【自己紹介①】
初めまして、PGAティーチングプロの竹内寿文(たけうちとしふみ)です。
ブログを始めるにあたり、自分の事を皆さんに知ってもらいたくて書き始めました。お手隙の際に見ていただければ幸いです。
私は、1978年2月20日、長嶋茂雄(当時読売巨人軍監督)42歳の誕生日に名古屋市の城西病院で生まれた。父(公務員)、母(看護師)、姉1人・兄1人の3人兄弟の末っ子。
幼少時代、両親が共働きだったため祖父母に面倒を見てもらっていた。いつも祖母におやつとして饅頭を食べさせてもらっていたので、保育園に入園しても給食を完食しないで母や保育士さんを困らせていた。この祖母の影響で今でも和菓子や洋菓子が好き。
1984年、ロサンゼルスオリンピック開催の年に大里東小学校入学(愛知県稲沢市)。小学1年から2年間、習字を習っていた。今でも字が読みやすいと言われる。兄が野球をやっていた影響で小学3年から野球を始めた。小学4年からレギュラーとして試合に出て楽しかった。小学5年の時、前年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団し1年目から活躍した立浪和義選手のモノマネを良くしていた。この年、小学校体力テスト1級になり金メダルをもらう。小学6年の頃には、地元中日ドラゴンズの観戦でナゴヤ球場へ行き、落合博満選手のバッティングや立浪和義選手の守備を食い入る様に見ていた。この年も小学校体力テスト1級になるが、二年連続の受賞はできないようで努力賞メダルをもらう。
1990年、B.B.クィーンズの『おどるポンポコリン』が流行した年、大里東中学校入学(愛知県稲沢市)。小学校からやっていた野球部に入部。入部当初はグランドを走るだけで、キャッチボールさえ出来なかった。中学1年の秋になると練習試合に出る事もあり、野球漬けの毎日を過ごす。この頃は勉強する事もなく、野球してるか寝てるかという生活だった。中学2年の秋からレギュラーとなり、中学3年では市大会で優勝するが県大会一歩手前で負けるという結果だった。小学3年から中学3年まで野球をやってきて、全てのポジションを経験した事が唯一の誇り。野球部引退後、休みの日に父とゴルフ練習場に行った事が後の自分の人生の転機となった。高校に進学する際、ゴルフ部のある高校(私立)に行きたいと希望したが、公立高校に進学して欲しいという親の要望により断念。自宅から1番近い高校に進学する。
1993年、Jリーグが開幕した年に稲沢東高校(愛知県)に入学。高校時代は、勉強もやりたい部活もなく『ダウンタウンのごっつええ感じ』や『あすなろ白書』等、お笑いやテレビドラマをよく見ていた。兄が大学に行ってるのを見て漠然と大学に行かなければと思うようになり、高校3年になって少しだけ勉強するようになった。しかし、現実は甘くなく大学受験は全て不合格。無理を言って浪人する。にもかかわらず、勉強よりテレビ『ロングバケーション』や『めちゃ×2イケてるッ!』、『プロ野球中継やゴルフ中継』等をよく見ていた。当然、学力は上がらず模試では志望校全てE判定。唯一合格したのは、志望校ではない中部大学工学部電子工学科。
1997年、歌は安室奈美恵の『CAN YOU CELEBRATE?』が流行し、サッカー日本代表が翌年のW杯に初めて出場を決めた年に中部大学工学部電子工学科に入学。しかし、授業内容に全くついて行けず1年目で留年。浪人と留年で同級生にかなり遅れを取る事を悲観し将来が不安になる。ふと、かつて浪人生だった1996年11月17日、ジャンボ尾崎プロがダンロップフェニックス選手権でプロ通算100勝達成に衝撃を受けた事が鮮明に蘇ってきた。強いジャンボ尾崎プロの姿をテレビにかじりついて見ていて、プロゴルファーって格好良い、プロゴルファーになりたいと密かに思っていた自分を思い出した。
1997年春、父親が年4回参加しているゴルフコンペに連れて行ってもらった。ゴルフ道具は、全部父親のお古(メーカー不明)、ゴルフのマナーやルールなど知らない中での初ラウンドは、スコア126だった。美並カントリークラブ(岐阜県)で狭いコースだった事とクラブを3本くらい持ってティーグランドからグリーンまでジグザグに行き、他の人の2倍以上走り回ってた記憶しかない。2ラウンド目の1997年の夏のコンペは、144。上石津ゴルフ倶楽部(岐阜県)とても狭いコースでゴルフバックのボールが全部無くなって同伴者に迷惑をかけた事と、ミドルホールでワンオンしてイーグルパットした(結果はパー)。3ラウンド目の1997年の秋のコンペは、123。美並カントリークラブ(岐阜県)OBボールを探しに行って逆にボールを拾って来て、行きより帰りの方がボールが多くなり、ゴルフバッグが重くなった事を覚えている。自分のゴルフは、当たったら飛ぶが、どこに飛んで行くかわからなかった。でも、とにかく楽しかった。もっとゴルフが上手くなりたい…けど、お金がかかる…。
1998年の冬、ゴルフ練習場(オリエンタルグリーンクラブ、愛知県一宮市)でアルバイトの募集を発見。すぐに応募し採用された。仕事内容は、主に打席掃除。仕事が終わってから練習をさせてもらえた。練習をすればする程ゴルフに夢中になっていった。打率が上がり飛距離がさらに伸びていき、プロゴルファーになると決意した。常連客との会話の中で、自分がプロゴルファーになりたいと伝えたら鼻で笑われた。そもそも莫大な費用がかかる。しかも、東京大学に入るより難しい。それほど困難な道だと知っても自分の意志は変わらなかった。
この続きは、また今度