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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第34回

9月上旬になりました。まだまだ残暑が厳しいですが、皆様健やかにお過ごしでしょうか。
まだまだ暑い日やゲリラ雷雨の日がありますが、皆様健康には充分お気を付けください。 
さて、光る君へ第34回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>帝がフラッと藤壺にやってきたかと思えば、中宮もまひろの元を訪ねる。
>「物語の意図がわからない、面白さがわからない」と著者泣かせの意見を言われても、二人の心を開かせることができるのはまひろしかいない?
再び藤壺に出仕したまひろさんは彰子さまのお世話の傍ら物語を執筆しています。
藤壺にお渡りになった一条帝がまひろさんが物語を執筆している房(小部屋)をお訪ねになりました。
帝が物語創作の経緯をお尋ねになると、まひろさんは「左大臣さまから帝に献上するものを書け、と言われました」と正直に答えます。
「何が帝のお心を打つのか思いつかず、左大臣さまに帝の事をあれこれ伺いました。書いているうちに、私は帝の悲しみを肌で感じるようになりました」とまひろさんが申し上げると、帝は「そなたの物語は朕にまっすぐに語り掛けてくる」とお褒めになりました。
また、中宮彰子さまは自らまひろさんの房に足を運び、二人で話をします。
彰子さまは「そなたの物語の面白さが分からぬ。男たちの言っていることが分からぬ。光る君が何をしたいかも分からぬ」とまひろさんに言いました。
そして「帝はそなたの物語のどこに惹かれているのだろうか」と呟きます。
『分からぬ』と自らの意見を言える様になってきた彰子さまですが、帝の事を知りたいと心を開く事が急務の様です。

『光る君へ』より

>寛弘3年(1006年)、強訴する興福寺僧侶の狙いは何なのか?
寛弘3年(1006年)7月12日。
都に錫杖の音が響き、土御門殿に大和国・興福寺の僧兵たちが押し寄せました。
興福寺の別当、定澄権大僧都と慶理が来訪し二人は道長卿によって邸内に通されます。
興福寺の僧・慶理が「興福寺の僧侶3000は既に木幡山に集結している」と告げます。
そして訴えを陣定にかけてほしいと直訴し、「それがならねば、この屋敷を取り囲んで焼き払い奉ります」と強訴も辞さない構えです。
要求を聞いた道長卿は「やれるものならやってみよ」と応じます。
定澄権大僧都は「乱暴を働いているのは興福寺ではなく、大和守・源頼親と右馬允当麻為頼である」とし、「彼らを訴える解文を朝廷に奉っているのに、なぜ審議くださらぬのか」と不満をぶつけます。
道長卿は「審議はする」と言いますが、定澄権大僧都は「我らの訴えを陣定にお掛けくださいませ」と要求します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は「興福寺が乱暴の限りを尽くしておる事は大和守の訴状で承知しておったが、これ程の暴挙は許しがたい。本来、藤原氏とその氏寺が争う事なぞあってはならぬ。御仏に仕える者としてその方はそれで良いと思うのか。興福寺そのものとてただでは済まぬぞ」と定澄権大僧都に伝えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>それにしても、この僧侶たちのおどろおどろしさはなんなのでしょう。
>仏事考証はとても大変なものであり、本格的に再現していることでしょう。
興福寺は藤原鎌足公の夫人・鏡王女が夫の病気平癒を願い建立した山階寺(やましなでら)を起源とし、和銅3年(710年)の平城京遷都に際し、藤原不比等公により興福寺と名付けられ藤原氏の氏寺となりました。
平安時代には南都七大寺に数えられ、藤原北家により、手厚い保護を受けます。
興福寺は神仏習合の影響から春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領し、興福寺別当は大和国内において絶大な影響力を持ち大和守(国司)をも凌ぐ権威でした。
興福寺は比叡山延暦寺とともに『南都北嶺』と称され、時には僧兵を従え朝廷へ強訴に及びました。

寛弘3年(1006年)に着任した大和守・源頼親公は着任から間もなく興福寺と所領争いを起こします。この源頼親公は清和源氏の流れをくむ源満仲公の次男で、後に藤原道長から『殺人上手』と評された武士でした。定澄権大僧都は頼親公の解任を要求した解文を出し、7月12日に寺僧らを動員して京都洛中への強訴に及びました。
『御堂関白記』寛弘3年(1006年)6月14日条には『山階寺(やましなでら/興福寺)から、馬允(当麻)為頼のために打擲(ちょうちゃく)された池辺園(いけべのその)の預の者が作った寺の解文(げぶみ)がもたらされた。(当麻)為頼を召している際に、人が云(い)ったことには、「山階寺(やましなでら/興福寺)から三千人ほどの僧が為頼の私宅に行き、数舎を焼亡しました」ということだ。・・・聞くにつけ、不審に思ったことは少なくなかった。』
寛弘3年(1006年)6月20日条には、『大和国が、山階寺(やましなでら/興福寺)の僧蓮聖(れんしょう)が数千人の僧俗を招集して、大和国内を存亡させたという解文(げぶみ)を進上した。』とあります。

『御堂関白記』寛弘三年(1006年) 六月十四日条
『御堂関白記』 寛弘三年(1006年) 六月二十日 条

また、『小右記』寛弘3年(1006年)7月12日条には『晩方、人々が云(い)ったことには、「興福寺僧数千が参上した。諸寺の僧を集結させている」と云うことだ。また、云ったことには、「その数は三千余人ほどである」と云うことだ。甚だ閑(しず)かではない事である。』とあります。

『小右記』寛弘三年(1006年)七月十二日条
『小右記』寛弘三年(1006年)七月十二日条

・興福寺の強訴に動揺する朝廷?

>道長は陣定で、興福寺の一件を持ち出します。翌7月13日、興福寺の詮議について陣定が行われました。
興福寺と大和守・源頼親公は以前から大和の所領を巡り争い続けており、そのために僧が1名亡くなっていました。 
これに対し興福寺は頼親公を訴え、さらに頼親公の家来・右馬允当麻為頼公の屋敷と田畑を焼き払う報復に出たため、頼親公の側も朝廷に訴え出ていました。
道長卿はさらに朝廷は審議の上興福寺の筆頭たる僧、蓮聖(れんしょう)の公の法会参列を禁じた事を述べました。
公卿たちが陣定で対応を話し合っていると、恒方さまが「朝堂院前に興福寺の僧たちが押し寄せています」と伝え、道長卿はしくじったとばかりに慌てて席を外しました。
僧たちが鳴らす錫杖の音や祈祷の声の中、民も混ざり大極殿へ詰め掛けようとしていました。
道長卿は急ぎ帝にこの事を伝えました。
帝が「なぜ朕に黙っておったのだ」とお尋ねになると、道長卿は「その策を陣定に諮っておりました」とを告げ知らせが遅れた事を詫びました。
また「自らの判断の誤りである」と認めました。
そして「不本意ではありますが、検非違使を遣わして僧共を追い払うしかありませぬ」と述べます。
帝は「そなたらしからぬ考えであるな」と仰いました。
道長卿は「大内裏の門を通られては朝廷が興福寺に屈したも同然で致し方ありません。検非違使派遣の宣旨を」と帝に求めます。
帝は道長卿の言葉に同意され、検非違使を遣わす事になりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

一方、藤壺では彰子さまが敦康親王と簀子縁に座り菓子を食べています。
敦康親王は「もう5つ食べたました」と言い、彰子さまは「私はまだ2つでございます」と答えます。
親王は「中宮様の分も食べて差し上げます」と菓子に手を伸ばし、彰子さまは「これからもっと大きくなられますから、たんと召し上がってくださいませ」と微笑みます。
そして、まひろさんは物語の執筆に勤しんでいます。 

『光る君へ』より
『光る君へ』より

すると廊下を、中宮大夫・藤原斉信卿が急ぎ足でやって来て女房たちに「中宮様を奥の間にお隠しまいらせよ」と命じました。宮の宣旨が「何事でございますか?」と尋ねると、斉信卿は「興福寺の僧たちが、大極殿の前まで来ている」と伝えました。
また斉信卿は「内裏に入ることはないと思うが万が一に備える様に」と指示し、「そなたらも命を懸けて中宮様をお守りせよ」と言います。「お守りせよと言われてもどうしたら」と大納言の君は戸惑っていると藤式部(まひろさん)が顔を覗かせ、「清涼殿にお連れ申したら如何でしょうか」と提案しました。
「万が一僧たちが内裏に攻め込んできたとしても、帝の御身にまで危害は及ぼしますまい。帝とおられる事が最も安心かと」とまひろさんは自分の考えを述べ、斉信卿も頷きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

支度が整えられた後、清涼殿に彰子さまは落ち着きまひろさんも傍に侍りました。
帝は「中宮大夫は大袈裟すぎる。その様に案ずる事はない。今、左大臣が陣頭指揮に立っている。間もなく事は収まるであろう」と仰います。
そして彰子さまを「己が父を信じよ」と声をお掛けになりました。
帝は「不安げに下を向く彰子さまに顔を上げよ、そなたは朕の中宮である。こういう時こそ胸を張っておらねばならぬ」と仰いました。
その帝のお言葉を、まひろさんも聞いています。

