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【短編小説】おっかさんの忘れ物

 信濃川の合流する海水浴場は、正守まさもりの家から徒歩三分のところにあった。

正守の家は山の中腹にあったから、子供時分は兄弟姉妹といっしょに、転げ落ちるように海に駆け付けたものだった。

日本海の海は、朝日は昇らず夕陽が沈む。子供たちは、夏は日の入りまぢかまで遊んでいる。

夕陽が沈むと同時に、海の色がミルク色に変わる。

奇跡のような大スペクタクルを、惜しげもなく毎日のように眺めては、それが当たり前とばかりに大して感慨などもたなかった。

 正守は七人兄弟の末っ子で、一番上の姉の幸恵とは二十も歳が違う。

兄弟たちはおしゃべりが大好きだったが、正守は年下だし、どうにもうまく入っていきづらくて、兄弟姉妹に押し負けてしまうことが多かった。

正守の父は、彼が二歳のときに亡くなっていた。

父は政治家だったが、その当時は政治家なんて儲からないのが当たり前で、「塀と井戸しか残らない」などと言われたものだった。

父の死後、多額の借金と七人の子供を抱えて(もっとも、子供という歳でない者もいたが)、酒の小売業で生活を支えたのが母だった。

女学校の先生となって、共に生活を支えていた長女が嫁に行き、ついで長男と次男も結婚した。

長女の幸恵には、いつまで経っても子供が生まれなかった。幸恵の旦那は病弱だから……。そんな噂話まで入ってきた。

そんなとき、正守は母に呼ばれたのだ。

あれは忘れもしない、小学四年生の終わり、雪解けの水ながるる頃であった。

「正守、ちょっと」

 母は誰もいない縁側へ、正守を呼びつけた。

「なんだあね、おっかさん。ほかのみんなは? どこさ行った?」

 言いながら正守は、縁側に置かれた皿と茶たくの上に置かれた客人用の茶碗ふたつを見た。皿のうえには干し柿がこんもりと盛られている。

「みんなはね。ちょっと買い物にいかしたよ。だすけ、正守とおっかさんのふたりきり」

 母は秘密めかして笑ったが、なんだか寂しそうに見えなくもなかった。

「なんね。おらに話かい」

 その話を聞くのが怖かった。

「まあ、柿でも食いなっせ」

 母に続いて、正守も干し柿に手を伸ばした。しばらく無言で柿を食べた。

「正守は優秀だすけね。将来は大学に行きたかろう? 東京ばでて、サラリーマンになるのが夢だっちゃろ?」

「なんね。あれは作文だったから、適当に書いただけじゃけ」
 正守は急に恥ずかしくなった。
「うちに金がねえんはよう知っとるから、大学なんて行かんでいい」

「確かにうちには金がねえ。正守がどんがに優秀でも、大学には行かしてやれねえ」
「したら、なんで―――」

 母は一瞬沈黙したのち
「幸恵のとこに行く気はないかい。幸恵姉ちゃんのとこには子がないすけ、正守を養子にしたいと言うとる。あっこは、幸恵も旦那も学校の先生だすけ、大学にも必ず行かせるって言うてるがに」
 と言った。

正守は驚愕した。次に、これは体のいい口減らしなのだと思った。末の子に産まれて、父にも母にも愛されず、厄介払いさせられるのだと思った。

「少し、考えてもええが?」
「ああ、たんと考えればええが」

 母は動揺の気配すら見せない正守を、返って心配そうに見ていた。

 正守はその夜考えた。考えたけれど、結論がひとつしかないのに気づいただけだった。

行くしかないのだ。幸恵姉さんのところへ。

 そうと決まれば、あとは味気ないほど早かった。

役所のひとが来て、手続き書類を書き、小学校の編入の手続きも終えた。

わずかばかりの荷物を持ってバスに乗り込む。

もちろん幸恵と宮崎という旦那が一緒だったし、バス停まで兄弟たちと母が来てくれた。

バスが来ても、母がいつまでも正守の手を離さないので
「おっかさん、運転手さんが困っとるすけ」
 と正守は強引に手を離した。

 寂しいところに行くのだと、覚悟を決めていた正守でも、想像以上に厳しい現実が待ち受けていた。

宮崎という旦那は病がちで、学業にも生活態度にも厳しいひとだった。

幸恵姉さんは明るくて元気なのはいいのだが、ひとの気持ちの読めぬひとで、なんでもずけずけとものを言い、ひとの話は全く聞いていないくせがあった。

 正守は負けないと決めていた。

新しい小学校でひとりも友達ができなくても、宮崎の家の猫の額ほどの庭から、遠くにすこしばっかりしか海が見えなくても、負けないと決めた。

そしていつかきっと、東京の大学に行って、サラリーマンになるのだと決めた。

 二年が経ち、中学に上がろうかというとき、正守は腎臓を壊して、長期休養を余儀なくされた。正守の考えるようには、正守のこころと身体は強くないようだった。

そのとき一度だけ、母が宮崎の家を訪ねてきた。

「お母さん、里心がつくけえ、来んで、って言うとったがやき」
 幸恵姉さんの声が聞こえた。

「ほんでも、病気だったら仕方がないすけ。正守の忘れ物を届けに来ただけらすけ」
 必死な声で母が言うのが、寝ている正守にも聞こえる。久しぶりの母の声に、布団を被ってむせび泣いた。

「忘れ物? 二年も経ってからに?」

「ええから。これはおっかさんが正守に直接渡すすけ」
 やがて母が幸恵に連れられてやってきた。

「正守! 大層な病気して、どこが痛いんか?」

 正守の顔を見るなり、母は泣き出しそうになった。正守もその顔を見て、涙をこらえるのに必死であった。

―――おっかさん、おら、もう帰りてえ―――

 その言葉は言わずに終わった。

母の持ってきた「正守の忘れ物」は、見覚えのない新品の筆箱であった。

正守は驚いたが、顔には出さなかった。

母が帰ったあと、筆箱を開けてみると手紙と飴玉がいくつか入っていた。

手紙には
「正守、つらくなったらいつでも帰ってきていいすけね  母」
と拙い文字で書いてあった。正守は布団に潜って、嗚咽を漏らして泣いた。

 
 それから十年後、正守は東京の大学を出て、サラリーマンになった。
あの筆箱と手紙は、いまも大事にしまってある。


〈おしまい〉

お読みいただきありがとうございました!

※正守の郷里については明確に記してはいませんが、地形に詳しい方にはわかってしまうと思います。
 この土地は私も愛している土地なのですが、いかんせん方言がわからず、でたらめになっています。郷里や地元を愛するみなさまに、深くお詫び申し上げます。

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