大河コラムについて思ふ事~『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第2回
1月上旬になりました。
新しく成人された方、おめでとうございます。
まだまだ寒さ厳しくインフルエンザが流行っていますので、皆さまも健康には充分お気を付けください。
さて、『べらぼう』第2回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。
・初めに
>吉原に客足を呼び戻すため『吉原細見』のリニューアルに邁進する蔦屋重三郎。
江戸時代から明治にかけて刊行された江戸吉原の遊里案内書を『細見』といいます。『細見』には遊女・遊女屋・揚屋などが記載されています。(出典 小学館デジタル大辞泉)
『細見』のための情報収集・編集をする事を『細見改め』といいます。
蔦重さんは義兄・蔦屋次郎兵衛さんの茶屋・蔦屋の軒先を借りて貸本屋を営み、24歳の時に「吉原細見」の「改め」及び「卸し」「小売り」の業者となりました。
三日三晩桶伏せの刑で晒されていた蔦重さんは湯屋で風呂に入り、唐丸さんに髪を結い直してもらい一息ついていました。
蔦重さんの髪を櫛で梳きながら唐丸さんが「細見を使って客を呼ぶの?」と尋ねます。
蔦重さんは「このままじゃ河岸は立ち直れねえ。けど親父さまたちも動いてくんねえ。俺ひとりで何かいてる手があるとすりゃ、これしかねえと思うんだよ」と答えます。
「吉原細見は『吉原のガイドブック』といったところ。正月と七月、年に二度発行されておりました」と語りが入ります。
吉原で需要が多い事は言うまでもなく、蔦重さんは版元から細見を仕入れて販売していました。
唐丸さんが「蔦重、まだ懲りてないの?!」と驚きながら尋ね、蔦重さんは「仕方ねえだろ。俺が言っても誰も動いてくんねえんだから」と答えます。
「蔦重ってやっぱり男前!」と唐丸さんが蔦重さんを褒めます。
>懲りずに『吉原再見』による客寄せ計画を進めると聞かされた唐丸は笑顔を浮かべている。
作中、九郎助稲荷の語りでも言っていましたが、『吉原細見』がどのようなものか具体的な解説はしないのですか。
蔦重さんは行動を起こさない吉原の親父たちを説得するよりも自分で動く事を考え、『吉原細見』を利用する事を思いつきました。
作中では「吉原細見は『吉原のガイドブック』といったところ。正月と七月、年に二度発行されておりました」と九郎助稲荷の語りが入ります。
地本問屋・鱗形屋の代表的な出版物の一つに『吉原細見』があります。
もともと吉原に関係する出版物として、遊女の恣意的な批評を記した『遊女評判記』がありましたが、貞享年間(1684〜1688)頃、吉原の茶屋や遊女屋の位置、遊女名とその揚代(遊女を呼ぶ値段)、芸者名など、吉原全体について記した案内書である『吉原細見』が出版されるようになります。
初期の頃には一枚摺りの地図形式のものが出されていましたが、折り畳めば小さくなるが広げて見なければならないのが欠点でした。
鱗形屋は吉原遊廓と深く繋がり、享保12年(1727年)に吉原細見の出版を始めました。
享保期には横長形式の吉原細見が現れます。
縦が10cm前後、横が15cm前後。これ以後35年ほどの間、横本が主流になります。
元文三年(1738年)以降は鱗形屋孫兵衛と山本久左衛門の二者が発行を続けます。
しかし、宝暦八年(1758年)を最後に山本久左衛門は撤退し、鱗形屋の独占状態となります。
鱗形屋は安永9年(1780年)に細見の出版から手を引くまで、看板商品としてほぼ毎年のように春と秋に出版して行きます。
・『吉原細見』で客を呼ぶぜ?
>「男前って誰がだい?」
>二人の会話を聞いていた駿河屋のバカボン・次郎兵衛がやってきました。
するとそこへ二階から降りてきた義兄の次郎兵衛さんが「男前って誰がだい?」と尋ねます。
唐丸さんは「蔦重が」と結ったばかりの蔦重さんの髷を指して「良い塩梅に結えたって事です」と誤魔化しました。
次郎兵衛さんは「お前器用だね。じゃ俺ぁ花の会に行ってくっから」と言い、いそいそと今流行りの『挿花』の会に出掛けて行きました。
唐丸さんは蔦重さんに「バレない様にやんないとね」とニヤリとし、「お〜分かってんな、お前」と蔦重さんが抜け目のない唐丸さんに感心しています。
「けど、蔦重。細見使って客を呼ぶってどうするの?たくさん売るって事?」と唐丸さんが蔦重さんに尋ねます。
蔦重さんは「沢山も売りてえが、これ見た奴がもれなく吉原に来る様にしてえのよ」と細見をペラペラとめくります。
さらに「此処に載ってんのは吉原の絵図、引手茶屋、女郎屋、芸者の名前、女郎の名前。まあそんなもんだけど。此処の初めにな、『序』ってのがあんだよ。此処はまあ何書いても良いんで。此処を上手く使って『いっちょ吉原に繰り出してみっか』って思わせてえのよ」と唐丸さんに話します。
唐丸さんが「…けど蔦重は売ってるだけだよね。作ってるのは本屋さんだよね」と言います。
蔦重さんは「ああ、けどコレ作ってる鱗の旦那とは付き合いあるし」と言います。
>二人の会話を聞いていた駿河屋のバカボン・次郎兵衛がやってきました。
義兄の次郎兵衛さんは駿河屋の跡取り息子ですが、吉原の案内所である『蔦屋』の店主を父・駿河屋市右衛門さんから任されており、次郎兵衛さんは私室のある二階から降りてきています。
>次郎兵衛は疑念も抱かず、花の会(けえ)に行ってくると出かけて行きました。
次郎兵衛さんはお洒落をして「じゃ俺ぁ花の会に行ってくっから」と言い出掛けて行きます。
ノベライズによると次郎兵衛さんは流行りの『挿花』の会に出掛けた様です。
『挿花』は花を髪などに挿す事。また、花器に花材を生ける事。つまり生け花の事です。(出典 精選版 日本国語大辞典)
『古事類苑』・遊戯一三骨董雑談に『いけ花といふを以て挿花といひ』とあり、古語的表現なのだと思います。
>『細見』を作っている「鱗の旦那」とも伝手があるし、ちょっとそこをなんとかする計画だそうで。
『鱗の旦那』とは、江戸で代々続く地本問屋の鱗形屋孫兵衛の事です。
『地本問屋』は江戸の地で出された本を出版販売する版元の事で草双紙や絵草子などを扱っていました。
山東京伝の黄表紙『御存商売物』には江戸の人々の嗜好に合った『当世本』として、黄表紙、洒落本、読本、錦絵、浮絵、一枚摺、吉原細見等々が挙げられています。
・長谷川平蔵、再び吉原へ?
>するとそこへ“三馬鹿”の仙太と磯八、長谷川平蔵がやってきました。
蔦重さんが唐丸さんに細見を見せていると、「おい!」と呼ぶ偉そうな声が聞こえました。
見ると、『本所の銕』こと長谷川平蔵宣以さまが子分の磯八と仙太を連れて蔦屋の店先に立っています。
先日と打って変わり皆洒落込んだ着流しに身を包んでいます。
平蔵さまが「来たぜ」と鬢の毛に手を遣りながら片側の口角を上げフッと笑いました。
「いやぁ、張り込まれましたね!皆さま随分男前に!」
蔦重さんが平蔵さま達を大見世の松葉屋に案内しながら煽てています。
平蔵さまが「花の井は『通』な装いに弱いって聞かされちゃあな」と言います。
いよいよ花の井花魁と会えると意気込んで洒落込んだ様です。
なおも蔦重さんが「さすが長谷川さま!いやぁ、花の井花魁はなんせ気が強くって好みじゃねえ客は容赦なく振りつけますんで」と煽て上げ、平蔵さまが「ふん、花魁の『張り』って奴だな」と通を気取りました。
蔦重さんが「今日は『初会』にございますから、花魁は一言も口を利かねえしきたりですが、その花魁が一時でも笑顔を見せれば、落ちたも同じとお考えになってよろしいかと」と説明します。
すると平蔵さまが「どうすれば花魁は笑顔になるんだ」と尋ね、蔦重さんは「そこは長谷川さまの男の見せどころ」と答えます。
磯八が「お前幼馴染なんだろ!何か知ってんだろ!花魁の好み」と蔦重さんを問い詰めるのを見て蔦重さんは内心ほくそ笑みました。
蔦重さんは「そこは言わぬが花の吉野山。言っちゃあ私が叱られますんで」と一応困った顔をした後足を止め、「花魁が間違いなく落ちるツボを教えましょう」と言い、平蔵さまが生唾を飲み込みます。
引手茶屋・駿河屋では蔦重さんが「カモを引っ掛けた」と市右衛門さんに報告しています。
市兵衛さんが「もうおかしなことは考えてねぇだろうな」と蔦重さんに釘を刺し、「もちろんでございます」と蔦重さんが答えます。
>今日は袴をつけず洒落た着流しで、それなりにファッションを磨いてきているようです。
>ったく、無役のくせに何やってんだよ。
長谷川平蔵宣以公は、幼名は銕三郎(てつさぶろう)、諱は宣以(のぶため)といい、家督相続後は父と同じ平蔵を通称としました。
父は京都町奉行に抜擢され、明和の大火で下手人を捕縛した火附盗賊改役・長谷川宣雄公。
明和5年(1768年)23歳で十代将軍徳川家治卿に御目見し長谷川家の家督相続人となりました。
安永2年(1773年)父の逝去により家督を継ぎ小普請の職を与えられました。
小普請は幕府直参旗本・御家人のうち、家禄3000石以下で無役の者の事です。
小普請時代の宣以公は、父の貯金を使い果たす程遊廓へ通いつめ当時流行りの『大通』といわれた粋な服装をしていたと伝えられ、放蕩の生活から『本所の銕(てつ)』と呼ばれていました。
安永3年(1774年)に江戸城西の丸御書院番士になります。
>なんだか本作の主役を「女衒」だと罵倒する意見もあるそうですが、実際その通りなんだから仕方ない。
>しかし、だからなんでしょう。
>これまでも、人殺しの戦国大名や、テロリストの維新志士たちを主役としてきた大河ドラマに対して、いちいち指摘しないじゃないですか。
>するだけ野暮ってなもんです。
『女衒』の話をしているのに、『人殺しの戦国大名』『テロリストの維新志士』という全く違う業種で例えようとしているのでしょうか。
大河ドラマにも『西郷どん』では家の借金のかたに身売りされ、源氏名を使い品川宿で働いている女郎、『おんな城主直虎』では人買いから人を買おうとする場面、『麒麟がくる』では乱取りで人を拐い人買いに売り渡す野盗や堺の廓の様子、比叡山門前の廓に売られた妹を取り返そうとする兄が薬を転売する場面、『どうする家康』では民に人気の寺の門前で舞う傍ら誘惑する歩き巫女の場面などがあります。
『女衒』とは、女性を遊廓など、売春労働に斡旋することを業とした仲介業者の事です。
身売り証文に請人(うけにん=保証人)として連判したので『判人(はんにん)』ともいいます。
近世以前は時として乱取りなどで人拐いを行い、人買いと通じていました。
人買いが禁止された近世以降は、凶作で生活に窮した貧農の家庭の親権者などから、女性を買い遊廓などに売る娘身売りの仲介業として生計を立てていました。
表向きは年季奉公の前借金前渡しの証文を作りましたが、多くの場合は本人の自由意思に基づく契約とはいえず、現代の人権感覚からは人身売買に等しいものであった事も確かです。
女衒は歌舞伎にも登場し、『仮名手本忠臣蔵』六段目では女衒の源六が登場します。
また、風来山人こと平賀源内先生の『細見嗚呼御江戸序』の序跋には、『目鼻から爪の先、指のそりよう、歩みぶりまで注意して、その後価格が定まる』とあります。
・花魁の笑みを見たくて?