『光る君へ』より

>要は、国司である源頼親と興福寺が、殺しと放火のトラブルに発展し、裁定を有利に働かせるため興福寺が【強訴】してきたというわけです。
興福寺と大和守・源頼親公は彼の着任から間もなくから大和の所領を巡り争い続けており、そのために興福寺領池辺園預(荘官)の僧が1名亡くなっていました。
これに対し興福寺は頼親公を訴え、さらに頼親公の家来・右馬允当麻為頼公の屋敷と田畑を筆頭僧・蓮聖(れんしょう)が、焼き払う報復に出たため、頼親公の側も朝廷に訴え出ていました。
ここまでは何見氏のいう『殺しと放火のトラブル』に当たるでしょう。
この事件に対し、道長卿は蓮聖に下手人を差し出すよう命じ、蓮聖の公請(朝廷から法会や講義に召される事)を停止しています。
『御堂関白記』寛弘3年(1006年)7月3日条には『大和国の解についての宣旨が下った。下手人の俗人や追捕すべき僧たちの名が入っていたが、それを蓮聖(れんしょう)に進上させることになった。蓮聖の公請(くじょう)を停止(ちょうじ)した。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘三年(1006年) 七月三日条

>そなたらしからぬ考えだなと帝が反論すると、道長も、内裏裏の門にまで押し入られては朝廷をないがしろにしていることだとして、武力(検非違使)で追い払うしかないと言い切るのでした。『内裏裏の門』とはどこの事でしょうか。
陣定で対応を話し合っていると、恒方さまが「朝堂院前に興福寺の僧たちが押し寄せています」と伝えてきました。
道長卿は帝に興福寺の訴えを陣定に掛けていたため知らせが遅れた事を謝罪し、「大内裏の門を通られては朝廷が興福寺に屈したも同然で致し方ありません。検非違使派遣の宣旨を」と帝に求めました。
僧たちが大内裏の門を通り、押し寄せたのは『朝堂院(八省院)』でこの建物は大内裏にあります。

平安京大内裏の建物配置図
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

>京都は、防衛機能が極めて貧弱であり、天然の要害となる鴨川くらいしか防衛に使えませんでした。
>暴力で朝廷へ迫れると気づかれてしまったら、手遅れなのです。
>そしてその「手遅れ」となる様を、私たちは大河ドラマでも目にしています。
>2022年『鎌倉殿の13人』のフィナーレは、【承久の乱】でした。
京の都の防衛線は鴨川ではなく交通の要所である『宇治川』だと思います。
承久の乱では、美濃・尾張で敗れた後鳥羽院方は宇治川で幕府軍を防ぐため全兵力で宇治・瀬田に布陣しました。
後鳥羽院方と幕府軍は衝突し、後鳥羽院方は宇治川に掛かる瀬田の唐橋を落とし、防戦します。
幕府軍は渡河戦の末多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功し、京へ雪崩れ込みます。
興福寺の強訴の場合は奈良街道など大和路を北上して京に入ると思いますので、その場合瀬田唐橋は渡りません。

承久の乱幕府軍進路
Googleマップ

>そうはいっても女房はオロオロするばかり。
>女性が薙刀で武装して守るようになるのはもっと後のことです
藤壺の女房たちが出てきて2週間目です。
名前調べましょう。
藤原斉信卿が女房たちに「中宮様を奥の間にお隠しまいらせよ」と命じ、宮の宣旨が「何事でございますか?」と尋ねます。
斉信卿が「興福寺の僧たちが、大極殿の前まで来ている」と伝え、「内裏に入ることはないと思うが万が一に備える様に」「そなたらも命を懸けて中宮様をお守りせよ」と指示したため、「お守りせよと言われてもどうしたら」と大納言の君は戸惑っています。
その後まひろさんが彰子さまを帝がおわす清涼殿に移す事を提案します。
薙刀は平安時代に登場した長柄武器です。
薙刀は、間合いを取った斬撃や刺突や打撃に適していることから、南北朝時代には合戦の主力武器として浸透しました。
戦国時代には集団戦のため、味方をも傷付ける恐れのある薙刀は姿を消し、槍が主力となります。
薙刀がふたたび注目されるようになった江戸時代。
武道としての「薙刀術」が確立され、薙刀術は武家の女子が身に付けるべき教養のひとつとなり、女子の護身術として広く認められます。

・モンスタークレーマーと化した興福寺?

>藤原顕光が、道長に「興福寺別当を追い払った」と報告してきました。
道長卿の許に右大臣・藤原顕光卿が「朝堂院から僧共を追い払ってやりました」と自慢げにやって来ました。
道長卿が顕光卿を労います。
顕光卿は「定澄たちが左大臣殿と会いたがっている」と言います。
道長卿は「この上何を求めるのか」と戸惑いながらも、「内裏に上げるべきか?」と尋ねる顕光卿に「それはならぬ、。後日土御門殿に参れと伝えよ」と命じました。
顕光卿は「はぁ、しつこいのう」とぼやきつつ下がっていきました。  

『光る君へ』より

そして土御門殿で道長と定澄権大僧都が面会しました。
そして従者の慶理が文を差し出しましたが道長卿は受け取りません。
道長卿は目の前の文を手に取る事もせず、「この上何だ」と問い質しました。
定澄権大僧都は「では申し上げます」と南都に引き上げるための条件を提示しました。

1つ、大和守が言った寺の僧が為頼邸を焼き払った事、田畑を踏みにじった事について調べて欲しい

2つ、頼親の大和守・源頼親を解任してほしい

3つ、右馬允当麻為頼を解任していただきたい

4つ、我らの蓮聖が公の法会への参列を止められておるのを、免じて頂きたい

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長はため息をつき「いかなる理由があろうとも、屋敷を焼かれて田畑を荒らされた側を罰するには理に適わない。よって1,2,3の申し入れは受け付けない。また蓮聖の事を頼むのなら、再度そのことの申し文を出す様に」と答え、「速やかに南都へ戻って御仏の道に生きるがよい」と言いその場を去りました。
しかしそれを聞いた定澄権大僧都は、笑顔を見せます。
道長卿は疲れた表情で脇息にもたれていました。
部屋を退出した定澄権大僧都は慶理に「よかった。一つでもこちらの望みが通ったならば上出来だ」と言います。
慶理は頷きました。

『光る君へ』より

>藤原顕光が、道長に「興福寺別当を追い払った」と報告してきました。
藤原顕光卿は「朝堂院から僧共を追い払ってやりました」と得意げに報告します。
『興福寺別当』は定澄権大僧都の事を指します。
顕光卿が追い払ったのは『朝堂院に詰め掛けた僧たち』です。
『御堂関白記』寛弘3年(1006年)7月13日条には『「朝堂院に参集している僧たちは、多数に上っている」ということだ。検非違使を遣わして追い立てるべきであるという宣旨が下った。右大臣(藤原顕光)は、その宣旨の上卿(しょうけい)を勤めた。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘三年(1006年) 七月十三日条

>「よかった。ひとつでもこちらの望みが通ったならば上出来だ」
>ぬけぬけと言い放つ定澄は老獪で、道長より一枚上手のようです。
『御堂関白記』寛弘3年(1006年)7月15日条には、『この申文(もうしぶみ)の中には、裁可できない第三条までのことも入っている。そこで、そのまま奏聞することはできない。もし蓮聖(れんしょう)について申上したいのならば、他の申文を作って奏聞しなければならない。これらの雑事を教示した。僧たちは、事毎に道理であると称し、還り去った。』とあり、作中でも道長卿は「いかなる理由があろうとも、屋敷を焼かれて田畑を荒らされた側を罰するには理に適わない。よって1,2,3の申し入れは受け付けない。また蓮聖のことを頼むのなら、再度そのことの申し文を出す様に」と答えています。
蓮聖の件についても申し文を出す様に伝えているだけで寺側の要求を受け入れた訳ではないと思います。

『御堂関白記』 寛弘三年(1006年) 七月十五日条

・日本の仏教は血腥い歴史がある?

