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【短編小説】75年の流れ星(一話完結)
なにしろ2月だ、日付が変わったばかりの深夜は肌寒い。
分厚いコートを着せてもらっても、鼻から入る空気は冷たく、頬がなんだかかさかさする。
ましてや、先ほどまで温かい布団にくるまって、夢のなかにいたのだから、なんだって気持ちのよいところをたたき起こされなければならなかったんだか、よく思い出せない。
ぞくっとする背中を一度ぶるっと奮い立たせて、先を歩く両親に続いた。 蒼子と妹の紅子は、両親に続いて暗い森のなかを歩いた。街灯はほとんどない。
さほど行かないうちに森は開け、広大に続く茶畑のなかに出た。
丘の下までずっと続く背の低いお茶の丸く刈り取られた木々が、ロールケーキのようにずっとつながり、その上には果てしない薄もやの暗い空が続くばかりであった。
1986年。蒼子は小学生だった。
世間はハレー彗星に沸いていた。75年に一度の周期で地球に近づくという星。
75年。一生に一度見れるかどうかの流れ星。運が良ければ、二度見ることができるかもね。
父と母と蒼子と紅子は、それぞれコートのポケットに手を突っ込みながら、空を見上げた。
あれだけ世間で騒がれたわりに、その空が開けた絶好のポジションには、蒼子の家族のほかには人っ子ひとりいなかった。
大きな宇宙に、家族四人だけが取り残されたような気がして、蒼子は心細さを隠せなかった。
その日、ハレー彗星を見られたという記憶はない。
ただ、蒼子たち家族は随分長いこと、夜空を見上げて立っていた。
どうもあとから調べてみると、この日はハレー彗星を観測するのに適したコンディションではなかったらしい。
蒼子たちが見られなかったのも、当然かもしれない。
「蒼子、紅子。次にハレー彗星が地球に近づくときは、お父さんもお母さんももう生きていないんだよ。」
父はそう言った。ポケットに手を突っ込みながら。
父はどれだけの確信で言ったのだろう。年月でいえば、確かにその通りだ。でも、自分がこの世を去ることを、どれだけの確信で受け入れられるものなのだろうか。
蒼子は恐ろしくてたまらなくなった。四人家族でぽつんと夜空の下に立っているだけでも不安なのに、お父さんもお母さんもいつか死んでしまうなんて、到底受け入れられることではなかった。
そんな恐ろしい現実が、決して訪れないように願った。
蒼子は、家族四人で手を繋ぎたかった。でも実際は、それぞれがコートのポケットに手を突っ込んだままでいるのだった。
夜風が吹いて、茶畑をさざ波のように吹き抜けた。
「もうだめよ。そろそろ帰ろっか。」
母は微笑んだ。その顔は、がっかりしているようには見えたけど、微塵の不安も浮かんでいなかった。
「紅子。」
母は紅子に手を差し出した。彼女は幼いから、半分眠りかけてふらふらしていた。
その夜、胸に抱いた不安や恐怖は、日々の生活のなかに忘れ去られていった。けれど、予言の期限は、思いのほか短かった。
蒼子が21歳になって二週目に、長年闘病していた母が亡くなった。
それに遅れることちょうど二十年、父が突然死した。
受け入れがたいと予想した未来は、想定を超えてつらく厳しく、支えを無くした人生は、予想を超えて苦しく。
いつしか、また75年という時間が過ぎた。
2061年7月。
蒼子と紅子は、再びあの茶畑に立っていた。少女のままの姿で。ふんわり広がるひざ丈の揃いのワンピースを着て、手を繋いで夜空を眺めた。
「うわあ、よく見えるね。」
紅子がはしゃいだ声を出し、
「ほんとだね。」
と蒼子が答えた。
ハレー彗星は夜空を横切るように、長い尾を伸ばし、それはそれは美しかった。
そのとき、強い風が吹いた。ロールケーキの茶畑に、強いさざ波が立ち、ちぎれた茶の葉がふたりに吹き付けた。蒼子は思わず、腕で目を覆った。
風が止んだとき、紅子が言った。
「お姉ちゃん、間に合わなかったんだね。」
紅子の瞳は濡れて光っていた。「うん……。ごめん……。」
いつだったのか思い出せないが、蒼子の命はすでに尽きていた。
さらに強い風が吹き付け、蒼子の身体は灰のように粉々になって、夜空に舞い上がった。 不思議と気持ちにエネルギーが満ちてくるのを感じながら、粉々になった蒼子は、遥か下にいる紅子を振り返った。
紅子はもはや少女ではなかった。
初老のふくよかな女性で、紅子の隣には彼女の夫が、そしてふたりの息子たちが、息子たちの伴侶と、紅子にとっての孫までも、きらきらした瞳で空を見上げていた。
「ああ。よかったね、紅子。」
蒼子は瞳を閉じた。満ち足りた感情が、蒼子を包んだ。こんなに幸福だったことは、未だかつてなかった。
ハレー彗星は、立派な尾をきらめかせ、暗い夜空を照らしていく。
もう怖くない。もう不安じゃない。
蒼子は悠久の時のなかに、名を残すことなく、生きた軌跡を残すことなく、消えていくのだ。
〈おしまい〉
お読みいただき、ありがとうございました!