隣の芝生はちょうどよい緑
ちょうど良い状態には名前がつかないことが多い。
だから、僕わたしには大した特徴がないと感じている人は全てにおいて"ちょうど良い"ってことなのだと思う。
生きてるだけで様々なバランスに触れている。
大きすぎても小さすぎても、堅すぎても緩すぎても、高すぎても低すぎても、どちらかに振れた時点でその事象に名前がつくようにできてる。
以前、失恋により傷心だった友人と赤坂のBARにいた。
散々泣いた彼女が、明日死ぬかもしれないのだし一度でいいから嘘みたいなイケメンと酒を飲みたいと声高に物騒なことを言い出したので、絵に描いたようなイケメンの友人に急遽BARに寄ってもらうことにした。
彼は会ったこともない傷心の女性を気遣って赤坂までタクシーを飛ばしてくれるのだから心まで相当なエリートだと思う。
彼が到着するとつい先ほどまで決壊したダムのようだった彼女が、緊張からかまったく喋らなくなった。さらに優しく話を聞いてくれた彼に素っ気ない態度を取ってしまった自分を責めて、より一層傷心していた。
それなりに世話の焼ける愛おしいエピソードである。
『いくらなんでもイケメン過ぎるよ』と彼女は言った。そして "生きかたを反省するわ" とたいへん大袈裟なことを言い残し足早に帰路についた。
女の子は難しいよねと彼は笑っていたけれど、申し訳ない思いだった。一杯奢らせてというと六本木に気になるお店があるのだと案内してくれた。
(そして自分が来たかったお店だからという理由で結局1円も出させてはくれなかった。)
彼が未来永劫幸せでありますように。
"なんだって平均点以上だと思われる"というのが彼の悩みだった。鼻をかんだティッシュをそのままにしていたことがきっかけで彼女に振られたり、飲みの席ではイケメンはそのままでモテるから話がつまらないと言われることが多いのだと話した。
イケメン...
めちゃくちゃハードモードじゃないの...
月並みだけれど心底そう思った。
自分を構成する要素をハッシュタグ化したとする。たとえば #経営者 #御曹司 #芸能 #美人 #JD みたいに。
他人からしたら"羨ましいレアタグ"みたいに見えたとしても、当人からすれば悩みの種になることもあるのだ。
みんなからキラキラ見えるそのタグで自分自身を表現されるのは、確かにとても深刻だよねと思った。
それをアイデンティティだと言えてしまえばかっこいいけれど、他者との関わりの中でそうはいかないことだってある。
この人は僕についてるタグが好きで一緒にいるんだろうか、とかもきっとそうだ。
わたしは六本木のBARで延々と彼のいいところをあげつらった。人の痛みがわかる優しいところも、変に鳥に詳しいところも、服装が絶妙にダサいところも、歌がへたっぴなところも規格外の顔面もその全部が彼の良いところだ。
彼はその日よく泣いていたし、使ったティッシュを全部持ち帰っていた。わたしは彼のそういうところがすきだ。
"イケメン過ぎて困る"は贅沢な悩みだろうか。だとしたら大した特徴がない自分を嘆くのだってこの上なく贅沢な悩みだと思う。
特徴があろうがなかろうが高次元だろうが低次元だろうが不都合はみな平等なのだ。
わたしは、これといってレアなタグは持っていない。つまりすべてにおいて絶妙なバランスの上に生きており、最強のバランス感覚を保有しているとも言える。
みんなそんなものだと思うのだ。
だから『よそはよそ、うちはうち』と言いきった母はえらい。
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