>それにしても一体この僧侶の姿はなんなのか?
>先週から頭を悩ませております。
例を挙げておかしいと思うならなぜそれについて自分で調べないで疑問投げっぱなしなのでしょうか。頭を悩ませるのはパフォーマンスだけでしょうか。

>どうやら日本の宗教は、海外からすると理解し難いもののようでして。
宮中の年中行事には、元日の朝に宮中の庭で天皇が天地四方の神祇(天地の神)を拝して厄除けと五穀豊穣を祈る『四方拝』や旧暦12月30日に疫鬼や疫神を祓うために行われた『追儺』など陰陽道に基づいた行事があります。
また、仏教の始祖・釈迦の誕生を祝う灌仏会や現代の『お盆』に当たる『盂蘭盆会』など仏教由来、『賀茂祭(葵祭)』や『新嘗祭』など神道由来の行事があります。

また、平安時代には、疫病や自然災害は神や怨霊の祟りによるものと考えられていました。(御霊信仰)祇園御霊会は貞観5年(863年)霊を鎮めるために始めた祭りで、現在でも無病息災を願う7月の京都では『祇園祭』として続いています。

>天皇が仏教を信じようと全く問題ナシ。
天皇に関するどの様な事が仏教で道教なのか具体的に説明してください。
譲位により皇位を後継者に譲った天皇は『太上天皇(上皇)』という尊号を受けます。
また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称しました。
世俗に在る上皇と仏門に在る法皇の間に身位の違いはなく、『法皇』の称号は平安時代の宇多天皇が初めて使用されました。
天皇は公職で、天皇が寺に関われば公務・国務になります。
上皇・法皇になった後は公職を退いた私人であり、上皇が自分の信心から寺を建てる際に政治的制約が生じずその寺に荘園を寄付させ、荘園の既得権益を得る事も可能でした。
こうして『院』が次第に権力を持ったのが『院政』です。

>ときどき道教も混ざります。
>『光る君へ』の安倍晴明にしても『鎌倉殿の13人』の阿野全成にしても、道教がハイブリッドされた術を使っていました。
朝廷では中務省に属した陰陽寮の職員である官人陰陽師が祭祀や卜占、暦の作成などを担い、陰陽道(中国大陸由来の陰陽五行説や天文学の知識を用いた占術、祈祷、祭祀などを行う体系)を使う陰陽師が存在しました。
安倍晴明公も官人陰陽師の一人です。

『鎌倉殿の13人』に出てきた阿野全成公は平治元年(1159年)平治の乱で父・義朝公が敗死した後、醍醐寺にて出家しました。
醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で、醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、修験者(山中で修行をする山岳信仰、密教、道教などの流れをくんだ修験道の道者)の霊場として発展した寺院です。
『鎌倉殿』作中では祈祷や卜占や呪詛などで兄・頼朝公を支えていました。
全成公がはじめて登場した際には、九字(道教や密教で使用される呪文)を切り風を起こそうとして失敗する場面があり、彼の最期で嵐を呼ぶ伏線となりました。
これは、暴風を起こす風の神『悪禅師の風』の伝説から着想を得た演出ではないかと言われていました。

『鎌倉殿の13人』より

>戦国大名のもとで軍師のようなことをしている太原雪斎のような人物についても、海外に説明しようとするとなかなか大変です。
太原雪斎和尚は臨済宗の僧で駿河・臨済寺にて今川義元公の補佐役・養育係となりました。
雪斎和尚は義元公を政治・軍事の両面で全面的に補佐し甲相駿三国同盟の締結に尽力します。
『今川分限帳』では「執権」と評され、家康公も「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と評しました。
雪斎和尚の様な僧侶でありながら政治・軍事・外交に力を発揮した人物として、小田原北条氏の板部岡江雪斎や毛利氏の安国寺恵瓊などがいます。

>興福寺のように、ありのままに暴れる宗教関係者となると、邪教徒認定されることでしょう。
>道長は「御仏の道を歩め」として、武装に頼らず真面目に修行しろと命じています。
南都七大寺の一つで藤原鎌足公・不比等公以来の藤原氏の氏寺として特に藤原北家に手厚く保護された名刹で、平安時代には神仏習合の概念から春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領し、権威は比叡山延暦寺と並び『南都北嶺』と称された大寺院を『邪教徒認定』ですか。
誹謗中傷も良いところですが。
道長卿は寺側の4か条の要求については「蓮聖の事を頼むのなら、再度そのことの申し文を出す様に」と答え、「速やかに南都へ戻って御仏の道に生きるがよい」と言っています。
訴えならば強訴ではなく申し文を出すのが筋と言っているのです。
興福寺、延暦寺などの大寺社は寄進などで得た荘園も多く、その経済力は国司も凌ぐほどでした。
度々諍いもあり僧兵などの武装勢力を従え、春日大社の神木(興福寺)や日吉社の神輿(延暦寺)を担いで朝廷に対して強訴を行い要求を主張する様になり、それが通らない時は神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出ました。
また、衆徒・神人とよばれる俗人を多数配下に置き、境内は経済・学問などの中心地でもありました。

『天狗草紙絵巻 興福寺巻 模本』
鎌倉時代

>これは北条泰時も「御成敗式目」で規定しました。
>御仏の道どころか復讐の道を歩んだ公暁のせいで、源実朝は横死を遂げていますので……。
『御成敗式目』第一条には『可修理神社専祭祀事(神社の修理をして大切にし、祭事を執り行う事)』、第二条 には『可修造寺塔勤行仏事等事(寺や塔を修理して、僧侶としての勤めを行う事)』とあります。
鎌倉時代は神仏習合の観点から寺社を共に敬い、祭事や日々の勤行をそれぞれ怠らず武士に対しても戦乱で破壊された寺社を修繕をするなど大事にする様取り決めたのでしょう。

>戦国武将が寺社で勉強を習うということも、海外では理解しにくいようです。
>遣唐使の廃止以降、情熱を持って中国へ渡り、勉強してくるのは仏僧でした。
>最新鋭の学問を身につけてきた僧侶のいる寺は最高の教育機関になります。
>殺生を避ける仏僧なのに、人を殺す武将に勉強を教えるってどういうことなの?
>ましてや軍師になるとはなんなんだ!
>そう困惑されるわけですね。
室町時代、京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)といわれる五つの寺院があり、五山僧侶は漢文や学問を操る人材として寺院での勤めだけでなく、武家の外交顧問や日明貿易などの海外との外交文書の起草などで世俗的役務に活躍しました。
禅僧たちも戦国大名との関係を深めるために、その領国に下って活動し、雪斎和尚の様な僧侶でありながら政治・軍事・外交に力を発揮した人物はしばしば戦国武将に仕えて兵法、漢学、礼法、政治学などの教育や内政・外交の相談を請け負いました。
何見氏は『海外では理解しにくいようです』『困惑されるわけですね』で止まって説明努力をしないようなので上記の英訳も貼っておきます。

>『どうする家康』でも生臭坊主が出てきて、「宗教はやばい」と現代の問題へと誘導するような描き方でしたが、新宗教とそれ以外は区別して考える必要があるでしょう。
浄土真宗の宗派である本願寺教団は『一向宗』と呼ばれました。
石山本願寺を中心に一向宗門徒は勢力を伸ばし、加賀国の様に門徒が一揆を起こして守護を倒し『門徒の持ちたる国』になった国もあります。
『麒麟がくる』でも加賀国の一向宗門徒と和議を結んでいるものの、朝倉義景公が最大の脅威として捉えているセリフがありました。

『麒麟がくる』より

さて、『どうする家康』で描かれた三河一向一揆では、永禄6年(1563年)三河では本證寺住職の空誓上人率いる一向宗が門徒を集め『悪人正機』を説き、城の様な寺内町は一大勢力となっていました。
その中には松平家譜代の家臣もいました。
本證寺から年貢を取りたい家康公は重臣たちの反対を押し切り、先代・広忠公以来の『不入権(外部権力の権力行使を拒否することができる権利)』を破り、年貢を寺から取り立てようとしました。
これに異を唱えた寺側は、門徒を動員し『進者往生極楽 退者無間地獄』と煽り蜂起します。
家臣団からも信仰のために一揆側に付く者がおり、家康公は鎮圧に苦戦しました。
籠城戦や城攻めの末、半年間も続いた戦は収束しました。
一揆に加担した武士らを三河国外に退去させ講和条件を反故にし、一向宗の寺を『元通り』破却しました。
この後、三河では20年間、一向宗は活動できませんでした。

『どうする家康』より

・中宮様のお心が開かねばどうにもならない?

>まひろが藤壺の局で執筆していると、疲れた顔をした道長が姿を見せます。
興福寺の強訴の件が落ち着き、まひろさんは藤壺の房で物語を書き続けています。
そこに道長卿が訪れました。
まひろさんが「お疲れでいらっしゃいますね」と労ると道長卿は「大したことはない」と答えます。
まひろさんは無礼を詫びました。
道長卿が「帝と中宮様は如何におわすか」と尋ねまひろさんが「お渡りはございます」と答えました。 
そして、まひろさんは「敦康親王さまにお会いになるだけではなく、帝と物語の話はするのですが、お手も触れられません」と言います。
道長卿は「いまだ中宮さまにお手は触れられぬか」と訊き、まひろは答えに窮します。
道長卿は「お前…何とかならぬか?このままでは不憫すぎる」とまひろさんに振ります。
まひろさんは「畏れながら中宮様のお心が帝にお開きにならないと前には進まぬと存じます」と述べました。
道長卿は「それにはどうすればよいのだ」となおも詰め寄ります。
まひろさんは「お急ぎにならぬ様に」と忠告しますが、道長卿は「皇后定子さま崩御から6年が経ち、焦らずにはいられない」と言います。
まひろさんは「力は尽くしております」と言いますが、道長卿は「お前が頼みだ。どうか頼む」と頭を下げます。

『光る君へ』より

道長卿はまひろさんに「…あ、邪魔をしたな」と一礼し去ろうとしましたが、ふと「弟がおったな?」とまひろさんの弟・惟規さまの事を思い出し尋ねました。
まひろさんは「任官するまで大層時がかかり、今は中務省で内記として仕事をしております。
左大臣さまにお目にかかった事があると言っておりました」と話し、「そうか」と道長卿は頷き房を去りました。
しかしこの二人の関係は、女房たちの間で噂となりました。
「左大臣さまと藤式部…足を揉む仲とも思えませんけど」「お親しそう〜」「ひたひたしてる」「ひそひそでしょ」「ひたひたよ〜」などと女房たちは口々に噂し、笑います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まひろは手は尽くしているというものの、実質執筆だけのようにも思えます。
>それでも道長は猜疑心が薄い性質で、かつまひろを信じています。

