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恋文への恋文。 ─『蕚』と『Stella』と『シナリオライアー 』


長い前置き その一:二通の恋文

■ 『Stella』と『蕚』

 今やシブヤの民の聖典となった、名曲『Stella』。
 この楽曲をはじめて通して聴いたとき、私は誇張なしに嗚咽した。
 なんせ、美しい星わたりの旅をモチーフに紡がれていたのは、敗北を経なければうまれ得なかった力強い再生の物語だったのだ。九ヶ月ぶりにもたらされた推しの新曲がそんなんだったら、泣いてしまうでしょうよ、そりゃ。(*1)

 ひとしきり泣き倒し、ノーミソの酸素がちょっと足りなくなってきた頃。朦朧とした頭に、ふつりと浮かんだ感想があった。
「……ていうかこれ、恋文じゃん」
 作中人物たちに対する深い洞察。静謐ながらも熱を帯びた救済の祈り。高らかにうたわれる再生の決意。それらが織りなすストーリーから浮かびあがるのは、作者である夢野先生から作中人物のモデルとなったチームメイトたちへの、そして自らが属するFling Posseというチームへの、あふれんばかりの愛だった。

 仲間への想いを語るのに物語という間接的な手法を用いるところといい、そのせいでかえって本人としては秘しておきたいはずの感情がダダ漏れになっているところといい、それはそれは「夢野幻太郎」らしいラブレターで。なるほど彼のようなひとが愛を綴るとこうなるのかと、何度も深くうなずいたものだ。

 その夢野先生の、新曲『蕚』。
 トレーラーを試聴して、驚いた。
 え? いいの? だってこれ、どう考えても恋文だよ? 『Stella』と違って「フィクションですので、解釈はご随意に」なんていう誤魔化しも効かないよ? 夢野幻太郎たるものがこんなに素直になっちゃっていいの? 

 とはいえ私も一応、それなりに訓練された夢野のオタクだ。これまでなかなか腹の中を見せることのなかった嘘つきがとつぜん胸の内をさらけ出してきたことに動揺しつつも、頭の片隅に警戒を残しておくことは忘れなかった。
 いやいやいや、『シナリオライアー』を思い出せ。今回も最後の最後で「ま、全部嘘なんだけどね」とひっくり返されるかもしれないぞ。なにしろ相手はあの夢野幻太郎なのだから。

 そうして訪れた発売前夜。フラゲしたCDで、楽曲の全貌をたしかめた。

 なんてこったい。
 嘘じゃなかった。
 『蕚』は真実、赤裸々な愛の歌だった。
 

■ わからないのに、わかる。

 『蕚』の歌詞に用いられている語彙は、むつかしい。私はそもそもタイトルからして読めなかった。「蕚」という字が「花のがく」を意味することも「ウテナ」と読むことも「萼」の異体字であることも、みんなGoogle先生が教えてくれた。
 リリックの中にも、知らない言葉や意味のとりづらい表現がごろごろ出てくる。それらを洗い出し、辞書を引き引きメモをとることしばし。おっけー、個々の単語の意味は理解した。だけどそのさき、フレーズ単位の読み解きがまた手強い。なんとも詩的で、すんなりとは飲みこませてくれないのだ。
 一例をあげると、

ブリキの歯車動き出す世界にも随意不羈に綻びへと緘を解く 

 ここなど句読点や空白が一切ないため、文字で見ただけでは意味の切れ目がわからない。
 息継ぎのタイミングが手がかりになるだろう。そう思って歌を聴いてみても……うーん、わかるような、わからないような……どうにも微妙な感じだ。

 こんな調子で、出だしから結びまで難解な歌詞がつづく。自分なりの答えを見つけるまでのあいだは、頭に疑問符をひっかけた状態で聴いていた。

 だけど、それでもわかってしまうのだ。
 楽曲に通底するテーマが、一貫して流れる感情が、花というモチーフに彩られて理屈ぬきに頭に流れこんでくる。生々しいまでの手ざわりをともなって胸に伝わり、心を芯から震わせる。

 私は、歌詞のついた曲を「音楽」として聴くのが下手くそだ。文法に縛られ語義に執着してしまうせいで、堅苦しいルールから解き放たれた自由な言葉たちを「音として楽しむ」ことがなかなかできない。音よりもまず言葉に意識がひっぱられるせいで、歌詞の意味がわからない歌を好きになることは滅多にない。
 そんな頭の固い聴き手が、『蕚』にはのっけから心をゆさぶられた。まだ詞の意味がぼんやりとしか理解できていない状態にもかかわらず「どうしよう……夢野幻太郎の内面にふれてしまった……」と狼狽させられた。
 音楽のちからというものを、改めて思い知った。

 いやいや、「音楽のちから」という括り方は、おおざっぱにすぎるな。『蕚』がこれほどちからのある楽曲に育ったのは、bashoさんとESME MORIが一つひとつ選ばれた言葉の響き、ESME MORIさんが一粒ひとつぶ紡がれた音の色、斉藤壮馬さんの繊細で情感豊かなフロー、この二年と少々のあいだに夢野幻太郎というキャラクターが歩んできた道のり、そのすべてがこのうえなく幸福な形でひとつになった結果だ。

 わからないのに、わかる。
 わかるのに、わからない。

 そんなふわふわした感覚をしばらく楽しむのもありかな、と思った。『蕚』によって引き起こされる、さざなみのような心の震え。その正体を突き詰めるには、一つひとつの語にもっとよく目を凝らし、なおかつ自分が感じたことを言語化しなければならない。うけとったものを言葉に変換する過程で、どうしたって取り零しが出てしまうことだろう。無理やり解釈の型に押しこむぐらいなら、いっそわからないまま、そのままの形でそこに置いておくというのも、きっとひとつの聴き方だ。「考えんな 魂で感じるんだ」ってじろちゃんも言ってたし。

