってあげることだけなんだ。

 そんなことを考えていた。

 やがてバスは次の停留所が柏崎かしわざきであると告げた。柏崎。僕の実家のあるところ。少年の降りるところ。

「おじさん、ありがとう。この御恩は一生忘れません。メローをよろしくお願いします」
 少年は頭を下げた。
「大丈夫だよ。こちらこそメローをありがとう。大切にするよ」

 そうして少年は降りて行った。窓の外から、いつまでもいつまでも、見えなくなるまで手を振っていた。

 僕はメローとふたり、しばらくバスに揺られていた。

 寺泊大町てらどまりおおまち。僕の降りる停留所のアナウンスが流れた。チャイムを押して、到着するのを待つ。

「さあ、行くか、メロー」

 僕は立ち上がった。

 バスの前のほうに移動したとき、ふいに杖を前に突き出されて驚いた。老人の杖が行く手を阻んでいる。老人はこちらをちらりとも見ずに、前を向いて座ったまま言った。

「メローが年頃になったら、妻をめとってやりなさい」
 驚いて老人を見た。
「子だくさんでにぎやかになるぞ」
 老人はくすくす笑って、杖を引っ込めた。

「ありがとうございます。ぜひそうします」
 老人に頭を下げて、僕はバスを降りた。

 こちらはもう完全に雪になっていた。真っ暗な海から立ち上がってくる風は冷たく、身体に雪を吹き付けてくる。

 でもなぜか、僕のこころは温もりで満ちていた。
 だいじょうぶ。生きてゆける。

「これからよろしくな。メロー」
 メローの入った布袋をしっかり抱えて、家への道を一歩、一歩と踏みしめた。

……………………………

「さて、心残りはないですか?」
 運転手が尋ねる。
「ないよ。これが最後の仕事だったからね」
 私は答える。

「では」
 運転手は行き先の案内板を回転させた。やがてひとつの行き先を指し示して止まる。

黄泉よみの国行き』

「出発します」
 運転手は明るく言って、発車させた。なんだかわくわくしてくるから不思議だ。

「生まれてこの方、いろいろな経験をしたけれど、この歳になってもまだ新しい経験ができるというのはありがたいものだね」
 私はすっかり晴れ晴れとした気持ちになっていた。

「そうですね。行く道すがら、あなたのこれまでの人生を聞かせてくださいよ」
 随分、懐っこい運転手のようだ。

「なあに。つまらん人生だよ。つまらん人生だが、せっかくだから聞いてもらおうかな」

 雪はもう、かなり激しく降り出していた。フロントガラスに、町に、道に、雪は降り積もる。降り積もる。

 まるでバスのわだちを消そうとするように。それがとても、清々すがすがしく思えた。


《了》

お読みいただきありがとうございました!

いいなと思ったら応援しよう!