宮の宣旨は「左大臣さまと北の方さまのお計らい」「物語を書くのが務めのそなた」と道長卿と倫子さまの意向で物語の執筆が務めと業務内容を伝え、赤染右衛門からも「藤式部の務めは物語。私の務めは学び事の指南」と言われており、女房たちもまひろさんの仕事は物語の執筆という意識はあると思います。
また、まひろさんが落ち着いて物語を書く事ができないので里に戻って書きたいと言った時は道長卿は「帝は、続きができたらお前に会いたいと仰せだ。お気持ちが変わらぬ前に続きが欲しい。」と言います。
これは、物語を書いて帝のお心を藤壺に向け、ゆくゆく彰子さまと睦まじくなって頂きたいと言う事でしょう。
道長卿は「敦康親王さまにお会いになるだけではなく、帝と物語の話はするのですが、お手も触れられません」とまひろさんから聞き「何とかならぬか?」と言います。
寛弘三年(1006年)時点で彰子さまは18歳になっており、懐妊も可能です。
政権交代を願う伊周卿と兄妹である定子さまの産んだ敦康親王に加えて東宮・居貞親王には皇子もおり、彰子さまが産んだ皇子がいないと困ると道長卿は本当に焦っているのでしょう。

>足を揉む仲かはわからないけれど、ヒソヒソ、ヒタヒタしている……そう語られているんですね。
>実際にこの二人の関係は判然としませんが、こうして語り合う女房がいたことは確かなのでしょう。
14世紀成立の系図集『尊卑分脈』の紫式部の項には、藤原為時の子の一人として『女子』と大書した周りに注として次の言葉が記されているそうです。
『云々』が付くためこれは伝聞ですが、妾の一人であると二人の関係は様々に伝えられたのだと思います。

『尊卑分脈』第二篇第三

『紫式部日記』「渡殿に寝た夜」には、『渡殿に寝た夜、局の戸を叩いている人がいると聞ききつけたが、恐ろしいので、返事もしないで夜を明かした』とあり、戸を叩く殿方と和歌のやりとりがなされます。
この殿方が道長卿だと言われていますが、その真偽のほどは定かではありません。

『紫式部日記』「渡殿に寝た夜」

>日本では家柄に箔をつけるため、不義密通の噂すら利用する世界的にも変わった文化があります。
『家柄に箔をつけるため、不義密通の噂すら利用する世界的にも変わった文化』とは具体的にどの様な文化でしょうか。
一般的には父親に認知されない庶子、私生児を歴史上では『御落胤』と呼びます。

大河ドラマでの例
・『太平記』…足利尊氏公に実子と認知されず、弟・直義公の養子となった足利直冬公
・『平清盛』…白河院の御落胤疑惑のある崇徳院や平清盛公
・『国盗り物語』『麒麟がくる』…斎藤道三公の子息であるが土岐頼芸公が側室深吉野さんに産ませた御落胤疑惑のある斎藤義龍公

・道長は気遣いの達人?

>さて、そのころ土御門では源倫子が四女・嬉子を出産し、寝込んでいました。
寛弘4年(1007年)1月5日。
倫子さまは四女嬉子(よしこ)さまを出産しました。
「6度目の出産は重く、倫子はしばらく寝込んだ。」と語りが入ります。

『光る君へ』より

そして同じ日、藤原斉信卿の屋敷が焼けてしまいました。
柱に寄り掛かりすっかり魂の抜けた様な斉信卿に公任卿が「家の者は大丈夫そうだ」と言います。
道綱卿は慰めるつもりで、「運が悪かったね。風が強いし、今日…。よかったらうちに来てもいいよ」と茫然自失の斉信卿に声を掛けています。
公任卿は「別邸はありますので…。そっとしておいてやって欲しい」と道綱に注意を促しました。
また道長卿の気遣いで、『中納言の着替え』として直衣一式が準備されました。
それを聞いた道綱卿が「道長は気が利くな、素早いし」と嬉しそうな声を上げ、公任卿は咳払いをして道綱卿を諫めます。
道綱卿は「すまん…また言ってしまった」と謝りました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

その頃、道長卿は人事の件で帝の御前にいました。
この時期蔵人は3名の欠員がありました。
道長卿は帝にそれを上奏し、帝は伊周卿の嫡男・道雅卿を入れようとします。  
帝は「亡き関白の子ゆえ、誰も異は唱えまい」と仰いました。
道長卿は道雅卿が16歳と若年である事から、六位蔵人に年長の者を1人入れる案を出しました。
帝は「好きに致せ」と仰います。
道長卿は「藤原惟規を入れてはどうか」と提案し、帝もそれに同意されました。

>六度目の出産ながら寝込むことが珍しいのですから、倫子は頑健な肉体の持ち主ともいえます。倫子さまが四女嬉子さまを出産した際、彼女は44歳での出産でした。
この時に生まれた嬉子さまは彰子さまの次男・敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内します。
『御堂関白記』寛弘4年(1007年)1月5日条には『昨日の酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃から、女方(源倫子)は、重く病んだ。これは御産によるものである。卯剋(うのこく/午前5時~午前7時)に、女子(藤原嬉子)を産んだ。巳剋(みのこく/午前9時~午前11時)に臍尾(へそのお)を切り、乳付を行った。』とあります。

>場面変わって、藤原斉信がひどく落ち込んで、呆然としています。
>なんでも屋敷が焼けたとか。
>家のものは無事だったと公任が言い、道綱も風が強かったし運が悪かったと慰めます。
公任卿が「家の者は大丈夫そうだ」と言っています。
家族は助かった様です。
中御門にあった斉信卿の邸は火災で何も取り出せず、その日の宿直の着替えも無いため、道長卿が着替え一式を用意したのでしょう。
『御堂関白記』寛弘4年(1007年)1月5日条には『亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、火事が有った。右衛門督(えもんのかみ/藤原斉信)の家であった<中御門(なかみかど)である>。「一物も取り出すことができなかった」ということだ。(藤原斉信は)叙位の議に出席していて、宿直(とのい)装束が無かった。束帯を着たまま、まだ内裏(だいり)にいる」ということだ。そこで宿直装束一具(よろい)を届けた。袿(うちき)を四枚に直衣(のうし)・指貫(さしぬき)・合袴(あわせばかま)であった。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘四年(1007年) 正月五日条

・伊周の嫡男、道雅は怒れる青年に育っていた?

>藤原伊周は、自邸で道雅任官の件を聞き「帝は我が家を引き立ててくれる」と喜んでいます。
藤原伊周卿の邸では、伊周卿が嫡男・道雅卿と食事をしています。
道雅卿が五位蔵人に指名された事で、伊周卿は「帝は我が家を引き立てようとしてくださっておる」と安堵しています。
「心して務めよ」と言う伊周卿に道雅卿は、「別に嬉しくもないですけど、やるべき事はちゃんとやリますよ」と素っ気ない態度で答えます。
伊周卿は「この機を生かすのだ」と道雅卿に言い聞かせました。 
しかし道雅卿は「この機を生かすとは何ですか?」と尋ねます。
「父上の復讐の道具にはなりませんから」とはっきりと言い、食事を続けています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>幼少期に父の伊周と叔父の隆家が失脚する様を目の当たりにした道雅は、色々と心が荒んでしまったようで、バイオレンス貴公子として歴史に名を残しております。
伊周卿の嫡男・道雅卿。
後に三条帝(『光る君へ』作中では東宮・居貞親王)の皇子・敦明親王の従者・小野為明を拉致し自邸へ連行させ、瀕死の重傷を負わせ謹慎処分になったり、花山院の皇女・上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見された事件の黒幕とされるなど、乱行の限りを尽くし、荒三位、悪三位の異名を取りました。
反面、和歌の技巧を発揮し、中古三十六歌仙の一人として『後拾遺和歌集』にも歌が入っています。
また、三条帝の皇女で伊勢斎宮を退下し帰京していた当子内親王との道ならぬ恋と破局の中で、道雅が当子内親王に贈った歌を詠みました。
この歌は『小倉百人一首』63番の歌になっています。

今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
左京大夫道道雅

意訳:
今となっては、あなたへの想いをあきらめてしまおう、ということだけを、人づてにではなく(あなたに直接逢って)言う方法があってほしいものだ。

『後拾遺集』恋・750
『小倉百人一首』63番

藤原道雅卿を演じる福崎那由他さんは、公式HP「君かたり」で反発する道雅卿について、『きっと父親の背中とかは、たぶん見てきたと思うんですよね。でもその野心あふれる姿だったりとか自分の出世、出世とかそういうふうな背中を見てしまうと、どうしても自分はそうなりたくないみたいな、そういうのに縛られたくないみたいな。そういう気持ちがちょっとずつ芽生えていったんじゃないかなというふうに思うんです。』と語っています。

>果たして『光る君へ』ではこのまひろ同僚惨死事件を扱うのかどうか。
>私は出る可能性はなかなか高いと考えております。

何見氏は嬉々として上東門院女房惨殺事件を取り上げ、まだ父に反発する10代の道雅卿しか見ていないのにバイオレンス貴公子の面だけを期待しているのは如何なものかと思います。

・中宮は物語が理解できない?