 そんなふうに思ったりもしたのだけれど。 
 気がつけば、こんな文章を書いている。

 風にのってひらひらと逃げてゆく花びらのような言葉たちに手をのばしてみたい。他の方の感想や作り手のインタビュー記事にふれる前に、自分の心に咲いた花の色を書き残しておきたい。
 『蕚』を聴くたびにそんな気持ちがつのり、居ても立っても居られなくなってしまったせいだ。

・ 以下、2020年2月26日までにリリースされたすべてのCDおよびコミカライズのネタバレがあります。
・ 私の解釈の主成分は妄想と願望です。
・ 根拠に重きを置いた「考察」ではなく、情緒的で感覚的な「自分にはこんなふうに聴こえるなあ」「こうだったら嬉しいな」を書き連ねた感想文です。ごくごく個人的な、日記や備忘録に近いものだと思ってください。


長い前置きその二:『シナリオライアー』の嘘と真

『蕚』の歌詞を一つひとつ見てゆく前に、夢野先生の最初のソロ曲『シナリオライアー』にふれておきたい。

 最新CD『Fling Posse -Before The 2nd D.R.B-』に収録されているドラマパート『マリオネットの孤独と涙と希望と』において、夢野先生が『シナリオライアー』で語った自らの生い立ちの、少なくとも半分は嘘っぱちだったことが判明した。

 「老夫婦」との思い出を軸に描かれる前半部分については、まだ判断材料が足りないためここでは言及せずにおく。
 が、「青年」と出会って以降の内容は、ほとんどが嘘。夢野先生の「ただ一人だけの掛け替えのない友」とされていた「青年」は実際はお兄さん(おそらく双子の兄だと思われる(*2))だったし、どうやらこのお兄さん、背後に聞こえる機械音から想像するに昏睡状態にあるらしい。
 中王区の手によって「こんな姿」にされてしまったというのだから「病に倒れた」というのも違う。つまり、この曲の焦点となっている「(病気で)寝たきりの青年を楽しませようと 作り話を沢山書いて話した」というくだりは、一から十まで嘘なのだ。

 あまつさえ、先生は自らの戦いの目的について、はっきりとこう口にした。

(兄さんを)こんな姿にしたやつらに、必ず報いを受けさせてやるよ。

 ずばり、報復である。
 これまでの「やさしい嘘つき」というイメージが音を立てて崩れ、俄然ダークな雰囲気になってくる。

 おいおいおい、なんだよこいつ! とんでもない嘘つきじゃねえか!
 などと、思わず悪態をつきたくなるところだけれど。
 冷静にふりかえってみると、夢野先生はちっとも悪くない。
 なにしろ『シナリオライアー』の中で、

悲劇のヒーロー
嘘つきのシナリオライアー
デタラメのストーリー

 こんなフレーズをご丁寧に三度も繰り返して「この物語はフィクションです」と伝えてくれているのだから。
 私のような察しの悪い聴き手のために、これ以上ありえないほど直接的なダメ押しまでしてくれている。

ま、全部嘘なんだけどね

 そう。親切な彼は、最初から手の内を明かしてくれていた。悪いのは、先生のお話をちゃんと聞いていなかった私のほうなのだった。

 理不尽な憤りがおさまったところで、立ちどまって考えてみる。
 メタ的な話になるけれど、キャラクター形成において重要な役割を担うソロ曲をまるまる一曲デタラメに費やすというのは、いささかコストパフォーマンスが悪い。ついでに言うなら意地も悪い。それではあまりにも非効率かつ無慈悲だ。『シナリオライアー』は、なんらかの形で夢野幻太郎の真実を伝えてくれている。そう考えるのが自然なのではないか。

 それに「青年」をめぐるエピソードにしたって、よくよく考えればすべてが嘘だというわけではない。表面こそ虚構で塗りかためられているものの、核の部分にある「夢野先生は、病院にいる大切な人のもとに足を運び続けている」や「その大切な人のために世界を相手に戦っている」が事実であることは動かない。嘘をついているのはエピソードの枝葉に関してだけで、本質的な部分では本当のことを語っているのだ。

 根っこの部分には真実がある。
 これが歌詞の他の部分にも言えるのだとすれば。
 今まで至近距離で見つめていた『シナリオライアー』のエピソードを、ぐんと遠ざけてみる。登場人物がシルエットになるぐらいまで距離をおき、詳細をぼやかした状態で見つめなおしたとき、そこに浮かび上がってくるのが、夢野先生の真実なのではないだろうか。

 そんな仮定にもとづいて、もう幾度聴いたか知れない『シナリオライアー』を、いまいちど聴き返してみる。
 嘘が多くふくまれていることがわかってもなお、この曲をとおして胸に浮かぶ夢野先生のすがたはぶれなかった。

 出自のせいか、世界に対して頑なに心を閉ざしたひと。だけどその実、そそがれた愛情をまっすぐに受けとることのできる純粋さと、受けとったそれに誠心誠意応えずにはいられない情の深さを併せ持つひとでもある。
 そんな彼がやがて、大切なひとの身に起こったことが原因で、世界を相手どった戦いに身を投じてゆく。クライマックスの

 今でもずっとデタラメを集める終わりなき旅の途中さ
 君が笑ってくれるなら
 小生は何度だって嘘をつこう

 は「君のために、僕はこの理不尽な世界と戦おう」という悲壮な決意表明のように、私には聴こえた。

 最後の一音が消えたあと。
 余韻のなかに残ったのは、孤高と覚悟の色だった。
 夢野先生は、独りで戦いつづけてきた人なのだ。改めて、そう思った。(*3)

 以上が、夢野幻太郎というキャラクターの原点にある『シナリオライアー』の、私なりの聴き方だ。
 ここから先は、この解釈を前提に話をすすめてゆく。

 しかじかの事情で、孤独な戦いに身を捧げてきた夢野先生。
 そんな彼の前に、ある日、乱数くんがあらわれる。

ボクと一緒にチーム組もうよ! この世界を面白くしよう!(*4)

