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自分の能力は、自分だけのモノなのか

最近、思考の沼にドップリ浸かって考えてみたテーマが「能力」です。このテーマをしっかり考えてみたいなと思ったキッカケは以下のような謳い文句に触れたことからでした。

\これからの時代は○○力だ!/

\どんな社会でも通用する能力が□□だ!/

なんか、これらの言葉に対して賛同と違和感の同居するクソ気持ち悪い感情を抱いたんですよね。単なる反感だけであるならば「気に食わんなぁ」で終わっていたのでしょうが、そうではなかったのです。

「そのとおりだ!」という賛同と「何を言ってんねん!」という反感と、矛盾する2つの感情が入り乱れる。はてさて、一体コレは何がもとになって生まれてきた感情なんだろう?、そもそも能力って一体ナンなんだろう?、そんなコトをずーっと考えていました。

今日はその思考の途中経過みたいなモノです。結論とは言えないかもしれませんが、自分が捉える「能力って一体ナニ」について、いつものごとくダラダラ書き連ねたいと思います。

能力って色んな表現方法がされてますよね。辞書的な意味だと「物事をやり遂げることのできる力。事をなし得る力。有効にはたらく力。はたらき。」とか説明されているんですが、じゃあ「物事」って一体なんやとか思ったり思わなかったり。

いまのところ僕は能力を「ある特定の行動と結果を生み出す、自分が持つ単独または複数の性質」と捉えています。文章にするとマジで意味の分からん表現ですね。もうちょいウマいこと言いたいのですが、いまのところこの表現が目一杯。



01.能力の絶対性と相対性


能力を考えようとしたときの最初の気づきが「自分だけで成立する能力」と「他者がいて成立する能力」があることでした。当たり前と言えば当たり前、「何をそんな分かりきったことをエラそーに」と思われそうですが、僕はこれをかなり「見逃されがちな当たり前」だと捉えました。

すごくベーシックな「自分だけで成立する能力」とかだと身体的な要素と結びつくものが挙げられますよね。それこそ「スタミナ」とか「瞬発力」とか「体をイメージ通りに動かす力」とか。この辺りは自分だけで完結することができます。

いまの時代とても大事だよーと言われることの多い「論理的思考力」も、その先の活用部分を考えなければ自分だけで完結する能力です。複雑なモノゴトを筋道立てて整理・再構築する能力と言えますので、この段階では自分のなかで完結していますね。

対して、他者がいないと成立しない能力もたくさんあります。「マネジメント」とか「傾聴」いったものは典型ですよね。1人でマネジメント力や傾聴力を発揮することなんてモチロンできません。他者に対する作用があってはじめて成立する能力です。

このように能力には「自分だけで成立する能力」と「他者がいて成立する能力」があります。自分だけで完結する能力は「絶対的能力」、他者がいて成立する能力は「相対的能力」と位置づけています。

で、この「相対的能力」に対する捉え方がポイントになってきます。僕らは能力を基本的に「自分起点」なモノとして捉えていますが、「相対的能力」は向き合う相手によって意味が大きく変化してしまいます。

マネジメント力の例で考えてみましょう。自分が数人のチームのリーダーであると想像してみてください。そして自分は自分なりのマネジメント力を持っています。しかし自分が持つマネジメント力はチームのメンバーすべてに同じようには作用しません。Aさんに対する作用、Bさんに対する作用、Cさんに対する作用はまったく異なります。これは相手が違うから、当然ですよね。

また、自分の持つマネジメント力はチーム運営において意味を持つかもしれませんが、違う相手になればそもそも意味を持たなくすらなります。大企業の部長がメンバーに発揮するマネジメント力を幼稚園児の集団に対して発揮できるかといえば全然違うことがイメージできますよね。

ここまで、当たり前のことしか言ってないのです。で、当たり前のことを皆さんは一面では理解しているはずなんです。企業で「管理職研修」みたいなモノがあるのも向き合う相手が変わるから。だというのに、どこか一面では自分の能力を考えるときに「相手」のことは抜け落ちがちです。

能力に強弱はあります。しかしその軸だけではない。もう一つ「意味の有無」の軸があります。「強弱の軸」×「意味の軸」による二軸だと思ってください。そして、意味は相手によって変わってしまうのです。



02.時代と能力を一括りにする粗い結論


以前、ある集まりで「どんな能力をこれから身につけていけばよいですか?」という質問をもらったんですよね。でも、僕はこの質問に答えることができませんでした。なぜならその能力を「どんな相手に向けるか」を考えないと意味を為さないから。

だから「誰に?をイメージしてほしい。自分がその能力を身につけることで誰にどんな意味を生み出すことができるのかを考えてほしい」と答えたことがあります。これ、質問に対する答えになってないんですけどね。でも能力の相対性を感じてほしいなぁと思ったところからなんです。

ネットで検索すると「2030年に必要な能力」みたいな情報も出てきます。それこそ海外の有名大学が発表しているようなモノです。でもそこで掲げられる「2030年」っていま予測しうる姿をした現在の延長線上にある未来なんですよね。

ただ、2030年が現在の延長線上にあるのかは誰にも分からないわけです。考えたくもないですが第三次世界大戦の真っ只中だったとしたら、果たして有名大学が掲げた「2030年に必要な能力」と同じなんでしょうかね?、社会のあり方や人のあり方によって「意味をもつ能力」はまったく変わる。

宇宙人がやってきてるかもしれませんよね。仮に宇宙人に侵略されていたとしたら、さてどんな能力が必要なんでしょうかね?、まぁコレに答えなんてありません。あるわけないです。

