和佐大輔さんの思想
この文章は、『ダイヤモンドの功罪』について書こうと思っている文章のスピンオフである。私は、車椅子の天才マーケッターとして知られる和佐大輔さんのファンである。だから和佐さんのYouTube『昨日なに見た!』も楽しみに聞いている。でも昨日の4月1日の放送を聞いて違和感を覚えたので、この記事を書くことにした。見ている視線の違いを感じたのである。
和佐さんは、『ダイヤモンドの功罪』の主人公である綾瀬川次郎くんの、例えば、「新しく作るオレたちのチームはさ、どんなに野球ヘタでも、どんなに野球うまくても、そのチーム入りたい人はだれでもいれる…」を綾瀬川くんの〝甘え〟であると評価する。綾瀬川くんは、スポーツの能力が高く、周りからチヤホヤされてそれに甘えているので、なにかトラブルが起きると逃げ出すと和佐さんは解釈するのだ。私は違うと思う。綾瀬川くんのこの発言は、左翼思想の萌芽だと思う。
なるほど和佐大輔さんは、事故で首の骨を骨折する重症を負い、重度の身体障害者になった。そこから家族のお荷物になるのを回避しようと必死に努力され、もって生まれたビジネスセンスもあって、マーケッターと成功された。その血の滲む努力には、率直に敬意を表したい。でもそうして培った人生哲学(=人文科学的視点)で全てを裁断するのは、視野狭窄ではないでしょうか?。コミックスの第5巻に登場する綾瀬川くんの将来のライバルと目される少年(園大和)の、「例えばクイックで放ってみたり、一球ごとに投げるテンポを変えてみたり、この人はたぶんむっちゃ頭つこて野球してんねん。勝負所で敬遠してヤジ飛ばされて、「汚い」言われても平気な顔でクリーンナップを敬遠して、涼しい顔して後継の下位打線、3振取るみたいな…」というセリフにもあるように、綾瀬川くんは若干小学5年生にして〝全体〟を見渡す視点(=社会科学的視点)を持っているのである。これが〝甘え〟でしょうか?。
現代日本文学に特有な小説の一形態として、私小説があります。作者自身を主人公として、その直接経験を元にした小説です。例えば田山花袋の『布団』がそうですね。和佐大輔さんの思想は、「人は如何に生きるか」という人生論であり、私小説の範疇にある仕事ではありませんか?。そして浅田彰さんが指摘するように、「10万部以上売れる本は人生論」だから、和佐大輔さんはビジネスで成功したのではありませんか?。
小説家ではありませんが、詩人の三好達治が主人公の『天上の花』という映画を先日見ました。三好達治は妻子を捨て、愛人との生活に溺れていました。一方で当時の日本は戦争の渦中でした。三好達治は現実に目を閉ざし、自分の世界に閉じこもっていたのです。
今日、吉田ドクトリンが行き詰まり、またそれと対の関係にあったパックス・アメリカーナの終焉、そして情報通信技術革命によって、既存の枠組みは揺らいでいます。往時の日本と似た状況にあるのです。そんな時代だからこそ、〝全体〟を見通せる綾瀬川次郎くんのような人材を育成する必要があるのではないでしょうか?。m(_ _)m
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