 世界を変える。大局的に見れば、それは夢野先生の個人的な目的と一致する。いくばくかの逡巡を経て、先生は乱数くんの誘いを受けることに決める。スリルと興奮を求めてやってきたもうひとりのメンバー帝統くんと三人で、チームとして出発する。

 Fling Posseという名のとおり、結成当初、三人は「志を共にする刹那の友」にすぎなかった。
 ところが、ともに日々を過ごし、たびかさなるラップバトルを通じて絆を強めるにつれ、彼らの関係は徐々に変わってゆく。

 変化は、夢野先生の心にも起きる。
 そのさまを歌ったのが、二曲目のソロ曲『蕚』だ。 


『蕚』を読み解く

■ 「白」が色づく

なぞる斑 筆の走り 跨ぐ魚尾佇む白日
あまねく視野に広げた白紙、綴る嘘で誤魔化してく

 「斑(雪)」「白日」「白紙」。
 『蕚』は「白」のイメージで幕をあける。
 アンニュイなフローとあいまって、希望に満ちた真新しさというより停滞や行き詰まりを感じさせる、気怠い白だ。ポッセと出会う前、夢野先生が白紙のような余白のような日々を送っていた様子が目に浮かぶ。

 夢野先生が中王区との戦いにおいて手詰まりな状況にあったのであろうことは、『マリオネットの孤独と涙と希望と』の以下の台詞から窺い知れる。

ディビジョンバトル。やつらの手のひらで踊らされている催し物だけど、やつらに近づいたという意味では大きな進歩かな。

 夢野先生は中王区から監視されている。そのせいもあって、これまでは敵にろくに近づくことすらできずにいたのだろう。
 また、彼がそんな現状に倦んでいたのであろうことも、『Stella』における盗賊のヴァースから想像できる。

喉もと這いずるこの退屈を殺したいんだ

 コミカライズにて、夢野先生は並行して少なくとも三つの作品を執筆しているという驚愕の事実が明かされた。先生から受けとった原稿に目をとおした編集者たちのコメントには、思わせぶりな類似点が多い。

 私は、これらの著作はすべて夢野先生とお兄さんをめぐる実話をベースに書かれているものと考えているのだが(*5)、だとすればこの行為、見ようによってはあの手この手でフィクションにかこつけて真実を発信しているように見えなくもない。本当は直接中王区を攻撃ないしは告発するような文章を書きたいのだが、それができないがゆえのせめてもの抵抗か。あるいは、もっと虚しい憂さ晴らしのようなものなのかもしれない。

 ヒプラジでの話しぶりから、夢野先生は小説かという仕事に愛と挟持をもっていることが伝わってきて、私は「作家・夢野幻太郎」のことがますます好きになった。だが、それはそれとして、現実において明確に為すべきことがあるにも関わらず、直接的には何の益にもならない虚構をこねくりまわすことだけに日々が費やされてゆくというのは、さぞや焦れるものなのではないだろうか。「あまねく視野に広げた白紙」というフレーズは、そんな心境を描写しているように感じる。

 小説家にとっての「白紙」は、不安や焦りを掻き立てるものでもある。
「あまねく視野に広げた」白を「綴る嘘」で埋めてゆく夢野先生。そうすることで「誤魔化して」いたのは、中王区の監視の目であると同時に、自身の心でもあったのではないだろうか。

 そんな白が、三行目でポッセと出会うことによって、にわかに色づく。

泡沫の思い 運命も空蝉 枷に引きずる足並ぶつまさき
息づかい、交差しだす色の混ざり合い街の壁も塗り潰してく 

 直接的な表現はひとつもないのに「泡沫」「空蝉」「並ぶつまさき」「交差しだす色の混ざり合い」「街の壁も塗り潰してく」など既存のチーム曲を連想させる言葉から、ポッセのすがたが鮮やかに浮かびあがってくる。シブヤのオタクはもう、これだけで胸がいっぱいだ。

  「枷に引きずる足」は、三人がともに運命や過去に囚われていることをほのめかしているのだろう。一見したところ破天荒な自由人の集まりにしか見えない彼らが「枷」に足を引きずっている……その事実をまともに受けとめようとすると、苦しさと愛しさが綯い交ぜになったような感情がこみ上げて叫びたくなる。

 Fling Posseにはあらゆる重力から自由でいてほしい。むつかしいことは考えず、ただただパレットの上で面白おかしくよろめいていてほしい。だけど、それじゃあ自らの運命と戦う彼らのすがたを見たくないのかと言われたら──そんなの、見たいに決まっている。強欲でごめんなさい。

  で、これらを踏まえてのサビである。

心の外まで 飛び散った花びら達の破片が
この風景を埋め尽くして消えた道のり

 このヴァースに入るタイミングであふれるように音数がふえるところが堪らなく好きだ。夢野先生の胸の奥深くでかたく閉じていた蕾がぱあああっとひらく様が、風に吹かれて蕚を離れた花びらたちが宙を舞う様が、鮮やかに目に浮かぶ。
 ポッセとの出会いによって咲いた花々が視界を埋め尽くし、これまで独りで歩いてきた道のりが覆い隠されて見えなくなる。仲間たちと過ごす今この刹那が、すべてになる。

 ただ、先生の胸中は複雑だ。
 夢野先生には、乱数くんと帝統くんに明かしていない秘密がある。
(私は「自分は夢野幻太郎である」というのが、先生のついている最大の嘘なのではないかと想像しているので、ここから先はその仮定にもとづいて話をすすめてゆく。(*6))
 自分自身が偽物であるかぎり、本物を手に入れることはできない。目の前の時間がどれだけ眩く鮮やかであったとしても、おのれがまとった嘘偽りをとおせば蜃気楼のように儚く霞んでしまう。