>出世を遂げた弟の藤原惟規は、父のお下がりだという六位の衣装を着てまひろの前に現れます。まひろさんの房に父・為時公のお下がりの緑の袍を着た惟規さまがやってきました。
まひろさんに「よく似合うわ」と褒められ、惟規さまは「ちょっとカビ臭いけどね」と言います。
いとさんが大事に取っておいてくれたのです。
惟規さまは「案外狭い場所だ」と言ってまひろさんに「しっ」と諌められます。

『光る君へ』より

まひろさんは簀子縁に座り、惟規さまは階に腰掛けました。
まひろさんは「蔵人になれたのは左大臣さまのお蔭よ。顔を潰さない様に」と諭します。
惟規さまは「分かってる」と言いながらも「さっきの案内をしてくれた女房も悪くないな」とも言います。
その女房は藤原道綱卿の娘(宰相の君)でした。
惟規さまは「六位の蔵人じゃ相手にされないか」と自嘲します。
まひろさんは「惟規には身分の壁を超えて欲しい。私の夢」と言い、惟規さまが「なにそれ」とツッコミました。
惟規さまは「すごい夢託されたな」と笑いながら、「実は…」と話を切り出します。 
まひろさんが「誰かいるの?」と尋ねると、惟規さまは「神の斎垣を越えるかも、俺」と打ち明けました。

『光る君へ』より

そこへ「中宮さまのお越しにございます」と告げられたため、惟規さまは慌ててその場を去りました。
まひろさんが「御呼びがあれば参りましたのに」と声を掛けると、彰子さまは「藤式部の局が見たいのだ」と言います。
彰子さまは側に侍った左衛門の内侍に「そなたはよい」と言います。
戸惑う左衛門の内侍に彰子さまは「下がれ」と言いました。
左衛門の内侍が下がった後、彰子さまは房に入り畳が敷かれた上座に座りました。
彰子さまは「そなたの物語だが…面白さが分からぬ」と言います。
まひろさんは「左様でございますか」と答えます。
彰子さまは「男たちの言っている事も分からぬし、光る君が何をしたいのかも分からぬ。帝はそなたの物語の、どこに惹かれておいでなのだろう」と言います。
まひろさんは「お心は計り知れませぬ」と前置きしたうえで「私の願い、思い、来し方を膨らませて書いた物語が、帝のお考えとどこか重なったのやも知れませぬ」と自らの意見を述べました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

彰子さまは納得が行かない様子です。
そこへ敦康親王が来て、「双六を致しましょう」と彰子さまを誘います。
「私では敦康さまのお相手になりませぬ」と言う彰子さまに、親王は「今日は中宮様が勝てるようにします」と言って彰子を連れて行こうとします。
彰子さまは振り返るとまひろさんに「また来てよいか?」と尋ねました。
まひろさんは「もちろんでございます」と答えました。
まひろさんの文机の上には、書き上げた物語が文鎮で抑えられています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>弟の藤原惟規は、父のお下がりだという六位の衣装を着てまひろの前に現れます。
>よく似合うと褒めるまひろ。
>ちょっとカビ臭いと惟規。
惟規さまが着ている『衣装』は束帯です。
せめて装束では。
六位蔵人はかつて父・為時公も任官されていたたため、いとさんが大切に保管していた様です。
為時公のお下がりの緑の袍を着た惟規さま。
惟規さまが『カビ臭い』と言う場面。
1話で長らく官職を得られなかった為時公が雨漏りする家でずっと眠っていた緑の袍に袖を通した際にも言っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>「神の斎垣を越えるかも、俺」
>なんだかちゃっかりとそう返す惟規。
>タブーを超えた恋をするかもしれない宣言であり、いったい何をやらかす気でしょうか。
姉のまひろさんと恋バナになった惟規さま。
まひろさんに「惟規には身分の壁を超えて欲しい」と言われ、「神の斎垣を越えるかも、俺」と打ち明けます。
まひろさんの脳裏にはかつて恋心が募った道長卿から送られた思いの丈をぶつけた歌が浮かんだかもしれません。(第6話)

ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 恋しき人の 見まくほしさに
藤原道長

意訳:
私は、越えてはならない神社の垣根も踏み越えてしまいそうです。恋しいあなたにお会いしたくて

『光る君へ』より

こちらはドラマでの創作ですが、この歌の本歌になった歌があります。

ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 大宮人の 見まくほしさに

意訳:
私は、越えてはならない神社の垣根も踏み越えてしまいそうです。都からおいでになった方を見たくて。

『伊勢物語』第七十一段「神のいがき(斎垣)」

『ちはやぶる』は『神』に掛かる枕詞です。
この歌は、伊勢の斎宮に勅使として参ったある男が斎宮の女房と色好みの話をした際、女房が個人的な感情を詠んだものです。
斎宮は伊勢神宮に奉仕した斎王の御所です。
斎王は伊勢神宮に巫女として奉仕する未婚の内親王の事で、斎宮の退下は通常、天皇の崩御或いは譲位の際とされました。
『伊勢物語』の斎宮の女房は斎王に仕えている女房で都から来た男に叶わぬ恋をしたのでしょうか。

さて、『神の斎垣を越える』宣言をした惟規さまですが。
『今昔物語集』によると、上賀茂神社と下鴨神社に奉仕する賀茂斎院・選子内親王に仕える女房・斎院中将と恋愛関係だったのだそうです。
35回ではその事が描かれる様です。

>諸葛亮が「思った通りですね」と涼しい顔で言うような雰囲気です。
>まひろは中宮を理解しつつあります。
>心を開いていないのだ、と。
>心という器を閉ざしたままでは、いくら水を注いでも流れてしまう。
>しかし、蓋が開けば、一気に流れ込み、どうなるかわかりません。
>物語を読解する上でそれができれば、帝との距離も縮まり一石二鳥。
何見氏のレビューはしたり顔の諸葛亮がよく出てきますが彰子さまの気持ちの動きは考察しないのですか。 
彰子さまはまひろさんに話を聞くため、彼女の房に自ら訪問をし、2人きりで話したいため左衛門の内侍に「そなたはよい。下がれ」と言いました。
彰子さまは「そなたの物語の面白さが分からぬ。男たちの言っていることが分からぬ。光る君が何をしたいかも分からぬ」と分からないものをはっきりと分からないと意思表示する様になってきました。(おそらく雨夜の品定めの場面を読んだのでしょうか)
そして「帝はそなたの物語のどこに惹かれているのだろうか」と帝の思いに共感したいのにどう捉えていいのかと気持ちを吐露しています。
彰子さまなりの明確な意思が現れてきているのでしょう。
しかし、敦康親王やまひろさんなど気を許せる人の前では意思表示できても、男女関係の機微に疎いためなかなか閨房には至らないのかもしれません。
道長卿にまひろさんが「中宮のお心が帝にお開きにならない限り、前には進まない」と言いましたがまだまだの様です。

・「帚木三帖」は大好評?

>まひろの物語は、心を開いている読者には奥深く沁み込んでいます。
四条宮では藤原公任卿が北の方の敏子さまに光る君の物語を語って聞かせています。

眠りこけている様などが見苦しいほど変わっていて、だんだん正体がわかるにつれ、情けなく心やましくなりましたが、『人違いと分かってしまうのもみっともないし、女も変に思うだろう。意中の人を尋ね寄ろうにも、これほど逃れようとする心があるならば、甲斐がない、さぞ愚かしいと思われるだろう』とお思いになります

『源氏物語』第三帖「空蝉」

公任卿が「ハハ…とんでもないな、この男」と言います。 
すると敏子さまは「貴方にも似たような事おありなのではございませんか?」と尋ねます。
公任卿は「何を申すか、俺はこのような間抜けなことはせぬ」と言い、本を閉じます。

『光る君へ』より

藤原行成卿の邸・桃園第では、行成卿が物語を読んでいました。

女はようやく目覚めると、思いもかけないあまりの出来事に途方に暮れた様子になるだけで、思慮が浅く、可哀想なほど何の心構えもありません、男をまだ知らぬにしては…

『源氏物語』第三帖「空蝉」
『光る君へ』より

藤原斉信卿は懇意になったであろう小少将の君の膝枕で物語を読んでいました。

大人びていて、弱弱しく思い乱れることもありません。私だとは知らせまいとお思いになるけれど、どうしてこのようなことにと…

『源氏物語』第三帖「空蝉」
『光る君へ』より

藤壺では女房たちが集まり筑前の命婦が読む物語に耳を傾けています。

女が後に思いめぐらしたりしたら、私にとっては何でもないことでも、あのつれない人がひたむきに名を隠そうとするのは流石に気の毒なので、度々の方違えにかこつけてこちらに来ていたのだとうまく言いつくろいなさります

