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【短編小説】夏の終わり、道の始まり

 心地よい夢をみていた。
 胸につかえていたなにかが、すっきりと洗い流されるような、ほっと、こころの底に灯がともったような、そんな夢だった。
 ふと目を覚ましたとき、健吉は列車のボックス席に、ひとりで座っていた。
 開襟の半そでシャツに半ズボン、裸足の足には下駄を履いて、尋常小学校の紋章の入った黒い帽子をかぶり、布製の鞄をたすき掛けにして座っていた。

 いつもの通り。いつもの通りの恰好。
 むしろ想定外なのは、列車に乗っていることのほうだった。健吉は、そもそも列車に乗ったという記憶がないのだ。
 窓の外をみると、延々と続く田に、稲穂がこうべを垂れていた。
 健吉は、なるほど、これは津軽平野を走る列車なのだな、と勝手に理解した。
 その納得は不思議なもので、健吉の頭のなかで、あっさりと事実と化してしまう。
 
 健吉は、車内を見回してみる。だいだい色の明るい内装、緋色の柔らかな布張りの椅子。天井からガラスの照明が、等間隔に吊り下がっている。
 木枠の、よく磨かれたガラス窓からは、地平線の向こうまで見渡すことができた。健吉は椅子に深く座り込み、満足気にため息をついた。

 快適だ。これ以上ないほど、快適だ。

 ふと、車両の入り口が開いた。健吉は驚いて、通路際のほうに座り直し、前を見た。
 入ってきたのは、ふたりの女の子だった。健吉と同じくらいの年頃だろうか。栗色の肩までの髪の毛は、艶めいてウエーブしている。
 ひとりは、水色のストライプの、提灯袖のワンピースを着て、くるぶしまでの白い靴下に、水色のヒールのある靴を履いている。
 もうひとりはオレンジ色のストライプのワンピースに、オレンジの靴だったが、あとは全く一緒だった。

 双子だ。健吉は思った。双子を見るのは、初めてだ。思わず、凝視してしまう。
 ふたりは顔もそっくりで、色白の肌に青みを帯びたピンクの頬、つんととがった小さな鼻をしている。
 そしてふたりとも、籐で編んだかごを曲げた肘に掛けていた。

「みなさまに秋の訪れをお配りします。」
「夏の終わりと交換に、秋の訪れをお届けします。」
 双子は大きな声で言った。みなさま? 健吉が驚いてよく見ると、ほかのボックス席にもちらほらひとが乗っている。

 不意に、ツクツクボウシの声が車内中に響いた。最前列に座った男の子が、ツクツクボウシを水色のワンピースの女の子に手渡したのだ。
「ありがとうございます。」
 水色の女の子は、そう言って受け取り、ツクツクボウシをかごのなかに入れる。するとたちまち鳴き声は止んだ。
「代わりにこれをあげましょう。」
 オレンジの女の子が言って、かごから赤トンボを取り出した。片手でむんずとたくさん掴んだ。
 手を開くと、トンボは一斉に飛び出し、車内中を飛び回った。健吉のところまで、トンボは飛んできて、学生帽の上に止まった。
 健吉はすっかり楽しくなってしまった。

 あるおじさんが、水色の女の子にトウモロコシを手渡した。
「ありがとうございます。」
「代わりにこれをあげましょう。」
 オレンジの女の子は、かごから毬栗いがぐりを取り出して手渡す。すると健吉の上にも、毬栗が降ってきて、学生帽に当たり、床に落ちた。
「痛て。」
 呟いて、そっと毬栗を拾い上げる。
 青いいがは口を開けて、なかに栗がいくつか詰まっている。美味しそうだ。健吉はひとり、にんまり笑う。

 あるおばさんは、巻貝を渡した。水色の女の子がそれを耳に当てると、波の音が車内に満ちた。
「ありがとうございます。」
「代わりにこれをあげましょう。」
 オレンジの女の子は、色づいた葉っぱをたくさん取り出した。途端に上から落ち葉がはらはらと降り注ぐ。それは美しい光景だった。

 双子は近くまでやって来ていた。
 健吉は焦りだす。なにか、夏らしいものを持っていただろうか。布製の鞄のなかを、ごそごそと漁る。教科書ばかりで、なにも持ってない。
 と、鞄に突っ込んだ手が、ひんやりしたものに触れた。途端に全てを思い出す。さっきまで、あんなに楽しかったのに。暖かくて、心地よくて、しあわせだったのに。

 顔をあげると、鞄に手を突っ込んだままの健吉を、双子が厳しい顔で見下ろしていた。
「夏の終わりのものを。」
 水色の女の子が、にこりともしないで手を出した。
「あの……それが、なくて……。」
 健吉が小さい声で答えると、双子たちは耳打ちしあった。
「きっと、あれね。時空が……。」
「そうね。きっと、違う時空から……。」
 健吉はうつむいて縮こまった。

「手に持っているものを出しなさい。」
 水色の女の子が厳しく言う。
「あの、でもこれは、取られたら困るもので……。」
 健吉は鞄のなかで握りしめているものの感触を確かめた。
「返します。」
「返します。」
 双子は言った。健吉は、おそるおそる鞄から出す。

 それは二枚のはがきだった。戦場から届いた、父からの手紙だ。双子は、顔をくっつけて、二枚のはがきを読んでいたが、
「お父さん、亡くなったんですね。」
「この夏、戦死したんですね。」
 と言った。そして手紙を返すと、声を揃えて
『あなたに秋は訪れません。』
 と告げた。

「え……。」
 健吉が驚いてふたりの顔を見ると
『あなたに訪れるのは、冬です。』
 双子は言い放った。

 その途端に列車は消え、田園も消え、猛吹雪のなかに、健吉と双子は立っていた。
 吹き付ける雪に、急激に下がった気温に、ぶるっと震えて思わず自分の身体を抱きしめると、厚手のコートを着ていて驚いた。
 長ズボンに長靴、帽子も動物の毛でできているもののようだ。双子を見ると、白いケープを羽織っていた。

 水色の女の子が、行く手を指さす。
「あそこです。」
 見ると、遥か遥か彼方に、明るく陽が差している場所があった。
「あそこまで歩きなさい。」
 オレンジの女の子が言う。
「あそこは……?」
 随分遠い。健吉はためらった。

『春です。』
 双子は言う。

「急いで行っても三十年。」
「のんびり行っても三十年。」
「途中で行き倒れても。」
「途中で道に迷っても。」
『三十年かかります。』
 双子は言った。三十年。その時間の長さに、気が遠くなる。

「なんで、なんで、僕だけ?」
 絶望しつつ問うと、
「あなただけじゃありませんよ。」
「誰しも時にあるのです。」

「永遠に続くような冬が。」
「寒くて寂しい、ひとりだけの道が。」

「道のりが長いひともいるでしょう。」
「短いひともいるでしょう。」

『あなただけではありません。』

 双子は初めて、健吉にほほ笑んだ。自分だけではない。歩くしかないのだ。三十年間。
 健吉は、双子に言われる前に、当の昔にわかっていたような気がした。

「さあ、このカンテラをあげましょう。」
「さあ、この杖をあげましょう。」
『行く手に春が待っています。』

 健吉は、カンテラと杖を受け取ると、双子にお辞儀をして、誰も歩いた跡のない雪道を、ゆっくりと歩き出した。
 ついさっきの列車のなかの光景を思い出すと、くすりと笑った。しあわせだったな。楽しかった。
 厳しい吹雪のなかを、微笑をたたえて健吉は歩いていく。いっそのこと、すがすがしいような気持ちさえしていた。

〈おしまい〉

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