 『マリオネットの孤独と涙と希望と』で、乱数くんも言っていた。

おれたちの関係は、どこまでいっても本物にはなれない。
それがなんでこんなに悲しいんだ。

 これと似た思いを、夢野先生も抱えているのかもしれない。

 サビを結ぶ「道のり」がどこか寂しい余韻を残すのは、そんな胸の内が音の響きに影を落としたせいなのではないだろうか。


■ 「合わせ鏡」と「ブリキの歯車」

合わせ鏡写す 輪郭の影を辿る 避けたものを知る

 この「合わせ鏡」が曲者だった。
 「鏡」という言葉からまず念頭に浮かんだのは、双子のお兄さんのことだ。だとすれば「輪郭の影を辿る」は、自分の顔に兄の面影を見るイメージか。「避けたものを知る」は……これより先は何の根拠もない妄想なのだのが……私は、本来中王区の手にかかるはずだったのは夢野先生で、お兄さんはその身代わりになったのではないかと妄想している。
 もしそうなのだとすれば、この「避けたもの」は、お兄さんのおかげで自分が免れた災難を指しているという解釈ができる。本来ならば病院のベッドに寝ているのは自分のはずだったのに。そんな悔悟が滲むフレーズなのではないかな、と。
 ヴァース全体をとおして、鏡の前で、あるいは病院でお兄さんの寝顔を前に、物思いに深く沈む夢野先生のすがたが浮かびあがる。
 わかりやすいし納得もゆく。直後に来る

腕を引く薄紅色の風に舞う賽も踊り追う霞も晴れる

 と並べてみると、静と動が、内向きの視線と外からのはたらきかけが、きれいに対比されて気持ちが良い。一番の出だしと展開を似せているのだとしたら、構成的にも美しいなと思う。
 思考や葛藤にとらわれて動けなくなっていた夢野先生を、乱数くんと帝統くんが霧の外へとひっぱりだしてくれる。そんな情景が鮮やかに脳裏に浮かぶ、これはこれで、ひとつの捨てがたい解釈だ。 

 ただなあ。この部分、曲を聴いてみるとフローもビートも軽やかで、一番のようなアンニュイさがないんだよな。二番の夢野先生は一番冒頭の動けずにいた夢野先生とは違う。もう動き出したあとの夢野先生なのではないかと、そんなふうにも感じる。

 なにより「合わせ鏡」が引っかかる。
 合わせ鏡は、主に自分の後ろすがたを見るために使うものだ。自分と瓜二つの人間を映すのであれば、ふつうの鏡でこと足りる。
 どうして「合わせ鏡」でなければならないのか。
 お兄さんの線も可能性としてストックしつつ、別の可能性をさがしてみる。

 夢野先生が「合わせ鏡」に映したのは、ポッセのすがたなのではないか。それが、私の辿り着いたもうひとつの答えだった。
 先生が乱数くんと帝統くんのことを自分と似た者同士と見做していることは『Stella』終盤の会話から見てとれる。

「何故私に構うんだ。」
「似ている気がしたんだ。」
「同じ穴のムジナってか。」「さてな。」
「くだらない。」
「願いに囚われている。」
「何故わかる?」
「目でわかるさ。何かを失ってガラス玉のようだ。」

 「願いに囚われている」者どうし。夢野先生は、自分たちをそう分析している。
 また、先生はドラマパートでも再三、自分たちが「ふれられたくないものを抱えた者どうし」であることに言及している。

 これを踏まえ、「合わせ鏡」という比喩に忠実に耳をかたむけると。
 このヴァースはこんなふうにも聴こえてくる。

 自分とよく似た彼らを見つめることは、合わせ鏡を覗くことと似ている。
 ふだんは見えない自分の背中を合わせ鏡に映したときのように、自覚できていなかった一面や胸の奥深くにひそめておいたはずのものを、目の前に突きつけられるような気分になる。

 うん。どちらも悪からぬ。
 無理に解釈をひとつに絞る必要もないので、これ以上突き詰めることはせず、ふんわりとさせたまま先に進む。


腕を引く薄紅色の風に舞う賽も踊り追う霞も晴れる

 風のように気ままな乱数くんに導かれ、その先で帝統くんとも出会い。戯れるようにしてふたりを追ううち、視界を閉ざしていた霞が晴れていた。
 このヴァースが句読点で区切られていないところが、すごく好きだ。乱数くんがじゃれつき、夢野先生がふざけ、帝統くんが呆れたり鬱陶しがったりしながらもなんだかんだで相手をして……と、ポッセがもつれるようにして遊び歩く様がありありと目に浮かぶ。『Shibuya Marble Texture -PCCS-』を聴くたびに見えるのと同じ情景が、脳裏にひろがる。

 よし、ここはすんなり意味がとおったぞ。
……と思いきや。次のヴァースでまた難解な表現が待ち受けていた。

ブリキの歯車動き出す世界にも随意不羈に綻びへと緘を解く 

 この「ブリキの歯車」というのが、うまくイメージできなかった。
 ブリキ……ブリキねえ……。ぱっと連想されたのは『オズの魔法使い』のブリキの木こりだ。あの木こりはたしか、森のなかで錆びついて動けなくなっていた。ということは、ブリキというのは錆びやすい金属なのかな。なにやらキイキイ音を立てて軋みそうな、そんな雰囲気?