『源氏物語』第三帖「空蝉」
『光る君へ』より

まひろさんは机に肘をつき、筆を手に思いを巡らせています。

『光る君へ』より

そこに宮の宣旨が現れ帝のお渡りを伝えました。
帝は「是非聞いてみたい事があって参った」と仰り、まひろさんの房の上座にお座りになります。
そして「なぜそなたはこの物語を書こうと思ったのだ?」とお尋ねになりました。
まひろさんは「お上に献上する物語を書けと、左大臣さまが仰せになりました」と答えます。
そして「私は物語を書くのが好きで、光栄なことだと思い引き受けました。何が帝のお心を打つのか思いつかず、左大臣さまに帝のことをあれこれ伺いました。書いているうちに、私は帝の悲しみを肌で感じるようになりました」と打ち明けました。
帝が「この先はどうなるのだ?」とお尋ねになります。
「一言では申し上げられませぬ」とまひろさんは答え、帝は「そうか…」と仰いました。
さらに「帝は朕に物おじせずありのままを語る者はめったにおらぬ、されどそなたの物語は朕にまっすぐ語りかけて来る」と仰いました。
まひろさんは「畏れ多いことにございます」と言います。
帝はお立ちになり、「また来る」と仰り下がられました。
「私ではなく、中宮様に会いにいらしてください」
まひろさんが心で叫ぶその頃、中宮彰子さまは夕日の中に1人座していました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>行成はともかく、公任と斉信の姿は皮肉にも思えます。
>この二人がまひろに会いにきた時、地味な女だと自己紹介していたまひろ。
>そして二人が去ると「打毱」と書いておりました。
>まひろはあの二人のゲスなロッカールームトークを元に書いていたとも言える。
>それに気づかず楽しんで読んでいるとは、なかなかおそろしいですね。
何見氏の言う『公任卿と斉信卿、二人のゲスなロッカールームトークを元に書いていた』というのは第三帖『空蝉』ではなく、第ニ帖『帚木』の冒頭『雨夜の品定め』です。
第ニ帖『帚木』では冒頭、雨の夜に貴公子4人が恋愛体験や好みの女性などを論じ合います。(『雨夜の品定め』)
まひろさんが『打鞠』という文字を紙に書き付けたのは公任卿と斉信卿が去った後なので彼らはまひろさんが何を意図して『雨夜の品定め』の場面を書いたのかは分からないかもしれません。
斉信卿は公任卿に、「あいつは地味でつまらぬ女ってお前前に言っていなかったか?」と尋ねていたので、殿方の品定めはあの時の藤式部の話かと薄々分かった上で読んでいるかもしれません。
因みに敏子さまに「貴方にも似たような事おありなのではございませんか?」と尋ねられた公任卿、第3回では「文だの歌だの送らないでも訪ねてしまえばいいんだよ」と言っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>坂ノ上おじゃる丸の声優を担当している西村ちなみさんが、筑前の命婦を演じている。
>おじゃる丸バージョンでの朗読も公開中です。
藤式部(まひろさん)の書いた『源氏物語』は書写され帝や彰子さまだけでなく貴族や女房、果てはその家族の間にまで広まります。
作中、藤原公任卿と妻・敏子さま、藤原行成卿、藤原斉信卿とその恋人である小少将の君、藤壺の女房たちが第三帖『空蝉』をそれぞれ読んでいます。
源氏の君は、受領の人妻・空蝉と無理矢理一夜の契りを結び、のめり込んでいきます。
第三帖『空蝉』では、源氏の君は三たび忍んできますが、空蝉は拒み薄衣を蝉の殻のように寝所に残して抜け出しました。
源氏の君は闇の中、空蝉と夫の前妻の娘・軒端の荻を間違えた事に気付きますが行きがかり上軒端の荻と契ります。
この『源氏物語』中でも源氏の君が夜這いの末、行きずりの恋に溺れて大失敗するエピソードをおじゃる丸の声でもあり、筑前の命婦を演じる西村ちなみさんが朗読しています。

>光源氏が成人し、女遊びを繰り広げていた「帚木三帖」が絶賛されているようです。
>前回、惟規がおもしろがり、いとが下品だと評していた箇所ですね。
何見氏は解説にしても言葉を省きすぎです。
『帚木三帖』は『源氏物語』第二帖「帚木」、第三帖「空蝉」および第四帖「夕顔」の三帖をいいます。
作中では第三帖『空蝉』が読まれ、第四帖「夕顔」はまだ出てきていません。
惟規さまが「面白いよそれ」と絶賛し、いとさんが「そのような下品な殿御たちのお話、帝がお喜びになりますでしょうか」と心配していた箇所は第二帖 「帚木」の『雨夜の品定め』の部分です。

『源氏物語』第二帖「帚木」

・曲水の宴にて?

>3月3日、上巳の祓の日、土御門邸で曲水の宴が開かれます。
寛弘4年(1007年)3月3日。
上巳の祓の日、土御門殿で曲水(ごくすい)の宴が行われました。 
水の神によって穢れを払おうとするこの行事を道長卿が催した理由は彰子の懐妊を願っての事でした。
庭に桃の花が咲き遣水に沿って貴族たちが座します。
大勢の賓客が訪れる中、倫子さまは姿を見せませんでした。
彰子さまは「母上もおいでになれればよかったのに」と言いますが、赤染衛門が「未だご本復となりませぬ故」と答えます。
やがて式部大輔・菅原輔正卿が「本日のお題は『流れに因って酒をうかぶ』にございます」と詩題を出し、一同に知らせます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

盃を載せた水鳥を模した羽觴(うしょう)が遣水を流れて来ます。
しかし、その時雨音が聞こえてきました。
雨が上がるまでしばしの中断となり、庭に出ていた者たちは母屋へ入りました。

『光る君へ』より

まひろさんが濡れた身体や装束を拭く布を源俊賢卿、藤原行成卿、藤原斉信卿に渡し、道長卿はこの様な天候になった事を詫びます。
俊賢卿は「左大臣さまのせいではない」と道長卿を庇い、斉信卿は「昔は雨に濡れるのは平気だったのにすっかり弱ったな。年を取った」と言います。
また斉信卿は「道長は昔も今もいい体をしておる」と道長卿の背中を叩きます。
俊賢卿が「上に立つ者は、きりりとした体をしておらねばならぬゆえ」と言い、斉信卿も同意します。
道長卿は「きりりなど考えたこともなかった」と言い、皆の笑いを誘います。
その様子を彰子さまが御簾の奥から見ています。

『光る君へ』より

俊賢卿がまひろさんに「そなたは今流行りの物語を書いておる女房か?なぜ光る君を源氏にしたのだ?」と尋ね、まひろさんが「親王様では好き勝手な事をさせられませぬ故」と答えます。
俊賢卿は「臣下の籍に下ろされた亡き父高明を思い出した」と言います。
「父は素晴らしかった」と言う俊賢卿。
まひろさんは「どなたのお顔を思い浮かべられても、それはお読みになる方次第でございます」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

一方斉信卿は、「光る君は俺のことかと思っていたぞ」と言い、一同は笑いをかみ殺しています。
行成卿は「少なくとも道長さまではない。笛もできないし」と言い、道長卿が「いや…俺だって少しはできるぞ」と反論します。
斉信「では笛を持って来よう」と言い、笑いが起きます。
そのやり取りを彰子さまが御簾越しに見ていました。

『光る君へ』より

雨が上がり曲水の宴が再開されました。
赤染衛門の夫で文章博士・大江匡衡公の自作の漢詩が読み上げられます。

時人 処を得て 青苔に坐し 
酒を清流に汎かべて 取次に廻る
水は瀉ぐ 右軍三日の会
花は薫る 東閣 万年の杯
波月を巡行するは 明府に応じ
沙風に斟酌するは 是れ後来なればなり

『江吏部集』大江匡衡
『光る君へ』より
『光る君へ』より

彰子さまはまひろさんに「父道長が心から笑うのを見てびっくりした」と話しました。
まひろさんは「殿御はみな、かわいいものでございます」と言います。
「帝もか?」と彰子さまが尋ね、まひろさんは「帝も殿御でございます。先程ご覧になった公卿たちと、そんなにお変わりないように存じます」と言い、「帝のお顔をしっかりご覧になって、お話し申し上げなされたらよろしいと存じます」と伝えました。
彰子さまは瞬きをし蟠りが解けたような表情になり、菓子を口にします。
その様子を道長卿が見つめていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>3月3日、上巳の祓の日、土御門邸で曲水の宴が開かれます。
『上巳(じょうし)の祓』とは、遣唐使によって中国から伝わった風習で、3月上旬の巳(み)の日に海・川などの水辺で祓をして、その年の邪気を祓う神事です。平安時代になると宮中などでは、人形(かたしろ)に災いや穢れを移して海や川に流すようになりました。
『雛祭り』の原型になったという説があり、『流し雛』の風習が各地で見られます。
『上巳の節句』には、庭園の曲水に酒を満たした盃を浮かべ、盃が自分の前を流れ過ぎる前に詩歌を作る『曲水(ごくすい)の宴』が行われました。

