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【大人の流儀 伊集院 静 心に響く言葉】 第99回 『大人の流儀4 許す力』から


訃報

2023年11月24日夜に伊集院静氏が亡くなりました。73歳でした。
ご冥福をお祈りいたします。
非常に残念です。「大人の流儀」をもっと長い間拝読したかった……。





大人の流儀

 伊集院 静氏の『大人の流儀』から心に響く言葉をご紹介します。私は現在『大人の流儀』1~10巻を持っています。このうちの第1巻から心に響く言葉を毎回3件ずつご紹介していこうと考えています。全巻を同様に扱います。

 時には、厳しい言葉で私たちを叱咤激励することがあります。反発する気持ちをぐっと堪え、なぜ伊集院氏はこのように言ったのだろうか、と考えてみてください。しばらく考えたあとで、腑に落ちることが多いと感じるはずです。

『大人の流儀4 許す力』をご紹介します。

 ご存知のように、伊集院氏は小説家(直木賞作家)で、さらに作詞家でもありますが、『大人の流儀』のような辛口エッセーも書いています。


大人の流儀 伊集院 静 心に響く言葉 第99回 『大人の流儀4 許す力』から


第1章 許せないならそれでいい

「人はみな許せないことを抱えて生きていく」から

伊集院 静の言葉 1 (294)

 以前よく遊んでいただいた先輩のMさんから俳句集が届いた。
「おやっ、Mさんが俳句をたしなんでいたとは……」
 手に取って表紙を眺めた。
 バラの花が描いてある。冬のバラか。あっさりとしていいたたずまいをしたかおの句集だ。
 時折、句集を送ってもらうことがあるが、いものもあれば、ウ~ム(資源の無駄使いではないか)というのもある。
 俳句という文芸創作はきわめて個人が表出するもので、これが素人の作品となると客観性が欠けて、いったい何を見たのか、想ったのかわけのわからないものがある。
「ほうー、Mさんの俳号は ”萬葉” というのか、大胆だな……」
 大胆と思ったのはMさんはどちらかというと仕事の折も、遊びの時も自分を前面に出さない気質たちの人だからである。
 まずは本を開いて数句を読んだ。
句集は最初の数句で、その句集の大半がわかる。これは小説の数行と同じだ。 

大人の流儀 4 許す力 伊集院 静 


「人はみな許せないことを抱えて生きていく」から

伊集院 静の言葉 2 (295)

 長屋門くぐれば白き牡丹かな
 教えられ手に触れもして藍の花

__あれっ、こんなに女性的な人だったか。
 と同封の手紙を開けた。
 亡くなったMさんの奥さまの句集だった。
 そうか、そうだよな。合点がいった。生前夫人は俳句を趣味にしていらしたようだ。
 残された句を、出版社に勤務していたMさんが編纂し、一冊にまとめたものだった。
 Mさんはプロの中のプロの編集者であったから、たとえ最愛の人であっても資源の無駄遣いはしない印象があった。
__惚れた弱みか……。
 そう思って頁をめくると、おやっ、と思う句もあり、感心させられた。
__そうか、読む価値はありやなしやと悩んでの一冊か。
 面白い一句があった。
 このところ私が考えあぐねている小問題をよんであった。

 許すとは高き姿勢や夾竹桃きょうちくとう

 萬葉なる女性が、何を許して、何を許せなかったかは計ることはできないが(Mさんの遊び過ぎでないことを祈るが)、人が人を許すという行為を、彼女は “高き姿勢“ として背丈高く伸びた夾竹桃の花と重ねてよんでいる。
 人が人を許す行為の中には、どこか人間の傲慢さが漂う。いや漂うのではなく、根底に人が人を上から見る発想があるのではないか。
 そう考えると、人や、人の行為を許せないで、いつまでもその人のこころの中に、許せないという感情が残るのは、むしろ人間らしいこころのあり方なのではないかと思う。
       

大人の流儀 4 許す力 伊集院 静 



「人はみな許せないことを抱えて生きていく」から

伊集院 静の言葉 3 (296)