>三馬鹿と花の井花魁は宴を開き、投扇興(とうせんきょう)に興じております。
女郎屋は全て二階建てで松葉屋の様な大見世は大きな紅殻格子の建物は贅を尽くしたものでした。
客は畳敷きの広間に設けられた階段を登り、二階の座敷に案内されます。
『初会』の客は引付座敷と呼ばれる部屋に通され宴席を張り、目当ての女郎と対面し盃を交わします。
さて、鬼平一行はというと…
松葉屋の二階で宴を開き、投扇興に興じています。
磯八たちが幇間の滑稽芸に腹を抱えて笑っていますが、上座の花の井さんは平蔵さまとの間に禿を挟み座り、如何にも退屈そうにしています。
「おいおい!花魁も何かやれよ!」
調子に乗った下っ端の仙太が花の井さんにちょっかいを出します。
平蔵さまが「初会は花魁は口利かねえんだよ!野暮な事すんじゃねえ!」と思いっ切り仙太をぶっ飛ばしました。
平蔵さまが焦るのを横目に花の井さんは相も変わらずつまらなそうに欠伸をしています。
笑顔どころか馴染みと認められる三回目での床入りもいつになるか分からない…
花の井さんは平蔵さまの様子を見て取り、傍らの禿・さくらさんに何やら耳打ちをしました。
さくらさんが「花魁はお疲れんした。先に失礼しても良いかと申しておりんす」と伝えました。
蔦重は確か…
ーー「花魁の好みってなあ、江戸っ子で。とにかく向こう見ずで威勢の良い男で。確か一番深くなった馴染みは初会から紙花を撒いてみせるようなお方でしたよ」
平蔵さまは狼狽え、どうすれば花魁に気に入ってもらえるか考えました。
「あいや待て、花魁!」
花の井さんは俯いたまましてやったりとばかりにニヤリとし振り返りました。
「ほら、皆うけとれえー!紙花じゃー!」
平蔵様が紙花を取り出し盛大に撒き散らし始めました。
「この紙花、今で言えばチップ。現金の代わりに使われ一枚二万円前後と言ったところでしょうか」と語りが入ります。
新造や禿などの女郎や芸者はや幇間、二階の奉公人たちも集まり我先に紙花を拾い集めます。
そんな様子も花魁の手柄になるため花の井さんは上座から悠々と眺めています。
平蔵さまが花の井さんを見遣り、花の井さんが微笑みます。
「皆の者行くぞー!紙花じゃー!ハハハ!」
有頂天の平蔵さまは威勢良く階下へも紙花を撒きまくったのでした。
>三馬鹿と花の井花魁は宴を開き、投扇興(とうせんきょう)に興じております。
>『光る君へ』にも登場した壺に矢を投げ入れる「投壺」の簡易版、かつ日本独自のものです。『光る君へ』に出てきた『投壺(とうこ)』は、『春秋左氏伝』にも出典が見える中国の宴会の余興用の遊戯です。
正倉院に投壺用の銅製の壺と木製の矢が残っていますが、日本ではあまり投壺は行われませんでした。
投扇興(とうせんきょう)とは日本の伝統的な対戦型遊戯で、桐箱の台に立てられた『蝶』と呼ばれる的に向かって扇を投げ、その扇・蝶・枕によって作られる形を源氏物語や百人一首に準えた点式にそって採点しその得点を競います。
投扇興の起こりは、安永2年 (1773年) の頃の京といわれ、投壺を元に女性や子供でも、手軽に楽しめる遊びとして投扇興が考案され、庶民の間で大流行しました。
松葉屋のお座敷遊びはまさに流行の最先端といえたでしょう。
>初会の花魁は口を利かないと平蔵がルールを説明し直し、「野暮なことすんじゃねえ!」とたしなめながら彼女の方を見ると、眠そうにあくびをしている。
花魁など高い位の遊女は一回目から客と同衾せず、客を断る事も出来ました。
初めての客を『初会』の客といい、初会には廓の二階の引付部屋または引付座敷で行われる簡単な見立ての作法があり、これを『引付の式』といいます。
花魁との対座はその後、花魁の部屋へ案内されてからなのだそうです。
一般には茶屋が案内して遊女屋に至り、張見世の遊女を自ら見立てて茶屋者にその女を指示し、遣手(遊女屋で諸事の取り持ち、また、遊女の監督や指導などをする女性)や若衆や禿に遊女の部屋か、または名代部屋に案内されここで一服つけながら、遊女のご出座を待ちます。
二会目は『裏』といい、二会目に登楼する事を『裏をかえす』といいます。
初会に比べれば寛いでいますが、女郎は身も心も許す訳ではありませんでした。
三会目の登楼は、はじめて馴染みになる機会でした。
まず、花魁に床花(とこばな)を付け、遣手にも祝儀を出し三会目に初めて客の紋や表徳(ひょうとく=表徳号。雅号・別名・あだ名)や本名などを記し箸紙(はしがみ)が記され女郎の部屋の茶箪笥に保管されました。
平蔵さまが花の井花魁にちょっかいを掛ける仙太を「初会は花魁は口利かねえんだよ!」と叱った様に、当夜は肌を許さなかったのだそうです。
さて鬼平一行は初会から花の井さんが欠伸を噛み殺す程の野暮天ぶりを見せていますが…
>「紙花じゃあ〜〜!」
宴席に赤い紙をばら撒くと、皆が大歓声をあげている。
>稲荷ナビ曰く「この紙花は今で言えばチップ、一枚二万円前後」だそうで。
平蔵さまは懐から紙花を取り出し座敷から階下の宴席にまで盛大にばら撒き、廓中が盛り上がります。
「この紙花、今で言えばチップ。現金の代わりに使われ一枚二万円前後と言ったところでしょうか」と九郎助稲荷の語りが入ります。
江戸時代、『小菊』というはながみ、または茶の湯の釜敷などに用いる楮(こうぞ)の小判の和紙がありました。
遊里では懐紙を『紙花』という祝儀の代用を用いました。
小菊一枚が一歩、十枚が二両二歩、一帖四八枚が一二両の祝儀として通用しました。(出典 精選版 日本国語大辞典)
九郎助稲荷曰く現代換算で一枚二万円前後です。(一歩金四枚が一両)
平蔵さま役の中村隼人さんによるメイキングが公式に挙がっていますので紹介させて頂きます。
・野心あふれる松の井?
>翌朝、松葉屋では平蔵の紙花フィーバーを話題にしながら、女郎たちが朝食をとっております。「そんなに撒いたのか、紙花」
平蔵さま一行が遊興した翌日、蔦重さんは貸本の商いに伺った松葉屋で花の井さんから平蔵さまの話を聞きました。
平蔵さまを煽り、花の井さんに因果を含めた蔦重さんも「あれ、馴染みになるまでに金もつのかねえ」と流石に気が引ける程の大盤振る舞いだった様です。
二回目で初会と同じ女郎を指名する事を『裏を返す』というが、そこでもまた祝儀が必要になり、馴染みになればなったで女郎に床花という高額な祝儀を与えなければなりませんでした。
そこへ風呂桶を携えた松の井さんが風呂上がりの肌の香りを漂わせやって来ました。
松の井さんが「ちょいと重三、田沼さまのところに行ったとはほんざんすか。んふ、田沼さまってなあ、なかなかの男ぶりだって聞きんしたえ」と言います。
なんだってその様な事を…
一呼吸して蔦重さんはその言葉の意味に気付き断ります。
「無理ですよ!連れて来るとか!」
松の井さんは「まあ、そう決め込まず、よい折りがあればお頼みなんし」と去って行き、驚く花の井は「まあ、姐さんはね」と言います。
>田沼意次も男ぶりが大層評判で、大奥女中たちものぞいてはうっとりしていたそうです。
>悪評の一端にも関係があるのかもしれませんよ。
>その噂が吉原まで届いているとは驚きますが。湯を使った帰りの松葉屋の呼出花魁・松の井さんが「田沼さまってなあ、なかなかの男ぶりだって聞きんしたえ」と蔦重さんに話し掛けます。
どうやら蔦重さんが『けいどう』を田沼意次公に頼みに行った事を聞きつけた様ですね。
田沼意次公は享保四年(1719年)、紀州藩の足軽の生まれから幕府旗本になった田沼意行公の嫡男として江戸の本郷弓町で生まれました。
享保二十年(1735年)家督を継ぎ、西丸小姓として徳川家重公に仕えました。
家重公は9代将軍に就任すると意次公を将軍の住まいである本丸を守る本丸仕えに大抜擢します。
10代将軍・家治公の治世では、側用人、駿河・相良藩主57,000石の大名へと出世し、老中を兼任しました。
意次が仕えた家重公は、生来虚弱の上障がいにより言語不明瞭であったため、幼少から大奥に籠りがちでした。
意次公は美貌で謳われており、大奥の女中達の注目を集めました。
意次公は大奥の女中達にまめに贈り物を届けました。
さらに家治公の治世では、側室・お知保の方にも贈り物を届け、大奥を味方に付けました。
すっかり心を奪われた大奥では意次公に反対する者はいなかったそうです。
>実は、性的モラルは時代ごとに異なり、江戸時代中期、武士が堂々と吉原に行くのは流石によろしくないとされていました。
江戸幕府公認の遊郭・吉原遊郭が日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に許可されたのは元和四年(1618年)。
徳川家康公の隠居地・駿府城城下に大御所公認の七カ丁もの広大な面積を誇る廓があり、吉原はそのうち五カ丁を家康公亡き後、駿府から移したのが始まりでした。
江戸幕府ができたばかりの頃で新興都市の江戸は男が多く、吉原ができた当初の顧客は武士階級でした。
伝統と格式を重んじる武士階級にとっては吉原もそういう存在の場所である必要がありました。
男が女性を買う事には非常に寛容で、擬似とはいえ恋愛は遊女とし江戸の美学である『通』であることが求められました。
また、武士の妻君は夫と共に家を守る事が最も重要な事でした。
明暦三年(1657年)の明暦の大火で日本橋の吉原遊廓が焼失し、浅草寺北の日本堤付近に『新吉原』として移転しました。
吉原が大衆化し、宝暦十年(1760年)に制度としての『太夫』が廃止され、それまでの顧客であった武士階級に代わって商人など裕福な庶民が主要顧客になりました。
伝統と格式が必要とされなくなり、『通人』である事が最も重要になりました。
>日本史上、政治家の性的事情が最悪だったのは明治時代でしょう。
>なにせ伊藤博文は遊郭で遊び過ぎて家賃が払えなくなり、このままでは政治停滞が起きるということでできたのが首相官邸でした。
>そんなこといちいち大河でやらないって?
そうなんです。
>だからこそ言いたい。
>>今年の大河が女性搾取をキラキラコーティングしているというなら、明治元勲を英雄視する過去作品から考えないとなりません。
>そうはいっても一作目からはしんどいでしょうから、まずは『青天を衝け』ですね。
自分の気に入らない人物を『こいつはこんなにも品性下劣でひどいやつだ!』『私の嫌いな明治時代や明治時代を扱った大河ドラマは女性搾取をキラキラコーティングしたこんなにひどい時代だったんだ!』『明治元勲を英雄視する過去作品はプロパガンダ!無かった事にしなければ』と殴りたいだけで、お気持ちで『べらぼう』の打ち切りを求める自称フェミニストとやる事が大差ないと思います。
・宣伝を頼むとなれば、やはりあの人だ?
>重三郎は花の井に、こんなことを問いかけています。
松の井さんが去った後、蔦重さんが「そうだ、花魁」と再び花の井さんに向き直り「例えばなんだけどよ、もし花魁が小間物屋で、もっとその櫛を売りてえなあと思ったら、だれに売り込みの口上を頼みてえ?」と尋ねます。
花の井さんが怪訝そうにしながらも、「…そりゃあの人しかいないだろ」と言い、蔦重さんが我が意を得たと「だよな!あの人だよな!」と答え、ある口上を唱えます。
花の井さんが後に続きます。
二人は仲良く声を合わせました。
花の井さんが「何かあんのかい?」と尋ね、蔦重さんは「いや、ちょいと客の小間物屋から相談受けてよ。ありがとよ。助かった!」と喜びました。
花の井さんが腑に落ちない顔をするも、蔦重さんは知らぬふりで商いに戻りました。
庭では女郎や禿が房楊枝で歯を磨いています。
「『漱石香』とは、当時飛ぶ様に売れた歯磨き粉にございまして、品の質よりもその引札、今で言う広告で流行った商品でした。『金に困って出したから効くかどうか分かんない。でもどうか助けると思って買ってちょうだい!』…とぶっちゃけ過ぎの宣伝文句を考えたその人はーー」
>ここで稲荷ナビが「漱石香」の説明をします。
>当時大ヒットした歯磨き粉で、広告でヒットを飛ばした商品なのだとか。
蔦重さんと花の井さんが声に出した歯磨粉『漱石香』の口上は、明和六年(1769年)、平賀源内先生が恵比寿屋平助という商人の依頼で書いた引き札(宣伝チラシ)でした。
源内先生は元高松藩士で本草学者・蘭学者・発明家だけでなく、鉱山開発にも携わりました。
また西洋画にも造形が深く、戯作者としても活躍しました。
源内先生の死後、引札文を集めた『飛花落葉』という広告コピー集には、『漱石香』の口上が掲載されています。
『漱石香』は夏目漱石先生の名前で有名な『世説新語』から『枕流漱石(石に漱ぎ、流れに枕す)』が由来です。
導入部分はこう始まります。
二人が言っていたのはこの部分。
当時は房楊枝という歯ブラシの様なもので磨いてており、歯磨き粉が流行り始め「商いが上手くいかなくて困っていたところ、ある人が元手のいらない歯磨きの商売を教えてくれた。防州砂に匂いを入れ名前を変えただけの価値のない品だが、今回は二十袋分を一箱に入れた。使い勝手がよいので、たくさん売って利益をあげるよう安く売る」と源内先生は人の興味を引きやすい損や不幸話を織り込み、一気に読者を話に引き込みます。
歯磨き粉の内情をぶっちゃけており、一度は買ってみようという 江戸っ子の心をくすぐったのでした。
・日本橋の地元問屋・鱗形屋へ?