そんな屁理屈を並べ立てるなんて!と思われるかもしれませんが、社会が一気に大きく変化することで人の価値観や暮らしが変わり、そこで「意味を持つ能力」も変わってくる状況はよく皆さんご存知ですよね。それこそナウです、ナウ。この2年ほどのコロナ禍がリアルな実感として人と社会のあり方によって相対的能力の持つ意味がブリブリ動く様を体感しているはずなんです。

「未来に必要な能力なんて分からないよー、だからアレコレ考えても無駄だよー」なんてことが言いたいわけじゃないんです。人は未来に向かって歩いていく生き物で、そのために必要な要素を集めようとすることは今を生きるエネルギーそのものだから。

だけど、それを1人でやってるわけじゃないってことです。自分の持つ能力の多くは誰かとの相対性で意味を持っている。だから、その誰かに目を向けることも忘れないでいてほしい。そんなことを言いたいのです。



03.「能力」を「性質」と捉えてみる


さて、僕は能力を「ある特定の行動と結果を生み出す、自分が持つ単独または複数の性質」と捉えています。ではなぜ「性質」という言葉を使うのか。これは「能力」という言葉で捉えるとあまりにも「持つことを是とする」イメージが強くなり過ぎてしまうと感じるからです。

先に挙げたとおり、能力は相手との相対性で意味が変化するものです。であれば、そもそも「持つことが是」であるかどうかは自分と相手との関係性や状況に委ねられる。良いor悪いがあるものではそもそもないのかもしれないですよね。

しかし、「能力」という言葉はそれを持つことを良しとし、持たないことを悪いことだと・あるいは劣っていることだと印象付けてしまいます。それがイヤなの。だから今ツラツラと書いているこの文章、究極には僕の感情論です。笑

なので、能力ではなく性質と捉えてみるわけです。もちろん性質に強弱はあります。しかし善悪はない。それは、相手との関係性によって意味が生まれるか・意味が薄れるかが変化するからですね。傾聴力は遭難中に役には立ちません。しかし、相手との関係性によっては意味を持ちます。そういうこと。

そして、誰しも「自分が持っている性質」と「自分が持っていない性質」があります。厳密には強弱があるので「持っている」↔︎「持っていない」はグラデーションですね。

で、ここからが僕が大事にしているポイントで「自分が特定の性質を持ち合わせていないから生まれている意味」があると捉えているのです。



04.「ない」ことから生まれている意味


僕が他人に対して生み出すことのできている意味は「自分が持っている性質」だけによるものではなく「自分が持っていない性質」によっても生まれています。でも僕たちはどうしても「持っているモノ」だけで意味が生まれていると思い込んでしまう。

例えば僕には計画性や戦略性みたいなモノが全然ありません。でも、その性質が「ない」からこそ偶然のアイデアや創造と変化を大切にできる。これが計画するチカラ・戦略を立てるチカラを持ち合わせていると僕の変化するチカラは損なわれてしまうかもしれません。

もちろん、成長を目指すことを否定する訳ではありませんよ。自分について考えてみても先に挙げたような今持っていない「計画性」「戦略性」といった性質を得ようとする選択はアリだと思います。でも、その性質を得ることで「どんな意味を」「どこの誰に対して」生み出すことができるようになるのか、なぜそうしたいと思うのか、ココは突き詰めてから選択したいと思うのです。

そのプロセスで「ない」ことを失うわけですから、僕が「いま生み出している意味」とは変化してしまうわけです。それも呑み込んだうえで、どんな選択をしていくかじゃないでしょうか。



05.「ある」と「ない」を性質と捉え、「誰に」を掛け合わせる


よく「自分が持っているモノに目を向けよう」的な言葉を聞きます。一面では良い言葉だと思うのですが、この言葉が出てくる背景も「そもそも持っていないことを悪いこと・劣っていること」と捉える価値観があるからだと思うのです。

あるいは「欠点を言い換えてみよう」的な言葉もありますね。「積極性がない」を「慎重である」と表現する。これも同じです。悪いことではなく、前向きに人生が捉えられる考え方だとは思いつつ、ベースにある価値観が先と同じように「そもそも持っていないことを悪いこと・劣っていること」だから起こるんだと思います

その前に「ない」から「できる」がある。

ある性質を「持っていない」から「生まれる意味」がある。

そう捉えてみると、自分の持つ性質がちょっと違って見えてくるはずですよ。

「マイノリティデザイン」という本を読んで一番グサっときたフレーズを引用します。この本の著者の澤田さんには目の見えない子どもがいます。その方が試行錯誤する中で出会った、世界の認識を一変させるような言葉です。

【以下引用】
だれかに息子のことを話すと、たいていの人にこんな反応をされました。
「聞いてはいけないことを聞いてしまった」とハッとしたり、気まずそうな顔をしたり、場合によっては泣いてしまう人もいたり。
けれども松崎さんだけは、ニヤリと笑った。「未来のブラインドサッカー選手候補が見つかった」って。息子を哀れむのではなく、必要としてくれる人がいる。そう実感した、初めての出来事でした。

※マイノリティデザイン P104 澤田智洋 ライツ社


「ない」から生まれる意味がある。

その意味は自分と相手との関係性の中に生まれてくる。

自分の「ある」も「ない」もフラットに性質と捉えて、それが誰に意味を持つのかを考えればイイんだと思ったのです。もちろん、成長も志せばよい。ただその先に「誰に」をいつでも考える。僕はそんな思考でいたいのです。

そんなこんな。僕なりの「能力」についての捉え方でした。まだまだ「価値観との相関」とか「経験との相関」みたいなテーマでも話せそうなんですが、この辺でやめときます。またガッツリ掘り下げるタイミングがきたらダラダラと投稿したいと思います~

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