 ”許すことで起きる活力” ”許す力” というものもあるのではないか。
 ここまで書くと、M先輩が何か罪を犯して、それが夫人の句になったように思う人があってはいけないので断っておくが、M先輩は遊び人ではあるが罪は犯していません。     

大人の流儀 4 許す力 伊集院 静 


⭐出典元

『大人の流儀 4 許す力』

2014年3月10日第1刷発行
講談社


表紙に書かれている言葉です。

あなたはその人を許すことができますか。


✒ 編集後記

『大人の流儀』は手元に1~10巻あります。今後も出版されることでしょう。出版されればまた入手します。

伊集院静氏は2020年1月にくも膜下出血で入院され大変心配されましたが、リハビリがうまくいき、その後退院し、執筆を再開しています。

伊集院氏は作家にして随筆家でもあるので、我々一般人とは異なり、物事を少し遠くから眺め、「物事の本質はここにあり」と見抜き、それに相応しい言葉を紡いでいます

冒頭の「訃報」で書きましたように、2023年11月24日に急逝されました。
非常に残念です。『大人の流儀』の続編を拝読したかった……。


人が人を許す行為の中には、どこか人間の傲慢さが漂う。いや漂うのではなく、根底に人が人を上から見る発想があるのではないか。 そう考えると、人や、人の行為を許せないで、いつまでもその人のこころの中に、許せないという感情が残るのは、むしろ人間らしいこころのあり方なのではないかと思う。

この一節を読んで、20年前の自分のことを思い出しました。

2度目の転職で入社した3社目の会社(海外の雑誌・書籍の輸入卸)に約20年間在籍しました。入社以来経理部に所属しました。形だけでしたが経理課長を任されていました。

日々の経理業務だけでなく、決算書の作成も担当していましたので、会社の業績、財務状態は把握していました。このまま推移したら破綻すると確信していました。

大きな理由は2つあります。

1つ目は、アマゾンが日本に進出し、価格とスピードで太刀打ちできなくなったことです。売上が激減してしまったのです。

2つ目は、メインバンクをはじめ3行で、私募債を半ば強制的に発行させられ、償還時に元本の返済が困難になったことです。銀行に資金を搾り取られ、さらに担保物件だった自社ビルを手放すことになったことです。

経営陣は銀行に騙されたことに気付いていなかったのです。もっともそうでもしなければ、延命できないと考えたのでしょう。

そんな時、同業他社との合併話が持ち上がりました。相手企業は当社より小規模でしたが、小が大を飲み込む形で合併しました。相手企業の経営陣が合併会社の経営を行うことが決定しました。

しかし、私は合併しようが、将来業績が回復する見込みはないと分かっていました。

私にとって青天の霹靂だったことは、私が左遷させられたことです。
私が会社の実態を把握していたため、新経営陣にとって私に本社に居続けられると何かと都合が悪かったのです。

合併が決定した当日、新経営陣の一人が一方的に私に「大阪支社か浦和物流センターのどちらかを選べ!」と語気強く言ったのです。

私は「少し時間をください」と言い返しましたが、彼は認めず、すぐに結論を出すように促しました。

当時の私は50歳前で、新しい環境へ単身赴任することに躊躇しました。結局、浦和を選択しました。後でわかったのですが、ドアツードアで片道2時間半かかりました。往復5時間で小旅行のようなものでした。それでも旅行なら良かったのですが……。

どうして私が左遷させられたのか、を考えてみたら解せないことがありました。

新経営陣の一人(既述)が「取引先の社長から自社の内部情報をネットで公開する社員がいると知らされた」(20年ほど前の話ですよ。こんなことがわかる人はほとんどいませんでした)と言ったのです。

確かに、ブログで社名は一切公表せず、社内の実態の一部を投稿してはいました。しかし、私は無名のブロガーですし、社名も一切出していないので、「当社」のことだと特定することはできないはずなのです。