>そんな商品説明と重ねるように、重三郎が全力疾走してゆきます。
蔦重さんが走って行った先は日本橋大伝馬町。
「平賀源内?」
地本問屋・鱗形屋孫兵衛さんが尋ね、蔦重さんが「へえ」と答えます。
「『平賀源内』に頼めってぇのか。次の細見の『序』を?」
孫兵衛さんは呆れたという表情で蔦重さんを見ました。
夜明け後間もなく、まだ開店準備中のところに駆け込んできてこれである。
蔦重さんは荒い息で「俺、吉原に客呼びたくて」と言いながら『吉原細見』の序を開いて見せます。
「此処!此処に平賀源内の序が載りゃ間違いなく評判になると思うんです!そうなりゃ客も来るし、細見だってもっと売れる。鱗の旦那さまにも悪い話じゃねえと!」
平賀源内は学者としてだけでなく、文芸家としても名声を博している、今えどで最も注目を集めている人物。
「…まあ、いいぜ」
蔦重さんの勢いに呆れつつも孫兵衛さんは許可をしました。
蔦重さんは「鱗の旦那さま!ありがた山のトンビがらす!」と礼を言います。
しかし手練の地本問屋。
孫兵衛さんは「ただし、お前さんが『序』を貰って来れたらだ。俺は伝手がねえからな。お前さんが平賀源内に貰ってくんだ」と告げ、蔦重さんは唖然としました。
>ひとっ走りしてたどり着いた先は日本橋。
>当時も今もオフィス街です。
>素晴らしい脚力で重三郎が駆け込んだのは、地本問屋の鱗形屋孫兵衛の店でした。
江戸時代、「五街道」の起点であった日本橋は全国から情報・文化が集まり、また発信する地でもありました。
地本問屋・『鱗形屋』のある日本橋大伝馬町は日光・奥州街道で賑わいを見せる表通りの町です。
江戸最大の繊維問屋街として名を馳せる様になり、往時『木綿店』と通称された一角には木綿問屋が74軒あり、その中でも6割以上が伊勢国(現在の三重県)の店が占めていました。
また、通旅篭町から通油町にかけては地本問屋が連ねていました。
『地本問屋』とは江戸で出版された大衆本の総称です。
洒落本・草双紙(赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻)・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などを扱っていました。浮世絵版画も企画出版しており、板元または版元ともいわれます。
>鱗形屋は『吉原細見』の「序」を平賀源内に任せたらどうか?という、重三郎の提案を二つ返事で承知します。
鼻息荒く『吉原細見』の序を開いて見せ、「此処!此処に平賀源内の序が載りゃ間違いなく評判になると思うんです!そうなりゃ客も来るし、細見だってもっと売れる。鱗の旦那さまにも悪い話じゃねえと!」とまくし立てる蔦重さんに対し、鱗形屋孫兵衛さんは「…まあ、いいぜ」と蔦重さんの勢いに呆れつつ許可しています。
二つ返事で乗り気では無いと思います。
>「重三郎が自力で平賀源内を探し出し原稿を取って来られたら」という条件をつけます。
孫兵衛さんは「ただし、お前さんが『序』を貰って来れたらだ。俺は伝手がねえからな。お前さんが平賀源内に貰ってくんだ」と蔦重さんに告げています。
・平賀源内を探せ!?
>しかし、そう簡単に平賀源内は見つからないようで、重三郎は花の井に頼っています。
松葉屋では貸本の商いを唐丸さんに任せた蔦重さんがクタクタになっています。
花の井さんが「本屋は?源内の本出してる」と尋ね、蔦重さんが「行った」と答えます。
さらに花の井さんが「引札を頼んだ店、芝居小屋」と行きそうな場所を挙げます。
蔦重さんは「行った行ったみーんな行った!けど、みーんな口揃えて、俺も探してるから見つけたら教えてくれってさぁ」と愚痴ります。
ここ数日、江戸中を駆け回ったが源内の『げ』も見当たりません。
花の井さんが「何でアンタがそこまですんのさ?小間物屋に自分で探せって言えば良いじゃないか」と怪しみます。
蔦重さんがはぐらかしていると、二階から座敷持花魁のうつせみさんが話を聞きつけ、「あの、いっそ田沼さまに聞きに行ってみるっていうのは如何でありんす?田沼さまに源内さんを引き合わせてくれとお願いに」と口を挟みました。
蔦重さんはとても正気とは思えないのか「花魁?夢でも見ておられなんした?」と思わず廓言葉になっています。
しかし花の井さんも「その手はありんすねぇ」と同意します。
平賀源内先生が老中・田沼意次公の所に出入りしていると豪商で客の・和泉屋が話していたのでした。
「あ!」
蔦重さんの脳裏に炭売りの顔が浮かびました。
早速蔦重さんはいつぞやの湯島の長屋にやって来て、このまま厠で待てば炭売りの男にいずれ会えると臭いのを我慢していました。
長屋の住人らしき爺さまがよたよたと厠へ入っていきます。
炭売りの男は夜見世の時刻になっても現れません。
「そうは烏賊の嘴か」
蔦重さんがため息をついて去ろうとした時。
「おう、新之助!そっち終わったか!じゃクソっ風呂浴びて」という声がして炭売りの男が新之助という浪人とともに帰ってきました。
蔦重さんは駆け寄ると「あの!」と声を掛けました。
蔦重さんが「俺、覚えてねえですか?ここで役人はクソじゃなくて屁だって話を聞いた」と尋ねると炭売りは「ああ!えーと吉原の!ああ、どうしたあれから」と言います。
蔦重さんが扉から中を覗きながら「あの、旦那 平賀源内って知らねえ ですかい?」と尋ねると若い浪人が「えっ」と目を開きます。
炭売りは「そりゃ 知ってるも何も」と得意げです。
炭売りは「あれだろ?本草学者であり、蘭学者であり、浄瑠璃作家であり、戯作者でありの稀代の才人と名高い平賀源内大先生」と言います。
炭売りの男は間違って爺さまの入った厠の扉を開けてしまい、悲鳴を上げられています。
蔦重さんは炭売りの入った厠に手を掛け、「そう!その源内先生は田沼さまんとこ出入りしてるって聞いて。その炭、田沼さまの炭だって言ってたし、旦那、ひょっとして平賀源内の居場所なんざ知らねえですか?」と言います。
「何故源内先生を探しておられるのだ?」と新之助さんに尋ねられ、蔦重さんは「手がかりが無く藁にもすがる思いで、閑古鳥が鳴いている吉原に客を呼び戻すため『吉原細見』に序を書いてもらいたいのだ」と話します。
炭売りの男は「いいよ 会わせてやるよ平賀源内先生に」と答えます。
「えっ!」蔦重さんが驚いていると、炭売りの男は「俺ぁ源内先生とは知り合いも知り合い、クソひり合った仲だからよ」と言います。
蔦重さんは「そ、そりゃくせえ仲にごぜえますねえ!」と怪しみながらも話を合わせています。
「おう、けどさすがにただで会わせるわけにゃあ行かないな。吉原 ずいぶん 行ってねえなァ。なあ新之助!」
炭売りは浪人に同意を求め、どうすると言わんばかりにニヤついています。
背に腹は代えられぬ。
>しかし、そう簡単に平賀源内は見つからないようで、重三郎は花の井に頼っています。
花の井さんに頼るというより、花の井さんが源内先生が行きそうな場所を挙げるも、蔦重さんは目ぼしい所は全て行っており、ここ数日江戸中を駆け回っても源内の『げ』も見当たらないために蔦重さんは花の井さんに愚痴っているのだと思います。
助言をしたというならば、豪商・和泉屋さんから聞いた話として「いっそ田沼さまに聞きに行ってみるっていうのは如何でありんす?田沼さまに源内さんを引き合わせてくれとお願いに」と口を挟み、田沼意次公と平賀源内 先生との関係に結びつけたうつせみさんの方でしょうか。
>新之助という若い武士は、粗末な身なりで月代も伸ばしているのに、きちんと二本刀を佩いております。
源内先生の助手を務める新之助さんは、腰に打刀と脇差を差しています。
武士が腰に差している2振の刀は、刃長が2尺(約60.6cm)以上ある『打刀(うちがたな)』と、それよりも短い『脇差(わきざし)』です。
これを『二本差』といいます。
戦国時代は、首級を挙げた数が多ければ多いほど、高く評価されました。
打刀で敵を斬りつけ刃が欠けたり折れたりした場合、脇差を用いて首を切り、大将のもとへ献上していました。
これが背景となり、江戸時代の武士は打刀と脇差の二振を、差料(さしりょう)として腰に差す事を定められ、武士の証しとしていました。
南北朝時代末期頃までの戦で重用されていた太刀は、騎乗して戦う事ができる様に反りが強く、『太刀紐』を使い、腰に吊り下げました。これを『太刀を佩く』または『佩刀』といいます。
なので新之助さんの腰の二本差しは『刀を差す』であり、腰に下げて佩く訳ではないので『二本刀を佩く』とは言わないと思います。
・「山師」こそ時代の申し子?