 ところが、Wikipediaをはじめとするネット上の情報によれば、ブリキは「鋼鉄をスズで表面処理した表面処理鋼板」で「スズは鉄より腐食しにくいため、全面を覆うことで鉄の腐食を防ぐことができる」らしい。どうやら錆には強そうだ。自分の中にあったブリキのイメージと現実の矛盾に、頭をかかえた。

 参考までに、周囲の人たちに「ねえ、ブリキってどんなイメージ?」と訊いてまわった。返ってきたのは「なんか安そう」「レトロな玩具?」「軽そう」「小学校の掃除で使ってたバケツ、あれがブリキ製だった気がするな」など、てんでバラバラな上にぼんやりした答えばかりだった。
 雪や月や花と聞けば、誰もが鮮明に、そしてあるていど似通ったイメージを抱くものだけれど。ブリキには、そこまで強いイメージを喚起するちからはないのかもしれない。
 私と周囲がブリキについて不勉強だっただけかもしれないので、いまいち自信はない。でも、もうどうしようもないので。ブリキの正確なイメージを捕えようと足掻くのは、ひとまずやめることにした。

 飛躍を承知のうえで、第一印象の『オズの魔法使い』のブリキの木こりに立ち返ってみる。
 物語の主人公ドロシーとその仲間たちは、ある日森のなかで、斧をふりあげたまま動けなくなったブリキの木こりを見つける。錆びついた関節に油をさしてやると、彼は久方ぶりに身体の自由を取り戻す。

「みなさんが通りかからなかったら、いつまでも立っていたかもしれません」と木こりは言った。「あなたがたは命の恩人です。(略)」(*7)

 ポッセに出会うまで身動きがとれずにいた夢野先生のすがたにつうじる部分がある、と言えなくもない。

 さらに、このブリキの木こりには心臓(心)がない。正確には本人がないと思いこんでいるだけなのだが、そんなところもまた、目的のために心を殺すようにして生きてきた夢野先生のイメージとかさなるような気がする。

 もうひとつ言えば、タイトルが韻を踏んでいることからもわかるように、『蕚』は『Stella』へのリスペクトに満ちた楽曲だ。ひょっとしたらここでも物語というモチーフを取り入れることによって『Stella』を踏襲しているのかもしれない。
 『Stella』のストーリーが『星の王子さま』を下敷きにしているのは周知の事実だ。『オズの魔法使い』も『星の王子さま』も、ともに海外文学であり、かつ子どもから大人まで楽しめるファンタジーであるという点が共通している。

 根拠にとぼしい解釈であることは否めない。だけどまあ、これはこれでありなのではないかなと私は思っている。感覚的で趣味に走った聴き方だけれど、それを許してくれる懐の深さが『蕚』にはある。
 今後聴きこんでゆくうちに別の可能性が見つかったり、あるいは他の方の感想や制作陣のコメントにふれることで見えていなかったものが見えるようになったりすることがあるのかもしれない。そう思うと、早くこの文章を書き終えて声を拾い集めにゆきたくなってくる。
 これだけ豊かなものを抱え持った曲なのだ。答えをひとつに限定してしまったらつまらない。ふわりと抱きしめるように、たくさんの可能性をストックしてゆきたい。

 自分なりにブリキのイメージがつかめたので、先に進む。

ブリキの歯車動き出す世界にも随意不羈に綻びへと緘を解く 

 「綻ぶ」は様々な意味を持つ言葉だけれど、ここでは「花のつぼみが少しひらく」を採用した。このあとのサビで一気に花がひらくイメージと綺麗にかさなるし、前後のヴァースと感情が自然に繋がって心地良い。
(念のために後から「ほころびる」を辞書で引いてみたら「隠していた事柄や気持ちが隠しきれずに外へ現れる」という意味が出てきて、オタクは胸をおさえた。)

 「随意」と「不羈」はともに、束縛されず思いのまま自由であることを意味する言葉だ。それでは「何が」「何から」自由なのか。夢野先生の心が、夢野先生自身の意志や思考から。私はそう解釈している。
 夢野先生は長いあいだ心に蓋をし、自他の境界線を踏み越えないようにして生きてきた。その先生が「自らの意志で抑制する間もないほど自然に、抗いようもなく(心をひらかずにはいられなかった)」というようなニュアンスがこの「随意不羈」に込められているのだとしたら。目頭が熱くなっちゃうな。

 「随意不羈」は、H歴の世界に対するポッセのスタンスを表しているようにも取れて、そちらの線も捨てがたかった。
 だけど『蕚』が夢野先生の恋文なのだとすると、ここは視点を外部へとずらすよりも、より心の奥深くへ潜るようにフォーカスするほうがそれらしいのではないかと思う。

 野暮を承知でこの一行を翻訳すると、
 ブリキの歯車がまわりだし、止まっていた世界が動き出す。花がほころびるように、心がおのずとひらかれてゆく。
 といったところだろうか。徐々に熱を帯びてゆくビートに感情の盛り上がりが綺麗にのっかり、しっくりくる。 


■刹那を筆でつかまえて

孤独の克服 仕方ないは絶望じゃなく ほら蓮の台を分かつ

 ここは、
 独りの世界から足を踏み出す。諦めなければいつだって必ず道はある。 ほら強い絆で結ばれた仲間がともにいる。
 といったようなニュアンスで聴いている。

「仕方がないは絶望じゃなく」は、コミカライズに出てきた台詞だ。

 ……「仕方がない」……手段や方法がないという意味の言葉……
 (略)
 ……苦難の状況下でも絶望や孤独を克服して希望に変える
 そんな時に使われたこともある言葉です
 「仕方がない」は絶望じゃない
 手段や方法がないのであれば作ればいい

 『マリオネットの孤独と涙と希望と』で乱数くんにむかって口にした以下の言葉と並び、夢野先生の本質があらわれた重要な台詞だと思っている。

 奇跡とは、起こることが少ない事象が実際に起こり得て、奇跡と呼ばれます。少ない確率とはいえ、広い世の中では、奇跡と呼ばれるものが毎日起きているはずです。
(略)
 あなたがこれから助かる可能性は、小数点の遥か彼方先にある1かもしれません。だが、0ではない。であれば、奇跡が起きるに十分です。

 夢野幻太郎は不屈の人だ。
 だからこそ、彼が綴った再生の物語『Stella』は、あれほどの説得力を持つ曲となったのだろう。

 「蓮の花の蕚を分かつ」は初めて出会う表現だったので、方々で意味を調べてみた。
「死んでからも一つの蓮の花の台座を分け合うほどの仲のこと。夫婦仲のよいことをいう」「仏や菩薩など、極楽浄土に生まれ変わった人が座るといわれる蓮華の座(蓮の台)を分け合うということから、関係が深い相手と、良くも悪くも運命を共にするということ。一蓮托生」など、辞書によって若干のニュアンスの違いがみられた。
 これらの良いとこ取りをした上で、私なりに翻訳してみる。
 今生では刹那をともにすることしかできないけれど、来世でもきっとまた会える。そう信じたくなるような、信じられるような、仲間たちがいる。
 このぐらい強い思いがこめられた言葉だったらいいな、という願望を託した解釈だ。

