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【回想録 由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い 第38回】
🔷「人生の転機」の中の「リストラ、数度の転職」の前半を掲載します。🔷
『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』
(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)
2016年1月25日 発行
著者 藤巻 隆
発行所 ブイツーソリューション
✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第38回)✍
「人生の転機」の中の「リストラ、数度の転職」の前半を掲載します。
人生の転機(1)
リストラ、数度の転職 前半
卒業と就職
私は昭和四十九年に都立日比谷高等学校を卒業し、同年青山学院大学文学部英米文学科に入学しました。昭和五十三年に同学科を卒業し、辰野株式会社に入社しました。本社は大阪の船場にありました。東京支社(当時)には、繊維事業部と資材事業部がありました。
わずか二年間しか在籍しませんでしたが、その期間中に、独学で日本商工会議所簿記検定2級に合格しました。この公的な資格は由美子が取得したものと同じです。
最初の転職
昭和五十五年に最初の転職をしました。日産プリンス神奈川販売株式会社です。事務職を希望していましたが、販売会社ということで、当時の人事担当役員から「三年間営業を経験したら事務職に異動させる」という言葉を真に受け、三年間頑張りました。
転職へ
三年経ち、異動を申し出ると、同役員は「あと二年営業で頑張ってくれ」、と説得され通算五年間営業職に携わりました。ところが、結局、事務職への異動は実現しませんでした。騙されたと思いました。同役員は、その後、親会社へ戻りました。見切りをつけ、二度目の転職へ向けて動き出しました。
但し、在籍した五年間は悪いことばかりではなく、運転免許証を手にすることができましたし、セールスコンテストで入賞でき、チームで北陸旅行や初めての海外旅行でハワイに行くことができました。
親しい友人
当時から現在に至るまで、公私ともに大変お世話になっている方がいます。由美子の葬儀に参列してくださったNさんとKさんのお二人です。
Nさんは私の兄貴のような存在でした。営業の基本を懇切丁寧に教えてくれましたし、一緒によく軟式野球もしました。
Kさんは同期入社で営業所こそ違え、ライバルでしたし、当時からずっと親しい友人です。Kさんも私同様に転職し、カルビーで実績を残し、定年後はカルビー時代の取引先から請われ、精力的に働いています。日産スタジアム(横浜国際総合競技場)に横浜F・マリノス主催ゲームをよく観戦しに行きました。Kさんが招待してくれました。当時、カルビーがマリノスのスポンサーだったからです。
二度目の転職
二度目の転職は、洋販(日本洋書販売配給株式会社、後に日本洋書販売株式会社に改称、外国の書籍・雑誌の輸入卸会社)でした。事務職(経理部員)としてです。ようやく希望が実現しました。洋販で由美子との運命的な出逢いがありました(詳細は「出逢い」をご覧ください)。
洋販には二十年近く勤務しました。十八年間は経理担当でしたが、最後の一年半は、畑違いの在庫管理・出荷業務に異動させられました。
つまり、左遷です。その後、リストラされました。平成十七年のことでした。
(PP.92-94)
➳ 編集後記
第38回は「人生の転機」の中の「リストラ、数度の転職」の前半を書きました。
二度目の転職以降、私の人生は転機を迎えました。暗転していったのです。
私の運命はどうしてこうも悪い方悪い方へと向かうのか。運命を呪ったこともあります。
しかし、そんなことをしても運命が好転することはありませんでした。
私にはもっと大きな衝撃的な出来事が待っていたのです。もちろん、想像することもできなかったことでした。
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