>重三郎のうかつぶりはこの先も続き、吉原へ連れて行く段になってから相手の名前を聞き出します。
吉原に行くには徒歩や馬や駕籠、あるいは猪牙舟(ちょきぶね)で隅田川を 山谷堀まで行き、下船する方法があります。そこからはいずれも日本堤を通って衣紋坂に向かう事になります。
そういえば名前を聞いていなかったと蔦重さんが「あの、ええと」と声を掛けます。
炭売りは「あ、俺?銭内。金がねえからよ。貧家銭内ってどうよ?よくねえか?アハハハ」と言います。
蔦重さんが「銭内さん。あの源内先生とはどちらでお知り合いに?」と尋ねると炭売り改め銭内先生は「山よ。俺ぁ山の仕事してて、そこに源内先生がご指南に来るって寸法よ。…あ馬鹿にしたね。こいつ山師かよって」と言います。
蔦重さんは「滅相もない…」と両手を振って否定しました。
銭内先生は「山師を馬鹿にしちゃあいけないよ。山師が金銀銅鉄とにかく掘り当てなきゃ、この国は終わっちまうんだから。この国は国を閉じるなんてとんちきをしてっだろ?そうすると 相場ってもんが分かんなくなって、金も銀もみたいな値でオランダに吸い上げられちまったんだよ。そのせいで今、必死になって 銅で銀を買い戻してんのよ。お上は」と説明しました。
蔦重さんが「は?か、買い戻す?」と聞き返し、銭内先生は「そうよ、どうだいこのバカバカしさ!呆れがトンボ返りで礼に来んだろ!」と言います。
蔦重さんが「…はぁ、けど、どうしてそこまでして 銀がいるのですか」と尋ねると、銭内先生は「そりゃお前さん、これよ」と懐から長方形の銀貨を取り出しました。
蔦重さんは「ええと、確か 火事の後に出始めた南鐐二朱銀!」と答えました。
銭内先生は「そうそう、そうそう、そうそう。田沼さまが出した銀貨さ。こりゃ銀に『朱』ってつけたのがとてつもなく優れモンなんだが、まあ、そこはいいや 。とにかく田沼さまはこれを使って金の手綱を握り直したいのよ」と田沼意次公の貨幣改革を説明しますが、何やら複雑な話で、蔦重さんはなかなか理解が追いつかないのでした。
>「山師を馬鹿にしちゃいけないよ。山師が金銀銅鉄掘り当てなきゃこの国は終わっちまうんだからね」
幕府は財政赤字が膨らみ、経済は悪化の一途で、庶民や大名からの税金を上げるのは限界でした。
江戸時代中期にもなると、武士よりも町人が力を持ってきました。
そこで田沼意次公は、商業を重んじた貨幣経済中心の国作りを推し進めます。
商品流通に携わる株仲間(商工業者の同業組合)を奨励し、仕入れや販売の独占権を与える代わりに運上・冥加という税を課した事は『べらぼう』第一回で取り上げられました。
意次公は幕府開闢以来の金座・銀座と合わせ、銅座(どうざ:銅の取引や鋳造を行った商人の集まり)を奨励し鉱山を採掘させ、金銀銅を幕府の専売にしました。
天領である金山・銀山・銅山の採掘は経済基盤のひとつとなりました。
佐渡島(越後国)の佐渡金山、鶴子銀山、石見国(島根県)の石見銀山、但馬国(兵庫県)の生野銀山、下野国(栃木県)の足尾銅山は特に重要でした。
採掘では以下のような技術が用いられていました。
灰吹法が広まる事で、酸化鉛や水銀の粉塵を吸い込んだ作業員が鉛中毒や水銀中毒を発症しました。
例えば石見銀山では鉱山での劣悪な環境も相まって30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの鯛と赤飯で「長寿」の祝いをしたのだそうです。
>「この国は国を閉じるなんてトンチキをしてっだろ?そすっと相場ってもんがわかんなくなって金も銀も、クソみたいな値でオランダに吸い上げられちまったんだよ。そのせいで今必死になって胴で銀を買い戻してんのよ、お上は」
『胴で銀を買い戻してんのよ』は『銅で銀を買い戻してんのよ』でしょうか。
長崎の出島に於いて、オランダや清と交易がなされ、主力の輸出品は金銀銅でした。
清との貿易では銅の代替輸出品として重要な地位を占めていました。
幕府は初め清との貿易を金銀で決済していましたがその流出が著しく増加したため、貞享二年(1685年)に金銀に代えて銅を輸出しました。
しかし幕府の新井白石は、貨幣鋳造が困難になると危惧し、正徳5年(1715年)に貿易制限令(長崎新令)を出し、入港を認める清船を年間70隻から30隻に削減しました。
またオランダ貿易についても、貿易額を銀 3000貫目,銅輸出額を 150万斤としました。
その後、銅の産出額が減退して長崎貿易が不振となったため、幕府は銅に代えて『俵物』を輸出し始めました。
『俵物』はいりこ、干しアワビ、フカヒレなどの海産物を俵に詰めた輸出品です。
意次公は、銀の国外流出を抑制するため銅や『俵物(海産物などの輸出品)』での支払いを奨励しました。
(出典 株式会社平凡社『改訂新版 世界大百科事典』、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)
>すると銭内が財布から銀貨を取り出す。
>火事の後に出された「南鐐二朱銀」(なんりょうにしゅぎん)でした。
>なんでも田沼様が出した銀貨なのだとかで、「銀」に「朱」とつけたのがとんでもないすぐれものだそうで。
江戸時代の貨幣制度は『三貨制度』と呼ばれています。
江戸時代の日本は、金(小判、一分判)、銀(丁銀、豆板銀)、銭(寛永通寳)という基本通貨が併行して流通していました。
『金貨』『銀貨』『銭貨』がそれぞれ独立しており、幕府の触書による御定相場も存在しますが互いに変動相場で取引されました。(同じ日本にドルやユーロがあるような状態ですね)
両替商(小判、丁銀および銭貨を1 〜 2%程度の手数料を取って交換・売買する商店)が発展しました。
江戸時代中期のレートは金1両=銀60匁=銭4,000文でした。
1両を米価換算で現代で約4万円、蕎麦代12〜13万円です。(蕎麦一杯16文、1文=10〜30円)
田沼意次公は小普請組頭・川井久敬公の提案により『明和五匁(もんめ)銀』を発行し金と銀の交換レートを『金1両を銀60匁』にし、『五匁銀12枚を金1両』と価値を固定しました。
金と銀の両替や相場取引で大きな為替差益を得て儲けていた両替商に大きな反発を食らい、明和五匁銀は8年で鋳造終了となりました。
明和九年(1772年)に発行された『南鐐二朱銀』は8枚をもって一両に交換されました。
銀貨は銀の純度98%前後と統一規格を持ち、秤量の必要がない『計数貨幣』で、直接小判に結びつけた事から次第に定着し流通する様になりました。
・もはやこの世は全て金?
>その田沼意次が重々しく語っています。
その頃、江戸城の一室では、悪化する一途の幕府の財政を立て直すべく、裃姿の老中・田沼意次公が他の老中相手に政策を力説していました。
意次公は「もはやこの世は全て『金』。何をするにも金が入り用となります。」と火鉢の灰に『金』と書き、さらに「にもかかわらず、幕府、武家の実入りは年貢。米は換金せねば通用せぬ。するとそこにつけ込まれ札差たちに買い叩かれる。これでは武家、百姓は貧しくなるばかり。では、いかにすればよろしいか。新しい『金』を作り、武士が金の手綱を握り直せばよろしいのでございます!」と持論を展開します。
場面は日本堤を歩く蔦重一行へ移り、蔦重さんが「ああ〜、けど金っていろいろありますよね。金貨も銀貨も銭も昔からのもあるし」と銭内先生の説明に相槌を打ちます。
そして再び江戸城。
老中首座・松平武元公とその腰巾着・松平輝高公、松平康福公の両老中も意次公の話に理解が追いつきません。
さらに意次公は「そのためには世の金貨銀貨を凌駕し、この南鐐二朱銀に統一する事が一里塚。そのためには大量の銀を備えねばなりませぬ。ゆえに 天領にても盛んに銀を掘らせておる訳にございます。採掘の大事になる事はお分かりいただけたでしょうか」と語りました。
しかし、白毛の筆の様な眉を蓄えた松平武元公が、「分からぬ。然様な事をせずとも、米を高く買えと商人に命ずれば済む話ではないか」と言います。
(その白眉毛の下の両目は節穴か)
意次公はそう罵倒する代わりに「右近将監さま、今や力のある商人たちは こちらの言う事など聞かぬのです」と説明しました。
武元公は「ならば上様のご意向を増すべく務めるが本道であろう!民草に今一度 世の泰平は上様の おかげと思い出させ、その心を持って従える。それこそが武家の政!口を開けば 商人 のごとく 金、金、金と!それが武家の範たる老中の考えか、恥を知れ!」と反論しました。
八代将軍吉宗公から三代に渡りつかえる老中首座は何より伝統と品格を重んじる。米を基本に将軍の権力を高め、泰平の世を知らしめるなど時代錯誤も甚だしいが、幕府が旧態依然とした身分制度に縛られているのもまた事実でした。
意次公は言葉を飲み込み、平伏するのでした。
>にもかかわらず、幕府武家の実入りはいまだ年貢。
>米は換金せねば通用いたしません。
>するとそこにつけ込まれ、札差たちに買いたたかれる。
>これでは武士百姓たちは貧しくなるばかり。『三貨制度』では、金貨・銀貨・銅貨(銭)の交換比率は『変動相場制』であり、米が基軸通貨的役割を果たしていました。
意次公も『幕府、武家の実入りは年貢で米は換金せねば通用いたしません。』と語っています。
米価は江戸幕府や諸藩の財政に直結したばかりでなく、直接生産者である農民の収入はもちろん支配階層である武士や消費者層である職人や商人もの生活基盤そのものを左右しました。
また、米以外の物資の価格(『諸色』)の価格はその時々の米価に連動すると考えられていました。
米価は度重なる冷害・虫害等による飢饉や買い占めで高騰する事がしばしばあり、百姓一揆や打ち壊しなどの社会不穏を誘発しました。
そのため意次公は、統一規格を持ち、秤量の必要がない『計数貨幣』で、通貨8枚をもって一両に交換出来る南鐐二朱銀を奨励したのでしょう。
>「そんなことになるなら、商人に米を高く買えと言えばよい!」と返しています。
>「今どきの商人は武士の言うことなど聞きません」
>意次が粘り強く説明すると、武元はムッとしつつ「ならば上様のご威光を増すべくつとめるのが本道だ」と引きません。
米価は災害やそれに伴う飢饉や買い占めで高騰する事があるなど『変動相場制』であり、物価高騰はしばしば百姓一揆や打ち壊しなどの社会不穏を誘発しました。
松平武元公は商人に米を高く買わせる事で買い占めて元の値よりも高額で売り更に高騰しない様にしようと考えたのでしょう。(転売対策ともいえますが。)
しかし、商人からすれば安く仕入れて儲けを見越して売りたいので、お上の政策に不満が募る事になるのではないでしょうか。
幕府は財政赤字が膨らみ、経済は悪化の一途で、庶民や大名からの税金を上げるのは限界でした。江戸時代中期にもなると、武士よりも町人が力を持ってきた時代なので、意次公の様に『武士の言う事を聞かない商人』や『お上のご威光が通用しない』という状況を他老中方に説明するのは容易ではないのかもしれません。
・吉原は古臭ぇのか??
>重三郎に連れられ、銭内と新之助は吉原にやってきました。
さて、吉原に着いた蔦重さん、銭内先生、小田新之助さんは小見世の立ち並ぶ通りを歩いています。
「思ったよりも静かな。おるのは年嵩ばかりであるな」と吉原は初めてらしい新之助さんが言います。
蔦重さんは「若えのは近場の岡場所や宿場に行っちまうんですよ。吉原は遠いし、金も掛かるし、しきたりも煩いし。おいそれとは行けねえとこと思われてんじゃねえかと。」と言います。
銭内先生が屋号を確認しながら「古臭えって思われてんじゃねえの?」と言います。
「今時吉原に行くのは金持ちの爺と田舎モンだけだって俺あ聞いたよ」と銭内先生が湯屋などで聞いた情報を教えます。
吉原は大名や豪商の接待の場であり、文人墨客が集う通人たちの粋な遊びの場・文化交流の場だと思っていた蔦重さんはガーンと頭を殴られた気がしました。
銭内先生はそんな蔦重さんに「それより蔦重、俺ぁ松葉屋 ってところに行きてえんだけど」と言います。
蔦重さんは「この辺りの方が気軽に楽しめますよ」と笑顔で誘うも銭内先生は「良いって聞いたんだよね〜」と渋ります。
蔦重さんは自分の懐と吉原を天秤にかければ聞き入れるかもと二人を松葉屋へ案内しました。
松葉屋では花の井さんがお茶っ引きで「今夜は客が付かない」と半左衛門さんに報告しています。女将のいねさんは銭内先生に応対しています。「申し訳ございんせん。瀬川は今おりませんで」
「え、『瀬川』っていねえの?今はいねえって出てるってこと?」
どうやら銭内先生の目当ては『瀬川』という花魁 だった様です。
初代瀬川は松葉屋お抱えの伝説の花魁で、四代目まで名跡が継承されているのだが…
女将のいねさんが「瀬川ってなあ、かなりの昔の名跡でござんして、不幸があって今は誰も継いでおらず、こちとら 商売上がったりでござんすよ、 ははは」と早口で説明します。
銭内先生は「そうか、ここにもう瀬川はいねえのか。ん、じゃあもう誰でもいいや」と言い、蔦重さんはそんなら小見世でも良かったじゃないかと腹立ちを抑えつつ「あんまり高くなんねえ様に」とこっそり女将のいねさんに頼み込みました。
その一部始終をたまたま内証にいた花の井さんが見ていました。
>客は年配の者ばかり。遠いし、金はかかるし、しきたりにはうるさい。
>そう歩きながら吉原の問題点を列挙します。
小見世の立ち並ぶ通りで「思ったよりも静かな。おるのは年嵩ばかりであるな」と新之助さんが吉原の印象を語ります。
蔦重さんは「若えのは近場の岡場所や宿場に行っちまうんですよ。吉原は遠いし、金も掛かるし、しきたりも煩いし。おいそれとは行けねえとこと思われてんじゃねえかと。」と言います。
銭内先生が屋号を確認しながら「古臭えって思われてんじゃねえの?」とツッコミを入れました。
吉原の妓楼は見世の格と場代(料金)の違いによって大見世、中見世、小見世の三種類に大別されました.。
全ての見世が壮麗な二階建てで、女郎が男たちを誘う格子張りの張り見世は階級によって豪奢な着物を身に纏い、ズラリと居並びました。
男たちは通りに立ち、格子越しに女郎を眺め相手を決めました。
長谷川平蔵一行の初会の様子にも見られる様に大見世ともなると花魁と顔を合わせるまでにも様々なしきたりが存在し、芸者や幇間を呼んで豪華な宴席を設けたり、紙花など心付けを用意するなどとにかく見栄と値の張るお大尽の嗜みという立ち位置が吉原だったのでしょう。
新之助さんが小見世で敢えて年嵩の女郎に目を付けたのは年季明け間近の女郎などもいたのでしょうか。
お歯黒どぶ沿いの河岸見世の様に格が落ちれば場代は安くなりますが、切見世では年季明け後も行く宛の無い女郎や朝顔姐さんの様な病に罹り客を取れない女郎などもおり、食い詰め悲惨な最期を迎える女性も多くいました。
それでも吉原は格の高い公娼街であり、もっと安価で気軽に遊びたい庶民は私娼である飯盛女などのいる岡場所や宿場に流れていたのでしょう。
>すると銭内がきて「瀬川」はいないのか?と女将のいねに聞いてきました。
>今はいないと謝るいね。
蔦重さんに連れられ、吉原に来た銭内先生と新之助さん。
応対に出たいねさんに「ここに瀬川はいないのか」と問い、「瀬川は今おりませんで」と答えます。
『瀬川』は江戸時代、新吉原江戸町・松葉屋半右衛門の妓楼に所属した花魁の名跡でした。
『瀬川』は享保から天明年間まで、九人おり、二代目、四代目、五代目が有名でした。
殊に宝暦年間に所属した四代目瀬川は、下総の農家の出身で、まれにみる才色兼備だったそうです。
三味線、浄瑠璃、笛太鼓、舞踊などの遊芸はもちろん、茶の湯、和歌俳諧、碁、双六、蹴鞠の技にも長け、文筆も達者で、易の造詣もある名妓の誉れ高い花魁でした。
落語演目に『松葉屋瀬川』があります。
これは講談の『大岡政談』の中にある『傾城瀬川』をベースに作られたものなのだそうです。
『松葉屋瀬川』は六代目三遊亭圓生師匠の得意演目だったそうです。
大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では中村七之助さんが圓生師匠を演じていました。
・吉原に天女はいるのか??