(3月8日追記:あとで気がついてはっとした。『Stella』で語られるエピソードをフィクションではなく遠い過去もしくは未来の実際の出来事だと捉えなおした場合、「蓮の台を分かつ」はまさに『Stella』のことになるじゃあないか。『蕚』で現在をともにした三人が『Stella』でふたたびめぐりあう……はあ、なんてこったい。
 『蕚』と『Stella』、別々にたべても極上の味がする楽曲だけれど、あわせて噛みしめるとますます味が出る。いつまでだってもぐもぐし続けてしまう……)

(3月9日追記:そういえば、弥之助さんがこんなツイートをしていらしたのを思い出した。あわせて噛みしめ、涙する)


巻き戻し歌詞に書き残す旅の途中足音する終熄
明日手にあり絵になる情性、紅月と高潔と豪傑線で結ぶ点
秒針の塗り潰す小節の加筆修正
宙を舞い踊り出す五線譜、目蓋の裏の焦熱を

 この四行はもう、ど直球のラブレターということでよいでしょう。
 あっという間に過ぎてゆく時をつかまえたくて、さかのぼって歌詞に残す。明日も絵に描きたくなるような感情に出会うことだろう。独立した点だった三人が、絆という線で結ばれてゆく。そんな日々を、一秒たりとも書き漏らすまい。音楽が湧き出るようなこの気持ちを、まぶたの裏のこの熱さを。
 息を継ぐ間も惜しむように詰めこまれた言葉から、熱を帯びて高まってゆくフローから、すべての瞬間を書き留めたいのに逸る気持ちに手が追いつかない、とでもいうようなもどかしさが、押し寄せるように伝わってくる。
 そんな切実な思いに突き動かされた夢野先生が筆を執った結果うまれたのが、たとえば『Stella』だったりするのかな……などと思いを馳せ、オタクは泣く。

 夢野先生が焦がれるように刹那をとらえようとするのは、この日々がいつかは終わるものだという思いが頭にあるからだ。先生の耳には「終熄」の「足音」が聞こえている。失うことを知る身ならではの孤独と諦念が感じられ、なんとも切ない気持ちになる。
 だけど、裏を返せばこれは、いつか終わりが来るのがわかっていてもなお、ポッセには心をひらかずにいられなかったということを意味してもいる。
 それほどまでに、彼らと過ごす一瞬一瞬が愛おしくて仕方ないのだろう。楽しくてたまらないのだろう。どうしようもなく心地良いのだろう。
 そんなふうに想像すると、たとえ束の間であったとしても、三人の人生が交差してくれたというだけでもう十二分に幸せなんだなあ……という思いが胸に満ちる。今後渋谷のスクランブル交差点を歩くたびに感謝の祈りを捧げてしまいそうだ。夢野先生、ふたりに出会えて本当に良かったねえ。


■ 「伝わってしまったらいいのに」

心の外まで 飛び散った花びら達の破片が
この風景を埋め尽くして消えてしまっても

 ここでふたたびサビがくる。
 一行目は先ほどとまったく同じ歌詞。
 二行目は「この風景を埋め尽くして消えた道のり」だったのが「この風景を埋め尽くして消えてしまっても」へと変わっている。

 「消えた」は過去に、「消えてしまっても」は未来に目を向ける言葉だ。
 二度目のサビにおいて夢野先生は、いつか訪れる別れを見つめている。

 「消えてしま」うのが「風景」なのか「花びら達の破片」なのかは解釈に迷うところだった。
 はじめのうちは「風景が、花びら達の破片に埋め尽くされて消えてしまう」のだと思って聴いていた。
 だけど耳に目に歌詞が馴染んでゆくにつれ「風景を埋め尽くしていた花びら達の破片が、消えてしまう」というのも良いなと思うようになった。
 視界を埋め尽くしていた花びら達が、ある日、ふっと消えてしまう。
 ポッセと過ごす今が大切すぎるがゆえに、夢野先生はそんな未来を想像せずにはいられないのかもしれない。
 花びら達が消えたあとに残るのは、どんな風景なのだろう。
 思い描こうとすると心臓のあたりがぎゅうと苦しくなって、うまく像を結ばない。 

 それでもなお、と夢野先生はうたう。

心の外まで 剥き出しで歩いていった模様と
この感情が伝わってしまったらいいのに  

 この「剥き出しで歩いていった」には衝撃をうけた。
 だって、目的のために嘘で塗り固めた壁のなかに閉じこもっていた夢野先生が、ふたりに対しては心の門をひらいたと言っているのだ。そこから「剥き出しで」出ていったと打ち明けているのだ。
 いやね、傍から見ていて薄々気づいてはいましたよ。夢野先生がポッセを大好きなことは、彼らが特別なのだということは、わかっていました。いましたけれど、外野が勝手に忖度するのと本人がそれを素直にみとめるのとでは、話が変わってくるわけです。

 それだけでも大事件なのに、さらに先生は続ける。
 その様子と、自分にそうさせたこの感情が、伝わってしまったらいいのに、と。
 嘘つきが、こんなにも素直に胸の内を吐露している。
 この事実をどんな顔で受けとめればいいのかが、私には未だにわかりません。

 というかね。そこまで思うのであれば伝えてしまえばいいじゃないのさと、野暮な私は口を挟みたくなるのだけれど。
 伝えないのが、伝えられないのが、我らが夢野先生なわけで。
 持ち前の性格とか、個人的な戦いにふたりを巻きこまないための線引きとか、理由は色々とあるのだろうけれど、とにかく言わない。言えない。そのくせ心の奥底では「伝わってしまったらいいのに」と願ってしまう。
 その不器用さが、自己矛盾が、じれったくて、切なくて、愛おしくて。
 夢野幻太郎という人間のことが、ますます好きになってしまった。

