
論文紹介 米軍が撤退しても欧州はロシアと戦えるのか?
2014年にウクライナのクリミア半島と東部のドンバスでロシアが軍事行動を起こしたことで、ヨーロッパ各国では安全保障に対する懸念が大いに高まり、国防政策の見直しが進められました。アメリカとの同盟を強化することも、防衛体制の強化の一つとして重視されていました。
ところが、2017年にヨーロッパの防衛をアメリカが負担することに対して繰り返し不満を表明してきたドナルド・トランプがアメリカ大統領に就任し、ヨーロッパではロシアの脅威に対応する上でアメリカに期待を寄せることに政治的リスクがあることを認識するようになり、どれほどヨーロッパ諸国が自主的な防衛努力に取り組むべきか議論が行われるようになりました。
さまざまな議論が出されましたが、アメリカの軍事力に頼らずにヨーロッパを防衛することは難しいのではないかという見方は根強く、イギリスのシンクタンクである国際戦略研究所が出した「ヨーロッパを防衛する:シナリオに基づくNATOヨーロッパ加盟国に求められる能力評価(Defending Europe: scenario-based capability requirements for NATO’s European members)」(2019)の内容は、アメリカの軍事力がなければヨーロッパ諸国だけでロシアの脅威に対応することは難しいという悲観論を裏付けるものでした。
この報告書の目的は、2020年代初頭にアメリカが北大西洋条約機構(NATO)から離脱した場合、あとに残された他のヨーロッパ諸国は自主的に防衛が可能かどうかを判断することにありました。それはシナリオ分析に基づく費用の分析であり、ヨーロッパ諸国の軍隊が任務を遂行するときに、政府が支払わなければならない費用がどの程度になるかが推計されています。
第一のシナリオでは、アメリカがNATOを離脱し、ヨーロッパの防衛に対する責任を負わないだけでなく、世界の海上交通路を保全するという海洋安全保障上の役割さえも放棄した場合を想定します。この場合、能力の不足を補うために残されたNATOのヨーロッパ加盟国は全体で940億ドルから1100億ドルを追加で支出しなければならないとされています。
第二のシナリオではロシアの攻撃を受けてリトアニアが占領されただけでなく、ポーランドの一部の領土も占領された場合を想定しています。エストニア、ラトビア、ポーランドの領土を防衛し、同時にポーランドの一部の領土とリトアニアの領土を取り戻すためには、大規模な戦闘を遂行する能力が必要であり、推計された必要な費用はNATOのヨーロッパ加盟国で2880億ドルから3570億ドルと見積もられています。
その費用の大きさから、報告書ではヨーロッパが自主的な防衛を図ることは困難であるという判断を下しています。ただ、必ずしも絶望的ではないとも述べられており、もし2018年にNATOのヨーロッパ加盟国が国防費で支出した総額はおよそ2,640億ドルですが、もし国内総生産の2%に相当するほどの国防費を支出できたならば、追加で1,020億ドル、つまり3660億ドルを支出することができるとも見積もっています。ただ、それでもアメリカ軍が撤退した場合に必要な装備品を調達するためには時間を要するはずであり、8年から12年はかかると推定されています。
安全保障を専門とするアメリカの政治学者バリー・ポーゼンは「ヨーロッパは自身で防衛できる(Europe Can Defend Itself)」(2020)でこの研究に異議を唱えました。ポーゼンはアメリカがいなくても、ロシアの脅威に対してNATOのヨーロッパ加盟国が対抗することは軍事的に可能ではあるという見方を打ち出しています。
ポーゼンは、NATOのヨーロッパ加盟国が全体としてロシアよりもはるかに大きな労働力と生産力(国内総生産)を保有していること、軍事地理的に有利な位置を占めていること、イギリスとフランスは核兵器を保有していることなどから、ロシアの脅威に対抗する上で十分な能力をすでに備えていると考えています。
なぜ、これほど違った判断になるのでしょうか。その理由は国際戦略研究所が分析で使ったシナリオをポーゼンが受け入れていないためです。ポーゼンは第二のシナリオの妥当性に疑問を投げかけました。そこではリトアニアとポーランドの領土の一部がロシアによって占領されていること、エストニアとラトビアが他のNATOのヨーロッパ加盟国から完全に分断されており、直ちにNATOが来援しなければならない状況が想定されています。
ポーゼンは開戦と同時にリトアニアとポーランドの一部がロシア軍によって占領されることは受け入れています。ただ、その後でNATOがラトビア、エストニアを守ろうとロシア軍に攻撃を仕掛けることは作戦として非常に奇妙であり、そのような要求を前提にしてNATOの所要兵力を見積もることは妥当ではないと主張しています。
ポーゼンは、NATOの主戦場はポーランドであり、そこでNATOがロシア軍に対して防御できるかどうかが重要だという立場をとりました。明確な論拠とは言い難いのですが、ポーゼンはロシアがNATOを屈服させ、戦争を終結させるためには、ポーランドを征服し、さらにドイツの東部に到達する必要があると主張しています。つまり、NATOの所要兵力を見積もるためには、エストニアやラトビアを救援できるかどうかで判断するのではなく、ポーランドでロシア軍に対して防御が可能かどうかで判断すべきであるという議論を展開しています。
ここから先は
¥ 100
調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。