ラッキーラッシー
1
おれは文章を書くのが好きなのかもしれない。自分の文章を人に見せるのが好きなのかもしれない。平凡に、社会人あるあるだと思うが(平凡な社会人あるあると書き分けている)、趣味というものがなかなか難しくなる。にしては子供がいるわけでもないからそこそこ余裕があるものだ。今日は一人だ、予定がない、暇だ、というときに思いつくのが、文を読むか文を書くかなのだから、きっと好きなんだろう。いつも読んでるひとがいるから成立しているし、感想を書いてくる稀有な人間は、しっかり好きだ。
これを仕事にしちゃいたい気持ちが、ぼんやりうっすら存在し続けている。ずっと。ただおれの書くものというと、基本的に、おれのフィルターを通してみたおれに関する解説文ばかりなので、仕事として発生するものではないのだ、尚更何故読む人がいるのかわからなくなってくる。わからないといいつつそれが心地よい自分にも気づいている自分が気持ち悪くなってきたが、このへんにしておきたいところだ。
2
仕事の話を友人との食事中に話したくない、というのは若干の語弊がある。
正確に言えば、友人との食事中という、もっとも種々様々な会話の引き出しが現れる場にも関わらずメインディッシュを仕事で構成するような奴に思われたくない、だ。
実際おれは仕事をしている、かなりしている。おれの豊かな暮らしは仕事によって支えられている。少なくとも数百万儲かったBitcoinによってではない。だがおれは、まだ新卒からボーナスをよくわからずBitcoinに突っ込んでたらよくわからないままなんかそこそこ儲かった話の方が幾分かはましだと思っている。
だが、それも本当は違う。おれは会話をしたのだ。察してくれていいのだが、現状日常的には会話をしていない。生活的な言葉の掛け合いはあるが、それをおれは会話と呼んでいない。こういうおれの勝手な言語感覚によって独自に運用している言語野があるので、ライター云々には向いていないと思うのだ。逸れた。だがしかし、おれが魂の会話魂の会話言い続けたので(もっともこのワード自体を最初に言い出したのは他でもない五彩緋夏だが、本人の名誉のため)、この言葉でおれと同じものをイメージしてくれる人が若干名できた、はずだ。騒ぎ続けた甲斐があった。そしてこれからもおれにつきあってくれ。あってnoteをしよう。かっらいサグチキンカレーを食べよう。チーズナンを分けよう。くそ!くそ!ほんとはそうやってできる人とずっと一緒にいた方がいいに決まっている!毎日水を飲むのも忘れて口からからになるまで会話したら幸せな人生だったのに!
だからこうやって、たまにはネットの海に流してみたり、誰かに付き合ってもらって、ギリギリ自分を薄めずに保てているみたいな部分がきっとあって、自分をつまらない人間だとまだ諦めたくないのだという、そういう泥臭いところがあるようです。キモい自分であり続けなければいけないんだろう、という、難しい感じです。
3
大人になってから(おれは結構大人になっている)思うこととして、人生でもっとも大事な能力は、集中力なのかもしれない。
あった時には、気付かないのだ、何事も。口内炎だって、できて初めて、無い状態の幸福を思い出すのだ。集中力が確実に落ちたと感じてから、それがあった時のもろもろを思い出す。大学受験はなぜあんなに遠いゴールに向けて走り続けられたのだろう、とか。今はいろいろと雑念が多いのかもしれない、脳味噌にゴミがたまってきていて、良質なエンジンを供給できていないから、フルスロットルが出ないのかもしれない、とか思う。
だが、だがばっかりで恐縮だが、だが、物事を単純化して考える自分ではありたくない。複雑な問題も全部抱えながら、ゴミも全部燃やして、走りたいというのは本日二度目の若干の語弊でそれができない自分だと諦めるにはまだふんぎりがつかないのだ。
こうやって、こうありたい自分と常に闘っている。第三者の評価が気になっているのではなく、第三者のおれの評価をもっとも大事にしている。というとこともすべて含めておれなのだ。第三者のおれをきにしているおれに気づいた。最近。
ほんとは、男性と女性のこととか、書こうと思っていたんだけど、割といい文字数になってしまったのと、さっき作った水餃子をまだ食べきってないので、この辺で勘弁しておきます。きっと何年とそう遠くないうちに、あまり余裕がなくなってしまうので、会いたい人には会わないとなと思うし、フットワークは軽くなくても、サグチキンカレーは誘われたらどんな時でも一緒に食べよう。一緒に汗かこう。マンゴーラッシーのも。おわり