『御堂関白記』寛弘4年(1007年)3月3日条には、『土御門第で曲水(ごくすい)の宴(えん)を催した。東渡殿の所から流れてくる川の東西に、草墪(そうとん)と硯台(すずりだい)を立てた。東対(ひがしのたい)の南唐廂(みなみからびさし)に公卿(くぎょう)と殿上人(てんじょうびと)の座、南廊の下に文人の座を設けた。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘四年(1007年) 三月三日条

>曲がりくねった水の流れに沿って座り、和歌や漢詩を読んで競い合う催しです。
『曲がりくねった水の流れ』は『遣水(やりみず)』と言います。 
遣水(やりみず)は、池に水を引き入れるための水路で寝殿造の庭園では一般に北東から入れ南西に流出させたそうです。(出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア)
平安時代末期、奥州藤原氏によって建てられた毛越寺では、庭園の一角に曲水の宴が行われる遣水があり、現在も5月に曲水の宴が催されるそうです。  


>この「曲水の宴」ですが、実は深い意味があります。
>中国由来であり、現地では「流觴曲水」と呼ばれていました。
流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)』は折れ曲がっている水の流れに杯を浮かべ、その杯が自分の前に流れて来ないうちに詩を作ることを競う風流の遊びで、晉の王羲之が3月3日に会稽山の蘭亭で行なった事に由来します。(出典 精選版 日本国語大辞典)

蘭亭曲水図

寛弘4年(1007年)3月3日~3月4日の2日間にわたり土御門殿で行われた曲水の宴。
風俗考証担当の佐多芳彦氏によると、平安時代の年中行事は中国から2度にわたって伝えられ、最初に入ってきたのは4~5世紀なのだそうです。
奈良~平安時代にかけてさまざまな年中行事が導入され、上巳の節句の催しの一つとして『曲水の宴』が定着します。
曲がりくねった水の流れ(遣水)に沿って座り、和歌や漢詩を詠んで競い合うという催しで、水の神によって穢れを祓おうとするものだそうです。
寛弘4年に道長卿が主催した『曲水の宴』では漢詩会が行われました。
『御堂関白記』寛弘4年(1007年)3月3日条には、『辰剋(たつのこく/午前7時~午前9時)の頃、大雨が降った。水辺の座を撤去した。その後、風雨が烈しくなった。廊の下の座に雨が入ってきた。そこで対の内部に座を設けていた頃に、公卿(くぎょう)が来られて、座に着した。新中納言(藤原忠輔)と式部大輔(菅原輔正)の二人が、詩題を出した。式部大輔は、「流れに因(よ)って酒を泛(うか)ぶ」と出した。こちらを用いた。申剋(さるのこく/午後3時~午後5時)の頃、天が晴れた。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘四年(1007年) 三月三日条

>水の上を流れてゆく素朴な鳥のおもちゃも愛くるしい。
曲水を流れてくる水鳥を模したものは『羽觴(うしょう)』と言います。
風俗考証担当の佐多芳彦氏によると、『曲水を流れてくる羽觴(うしょう)が自分の位置に来るまでに作る」というのが、一応のルールです。けれども、漢詩を作るのは簡単ではありませんから、羽觴が流れ付くまでの短い時間に詠めなかった人物もいたと思います。』との事です。

『御堂関白記』寛弘4年(1007年)3月3日条には、『水辺の座を立てた。土居に降りた。羽觴(うしょう)が頻(しき)りに流れてきた。唐の儀式を移したものである。皆は詩を作った。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘四年(1007年) 三月三日条
『光る君へ』より

>天気が回復し再開されました。
(中略)
>曲水の宴にふさわしい漢詩が詠まれる中、
漢詩が詠まれた事について、誰が詠んだのか出典を書いてください。
漢詩を詠んだのは文章博士・大江匡衡公です。
赤染衛門の夫で和漢の才で知られていました。
詠まれた漢詩は『江吏部集』という作品集に『七言。三月三日侍左相府曲水宴同賦因流汎酒應教詩一首』と記述があるものです。

『江吏部集』大江匡衡
『光る君へ』より

・もしもあのとき、二人が結ばれていたら?

>まひろは道長から送られた檜扇を取り出しました。
藤壺の藤式部の房。
まひろさんは道長卿から贈られた檜扇を取り出し、その絵に見入っています。
逃がした小鳥を追う少女と少女を見守る少年の絵に子供時代の思い出が重なります。
そしてまひろさんは心の中で「小鳥を追って行った先で出会ったあの人…。あの幼い日から恋しいあの人のそばでずっとずっと一緒に生きていられたら…一体どんな人生だっただろう」と呟きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんが庭に来た雀に目を遣ると、庭に一人の少女が現れました。
それを見たまひろさんは何かを閃き、墨を磨ると物語を書き始めました。
まひろさんは心の中で物語を紡ぎます。

『雀の子を犬君が逃がしてしまったの。駕籠を伏せて閉じ込めておいたのに』と大層悔しそうにしています

『源氏物語』第五帖「若紫」
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>筆をとり「若紫」を書き始めるまひろ。
>雀の子を逃がしてしまった少女が、物語の中に登場します。
逃がした鳥を追う幼いまひろさんと三郎少年を模した檜扇。
「鳥が逃げてしまったの。大切に飼っていた鳥が」と泣きべそをかく幼いまひろさんと「鳥は鳥籠で飼うのが間違いだ。自在に飛んでこそだ」と語る三郎少年の出会いでした。
まひろさんがふと庭を見ると雀と一人の少女を見ます。
鳥を逃がしてしまった子どもが泣く場面は『源氏物語』第四帖「若紫」で源氏の君が最愛の人となる若紫(紫の上)との出会いのきっかけになり、物語が紡がれます。

重文『源氏物語画帖』より「若紫」
土佐光吉 画  
京都国立博物館蔵
『源氏物語』第五帖「若紫」

>この場面では、まひろが考えながら筆と同じ手にもった墨をすっている様が見事です。
まひろさんは檜扇を眺めた後、ふと庭に目を遣り欄干に止まる雀を見ます。
そして庭に少女を見ました。
その直後、何かが降りたかの様に目は庭から離さず筆を手に取りそのまま墨を磨り始めます。
『恋しいあの人のそばでずっと生きていけたらどんな人生だっただろう』の自問は、雀を失い『雀の子を犬君が逃してしまったの』と泣く少女・若紫として具現化され、考えるというよりも『筆を執らずにはいられない』と心のままに筆を執るその手で墨を磨り始めたのではないでしょうか。

『光る君へ』より

・道長、嫡男・頼通とともに御嶽詣へ?

>道綱が虚な目で空を眺めています。
寛弘4年(1007年)3月24日。
藤原道綱卿の邸も焼けてしまいました。
茫然自失の表情で道綱卿が「興福寺の僧共を追い払ってから何かおかしくないか、斉信の家が焼け、俺の家まで焼けたんだよ」と言い、斉信卿は「お察しいたします」、公任卿は「大変でございましたね」と慰めています。
道綱卿は「道長がいろ~んな見舞いをくれたよ。よい弟だ」と言いながらも魂の抜けた様に廊下を歩いて行き、公任卿と斉信卿が顔を見合わせ後に続きます。
その会話を伊周卿が物陰から窺っていました。

『光る君へ』より

道綱の邸が焼けた直後の3月28日、敦康親王は病にかかっていました。
酷く咳込む親王を彰子さまが看病していました。
その親王の許へ伊周卿が見舞いに訪れます。 
伊周卿は「思ったよりお元気そうで安堵しました」と言います。
そして、源為憲公が編纂した『口遊(くちずさみ=児童向けの学習教養書)』を「もう少しご回復が進んだらお読みください」と渡そうとしました。
しかし親王は「要らぬ!」と拒絶します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より 

宮の宣旨が、今度は道長卿が来たことを伝えます。
敦康親王は床を出て道長卿に駆け寄ると、伊周卿の方を向いて何やら言いたそうにしています。
伊周卿と彰子さまも親王と道長卿に目を向けました。
道長卿が「如何されましたか?」と親王に尋ねます。
しかし、親王はまたも咳込み道長卿が背中をさすり、口を拭おうとします。
伊周卿は少し離れて面白くなさそうに座しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

土御門殿では、道長卿が白装束と数珠を用意し、嫡男・頼通卿に「このところ不吉なことが続き、中宮様のご懐妊もないゆえ、吉野の金峯山(きんぶせん)に参ろうと思う。おそらくは、我が生涯最初で最後の御嶽詣である」と話しました。
「ご一緒したい」と言う頼通卿。
道長卿は「8月の出立まで100日間精進潔斎し、酒、肉、欲、色を立たねばならないが、お前にできるか?」と問い、「道中も険しく、覚束無けれは止めておけ」と息子を諭します。
頼通卿は「お供したい、中宮様の御ためにも参ります」と決意を述べます。
父から同行を許され頼通卿は「ありがたき幸せに存じます」と喜びました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