 打ち明けると、私はもう長いこと、ひとつの悩みをかかえていた。
 夢野先生を暑苦しく推しながらも、彼のことをほんとうに信じて良いのか、確信が持てずにいたのだ。
 彼の「真実」を、私は依然としてなにひとつ、本名さえも知らない。
 私の見ている夢野先生は、実体を持たない亡霊のようなものなのかもしれない。夢野幻太郎という偽りの名のように、あるいはPhantomというMCネームのように、ある日とつぜん、目の前から消え失せてしまのうかもしれない。
 もしも「夢野幻太郎」が脱ぎ捨てられたその下から、まったく別の人格が現れたら。私はそれを、受け入れることができるのだろうか。

 『蕚』を聴いて、長いこと胸にあったこの悩みが払拭された。
 だって「伝わってしまったらいいのに」だなんて、こんな人間らしい感情を抱くことができる人が、亡霊であるはずがない。
 本名がどうだとか、そんなのは些末なことだ。
 血の通った感情を持つひとだ。『Stella』のような物語を書くひとだ。それで十分じゃないか。私はちゃんと、彼の本質を知っている。
 信じていいのだ。
 ようやくそう思えるようになった。

 推しが嘘つきだからこそ、楽曲をつうじてしかふれることのできない真実が沁み渡る。


大事な気持ちこそ、言葉にしない。

 これで『蕚』のリリックをひととおりさらい終えたことになる。
 手もとに書き出した言葉たちを改めて眺め、驚いた。
 これだけポッセへの気持ちがあふれる歌なのに、乱数くんと帝統くんの名前はおろか、仲間や絆といった言葉が一切出てこないのだ。
 私は一聴して「こいつは赤裸々なラブレターだ!」と決めつけたわけだけれど、曲中には愛情を意味する言葉も見当たらない。というか、そもそも感情を表現する言葉自体、最後のヴァースまでひとつたりとも出てこない。

 ではなにが書かれているのかというと、夢野先生は始めから終わりまで、ただただ情景を描写しているだけなのだ。
 それなのにこんなにもわかる。
 痛いほど伝わってくる。

 はるか昔、面白い授業をするので人気があった国語の先生が、こんなことを言っていた。
「小説において、感情を言葉で直接表現するのは悪手です。一流の書き手は、人物の心情に寄り添って情景を描写する。そうすることで、読者に感情を想像させるのです。大事な気持ちこそ、言葉にしてはいけません」
 この教えを思い出したとき、『Stella』を聴いて以来私の胸のなかにあった小説家・夢野幻太郎への信頼と敬意が、いよいよ揺るぎないものとなったのだった。

 夢野先生を名実ともに比類のない作家に育てあげてくれたクリエイターのみなさんには、どれほど感謝してもしきれません。ほんとうに、ありがとうございます。


『蕚』と『Stella』と『シナリオライアー』 

 ここまで考えてきて、気がついたことがある。
 この長い文章の冒頭で、私は『Stella』に言及した。

 仲間への想いを語るのに物語という間接的な手法を用いるところといい、そのせいでかえって本人としては秘しておきたいはずの感情がダダ漏れになっているところといい、それはそれは「夢野幻太郎」らしいラブレターで。

 これ、このやりくち。
 これって、まさに『蕚』で言うところの「伝わってしまったらいいのに」の発露じゃないか。
 伝わってしまったらいいのにという願いを胸に秘め、伝えることのできない思いを筆にこめる。『Stella』はそうやって書かれた作品だったのかもしれない。『蕚』を経たことで、そんなふうに想像をひろげる余地がうまれた。

 作詞者のひとりであるbashoさんは、発売記念ニコ生に寄せられたメッセージのなかで次のように語っていた。

「(略)幻太郎が過ごすその世界の時系列でたどりついた現状や感覚、それらを共有しているFling Posseとの時間、作家という職業、また、別の言葉をつかい表現するMCとしての『シナリオライアー』や『Shibuya Marble Texture -PCCS-』『Stella』を経て、新たな曲にする気持ちや在り方とはなにか、いろんなイメージがいったりきたり錯綜したのですが、ラップミュージックとしてのギミックや余計な言葉の装飾ではヴァースがもったいないくらい、とにかく鮮明に浮かびつづけたのは、Fling Posseが楽しそうにふざけて遊んでいる情景でした」

 夢野先生がこれまで歩んできた道のりを強く意識した上で『蕚』の詞を書いてくださったのであろうことが伝わってくるコメントだ。
 bashoさんはおそらく、『Stella』という曲の魂と、その作者としての夢野幻太郎の在り方を尊重してくれたのだろう。だからこそ、ふたつの楽曲はこんなにも繋がる。筋がとおる。
 また『蕚』の作編曲およびサビの作詞を手掛けられたESME MORIさんは、『Stella』の作編曲を担当された方でもある。そんなところもまた、これらの楽曲が繋がった大きな要因のひとつなのだろう。

『蕚』の夢野幻太郎はまぎれもなく『Stella』を書いた夢野幻太郎だ。
『Stella』を経て、さらに前へと歩みをすすめた夢野幻太郎だ。

 ふだんは別々の場所で自身の創作活動に励んでいるクリエイターどうしが、夢野幻太郎というキャラクターを仲立ちとして、愛と敬意で繋がりあう。各々が先人の仕事を尊重しつつ自分のやりかたで向き合うことで、キャラクターの個性が厚みと深みを増し、どんどん人間らしくなる。
 私は表現者同士のあいだに見られるリスペクトや、創作者と創作物の愛のある関係といったものにめっぽう弱いので、こういった事象にふれるたびに胸が熱くなる。
 ヒプノシスマイクを追いかけていると、この手の幸福をたびたび目撃することができる。なんやかんやありつつも、コンテンツから離れられずにいる理由のひとつだ。


