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メモ 『戦争論』のクラウゼヴィッツが語る戦時下の人間が抱く敵対感情
戦争状態に入った交戦国の国民は、自分の置かれた状況に対してさまざまな心理的反応を示します。ある人々は、戦争に対して何ら関心を示さないかもしれませんが、別の人々は戦争に対して強い関心を示し、敵国に対して激しい憎悪や嫌悪を示すかもしれません。
プロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは『戦争論』で戦争が人々の敵対感情を引き起こすとは限らないと指摘していました。交戦国のいずれかが敵対的な意図を持っていない限り戦争行為は始まりませんが、それは必ずしも敵対的な感情を持っていることを意味しません。
「たとえいかに粗野な本能的憎悪感といえども、敵対的な意図なくしては相闘うには至らない。これに反して、敵対的な意図があるときは、敵対的な感情が全然伴わなくとも、あるいは少なくとも全然表面上にその感情が現れなくとも相闘うに至る場合が数多くある。非文明国民のもとでは感情に属する意図が多く、文明国民のもとでは理性に属する意図が支配的である。もっともこの差異は、その国民の文明、非文明によって生まれるのではなく、それに伴う社会状態や諸制度等によって生まれるものである。したがってこの差異は必ずしもすべての場合にあてはまるというのではなく、概して多くの場合にあてはまるというにすぎない」
クラウゼヴィッツの見解では、「文明国」であるか、「非文明国」であるかによって敵対感情の程度が変わり、それによって戦争の仕方が変化するという見方は正しくありません。たとえ近代化された文明国でも、敵国に対して激しい憎悪、嫌悪といった感情的基盤に基づいて戦争行為が遂行されることもあり得るためです。
「それゆえ、文明国民の戦争を単なる理性的行為に還元し、一切の敵対感情とは無縁のものと考えることほど間違った見方はない。もしそのように考えるのが正当なら、戦闘力という物理的量塊はもはや現実的には必要でなくなり、戦争とは物理的量塊の相互関係、つまり一種の行為の代数学のことにほかならないことになってしまうだろう」
ちなみに、この敵対感情の程度を決定づけるのは、「両国の敵対的利害関係の重要さ」と、「その利害関係の継続期間」の2つの要因で規定されるともクラウゼヴィッツは指摘しています(同上、38頁)。この指摘は、戦争がより激しさを増し、あるいは長期化するほど、交戦国の国民の間で敵対感情が高まりやすくなることを示唆したものとして解釈できます。
参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』上下巻、清水多吉訳、中央公論新社、2001年
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