>宴席が始まりました。
>重三郎は、源内への執筆依頼を銭内に頼もうとすると、吉原のどこを褒めたらよいのか?と聞き返してきます。
銭内先生の宴席に芸者と幇間が呼ばれ、座敷持花魁のうつせみさんと番頭新造のとよしま姐さんが付きました。
松葉屋に上がった新之助さんは緊張し、銭内先生は楽しんでいる様子でした。
蔦重さんは頃合いを見計らい、「で、銭内さん、源内先生にはいつ頃お会いできますかねぇ」と切り出しました。
銭内先生は「頼んでも書いてくれないんじゃないかなぁ。吉原に人を呼ぶ『序』を書いてくれたって、これじゃあ源内先生、どこを褒めたら良いか分かんねえと思うんだよ」と言います。
蔦重さんは「またまた、楽しんでるじゃねえですか」と言うと、源内先生は「俺ぁは楽しんでるよ。けどさ、どうも分かんねぇって言うか。よその岡場所と比べて、吉原の良いとこってどこなんだい?」と聞きます。
蔦重さんが「…そりゃ、あ、そりゃなんて言ったって女が綺麗ですし!」と答えるとうつせみさんととよしま姐さんが慌てて銭内先生に愛想を振り撒きます。
銭内先生は「まあ、別に悪かないけどさ」と言います。
蔦重さんが「芸者や師匠方も確かで」と付け加えれば銭内先生が「深川芸者はみーんな三味上手いよ」と言い、再び蔦重さんが「あ、台の物もこの様に華やかで」と言うと銭内先生が「ハハハハ…味ひでぇよ、これ」と返します。
ああ言えばこう言うの銭内先生に蔦重さんは追い込まれ、「好みの女が必ず見つかります!なんせ三千もいますから!どんな好みの人でも良い女が必ず見つかります!」と返しました。
銭内先生が「じゃ、連れて来てよ。俺にとっての良い女とやらをさ。そしたら源内先生に会わせてやるよ」と言います。
もう打つ手が無い蔦重さんが「分かりました。お好みは…」と尋ねると、「そうだねえ。この世の者とは思えねぇ天女の様なのが良いねえ」と答えました。
一方、新之助さんはうつせみさんの姿から目を離せなくなっています。
蔦重さんが交渉のため席を外すと、うつせみさんがいじらしく「わっちでは天女とはいきんせんもんね」と首を傾げて言います。
新之助さんが慌てて「然様なことはござらぬ!すまぬ、驚かせてしまったか……」と否定します。
>「そりゃなんたって女が綺麗です」
重三郎がそういうと、うつせみがニッコリと微笑みます。
>銭内は悪かないと認めます。
座敷持花魁のうつせみさんだけでなく、番頭新造のとよしま姐さんも宴席に出ています。
銭内先生に「よその岡場所と比べて、吉原の良いとこってどこなんだい?」と聞かれた蔦重さんが「…そりゃ、あ、そりゃなんて言ったって女が綺麗ですし!」と答えるとうつせみさんととよしま姐さんが慌てて銭内先生に愛想を振り撒いています。
『座敷持花魁』は、江戸中期以後の遊里などでの遊女の格付の一つです。
部屋持ちの上位で、床の間つきの座敷と、次の間を占有した花魁でした。
うつせみさんは松の井さん、花の井さんに次ぐ松葉屋の花魁という設定です。
『番頭新造』は江戸時代の吉原遊郭に於いて、花魁(おいらん)に付き添い彼女たちの身の回りの世話や外部との交渉を担当する役割を担いました。
年季を終えた者や、器量が悪く遊女として売り出せなかった者が務めました。
>「ああ……まあとにかく、好みの女が必ず見つかります。なんせ三千もいますから!」
>実際に三千いるかどうかはさておき、白居易が『長恨歌』で「後宮佳麗三千人」と詠んだことからの決まり文句ですね。
>「青楼」という漢語由来の遊郭を指す言葉もあります。
『後宮佳麗三千人 三千寵愛在一身』は『三千人もの多数の後宮の女性たちがいる中で天子の愛を一身に集め、独り占めする』という意味です。
楊貴妃は玄宗皇帝のご機嫌を取り、宴席ではおそばに仕えていつも離れませんでした。
春には春の遊びにお供をして、夜には夜で、玄宗皇帝の愛情を独り占めし、後宮には美女が三千人もいたが三千人に分けられるべき天子の寵愛が楊貴妃一人のみに全て集まったのです。
『青楼』は遊女のいる妓楼や廓の事です。
近世上方では揚屋や茶屋を指し、江戸では岡場所などに対して官許の吉原遊郭を指しました。
(出典 精選版 日本国語大辞典)
・重三とは馬鹿の三段重ね?
>花の井が熱烈な恋文を書いております。
花の井さんが部屋で馴染みの客に文を書いています。
どうやら今夜はお茶っ引きで馴染み客も付かなかった様です。
蔦重さんは「暫しお待ちを」と席を外し、急ぎ松葉屋の親父・半左衛門さんを捕まえ交渉します。
半左衛門さんが「お代はあいつらにつけろって、どう言う事だよ」と尋ね、蔦重さんが「どうも 一杯食わされた様で」と言います。そこにいねさんが割って入って「食った食わされたはあんたの話だろ?こっちは出すもん出してんだから。あっちつけこっちつけはてめえで片付けな!」 と言います。蔦重さんが「俺ぁ今、親父さまに話してんです!」と反論しますが、いねさんは「んじゃま、駿河屋につけとくさ」と言います。 蔦重さんは桶伏せはもうこりごりだとばかりに「え、親父さま、それは」と慌てて追いすがろうとしましたが、夫妻は蔦重さんを無視してさっさと仕事に戻って行ってしまいました。
蔦重さんが意気消沈していると、花の井さんが自分の部屋から出てきました。
花の井さんが「何をどう一杯食わされたのさ」と蔦重さんに尋ねます。
蔦重さんは観念し、「…平賀源内に引き合わせてくれるって言うからさ」と白状しました。
花の井さんは「馬鹿らしうありんす〜。馬鹿馬鹿馬鹿〜。重三とは馬鹿の三段重ねでごさりんす〜」と茶化します。
蔦重さんが「けど、ただの山師じゃねえ匂いもしたんだよ!田沼さまの話もするし、学もあって!」と反論します。
部屋に戻ろうとしていた花の井がふと立ち止まって蔦重さんを振り返り、「あんた一体何やってんのさ。小物屋のために走り回ってるわけじゃないだろ?」と言います。
その時、蔦重さんが出て来た座敷の方から「源内 先生!」と声がしました。
源内先生…?と花の井さんと顔を見合わせ、蔦重さんは慌てて座敷に戻りました。
戻ってみると銭内先生が何処かの侍と親しそうに話をしています。
侍が「源内先生、いやその節はお世話になりまして」と言うと、銭内先生が「いやぁ、こちらこそ。今一つ お役に立てませんで」と答えます。
「平賀源内先生だったんすか〜」と言う蔦重さんに銭内改め平賀源内先生がいたずらっ子のように ニヤリと笑いました。
>廊下で重三郎は、松葉屋にお代を相手につけるよう交渉しています。
>どうやら一杯食わされたと流石に気づいたようでして。
>ここで通りかかった、夫よりも気の強そうな女将は、食った食わされたのはそっちの都合、払うもんは払えと凄みます。
当たり前ですが、お店でサービスを受けた場合は、正当な対価を支払わなければなりません。
吉原には、お金を持たずに遊びにくる男が後を絶ちませんでした。
無銭飲食した上、女郎から性的サービスを受けた男は『桶伏せ』という制裁を受けました。
蔦重さんは親父さまたちの許可を得ず勝手に田沼意次公にけいどうを頼みに行ったため『桶伏せ』の制裁を受けましたが、本来はお金を持たず遊び払う当ての無い客への制裁でした。
実際に「桶伏せ」が行われたのは、吉原ができた初期のごく一時期の事だったです。
あまりに酷い仕打ちをすれば、お客が寄り付かなくなってしまうからでしょうか。
松葉屋夫妻と蔦重さんは銭内さんをサービスを受けたもののお金を持たずに遊びに来た客と判断し、案内した蔦重さんにつけを払わせようと思ったのでしょう。
『一杯食わされた』と思った蔦重さんは、反論しましたが、「駿河屋につけとく」と言われ、「桶伏せ」の刑を思い出し慌てたのでしょう。
・平賀源内は男一筋だ?
>「悪かった悪かった悪かったよ!」
蔦重さんは気を取り直し、銭内先生改め源内先生と膝を突き合わせて話をします。
源内先生は「悪かった悪かった悪かったよ!あんまり一所懸命なんで誂ってみたくなったんだよ。たまにゃ新之助に良い思いもさせてやりたかったし」と弁解します。
その新之助さんはどうやらうつせみさんと懇ろになった様です。
源内先生が「あいつにとってのいい女は見つかったようでね」と言います。
蔦重さんは「…じゃあ、じゃあもう書けますよね。吉原の良いとこその目で見たんですから!」と願っても無い幸運とばかりに源内先生に話し掛けました。
しかし源内先生は「けど真面目な話、俺じゃねえ方が良いと思うんだよな」となおも渋ります。
蔦重さんが「今更何言ってんですか」と尋ねると、源内先生は「あのさ、俺、男一筋なのよ。…その顔は忘れてたね」と打ち明けました。
蔦重さんはやっちまったとばかりに顔を背け顰めながら「…そうでした。あぁそうだ。平賀源内っていやぁ有名な男色じゃねえかよ〜」と頭を掻きむしりました。
源内先生が「でね、実は俺、前に別口で『吉原細見』の序書いた事あんのよ。けど、気持ちが入んねぇもんだからつまんねえ出来でさ。遊んでみて興も乗りやぁまた違うかなって思ったんだけども…あ、さっきのお侍とかどうよ?結構筆立つよ」と言います。
蔦重さんは「いや、いやいやいや!源内先生でなければ!源内先生だからこそ、あの男一筋の平賀源内をも虜にする吉原!じゃあいっぺん覗いて見るか!となりましょう。ま、とにかく書き出してみるってどうです?」と矢立と紙を渡します。
さらに「難しくお考えにならず、勢いで。此処には男一筋の俺ですら蕩かす女がいたって!」と煽りました。
しかし、源内先生は「…だから、それがいないんじゃな〜い」と言い、ゴロンと大の字になります。
>「あのさ、俺、男一筋なのよ」
>「あっ……」
>気づくのが遅ェ!