それでも、左遷の対象となった経緯は、合併相手企業の出身者に、私のブログのことを話していました。後から考えると迂闊であったかもしれませんが、まさかそれを理由に持ち出してくるとは思ってもみませんでした。

もっともその人物も退社することになったのですが。

彼らには私を左遷する理由がどうしても必要だったのです。でっち上げでもなんでもやる必要があったのです。

許すことができなかったのは、直属の上司が自己保身のために、部下を庇わなかったことです。合併前の企業で兼務役員にしてもらっていたため、自分が損になることを敢えてすることはないと考えたのです。現状から逃げたのです。

嫌がらせとパワハラ。

20年が経った今でも、心の奥底では彼らのことを許していません。

浦和に移り、経理業務(デスクワーク)から在庫管理及び出荷業務(肉体労働)に変わりました。

最初は慣れるまでは相当にきつかったです。とりわけ海外の雑誌は大判で厚みがあり、重く、結束機を使って5~10冊を束ね、出荷先毎に籠に入れる作業は重労働でした。一時的に腰を痛めたこともありました。

海外から雑誌が入荷すると、「カルタ取り」と称する、あるタイトルの雑誌を何冊、取次や書店毎に振り分け作業がありました。納品伝票で雑誌のタイトルと冊数を読む人と実際に雑誌を棚から取り集める人の2人がペアを組み、出荷準備をします。

ところが、人間がやることなので間違いが必ず起こります。タイトルや数量、あるいは出荷先に間違いがあると、取引先から支社・支店(当時、札幌、仙台、千葉<後に閉鎖>、横浜、名古屋、大阪<支社>、広島、福岡、沖縄)にクレームの電話が入りました。

回りまわって、出荷した私たちの責任追及が日常茶飯事となっていました。人の手を介している限り、ミスはなくならないと思いました。

特に、15日と月末になると出荷数量が普段の日の数倍に増大し、限られた時間内で、少人数(4人!)で業務を行っていたため、間違いは増えました。

月末になると仕事の終わるのが午後11時頃になることはざらで、帰宅時間が午前2~3時になったこともあります。出勤のために家を出るのが午前5時頃でしたからほとんど睡眠時間はなく、朝食を食べる時間はわずかでした。

そのような過酷な労働条件の下で、1年半勤めました。幸いなことに、病気になることも怪我をすることもありませんでした。ただ、毎日眠かったです。

1年半勤めたのですが、会社側は私がすぐに自己都合退職すると高をくくっていたのでしょう。私は意地になって自分から退職はしまいと歯を食いしばって頑張りました。それは果たして意味があったのだろうか、と今でも考えることがあります。

2024年2月現在の今であれば、企業ぐるみの嫌がらせやパワハラは認められないだけでなく、企業も経営者も社会的に罰せられます。この点で、世の中はこの20年で変貌したのです。いまだに変わっていない部分は多々ありますが……。

こうような経験を通して、精神的に鍛えられました。唯一それだけがプラスだったと思っています。


(5,019文字)


🔶『大人の流儀3 別れる力』について『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』の中で言及しています。

伊集院静と城山三郎
『別れる力 大人の流儀3』
私が伊集院静さんに興味を持ったのは、彼の先妻が女優の夏目雅子さんであったこともありますが、『いねむり先生』という題名の小説を読み、不思議な感覚を味わい、また『大人の流儀』という辛口エッセーを読んだからです。 

由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い p. 212 


夏目雅子さんのプロフィール



🔶伊集院静氏の言葉は、軽妙にして本質を見抜いたものです。随筆家としても小説家としても一流であることを示していると私は考えています。



<著者略歴 『大人の流儀』から>

1950年山口県防府市生まれ。72年立教大学文学部卒業。
91年『乳房』で第12回吉川英治文学新人賞、92年『受け月』で第107回直木賞、94年『機関車先生』で第7回柴田錬三郎賞、2002年『ごろごろ』で第36回吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。
作詞家として『ギンギラギンにさりげなく』『愚か者』などを手がけている。




⭐ 原典のご紹介



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大人の流儀 伊集院 静


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藤巻 隆
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