「爪先はみんな前に向いてるよ」

 シブヤの新譜が出るたびに、我が推しディビジョンは神々も最強だよなあと、しみじみ感じる。(シブヤを推す人間の、きわめて個人的な感想です。きっと誰もが自分の推しディビジョンを最強だと思っていることでしょう。PEACE)

 シブヤの神々は愛情深い。
 発売記念ニコ生に寄せられた制作陣のメッセージや、過去のインタビュー記事、それから『Stella』とShibuya Marble Texture -PCCS-の創造神であらせられる弥之助さんの日々のツイート等からも、あるときは生みの親として、またあるときは親友のような気安い距離感で、キャラクターたちに寄り添ってくれている様が伝わってくる。ファンとして、これほど幸せなことはない。

 そしてなんと言っても前述のとおり、シブヤの楽曲は、そのすべてに筋がとおり、有機的に繋がっている。
 最初のソロ曲から、私を沼に落としたShibuya Marble Texture -PCCS-』、我らが聖典『Stella』を経て、二曲目のソロ曲まで(*10)。すべてが綺麗に繋がっているものだから、二曲目のソロを聴いたら一曲目に立ち返りたくなり、そうすると次はチーム曲が聴きたくなり、チーム曲を聴けばまたソロ曲が聴きたくなり……と、オタクは切り上げどころを見失う。
 しかも、新曲をふまえて聴くと、すっかり耳に馴染んでいたはずの既存曲がまったく違う色を帯びて聴こえるようになったりもするから、さあ大変。当分のあいだは延々とシブヤを摂取しつづける永久機関と化しそうだ。  

 繋がっている。その傾向は、最新のCDにも色濃くあらわれていた。
 今回の収録曲は、あくまでもソロ曲だ。だけど、三曲が三曲ともこれまでにない比重で仲間のことを歌っていて、そこが非常に印象的だった。
 帝統くんの『SCRAMBLE GAMBLE』なんて、そのままチームの曲になっていると言ってもいいぐらいだ。彼、最初のソロ曲では100%自分とギャンブルのことしか歌っていなかったのに。泣けてくるぜ。
 自由人の集まりのようでいて、肝心なところではしっかりと足並みがそろっている。そんなポッセのすがたの向こうに、爪先を同じ方向にむけた制作陣が見えるようだ。

 たまたま相性の良いメンバーが集っているのか、三人のキャラクターの生きざまや人となりにクリエイターの底力を引き出すものがあるのか、シブヤのプロデューサーさんの采配と指揮が神がかっているのか、それは知る由もないことだけれど。
 作り手が一丸となってキャラクターとチームを育ててくれていることが伝わってくるたび、心のなかで静かに手をあわせている。

 CDの発売日に、乱数くんを演じる白井悠介さんがこんなツイートをされていた。

「爪先はみんな前に向いてるよ」
 シブヤの夜空にかがやく一番星みたいな言葉だ。象徴として、胸に刻んだ。


 

 『マリオネットの孤独と涙と希望と』は、仕組まれて出会った三人が自分たちの意志で本当の仲間になろうとする、そのはじめの一歩を描いた物語だった。ドラマ内で心と呼吸がぴたりとかさなった熱すぎるラップを披露した三人が、これからどんな「奇跡」を起こしてくれるのか。想像するだけで胸が高鳴る。

 リーダーの置かれている状況が状況だけに、胸が高鳴るなんて言うのは不適切なのかもしれないけれど。
 でも、大丈夫。
 乱数くんは必ず生き延びる。三人が心から笑いあえる日がきっと来る。
 なんせ彼らには愛情深く頼もしい神々がついているのだ。
 ぜったいに、大丈夫。

 Fling Posse、シブヤ代表。
 彼らの未来は明るい。 

画像1


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*1:既存曲のRemixおよびオールスター曲を除く。

*2:注3を参照のこと。

*3:コミカライズに今昔一雨さんという私立探偵が出てきたけれど、彼はあくまでも仕事相手といった雰囲気だったので……うん。「仲間」ではない。そういうことにしておきましょう。

*4:城キイコ, 百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク -Division Rap Battle- side F.P & M 1』(一迅社、2019年)47ページ。

*5:夢野先生から受けとった原稿を読んで、編集者たちは以下のようにコメントしている。
 純文学編集者「この双子の兄弟愛には泣かされてしまいました」
 ミステリー編集者「体制側の陰謀に巻き込まれた青年の孤独な戦いは読者を確実に引きつけます! それにトリックも素晴らしい!(略)最後の青年の正体には心底驚かされました!」
 ライトノベル編集者「双子の兄が組織に誘拐され実験体にされてしまうのを阻止する流れが熱い! フィクションならではのこういう設定って面白いですよね!」
 直後の夢野先生の「フィクション……ね……」という台詞と影を帯びた表情もふまえて、すべてほぼ実話なのだろうと想像している。

*6:以前から「夢野幻太郎なんていう人を食ったような名前が本名であるはずがない」「装いをディスられた際のあの荒れよう、どう考えてもただ服の趣味をからかわれただけじゃない。夢野先生はきっと、あの服をまとうことによって誰かを演じるか、もしくは誰かに成り代わっているのだろう」などと疑いの目をむけていた。
 『マリオネットの孤独と涙と希望と』での「小生、実は夢野幻太郎じゃないんですよ」という発言を受けて、疑念が確信に変わった。日ごろ嘘ばかりついている自分が本当のことを言ったってどうせまともに取り合われないだろうから、と裏をかく形で真実を口にしたのではないかと思っている。いつもみたいに「嘘ですよ」って言ってくれなかったし。

*7:ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』柴田元幸訳(角川書店、2013)Kindle版、位置No. 433/2274

*8:バトル曲の『BATTLE BATTLE BATTLE』も大好きなのだが、他とは性質が異なるため、ここでは除外した。

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