>笑い飛ばし、その顔は忘れていたと見抜く源内。
蔦重さんは銭内先生改め源内先生と分かったところで再度吉原細見の序文を書いてもらおうと交渉します。
しかし、「俺じゃねえ方が良いと思うんだよな」と渋ります。
その理由は、源内先生は男色家だったからでした。
本草家・俳人・画家・戯作者・鉱山開発者・発明家・医師など、さまざまな肩書を持つマルチな天才「江戸のダ・ヴィンチ」と呼ばれた平賀源内先生。
マルチクリエーターらしい人々を魅了する反面一方で胡散臭い人間だという評判も立ったそうです。
当時バイセクシャル(男性と女性の両方に恋愛感情や性的魅力を抱く人)な男性が流行っていた江戸の街で、源内先生は生粋の男色家でした。
江戸に狂歌ブームを巻き起こした狂歌師・大田南畝(1749〜1823)は随筆『仮名世説』のなかで「彼は芳町のみでよく遊び、北里(吉原)には行かなかった」と記述しています。
吉原は女郎とそれを目当てに集まる男性が主ですが、芳町は男色街として知られていました。
芝神明門前(現在の港区の芝大神宮)・湯島天神門前・芳町(現在の中央区日本橋人形町のあたり)は、江戸の三大男色地帯でした。
中村座をはじめ歌舞伎の芝居小屋が立ち並ぶ様になり、それに付随して男性が男性を買う『陰間茶屋』が生まれ若衆と呼ばれる10代から20代初頭の少年が客を取るようになりました。
『陰間』とは歌舞伎で女形を修行中の少年役者のことを指し、彼らは修行のために男性と性的関係を持っていました。
源内先生は若くて美しい少年を好み、特に若い歌舞伎役者を好んでいたそうで、『陰間茶屋』の細見である『江戸男色細見』や陰間の評判記である『男色品定』を書いています。
源内先生は『根南志倶佐(ねなしぐさ)』の中に閻魔大王と弘法大師の男色談義があります。
下記引用はそこに出てくる弘法大師の男色評です。
弘法大師の言を借りての、源内先生本人の率直な男色評だったのでしょう。
・迫る源内、迫られる重三郎?
>「お前さんさぁ……お前さん、改めて見ると相当いい男だね」
蔦重さんが困っていると、源内先生がむくりと起き上がりました。
「お前さん、改めて見ると相当良い男だね」
蔦重さんを見る源内先生の目つきが艶めかしくなりました。
「…え?」
戸惑う蔦重さんに対し源内先生が「良いじゃない、良いじゃない。うん」とにじり寄って膝を擦ってきます。
視線を外す蔦重さんに源内先生は「な、お前さんが花魁の格好しとくれよ。そしたら 俺書けんじゃねえかな、うん」と言い、まんざらでもない蔦重さんは後ずさりながらも「え…格好だけで良いんですか?」とうっかりその気になりました。
源内先生が「当たり前じゃねえか。何もしねえよ」と蔦重さんにぴったりくっつきながら言います。
「ほ、ほんだすかえ?…やりましょうか」
思わず廓言葉で蔦重さんが返したその時。
襖が勢い良くスパーン!と開きました。
「おぶしゃれざんすな、べらぼうめ!」勢い良く開いた襖に蔦重さんと源内先生の目が点になりました。
そこには番傘をさした粋な若衆姿の花の井さんが控えていました。
>「なあ、お前さんが花魁の格好したらどうだい?そしたら俺書けんじゃねえかなぁ、うん!」
「花魁の格好?」
生粋の男色家であり、男色小説『根南志倶佐』や、男娼が客を取るための『陰間茶屋』の細見、絶世の美少年が登場する冒険小説などの著書がある源内先生。
『根南志倶佐』は悲劇の死を遂げた実在の歌舞伎役者を主人公としています。
元々歌舞伎は、出雲阿国(いずものおくに)という女性が創始した『かぶき踊』が祖であると言われています。
『当代記』によれば、阿国が踊ったのは傾き者が色街の茶屋の女と戯れる場面を含んだもので「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられました。(遊女歌舞伎)
ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じ若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)が行われていました。
『陰間』とは歌舞伎で女形を修行中の少年役者のことを指し、彼らは修行のために男性と性的関係を持っていました。
しかし、遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため江戸幕府により禁止され、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展しました。
蔦重さんは吉原の茶屋の若衆ですが、源内先生は『改めて見ると相当良い男』と評しています。
源内先生は陰間茶屋で客を取る若い歌舞伎役者に蔦重さんを準えたのかもしれません。
>「おぶしゃれざんすな!」
>傘を手にした男姿の花の井がスススと座敷に入ると、キッと見栄を切りました。
>「べらぼうめ!」
『おぶしゃれざんすな』は『御不洒落れる』と書き、へたな洒落を言う・悪ふざけをするという意味になります。
花の井さんの男装は傾き者が色街の茶屋の女と戯れる場面を含んだ阿国歌舞伎の傾奇者を演じる出雲阿国の様でもありました。
・源内にとっての天女とは“瀬川”?
>傘を閉じると、花の井は平賀様に無礼を詫びつつ、こうきました。
花の井さんが源内先生に向き直り、優美な所作で指を付き、「平賀さま、ご無礼つかまつりんす。なれど、男を差し出したとあっては 吉原の名折れ。叶う事なら、吉原はあの平賀源内をも夢幻に誘ったと言われとうござりんす」と口上しました。
源内先生が「女郎が男の格好をして、俺の気を引こうって魂胆かい?」と尋ねます。
どうやら源内先生は花の井さんの趣向に興味を引かれた様です。
花の井さんが「男?果たして男かどうか?今宵のわっちは『瀬川』でありんす」と言います。
小さな紫の布をつけた花の井さんを見て源内先生はハッとします。
「不躾ながら、平賀さまが瀬川をご所望をなさるのを耳にいたしんした。『ここにも瀬川はいないのか』と『にも』と仰るその心は、平賀さまの先立って お亡くなりになられた愛しいお方、二代目瀬川菊之丞さまだからでは ござりんせんか?平賀さまは今宵同じ『瀬川』という名の者と過ごしたかった。たとえそれが別の誰かでも…」
花の井さんはそう話し掛けます。
二代目瀬川菊之丞は源内先生がこよなく愛した 江戸 歌舞伎の女方でした。
源内先生が何とも言えない表情で 黙り込んでいます。
花の井さんは「今の松葉屋に『瀬川』はおりんせん。けどわっちで良ければどうぞ『 瀬川』とお呼びくださんし。引け四つ(午前0時頃)までの たかが戯れ、咎める野暮もおりますまい」と言い、源内先生の目を見ました。
「ってとこかね」と源内先生。
「へぇ」と花の井さんが妖艶に微笑み、二人の間に色気が漂いました。
蚊帳の外の蔦重さんに源内先生が「んじゃ」と視線を送ります。
お払い箱になった蔦重さんは「どうぞお楽しみくだせえ、ご両人!」とそそくさと退散しました。
>「なれど、男を差し出したとあっては吉原の名折れ。叶うことなら吉原はあの平賀源内をも夢幻に誘ったと言われとうござりんす」
>「女郎が男の格好をして俺の気を引こうって魂胆かい?」
>こう言われ、源内は黙り込みます。
蔦重さんに連れられて吉原に来た源内先生は最初に「ここに瀬川はいないのか」と問いました。
吉原の人である蔦重さんや松葉屋夫妻からすれば伝説の大名跡の花魁『瀬川』だと思い、現在は空席になっている事を伝えたのでしょう。
しかし、花の井さんは源内先生の言葉『ここにも瀬川はいないのか』の『にも』に着目し、源内先生が今は亡き恋人・二代目瀬川菊之丞さんを慕い「源内さまにとっての瀬川は菊之丞で蔦重に亡き恋人の幻を重ねている。かりそめの姿でもいいから役者の瀬川と再会したいのだ」と見抜きます。しかし、松葉屋は陰間茶屋ではなく妓楼で蔦重さんは陰間の若衆でもありません。
なので花の井さんは男装をして「わっちでよければ『瀬川』とお呼びください」と源内先生に願い出たのでしょう。
源内も、この花の井さんの振る舞いにはいたく心を打たれました。
>ここにも瀬川はいないのか――この「にも」という心を読み、彼が今は亡き歌舞伎役者の二代目瀬川菊之丞を思っているのだと。
歌舞伎役者の二代目瀬川菊之丞(1741~1773年)は当時、抜群の人気を誇った若手女形でした。
屋号は屋号は濱村屋。
『歌舞伎人名事典』(日外アソシエーツ)によると、現在も人気演目の『鷺娘』などを得意としていました。
元は武州・王子の富農の子で初代の養子になりました。
容姿に優れ、現在の歌舞伎・日本舞踊で人気演目のひとつになっている『鷺娘』は、二代目菊之丞が初演したものといわれています?
俳名の『路考』にちなみ、『王子路考』と呼ばれたといい、また巷で「ろこう・ろこう」と大いに持て囃されもしたそうです。
ファッションリーダーとしても抜きんでた存在感で、髪は「路考髷」、染色は「路考茶」、櫛は「路考櫛」、帯は「路考結び」など、彼の名前を付けたものが市井で流行しました。
男色家であった平賀源内先生との仲は大変有名でした。
源内先生は宝暦13年(1763年)に刊行した『根南志具佐』にまだ20代で売り出し中の菊之丞を実名で出しています。
『とある江戸の僧侶が二代目瀬川菊之丞に恋焦がれるあまりに師の金を掠め取ったり仏像を質屋に入れるなどして金を作って恋路に勤しみ、座敷牢に押し込められ、菊之丞に逢えないことを苦しんで病んでしまい地獄へ堕ちます。
当初、閻魔王は「男色は不埒」と僧の生前の行いに激怒します。ところが…。
僧が持っていた菊之丞の浮世絵を目の当たりにした閻魔王はそのあまりの美しさに玉座からころげ落ちてしまいました。』
二代目瀬川菊之丞は安永2年(1773年)、33歳の若さでこの世を去りました。
作中は安永3年(1774年)頃で、菊之丞が亡くなってから1年も経っておらず、源内先生の喪失感が伺えます。
>「諸国大名弓矢で殺す。松葉の瀬川は目で殺す……ってなことかな」
源内先生が言う『諸国大名弓矢で殺す。松葉の瀬川は目で殺す』は所謂『起承転結』の例文としてよく引用される俗謡で、一般に「糸屋の娘」を例示した人物は頼山陽であるといわれていますが、平賀源内先生だというのが異説としてあるのだそうです。
と、大坂本町が京都三条になったり糸屋が紅屋になったりしますが、昔から『起承転結』の構成をとっている文として伝えられてきました。
・迂闊なお調子者でも生きてゆけてこそ泰平の世?
>そのころ蔦屋の前では次郎兵衛が呑気に煙管を吸っていました。
花の井さんの部屋に通された源内先生は外を臨む窓辺に腰を下ろして寛いでいます。
部屋に敷かれているのは馴染みに贈られた豪華な三枚重ねの三つ布団で、塗り箪笥などの調度品も豪華なものばかりです。
源内先生が「あいつはお前さんに惚れてんのかい?」と尋ねると、花の井さんは煙管を用意しながら笑い、「重三が誰かに惚れる事などござんす のかねぇ。どの子も可愛いや、誰にも惚れぬ。あれはそういう男でありんすよ。己で気づいてはおらんしょうが…」と答えます。
源内先生は「ふーん」と含みのある相槌を打ち、花の井が吸い付けた煙管を受け取って「…瀬川。一つ頼みがあるんだよ」と言います。
次郎兵衛さんが呑気に煙管を吸っていました。
重三郎が戻ってくると、呑気な口調で「どこで何してたんだよ、重三!」と声を掛け、蔦重さんは「ちと疲れたんで寝ます」と答えます。
「あ? え? 俺だって疲れてんだけど」と言う次郎兵衛さんを尻目に蔦重さんは蔦屋に帰り、自らの煎餅布団を敷き、横になりました。
情けない声を上げる蔦重さんに「どうしたの?」と唐丸が聞いてきます。
蔦重さんは「あいつに助けられちまってよ。情けねえ…」と花の井さんに助けられた事が情けなく、夜を明かしてしまいました。
>いやあ、重三郎よ。
>何か詰まるとすぐに花の井に助言を求めているじゃないか。
>源内に迫られたとき、本気で怯えて危機感を覚えたからこそ、救われたって印象的だったんですかね。
>しかし重三郎よ。
>お前さんは他の年の大河ドラマなら、桜が咲く季節の前、序盤で無惨な死に方をするお調子者の脇役枠だ。
『本気で怯えて危機感を覚えた』なら何故蔦重さんは手を払ったりにじり寄って来る方向から離れたりする気配が無かったのでしょうか。
それとも『拒否出来なかった、やらされた』と言いたいのでしょうか。
作中そこまで描かれていたでしょうか。
当時バイセクシャル(男性と女性の両方に恋愛感情や性的魅力を抱く人)な男性が流行っており、男色の方の要望を満たす陰間茶屋もあったのではないでしょうか。
何見氏は『男色といえども性的同意を得ていない!無理やり襲った!若い男の子の性的搾取!』と作中描かれてもいないポリコレ論を展開したかったのでしょうか。
源内先生の趣向は分かっていた事でしたが、蔦重さんは吉原の親父たちにバレない様に吉原に誘って細見の序文を書いてもらおうとした事から、女装を所望され『そうなるか』という諦めや場所が妓楼であり「そういうのは陰間茶屋でやっとくれ」という困惑もあったかもしれません。
花の井さんは源内先生の言葉から彼が今は亡き恋人・二代目瀬川菊之丞さんを慕い、かりそめの『瀬川』を追いかけていると察しました。
たまたま松葉屋の大名跡が『瀬川』だったこともあり、細見のために逗留していたものの女郎ではない茶屋の若衆の蔦重さんにを出されてはと花魁の矜持があるので源内先生に恥をかかさないよう男装して「男を差し出したとあっては 吉原の名折れ。叶う事なら、吉原はあの平賀源内をも夢幻に誘ったと言われとうござりんす」と口上したのではないでしょうか。
幼馴染とはいえただの茶屋の若衆と大見世の呼出花魁では花の井さんの方が立場が上でまだ何者でもない蔦重さんからすれば立場のある者に助けられてばかりという 悔しさはあるのではないでしょうか。
何見氏は、『主人公は最初からなんでも一人で解決出来て完全無欠でなければならない、それ以下は序盤で無惨な死に方をする雑魚』と理想を推し付け見下しているのがよく分かります。
・夢幻の夜 最愛の人との逢瀬?
