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クラウゼヴィッツは政治をどのように理解していたのか

19世紀プロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツが戦争の研究だけでなく、政治の研究にも取り組んでいたことは、あまり知られていません。

クラウゼヴィッツの戦争理論において政治という要素が中心的な位置を占めていることは有名です。

それにもかかわらず、クラウゼヴィッツが政治をどのように理解していたのか、現代の政治学の立場から見て、それがどのように評価できるのか研究されていないのです。

ここでは、クラウゼヴィッツが『戦争論』において政治についてどのような考察をしているのかを紹介してみたいと思います。

戦争とは軍事的手段を用いた政治的交渉

政治はクラウゼヴィッツの戦争理論で最も重要な要素であり、あらゆる戦争は必ず政治的な交渉として遂行されると論じられています。

あらゆる軍事行動を理解するためには、政治がそれをどのように利用しようとしているのかを考えなければならず、政治の研究が戦争の研究の前提とされています。

「そこで戦争は政治的行為であるばかりでなく、政治の道具であり、彼我両国の政治的交渉の継続であり、政治における手段とは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。してみると、戦争になお独自のものがあるとすれば、それは戦争において用いられる手段に固有の性質に関連するものだけである」(クラウゼヴィッツ『戦争論』上巻、58頁)」

クラウゼヴィッツは戦争の形態によって、この政治の影響がはっきりと表に出てくるパターンと、そうではないパターンがあると認めていました。

例えば、敵国を徹底的に壊滅させ、完全な無条件降伏に追い込むまで戦いを続けるような場合においては、政治の影響が希薄になりますが、それでも戦争が政治的行為でなくなるわけではないとクラウゼヴィッツは強調しています(同上、60頁)。

それでは、この政治というものをクラウゼヴィッツはどのように理解していたのでしょうか。この疑問に関してはクラウゼヴィッツに対して深い理解を示す研究者の間でも、あまりはっきりと議論されていないように思われます。

政治それ自体は無であり、利害関係者の代理人である

クラウゼヴィッツは戦争と関連付けながら、政治の本質について次のように述べています。

「要するに政治は、内外の全般的情勢に対する洞察である。しかし政治に関する伝統的概念に囚われて、政治はもっぱら強力行使を避け、慎重を旨とし、狡猾な―それどころか破廉恥な手段の使用をすら憚らない怜悧にほかならないと解する限り、第二種の戦争の方が第一種の戦争よりも真に政治的なものに見えるかも知れない」(同上)

ここで述べている「第一種の戦争」とは、敵国の徹底的な壊滅を追求して行われる全面的な戦争であり、「第二種の戦争」とは、敵国に一定の打撃を与えた後は、交渉によって事態の収拾を図ろうとする戦争です。

クラウゼヴィッツは政治というものは、国内外の情勢を判断する洞察であると述べていますが、これは単に戦争を避けようとすることばかりが政治なのではなく、状況によっては戦争を進んで遂行しようとする政治もあり得ると考えていたことが分かります。

このことを裏付ける別の箇所の記述も参照してみましょう。クラウゼヴィッツは「政治それ自体は無である」と述べており、それは国内の利害関係者の都合によってどのような方針を採用することもできるものだと論じています。

「実際、政治はそれ自体としては無であり、他国に対してこれら一切の利害関係を主張する代理人にすぎないのである。政治が時として誤った方向をとり、殊更に統治者の名誉心、個人的利害関係、虚栄心等に仕える場合があるにせよ、そのようなことをここで問題にする必要はない。いずれにせよ、戦争術が政治の教師と見なされるようなことはあり得ないからである。それだからここでは、政治を社会全体の一切の利害関係の代表者と見なしてよい」(同上、下巻、320頁)

ここで語られている政治は、国家の利益や公共の利益を追求するような活動ではありません。

クラウゼヴィッツにとって政治的活動は、権力を握り、政策を動かす関係者の利害に基づいて左右されるものであり、具体的に何を追求するかは、利害関係者が何を自らの利益と見なしているかによって左右されると考えていたのです。

むすびにかえて

クラウゼヴィッツの政治に対する理解を知れば、彼の戦争理論をより深く理解することが可能になります。つまり、政治権力を握る個人、集団がどのような利害関係を持っているのかによって、彼らが採用する政策は変化し、その結果として戦争の遂行の仕方も変化するのです。

戦争が敵国の徹底的な撃滅を目指すものになるのか、それとも一定の限度を持って穏当な解決を図るものになるのかは、まさにこの政権中枢に存在する集団の属性によって決まるというのがクラウゼヴィッツの考え方なのです。

かつてイギリスの著名な政治学者バーナード・クリックは政治学の入門書である『現代政治学入門(What Is Politics?)』(1987)で、「戦争とは、カール・フォン・クラウゼヴィッツがかつてわたしたちに信じ込ませようとしたような「別の手段をもちいた政治の継続」などではない。むしろ戦争とは、非常に現実的かつ恐るべき意味での、政治の破綻にほかならないのである」と述べたことがあります(28頁)。

もしクラウゼヴィッツが生きてれば、クリックが示した見解は、協調と和解を志向する政治こそが本来の政治の姿だとあらかじめ決めつける偏った見方ではないかと反論したことでしょう。

政治とは、その権力を握る人々の利害に応じて、さまざまに形を変えるものであり、交渉や妥協を目指す政治もあれば、破壊と殺戮を目指す政治もあり得るのです。

©武内和人(Twitterアカウント

参考文献

クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年



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武内和人
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