そして8月の出立前日、道長卿は彰子さまに挨拶し、「お健やかにお過ごしくださいませ」と述べて藤壺を離れました。
まひろさんも他の女房たちと共にその様子を見守っていました。
道長卿は嫡男頼通卿、中宮権大夫・源俊賢卿を伴い都を発ちました。
一方、坂東平氏の流れを汲む平致頼公が「一行は間もなく出立。いかがいたしましょう?」と報告しています。
道長卿の留守を狙って伊周卿は何かを企てていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>斉信の家が焼けたかと思えば、今度は道綱の家も焼けたのだとか。
『御堂関白記』寛弘4年(1007年)3月24日条には『内裏(だいり)から退出した。亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、南西の方角に火事が有った。事情を問うと、東宮傅(藤原道綱)の大炊御門(おおいみかど)の家であった。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘四年(1007年) 三月二十四日条

>その直後、敦康親王が病に伏せりました。
『御堂関白記』寛弘4年(1007年)3月28日条には、『一宮(いちのみや/敦康親王)は、霍乱(かくらん)を病んだ。』とあります。
『撹乱』とは、『暑気あたりによって起きる諸病の総称。現在では普通、日射病をさすが、古くは、多く、吐いたりくだしたりする症状のものをいう。』とあります。(出典 精選版 日本国語大辞典)

『御堂関白記』 寛弘四年(1007年) 三月二十八日条

>見舞いとして源為憲による『口遊』という本を持ってきました。
『口遊(くちずさみ)』とは、平安時代中期に編纂された児童向けの学習教養書で平安時代中期の貴族・文人である源為憲公の著といわれています。
口に唱えて暗誦しやすいように編集され、九九の表や五十音を覚えるための『大為爾の歌』などが入っています。

>父と嫡男が同時に行動し、両方落命するリスクは後世【本能寺の変】であらわになります。
>そのため徳川家康は【関ヶ原の戦い】で父と子が別れて行動するわけです。
関ヶ原の戦いについては、徳川家康公は江戸から東海道を上がり東軍諸将と合流して美濃赤坂に着陣しており、秀忠公は信州上田攻略のため中山道を上るも上田で足止めされ本戦に間に合わなかったので、元から作戦のために別行動しています。

道長卿と頼通卿親子は戦に行く訳ではなく、『御岳詣』にいくのですが。
『御嶽詣』とは、吉野の金峯山に参詣する事です。
蔵王権現を勧請した修験道の聖地でご利益があると人気でした。
厳格なしきたりがあり、参詣には予め数十日間の精進潔斎をする必要がありました。
また、身分の高い人でも、質素な浄衣(白装束)で参詣するのが慣例で、貴族たちも道長卿親子の様に厳格にしきたりを守り金峯山寺を参拝しました。 
寛弘4年(1007年)8月、藤原道長卿が金峯山寺に参詣した事が『栄華物語』に記され、その時の経筒が社宝として伝えられています。
金銅藤原道長経筒は、寛弘4年(1007年)8月11日と記され、紀年銘のある最古の経筒として国宝指定され、京都国立博物館に寄託されています。
また、道長卿が金峯山詣の際、経筒に入れて埋納した自筆の紺紙金字法華経巻第一の残闕が東京国立博物館に所蔵されています。

本来白装束の中、紫式部の夫・藤原宣孝公は皆と同じ格好では大勢の参詣者たちに埋もれて願いが叶わぬと判断します。
宣孝公は我が子を伴い、鮮やかな山吹色の法衣で参詣したとその派手な装束を清少納言な目撃され、『枕草子』に書かれました。
この姿は『光る君へ』作中でも描かれました。

『光る君へ』より

>そのころ、伊周一味は何か陰謀を企んでいるようです。
陰謀とはひそかに企てる謀で、謀反(むほん)、悪事の相談。また、その相談をする事を言います。(出典 小学館デジタル大辞泉)
企むとは企てる。よくない事を計画する事を言います。(出典 小学館デジタル大辞泉)
意味が二重になり、『何かを企てる』で良いと思います。

>一行の背中を見送る怪しい男は、これぞ暗殺の好機だと考えていることでしょう。
軍事貴族であり、坂東平氏の流れを汲む平致頼公が「一行は間もなく出立。いかがいたしましょう?」と伊周卿に報告しています。
キャスト出ています。

『光る君へ』より

>昨年の大河ドラマでは、家康の伊賀越えが余裕たっぷりで、結果はわかっているしどうでもええと投げやりな気分になりました。
>しかし今年は、結果がわかっていても、手に汗を握る展開になりそうです。
徳川家康公の本能寺の変後の逃亡に使用された伊賀越えルートは堺から近江・甲賀を経由し御斎峠から伊賀国へ向かい、加太峠など危険な道中を切り抜けて伊勢国から船で尾張国・熱田に入り陸路で三河国に向かうルートです。

一方、道長卿一行は大和・吉野郡の金峯山寺に参詣しています。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めました。
役小角が開いたとされる大峰山は1000〜1900m級の険しい峰々を踏破する『奥駈』という峰入修行を行なう約80kmに渡る古道があります。

天正伊賀の乱の因縁もある伊賀者を宥めたり一揆勢や落ち武者狩りと金銭取引する難所はあれど、1000m級の山々に囲まれた山岳信仰の聖地と比べるのは如何なものかと思います。
御嶽詣では戦ではなく、寺院への参詣です。
人の信仰心を何だと思っているのでしょうか。

・MVP:まひろ?

>それというのも、同時期に放映されている『虎に翼』にも、心を閉ざしていた人物が登場するのです。
>ヒロインの再婚相手となる星航一です。
朝ドラの話がしたいのなら新たに記事を立てるか自身のnoteで記事を書いてください。
肝心の大河レビューは具体的に解説せず、持論ばかりを展開しないでください。
何のための『光る君へ』レビューですか。
 
彰子も「バカとして描かれている」とすら言われています。
>心を閉ざしている人というのは、自分の才知どころか意見すら隠してしまうし、とっつきにくいのです。
>ゆえにフィクションではあまり扱われないタイプに思えます。
>それこそ昔なら「愚鈍」、今なら「陰キャ」と処理されてつまらない人間として軽んじられることすらあるのです。
何見氏は自分の気に入らないタイプの女性について碌に考察せず、『バカ』『愚鈍』『陰キャ』『つまらない人間』と見下すだけなのでしょうか。
『フィクションではあまり扱われない』とありますが、紫式部は『源氏物語』で女三の宮の様な一見世間知らずのおっとりしたお姫さまタイプの女性がその性格もあり『業』を背負う姿を描いています。
彰子さまの性格については『紫式部日記』の中で『好色めいたことは、ひどく軽薄なことだとお思いでいらっしゃる』『お気立ては非の打ち所がなく、洗練されて奥ゆかしくていらっしゃるのですが、あまりに控えめになさるご気性」』と記されています。

当初は父・道長卿から入内について問われても「仰せのままに」とだけ自分の意志がなく、表情も全く変える事のないぼんやりとした人形の様な姫君として描かれていた様に思います。
SNSでは、『あさきゆめみし(大和和紀 作)』の 女三の宮に似ているとの視聴者の意見がありました。

『光る君へ』より

『源氏物語』の女三の宮は朱雀院の皇女で、源氏の君の2番目の正妻です。
子どもっぽくおっとりした性格が印象的で、猫を飼っていました。
女三の宮は、父の朱雀院にも夫の源氏の君にも逆らわず、自分の意志が薄く従順な女性でした。
『源氏物語』によると、女三の宮は『あやしくものはかなき心ざまにやと 見ゆめる御さまなるを』ととても子どもっぽく、頼りない性格が何度も語られ、強調されています。
源氏の君は女性はしっかり者で隙がないのが良いと思っているので、女三の宮をあまり気に入りませんでした。
恥じらいがなく無邪気な女三の宮は柏木との不義密通を引き起こし、薫が産まれます。
女三の宮は源氏の君に反対されながらも出産後自らの意思で出家しました。
そんな女三の宮ですが、古今和歌集など和歌の記憶力や応用力という教養がありました。

>2023年『どうする家康』は、やたらと大きな子ども時代も松平竹千代が、後の妻となる瀬名と幼少期に出逢います。
『どうする家康』での竹千代時代、瀬名さまとの遊びの場面は松本さんが演じていますが、これは元服直前というのもあるかと思います。
それより昔の場面は子役を使っています。
元服前の場面で子役ではなく大人を使うのは他の作品でもある事で『鎌倉殿の13人』では『成長著しい』と話題になったのですが、それは批判しないのでしょうか。

『どうする家康』より
『どうする家康』より
『平清盛』より
『おんな城主直虎』より
『鎌倉殿の13人』より

>こういう手垢のついた、昭和平成のドラマや漫画で見たようなラブシーンは、一定の世代はパブロフの犬のように食いつきます。
>SNSで反応して書き込みます。
>それを集めてコタツ記事を流せば、それなりに成功したように導ける。
>一方で、閉じた心を開くシチュエーションは、わかりにくいし、ネットの瞬間風速も稼ぎにくい。
>それを敢えてやるということは、NHKは長期視点で何かを変えたいということではないでしょうか。
平安中期の政治、文化、常識、風習、社会制度などを踏まえ源氏の君と様々な女性たちによる恋愛模様を描いていて、ドラマ作中では作者である紫式部(まひろさん)の生涯を描いているのに、『昭和平成のドラマや漫画で見たようなラブシーン』とは。
むしろ『源氏物語』は恋愛物語の先駆けではないでしょうか。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?


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