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【短編小説】たづ姉さん (2/2)
みんなでたづ姉さんを部屋に寝かせると、私はほかの者を締め出しました。
そうしてたづ姉さんの服を脱がせ、下着を脱がせ、丁寧に拭いて、浴衣を着せました。
たづ姉さんの肌に触れることを、ためらっている場合ではありませんでした。彼女は熱を出していました。
冷たく絞った濡れてぬぐいを額に乗せ、冬用の布団も出してきて被せました。
たづ姉さんは三日三晩熱を出し、私は看病し続けました。
四日目の朝、たづ姉さんの熱の下がった朝は、雨でした。
「お菊。いま何時?」
たづ姉さんの細い声に、うたた寝してしまった私は目を覚ましました。
「たづ姉さん! 気が付いたんですね!」
なんのためらいもなく、たづ姉さんのおでこに手をやると、熱は下がっていました。
「お菊、なにか食べたい。」
たづ姉さんの弱弱しい微笑みに、うんうんと頷いて
「待っててください。すぐおかゆ作ってきます。」
と言って階下へ降りました。
梅干しの乗ったおかゆを持っていきますと、たづ姉さんは、迷惑をかけてすまない、ありがとう、と照れながら言ってくれました。
「心配しましたよ。あんな雨の日に、いったいどこにいたんですか?」
私は軽くかまをかけてみました。たづ姉さんの恋人のことが、なにか聞けるかもしれません。
たづ姉さんは、しばらくおかゆに目を落としていましたが
「やっぱり私、行かなくちゃ。」
と呟きました。
そして窓の外の雨を見つめ、決心したかのように頷くのでした。私は腹立たしくて仕方ありませんでした。
「なにを言っているんですか! まだ病み上がりですよ?」
たづ姉さんは私を無視して、浴衣を脱ぐとワンピースに着替えました。髪を整え、メイクを施します。
「ちょっと、たづ姉さん!」
腕に縋りつくと、存外強い力で振り払われました。
「お菊にはわからない! お菊はまだ子供だもの!」
そう言われて、身体から力が抜けました。
あわただしく部屋から出ていく彼女を見ながら、たづ姉さんは汗でべとべとになった自分の身体を、男の人に触らせるのだろうか、とぼんやり思っていました。
その夕方早めに、たづ姉さんが帰ってきました。弱い雨でしたし、傘を持って出たようで、身体は濡れてはいませんでした。
私はほっとしたけれど、たづ姉さんは浮かない顔でした。なにか魂が抜けてしまったように、顔に表情がありませんでした。
玄関に私の姿を認めると
「お菊。お風呂に行こう。」
とたづ姉さんは言いました。
それからふたりで支度をして、銭湯に行きました。ふたり無言で歩きました。
今朝のことがありますし、私はなんとなく、口をききたくありませんでした。そりゃあお菊は子供だけど、たづ姉さんが思うほどではありません、そんなふうに言ってやりたい気持ちがありました。
職工さんたちが帰ってくる前なので、女湯にはたづ姉さんと私だけでした。
身体を洗ってお湯に浸かると、たづ姉さんは何度もため息をつきました。たづ姉さんがなにかに悩んでいるのは、間違いのない事実でした。ふとその顔を覗くと、静かに涙を流していました。
私はたまらなくなって、裸のたづ姉さんを抱きしめました。そうして理由もわからぬまま、ふたりでおいおいと泣いたのでした。
私はたづ姉さんのためになにかできないか、必死で考えました。
彼女はなにかの事情で、恋人に会えなくなってしまったに違いないのです。喧嘩したのでしょうか。振られてしまったのでしょうか。
私はかずさんにそのはなしをしました。かずさんは難しい顔をして聞いていましたが
「見事な黒髪の、美人なひとだよね。心当たりがある。」
と言いました。
そして、確かめるから三日くれ、と言います。かずさんは、見たこともないほど、険しい顔をしていました。
