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【短編小説】微熱の冷めぬ、夏の夜(1/3)



『南房総の高台の上から夕焼けに染まる海を見ているとき、彼女はふと
「死ぬならこんな感じの海がいいよね」
と言った。
 その言葉がなければ、綾子と一緒にはいなかったかもしれないし、その後の俺たちの短い交わりもなかったかもしれない。
 それだけでよかった。深い悲しみを、俺と同じくらい深い悲しみを、彼女もきっともっていると思えたから。「そうだね」って言って、静かに笑って、ふたりキスをした。』

 時計を見たら、深夜二時三十分を少しまわったところだった。暗闇のなかで、パソコンの灯りだけが煌々と明るい。

「こんな時間になっても、蒸し暑さは抜けないよね……」

 独り言ちて、私は足元の扇風機のメモリを強にした。

 ほんとはエアコン入れたかったけど、先月の電気料金は尋常じゃなかったし、夫に文句を言われるのもしゃくだし。

「夜中に起きてるのは真理ちゃんの勝手でしょ。小説なんて書いてるからでしょ。眠ってしまえば、暑さなんて感じないよ」

 夫の台詞を想定してみる。うん、言いそう。ってか、きっと言う。

 小説を書いていることを、誰かにつべこべ言われたくはなかった。

 私が小説を書くのには、私なりに理由があるのだ。小説を書くことでしか昇華できない思いがあるのだ。

「ふうん、新作書き始めたんだ」
 女の声がした。

「うん、まあね。―――あ」
 私はパソコン脇に設置してある鏡のなかの女と目が合ってしまった。

「お前……。もう出てこないんじゃなかったの?」
 鏡のなかの女に話しかける。この女は、私の姿をして私ではないのだ。

 こうして深夜に小説を書いているときにだけ出没する、もうひとりの私なのだ。本人いわく、私は真理で、自分はマリなのだという。

 マリはいつも可愛い服を着て、濃いめの化粧をしている。私は夫のおさがりのだぼだぼTシャツにすっぴん眼鏡なのに。

 もっとも三十二歳主婦には、ゴテゴテのレースもバチバチのつけまつげも邪魔なだけだけど。

「いいじゃん、結構いいこと言うでしょ、私」
 マリはそういうと、鏡の向こうのパソコンの文字を読み始めた。

「なんか文章の重複多くない? もっとすっきり書けなかったの?」

「うるさいなあ。書き始めたばかりなのに」

 鏡の向こうで、マリはうーんとうなった。
「出だしなのにインパクトがないんだよなあ。もっとこう、夕焼けの美しい描写とか書けないの?」

「うーん」
 今度は私がうなる番だ。

「それにさ、言いたかないけど……」
 マリは口ごもる。

「なによ、言いなさいよ」

「これは、実際にあったはなしだよね」
 マリが言う。

「そ、そうだよ? 悪い?」

 私が答えると、マリは
「悪くはないけどね。なるほど、主人公を男にして、相手役を女にして、事実であることをごまかそうという魂胆ですな」
 と言う。

「なによ、私の勝手でしょ?」

「まあ、そうなんだけどさ。気をつけなよ? 実話を小説にしてネットにアップして、あわや訴訟問題か、ってなったことが昔―――」

「わかってる! 気をつけるよ!」

「しっ。旦那が起きるよ。旦那にも気をつけなよ。十年も前に別れた男との物語を、男女逆転して書いてますなんて知ったら、あいつ―――」

「わかってる! あっち行って!」

「はあい」
 鏡の向こうからマリが消えて、薄暗いこちらの部屋を映すだけになった。

 鏡に映っているのが自分であるのを確かめるために、小さく手を振ってみる。鏡に映った私も同じように手を振る。すっぴん眼鏡の浮かない顔で。

 まったく。なにをやっているのだろう。

 きっとマリはもうひとりの私なのだと思う。

 いつかのどこかの分岐点で、私の選ばなかったほうを選んだ、もうひとりの私。パラレルワールドにいる私と、小説を書くときだけ、繋がれる。

 そこになんの意味があるのかもわからずにいた。

 この小説は、書かないわけにいかなかった。たとえマリ以外の誰にも見せられなかったとしても。

 私が書きたかったのは、男―――男の名は翔太といった―――との短い恋愛そのものでなく、その後の私の心持ちそのものであった。

 翔太と付き合った期間は半年と短かったけれど、私は翔太を忘れられなかった。それこそどんなことをしても忘れられなかった。

 翔太のあとにも何人か付き合った男はいたし、あまつさえ二年前には夫と結婚すらしているのだ。

 十年もの長いあいだ、翔太の存在は、私のこころと身体のなかで、熱として残りつづけた。

 ほんとうに、今度こそ忘れたい。この熱を溶かしたい。でないと苦しい。もうどうにもならないのに。

 主人公に願いを託し、想いを忘れられぬ主人公がその想いを断ち切るまで、描いてみようと思った。長編になりそうだと覚悟はしていた。

(続く)

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