>翌朝のこと。
>「瀬川に渡した」という銭内の書き置きが蔦屋の前にあります。
眠い目をこすり店を開けると、戸の間に二つ折りの紙が挟まっています。
開いてみると、『瀬川に渡せり 銭内』と書いてあります。
早朝、この時間は花の井さんに居続けの客がいない限り、九郎助稲荷で待ち合わせるのが昔から6日課になっていました。急いで九郎助稲荷にやって来た蔦重さんは花の井さんから「はい」と紙を渡されました。
蔦重さんが「どうも、かたじけ茄子」と礼を言うと、花の井さんが「いぃえぇ。源内先生とお近づきになりたく、出しゃばったのはわっちなんで」と疲れたという様に自らの肩を叩きました。
花の井さんは肩を叩きながら「ああ、源内先生。男一筋だけあって求めが変わっててさぁ…」と昨夜の出来事を話し始めました。
昨夜の事ー
源内先生が「ひとつ、舞っちゃくれねえか?」
と言いました。
花の井さんは面食らいました。
客にこんな注文をされたのは初めてです。
「ではお三味を…」と花の井さんが立ち上がろうとすると源内先生がそれを制し、「あぁ、ちゃんとしてなくて良いんだ。菊之丞はね、時々うちで稽古してたんだよ。私ゃそれを見てるのが好きでね。そういうのが見たいんだよ」と言います。
花の井さんは「へぇ…では」と鼻歌で節を歌いながら 舞い始めました。
やがて 源内先生も節を重ねてきました。
花の井さんは少し笑い、震え声の源内先生に気付かぬふりをして舞い続けました。
源内先生は在りし日の菊之丞さんの姿を思い出していたのでしょう。
「それから風邪に当たって来るって出て行っちまって、戻ったらそれを書いてくれたってわけさ」と花の井さんが言います。
蔦重さんが「なんかすげえな、お前。…すげえわ花魁って」と大きなため息をつきました。
花の井さんが「じゃ、もうせいぜいお励みなんし」と笑って立ち去ろうとします。
蔦重さんは「あ!花の井!あ、ありがとな。なんだかんだで助かった」と再度礼を言います。
花の井さんは真剣な顔で「朝顔姐さんのこと、悔しいのはあんただけじゃないから」と低い声で言います。
「吉原を何とかしなきゃって思ってんのも あんただけじゃない。籠の鳥にできる事なんて知れてるけど…あんたは一人じゃない」と蔦重さんを見つめ言うと、美しい鳥は自らの籠へ戻っていきました。
「瀬川に渡した」という銭内の書き置きが蔦屋の前にあります。
蔦重さんが早朝蔦屋を開けようとした時に戸の間に二つ折りの紙が挟まっていて、開いてみると『瀬川に渡せり(瀬川に渡した) 銭内』と書いてあったという状況で書き置きが置いてあった訳ではありません。
>それを見終えたら源内は風にあたりに外へ出て行き、戻ってきたら「序」を書いてくれたそうな。
>重三郎は素朴に「すげえ」と感心しています。蔦重さんは、「なんかすげえな、お前。…すげえわ花魁って」と大きなため息をついていました。
何見氏の書き方だと源内先生が序文を書いた事に対して「すげえ」と言っているように見えます。
大事なセリフを端折り過ぎだと思います。
蔦重さんは「すげえわ花魁って」と吉原遊郭の花魁である花の井さんがその矜持とともに源内先生の亡き想い人との思い出をも守った事に「すげえ」と言ったのではないでしょうか。
・繁盛繁盛 ああ お江戸?
>さて、風にあたりに吉原を歩いて書いた源内の序文とは?
さて、源内先生の書いた『序』はこの様なものでした。
吉原の全てをつぶさに観察し、大見世から河岸見世まで、女郎たちを生き生きと書いた見事な文です。
早速蔦重さんは鱗形屋に持ち込みました。
孫兵衛さんは「まあ、よく書いてもらえたもんだ。ありがたく使わせてもらわぁ」と言いました。
孫兵衛さんもまさかやり遂げるとは思っても見なかった様です。
蔦重さんが「あの!この序を取るのにそれなりに金が掛かりまして。その、お代をいくばくかいただけるなんて事は…」と尋ねます。
孫兵衛さんが「お前さんが勝手にした事だしな」と笑い、蔦重さんは「でさぁね」と自虐の様に笑いました。
蔦重さんは「では!せめて細見をきちんと改めていただけぬでしょうか?」と言いました。
蔦重さんが春に出版された細見をめくり、黒塗りの項を孫兵衛さんに見せ、「例えばこういうとこです。潰れた店が黒になってて、こりゃあ流行ってねえんだなって気を削いじまう。それに 今は もういねぇ女郎の名もあちこちに残ってる。どうかこういうとこだけはきちんと改めちゃもらえませんか?」と伝えました。
孫兵衛さんは「お前さんがやるならいいよ」と言います。
戸惑う蔦重さんに「お前さんがやるってんなら、俺ぁ全く構わねえよ」とただ働きさせる気満々です。
蔦重さんは手中の『吉原細見』に目を落とし、「…やります。やらせてもらいますぜ!」と言います。
それから蔦重さんは貸本屋の商いの相棒を塗って 女郎の情報収集に奔走しました。
「ああ、蔦重、貸本かい?」
松葉屋で長年細見改めを請け負っている浅草の本屋・小泉忠五郎さんに出くわしました。
「へえ!」
蔦重さんは物陰で 女郎の有無や 格上げの情報を細見に書き込みました。
駿河屋の親父殿に細見改めが知られ様ものなら、三日三晩桶に閉じ込められるだけでは済みません。
蔦重さんは密かに作業を続けました。
「できた…できた!」
鱗形屋で刷り上がった『細見嗚呼御江戸』を受け取った蔦重さんは歓喜の声を上げてそれを高く掲げました。
>さて、風にあたりに吉原を歩いて書いた源内の序文とは?
安永三年(1774年)刊行の吉原細見『細見嗚呼御江戸』は、蔦重さんが最初に関わった出版物として知られています。
「吉原を盛り上げたい」という蔦重さんの思いに「朝顔姐さんの事。悔しいのはあんただけじゃない。あんたは一人じゃない」と手を貸した花の井さんがその矜持で源内先生を説得し、つに書いてもらう事が出来た吉原細見の『序』。
吉原遊郭をつぶさに観察し『福内鬼外』名義で生き生きと書かれた広告文が『細見嗚呼御江戸の序』です。
遠慮ない辛口評価を含み、見る人によってはルッキズムに見える源内先生の吉原細見序文ですが、吉原に生きる様々な女性たちへ暖かな眼差しを向け、『これがみな誰かのいい人』と遊郭が搾取の場所であると同時に疑似恋愛の場所であるという心からの賛美が見られます。
>重三郎は素直に従い、今度は『細見』を改めたいと言い出します。
>たとえば潰れた店が黒塗りになっているとか。
いなくなった女郎の名が掲載されている。
>そこを改めて欲しいと要望を出すのです。
吉原細見は遊郭とそこに所属する女郎、客と遊郭を取り結ぶ引手茶屋、吉原所属の芸者などを一冊に盛り込んだ所謂ガイドブックです。
正月と七月の年二回、最新情報を入れた新版が発行されるのが通例で、最初に細見の出版独占状態にしたのが鱗形屋孫兵衛さんでした。
下記画像は鱗形屋が出版を独占していた頃の細見です。
吉原の入口、大門の手前にある『五十間道』沿いには作中で蔦屋の面々を温かく見守る『つるべ蕎麦』の店舗名が書かれています。
横長の本を『横本』といい、下記のような縦長の『縦本』も出版していました。
作中蔦重さんが「潰れた店が黒になってて、こりゃあ流行ってねえんだなって気を削いじまう。それに 今は もういねぇ女郎の名もあちこちに残ってる」と言っていましたが、元文五年(1740年) 刊行の細見には潰れた見世が数軒分黒塗りになっています。
想像するに、現代でいうシャッターの降りた商店がある様な寂しい一角だったのではないでしょうか。
蔦重さんが「きちんと改めてほしい」と訴えると孫兵衛さんは「お前がやるならいい」と答えます。
鱗形屋から承諾を得た蔦重さんは、早速女郎屋の最新情報を集めて『細見嗚呼御江戸』を刊行します。
安永三年(1774年)、蔦重さんは吉原細見の『改役(あらためやく)』を委託されました。
改役は記載される内容の監修を行う役割を任されていました。
作中、細見を作る途中の蔦重さんが松葉屋で浅草の本屋・小泉忠五郎さんに出くわしますが、彼も細見改めを請け負い吉原細見の発行に大きく貢献していた事で知られています。
女郎は異動・死亡などで頻繁に入れ替わるため、それまでの細見はそうした情報を詳細にアップデートできていませんでした。
『細見嗚呼御江戸』の刊行は吉原で生まれ育った誰よりも吉原に詳しい蔦重さんが版元に認められた瞬間でもありました。
・豊千代誕生の宴?