三日後の夜に会ったとき、かずさんは、黙ってついてきて、と言って、私を番小屋のようなところに連れて行きました。扉は閉まっていましたが、なんだか薄汚い小屋だな、と思いました。
かずさんは石段のところに座って、私にも座るように勧めました。電灯のあかりは、小屋の入り口を照らしています。座り込むと薄暗くて、胸の鼓動が速く打ちました。
「ちょっと言いにくいんだけど、その黒髪の女性ね、この小屋の入り口で、何回か目撃されているんだよ。もちろん相手の男と一緒に。お菊の言う通り、雨の日なんだ。相手のほうは、うちで使っているとび職人でね。雨の日は、滑って危ないから、休みになるんだよ。その男は飛雄馬とら吉といったんだけど―――」
かずさんはそこで大きくため息をつきました。私は固唾を飲んで、その先を待ちます。
「半月ほど前に、事故で死んだんだ。」
ひっ、と声が出てしまいました。
「葬儀はもちろんやったんだけど、飛雄馬とら吉には、妻子がいたからね。誰もたづ姉さんに知らせるものはいなかったんだろう。悲しいはなしだよね。」
私は、頭がぐわんぐわんして、どう思っていいやら、わかりませんでした。
妻子いる者とつきあうのは、それはいけないかもしれません。愛するひとの死すら、知らされなくても当然かもしれません。
でも私はあくまでたづ姉さんの味方でした。彼女の気持ちに寄り添うのが、唯一の私の使命でした。
かずさんは立ち上がり、小屋の扉を開けました。物がごちゃごちゃと乱雑に置いてあって、外側同様、綺麗とは言えませんでした。
「こんなところで、逢瀬を重ねていたんだねえ……」
かずさんの言葉に、涙が出ました。唇を噛みしめて、静かに泣きました。
私はなんとしても、たづ姉さんにほんとうのことを伝えてあげなければ、と決めていました。
飛雄馬とら吉のはなしをすることが、たとえどんなにつらくても、どんなに罵倒されても殴られても、ほんとうのことを知らないまま生きてゆくのは、きっとつらいことだろうと思ったからです。
おしまいなものはおしまいと、はっきり知らなければ、この先も幽霊を背負って生きてゆくようなものです。
ある夜、せんべい布団にふたりで寝ているときに、切り出しました。
「たづ姉さん。」
「なに。」
「たづ姉さんの思いびと、亡くなったそうです。半月前に、事故で。」
たづ姉さんの息が、ぐっと詰まるのがわかりました。彼女は天井を向いたまま
「そうなんだ。お菊、ありがと。」
と震えた声で言って、腕をこちらに伸ばしました。私も腕を伸ばし、手をつなぎました。
その夜、私はたづ姉さんに抱かれました。温かく柔らかく、たづ姉さんは抱いてくれました。
こんなに気持ちのよい思いをしたのは、生まれて初めてでした。声が出そうになるのを、必死で押さえました。
そうして鳥のさえずりが聞こえる薄暗い朝、たづ姉さんは言ったのです。
「故郷に帰る。縁談でもするわ。」
「うん。」
思わず涙声になってしまいました。たづ姉さんのぬくもりが、匂いが、愛しくて、もう一度胸に顔を埋めました。
たづ姉さんはそれからまもなく、仕事を辞めて出ていきました。
私もバス停まで、送りに行きました。
爽やかに晴れた夏の朝でした。ベンチがあって小屋のようになっているバス停で、たづ姉さんは私にキスをしました。愛おしさがあふれ出てくるような、優しいキスでした。
それ以来、私はたづ姉さんに会っていません。どんな人生を送ったのかも、生きているのか亡くなったのかも、私にはわかりません。
私は数年後、そしらぬ顔でかずさんと結婚しました。あの夜、たづ姉さんに抱かれたことは、私だけの秘密です。私には子供が三人生まれ、孫もできました。
それでも、いまでも雨の朝に、ふっと思い出すことがあります。記憶のなかのたづ姉さんは、いつまでも若くて、おとなで、きらきらと輝いているのです。
きっともう、どこにも存在しない若いままの彼女を、抱きしめたいほど愛おしく、思い出すときがあるのです。
〈おしまい〉
お読みいただきありがとうございました!