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複雑系と軍事学の研究はどのように繋がっているのか?

最近ではシステム(system)が一般的に使われる言葉になっています。日常生活では、コンピュータに動作の仕方を指示するソフトウェアを指して使う場面が多いように感じます。しかし、より厳密な定義によれば、システムの本来の意味は、何らかの繋がりを持つ複数の要素から構成された集合です。つまり、リンゴが入った買い物袋もシステムであり、多数の細胞で構成された人体もシステムの一種です。

もちろん、これらのシステムの性質はまるで異なった性質を持っています。買い物袋のリンゴから摂取できる栄養は、その構成要素であるリンゴ一つから摂取できる栄養の総和として正確に把握できるでしょう。このため、買い物袋の中のリンゴは単純系(simple system)と見なされます。その出力である摂取可能な栄養は、個別のリンゴが持つ栄養を調べ、合計することで計算することができるためです。しかし、人体はそれぞれ異なった機能や構造を持つ細胞が複雑に相互作用することで成り立っているので、人体を個別の細胞に分解し、それらを個別に調べ上げても、人体全体の生命活動を説明することはできません。このような性質を複雑性(complexity)と呼び、その性質を持ったシステムを複雑系(complex system)と呼びます。

複雑系は構成する要素を一つずつ取り出して分解するのではなく、それが全体としてどのような振舞いをするのかを調べる必要があります。複雑系は構成要素が完全に分かっても、それだけではシステム全体の挙動を捉えきれないためです。物理学者ジョンソン(Neil F. Johnson)は複雑性を「相互に作用する事物の集合から創発(自己組織的に生成)される現象」と定義していますが、これはシステムの要素の関係が時間の経過によって、あるいは相互の作用によって動的に変化し、それによって全体としての振舞いが大きく変化するという性質を持つことを含意しています(Johnson, 2009: 1)。社会科学の分野でも、このような現象をもたらすシステムは、政治、経済、社会に幅広く存在しています。戦争はその一つといえるでしょう。戦争は相互に作用する複数の行為主体が時間の経過に伴って動的に関係を変化させていく社会システムの一形態として捉えることができます。

軍事学の研究者の基本的な関心は、戦争で軍隊をどのように組織化し、運用すればよいのかという点に向けられていました。この問題を解決するために膨大な調査研究が行われてきましたが、当初から「必勝法」のような一般的な方法を見出すことが難しいことが認識されていました。『孫子』では軍隊の動かし方を正と奇の二つに分け、「戦いは正をもって合し、奇をもって勝つ」と述べられていますが、その具体化の方法は多種多様であり、誰もそれを極め尽くすことができないと論じています。カール・フォン・クラウゼヴィッツも戦争があたかも「カメレオン」のように特徴を変化させる性質があり、軍隊の編成や運用は一般的な原理原則を機械的に適用して解決できる性質の問題ではないと考えました。少なくとも、固定的な方法論を適用する際には、戦術的、技術的な問題に限定するように注意しなければなりません。クラウゼヴィッツが戦争の複雑性を捉えた意義は学説史的にも重要であり、戦争を行為主体の間の相互作用、政治的交渉であるという視点は、政治学でも広く受け入れられています。

この方面でクラウゼヴィッツが提起した論点は多岐にわたっていますが、ここでは重心(center of gravity)の分析を取り上げてみましょう。まず、戦争では交戦者が自身の政治的要求を相手に押し付け合い、武力の行使によって最小限の譲歩で最大限の譲歩を相手に迫るプロセスとして理解することができます。このような相互作用を終わらせ、終戦に至るためには交戦者の双方が妥当だと思う落としどころを発見しなければなりません。しかし、それが必ず存在する保証はありません。交戦者の双方が相手より自分の方が強いと考えている場合、双方とも自分が相手に譲歩するのではなく、相手が自分に譲歩すべきだと判断するため、交渉可能な領域がそもそも存在しない場合があるためです。そのような状況で和平交渉を繰り返すことは無意味であり、意見をぶつけ合うだけになってしまいます。クラウゼヴィッツは、交戦者が自分の相対的な強さに関する判断を急激に変えざるを得なくさせる要素に注目することの重要性を指摘しており、それを重心と名付けました。

重心の内容は交戦者の属性によってさまざまであり、指導者が率いる軍隊である場合もあれば、国家の政治と経済の中枢にあたる首都である場合もあります。いずれにしても、そこに打撃を加えることによって、戦争状態における交戦者の立場を劇的に変化させる効果が期待できるような要素に注目することがクラウゼヴィッツの戦略理論の基礎となります。クラウゼヴィッツの議論の対極にあるのは、戦場でより大きな損耗を敵に与えれば、それだけ交渉において大きな譲歩を引き出せるようになるという議論でしょう。ここで想定されているのは、まるで関数に従って反応するプログラムであり、自らの損失が膨らむほど、自らの要求を取り下げていくような行為主体を相手に戦っているかのように想定します。クラウゼヴィッツの視点は、行為主体がそれぞれに固有の政治、経済、社会的な背景を持つ人間であることを前提にした上で、彼あるいは彼女が確信する強さの源泉に注目しており、そこを叩くことができればわずかな軍事的労力で大きな外交的譲歩を引き出すことができると考えました。

ちなみに、複雑系の科学が広く知られるようになったのは1990年代であり、軍事学の分野で注目を集めるようになったのも、その後のことです。Alan Beyerchen氏は、クラウゼヴィッツが戦争の複雑系としての側面に着目し、それに基づいて長期的な予測不可能性を主張していたという解釈を示した研究者ですが、彼がその見解をまとめたのは「クラウゼヴィッツ、非線形性、戦争の予測不可能性(Clausewitz, Nonlinearity, and the Unpredictability of War)」(1992)です。この業績によって、クラウゼヴィッツが『戦争論』で展開した戦争理論を解釈する上で複雑性がいかに重要な意味を持っていたのかが分かってきました。複雑系と軍事学の関連に興味がある方はこちらの論文にあたってみるとよいと思います。また複雑系全般に関してはよい入門書がたくさん出ていますが、途中で示したジョンソンの入門書は複雑系の科学がさまざまな分野と関連があることを示しており、読み物としても大変面白い内容です。

参考文献

Beyerchen, Alan. (1992). Clausewitz, Nonlinearity, and the Unpredictability of War, International Security, Vol. 17, No. 3, pp. 59-90. DOI: 10.2307/2539130
Johnson, Neil F. (2009). Simply Complexity: A Clear Guide to Complexity Theory. Oxford: Oneworld.(邦訳、阪本芳久訳『複雑で単純な世界:不確実なできごとを複雑系で予測する』インターシフト、2011年

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武内和人
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