>そのころ、一人の赤子が生まれておりました。その頃江戸城内で一人の赤子が誕生しました。
将軍・家治卿のいとこの一橋治済卿の嫡男・豊千代さまでした。
今日はその日の祝いの席が設けられました。
招かれたのは同じく家治公のいとこの田安家ご当主・治察卿と弟の賢丸さま。家治卿の弟で清水家当主・重好卿。要するに親戚一同です。
その後ろには 松平武元公を筆頭に 老中 たち がずらりと並びました。
能舞台では、 義太夫の語りに合わせて人形芝居が演じられていました。
「ところで当の一橋さまは?」「はて。田沼殿もおりませぬな」と松平武元公と松平輝高公がコソコソと話していると芝居が終わり、人形を操っていた傀儡師が能面を取りました。
傀儡師の振りをしていたのは一橋治済卿。
傍らの黒子が頭巾を取ると田沼意次公が現れました。
治済卿は皆に人形使いの腕を褒められて「今日は皆、我が嫡男の祝いによう参られた。近頃、傀儡に凝っておっての。田沼に話したところ地方まで揃えてくれての!」とご満悦です。
「そうか!いっそ傀儡師にでもなるか!」と冗談を言って 皆を笑わせていました。
その時、「恥を知れ!」と賢丸さまが顔を真っ赤にして立ち上がりました。
「戯れじゃ。そう熱くなるな」と弁解する治済卿に賢丸さまは「いやしくも 吉宗公の血を引く身が傀儡師になろうかですと?一橋さま、御身に流れる お血筋をいかに心得ておられる!武器が精進すべきは 学問、武芸!遊芸に溺るる前に我らにはなすべき事があるとは思われぬか!」と苦言を呈します。
治済卿が「ん?子なら生したぞ」と茶化し、皆がまた 大笑いしました。
幼少の頃より聡明で生真面目、悪く言えば 融通が利かない、そんな賢丸さまには場の雰囲気が耐えられなかったのでしょうか、口を固く引き結ぶとその場から立ち去っていきました。
兄の治察卿が慌てて治済卿に頭を下げました。
治済卿が「なすべき事と言われてものう。子を生す以外、我らになすべき事など」と言い、重好公が「然様然様。まさかの事が起こらぬ限り、我らの出番はございませぬ」と同調します。
治済卿は我が子を抱き、「まさかの事…など起きてはなりませんしなあ」と言います。
二人とも鷹揚に笑っていますが腹の中では何を考えているもの やら…
一橋家・田安家・清水家の三家は『御三卿』と呼ばれ、将軍家の血筋が絶えそうになった折に後継者を差し出す事が役目です。
つまりまさかの事とは、将軍…家治卿の薨去を意味しました。
治済卿が「しかし賢丸殿も少し遊びを覚えた方が良いかもしれぬ」と揶揄すると、意次公が「歌会や能、鷹狩りなどならば、賢丸様もお楽しみいただけますでしょうか」と答えます。
武元公は「それがしは感服いたしましたがの」と白眉毛を動かして言います。
そして「誇り高く武家たらんとするあのお心掛けをむしろ見習うべきかと…。ああ、お許しを。時の流れについていけぬ年寄りの挿し出口でございます」と嫌味たっぷりに田沼意次公を見遣ります。
意次公が「田沼主殿頭、右近将監さまの言葉にこそ感服いたしましてございます!」と頭を下げ治済卿が可笑しそうに口角を上げます。
二人に目に見えぬ火花が散るかの様です 。
>10代将軍・徳川家治のいとこにあたる、一橋治済の嫡男・豊千代です。
>招かれているのは御三卿当主でした。
>田安家からは田安治察と弟の賢丸。
>清水家の重好。
安永三年(1774年)、十代将軍・家治公のいとこであり、御三卿・一橋治済公の嫡男・豊千代さまが誕生しました。
この豊千代さま、後の十一代将軍・徳川家斉公です。
豊千代さまの誕生祝いに招かれたのは御三卿当主と主な老中たちでした。
>結果的に8代・徳川吉宗は紀州家から入るしかありません。
>これではまずいと、御三家に続けて吉宗と家重の子を始祖として作られたのが御三卿でした。
初代将軍・徳川家康公は、11男5女を設けました。
『どうする家康』でも取り上げられましたが、長男の松平信康公は築山殿事件で切腹、次男の結城秀康公は認知されず結城家への養子の後越前松平家藩祖となりました。
三男の秀忠公が二代将軍に就任し、この秀忠公の血筋が徳川宗家となります。
『徳川御三家』とは、徳川家康公の子息それぞれ始祖とし、宗家たる将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川家の家紋・葵紋をつける事や『徳川』の名字を称する事を認められていた3つの分家です。
徳川将軍家に跡継ぎがない時は後嗣を出す資格を有しました。
『御三卿』は徳川将軍家の一門です。
八代将軍徳川吉宗公が、享保十六年(1731年)に次男の宗武公(田安家初代)、元文五年(1740年)に四男の宗尹公(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えた事に始まります。
その後、吉宗公の嫡男で九代将軍・徳川家重公が、宝暦九年(1759年)に次男の重好公(清水家初代)へ屋敷を与えた事で『御三卿』となりました。
御三卿は大名として藩を形成せず実質将軍家の身内、『部屋住み』として扱われる存在でした。
賄料は幕領より支給されており、領地は関東と畿内周辺の数か国に分散しそれぞれ10万石と定められていました。
『青天を衝け』で一橋家を補強するため、歩兵取立御用掛となった渋沢篤太夫(栄一)さんが一橋領のある備中で人材を集め、藩札作りや特産物を奨励していたのも、御三卿の置かれた事情によるものでした。
御三卿は将軍家に後嗣が無い際は後継者を提供した他、御三家や他の大名家へも養子を提供する役割を果たしました。
作中、一橋治済公が「なすべき事と言われてものう。子を生す以外、我らになすべき事など」と言い、清水重好公が「然様然様。まさかの事が起こらぬ限り、我らの出番はございませぬ」と同調したのは、御三卿が子を生し将軍家の血筋が絶えそうになった折に後継者を差し出す事が役目だからでしょう。
・傀儡師には操る愉悦がある?
>ここは時代劇らしいというか、あまりにわかりやすいんじゃないかとハラハラしました。
一橋家当主・一橋治済公の嫡男・豊千代さまの誕生祝の宴席を描く中で、徳川将軍家の一門である『御三卿』の一橋家・田安家・清水家それぞれの当主や『御三卿』というシステムが何たるか、幕府内の重要人物の力関係や性格を視聴者に分かりやすく説明したものと思います。
>傀儡師というのはまさしく、誰かを操って世を思うままに動かす様でもある。
>治済と意次がそれを務めたということは、世間からすればこの二人がそう見える局面の到来を示しているといえるのでしょう。
『傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)』とは、古くから存在した一種の放浪生活者で、曲芸、歌舞を業とし、人形遣いでもあり『傀儡師』ともいいました。
江戸時代、首に人形箱を吊るしその箱の上で人形を操り門(かど)付けをして歩く芸人がいました。
そこから転じて、陰で人を操り思いのままに行動させる者をいいました。(出典 精選版 日本国語大辞典)
作中では、一橋家当主・一橋治済公の嫡男・豊千代さまの誕生を祝う宴席の場面。
一橋治済公が人形師に扮して傀儡(くぐつ)人形を操り、老中・田沼意次公が黒子を務めながら、宴を盛り上げました。
意次公の入念な手配に気を良くした治済公は「いっそ傀儡師にでもなるか」と得意満面の様子。
田安家賢丸公が「恥を知れ!」と一喝し、「武器が精進すべきは 学問、武芸!遊芸に溺るる前に我らにはなすべき事があるとは思われぬか!」と苦言を呈します。
治済公は気にも停めず「子は生したぞ」と返し、賢丸公を怒らせます。
よしながふみさん原作のドラマ『大奥』をご覧になった方はご存知かと思いますが、治済公が「傀儡師になるかぁ」というのは暗喩的な意味もあるかと思います。
一橋家には田沼家の身内を家老として送り込まれており、手を結ぶ治済公と田沼意次公。
その後の意次公の失脚。
賢丸公は『御三卿』の一つ田安徳川家の七男で後に寛政の改革を行う松平定信公です。
史実では治済公は家斉公を将軍の座に就け黒幕として『尊号一件』など幕政に影響を与えました。
『大奥』をご覧になっていた視聴者からは「ひー、もう一橋治済が登場する…(おののく大奥脳)」「シリアルキラーっぷりが強烈で、こちらの治済公はどういうキャラなのだろう?」と今後の描かれ方にも注目が集まっているそうです。
>一橋治済の多趣味である描き方は、この一橋慶喜とも似ていると思わされ、実に禍々しいものがあるのでした。
>そういう二連の凶星を美化した『青天を衝け』については、それこそキラキラコーティング大河ドラマと言えますので、これからもしつこく指摘していきます。
何見氏の『私怨』としか思えない水戸徳川家と徳川慶喜公に対する憎悪や嫌いな作品への中傷を執拗に続けたいがために読者から購読料を取る商業ブログで『『青天を衝け』については、それこそキラキラコーティング大河ドラマと言えますので、これからもしつこく指摘していきます。』と堂々と宣言するのは如何なものかと思います。
商業ブログは歴史ライターの私物ではありません。
読者は歴史についての見識を深めたいのであって、何見氏の私怨や侮辱を読みたい訳ではないと思います。
ご子孫にも苦言を呈されたのにまだ懲りませんか。
MVP:平賀源内と「瀬川」
>そしてゲイとしての矜持。
>近代へ向かう中、同性愛者は自分の生き方を語り、そのうえで被る不利益も理解し、自己の確立を目指して行きます。
>男一筋と照れも何もなくまっすぐ語る源内には、紛れもない近代の芽吹きが見えます。
>実にお見事です。
江戸時代、芝神明門前(現在の港区の芝大神宮)・湯島天神門前・芳町(現在の中央区日本橋人形町のあたり)は、江戸の三大男色地帯でした。
中村座をはじめ歌舞伎の芝居小屋が立ち並ぶ様になり、それに付随して男性が男性を買う『陰間茶屋』が生まれ若衆と呼ばれる10代から20代初頭の少年が客を取るようになりました。
源内先生は男色小説『根南志倶佐』や、男娼が客を取るための『陰間茶屋』の細見、絶世の美少年が登場する冒険小説などの著書がありました。
バイセクシャル(男性と女性の両方に恋愛感情や性的魅力を抱く人)な男性が流行っていた江戸の街で生粋の男色家として有名で、女形を目指し修行する若くて美しい少年、特に若い歌舞伎役者を好んでいました。
『根南志倶佐』では瀬川菊之丞さんを僧侶を籠絡させ、地獄の閻魔をも蕩かす女形役者として描きます。
作中、蔦重さんが『吉原細見』序文を頼んだ時はすでに故人であった恋人の二代目瀬川菊之丞さんを恋い慕い、吉原に来ても『瀬川』の幻を追いかけていました。
それ程大切な想い人だったのでしょう。
『ゲイ』は主に同性愛者、または同性愛者であるという特徴を指す言葉です。
軽蔑的な態度で使用される場合、ゲイという言葉は軽蔑的な意味を持ち使用される事もあるそうです。
現代の『LGBT』『ポリコレ』『ジェンダー』に結びつけるだけでなく、江戸時代当時の男色の歴史や背景、男色家の置かれた立場なども合わせて論じないと何故作中源内先生が亡き恋人を恋い慕い追いかけ続けているか分からないと思います。
・総評?
>「大河ドラマといえば合戦がなければならない」
>「泰平の世を描く意義がない」
>「今どきこんな古臭い時代劇を見せられても……」
>こういう意見を読んでいる時の私は、松平武元の意見を「流石右近将監殿」と受け止めつつ、無表情の田沼意次のような気分になっています。
>だから「歴史総合」を意識しましょうと言いたい。
>今週なんて幕末史理解にも使える要素が出てきて、古臭いどころか極めて新しいものです。
上記の様な否定意見は何処にありましたか。
お得意のゴシップ記事でしょうか。
『歴史総合』『歴史総合』とお題目の様に唱えていますが、『「歴史総合」を意識出来る幕末史理解にも使える要素』がレビューに見られません。
具体的な時代背景や風俗考証や史料などを提示して解説などしてください。
>戦国幕末ローテーションって、歴史を名乗っているけれども、キャラクタービジネスというほうが正しいのであって、実は歴史の勉強にはなっていないのではないのか?と『光る君へ』『べらぼう』を見てきて、痛感させられる次第です。
>日本の歴史フィクションは扱う時代が偏りすぎていて、偏見が大きいことを冷静に考えた方がよいのでしょう。
>もう限界です。
戦国時代の同じ人物や歴史的な出来事を描いた大河ドラマでも時代考証・原作者・脚本家によって解釈がちがうし、新しい学説や史料が出て来て演出方法が違ってくる場合もあり、必ずしも同じ様な作品になる事はないと思います。
また歴史は大きな大河の流れの様なものであり、違う時代を取り扱っていても因果関係で繋がっていたり歴史上の人物の作品が後世読まれていたり扱われ方の変遷を見るのも大河ドラマ鑑賞の楽しみでもあると思います。
『将棋の盤面をしつこく眺め回すような合戦ばかり繰り返していたら、そういう視点は持てない。』『キャラクタービジネスというほうが正しいのであって、実は歴史の勉強にはなっていない』とありますが、大河ドラマをレビューするにあたり、きちんと史料を調べているのでしょうか。
・以下、余計なことながら?
>先週は、以下のように物議を醸した点があります。
(中略)
>これについては、職業差別というより労働契約問題に思えます。
>海外の例を出しましょう。
>『ゲーム・オブ・スローンズ』シーズン1では、女優本人が裸体を見せていました。デナーリス役が代表例です。
ゴシップ記事や反省会からヘイトばかり拾い集めて問題提起かと思えば『海外ではー』が始まり、海外ドラマの話をしたり、『べらぼう』を嫌いな作品を叩く叩き棒にしたり、近世日本を描いた大河ドラマなのに近代の世界史事情に論旨が飛んだり。
そもそもこの項目自体が余計なお世話で蛇足だと思います。
>何度でも蒸し返しますが『青天を衝け』はどうでしょう?
>性的搾取だの、人権軽視だの、そういうことを大河ドラマがやらかしたのは今年が初めての如く、声高にSNSで主張しておられる方がいます。
>性的搾取だの、人権軽視だの、そういうことを大河ドラマがやらかしたのは今年が初めての如く、声高にSNSで主張しておられる方がいます。>打ち切りにしろだの。NHKは性的搾取を促進しているだの。
>そう主張されることは結構です。
>『青天を衝け』のときは、見た上で黙認しておられましたか?
>問題に気づきませんでしたか?
そもそも見ていない?
>悪質度でいえば『青天を衝け』の方が勝ります。
『私が気に入っている作品が叩かれているのは許されない、私が気に入らない作品はどうなの?これこそが作品をこの世から消して打ち切られるべき!私の気に入らない作品の方が悪質なの!何度でも執拗に言い続けて叩いてやる!』と言っているようにしか見えません。
『性的搾取だの、人権軽視だの』と喚き立て、打ち切りを求めている過激な人たちと何が違うでしょうか。
何見氏の私怨を公共の作品にファンへの嫌がらせの様にぶつけないでください。
※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?