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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第41回

10月下旬になりました。秋の気配が濃くなり実りの季節になりましたが、皆様健やかにお過ごしでしょうか。
稲刈りや秋の実りの収穫もありすっかり秋ですが朝晩は気温が低いので、皆様健康には充分お気を付けください。さて、光る君へ第41回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。 
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>顕信が出家し、その母・明子には激怒され、彰子からの信頼も失い、行成にそっぽを向かれ、まひろからも距離を取られるように――
>慢心しきった藤原道長には、もはや権力のことしか見えていないのか。
敦康親王を退け、自分の孫である敦成親王を東宮に立てた道長卿。それは彰子さまに中宮故の反発と無力感を感じさせるものでした。
まひろさんに「道理を飛び越えて、敦成様を東宮に立てられたのはなぜでございますか。より強い力をお持ちになろうとされたのは」と問われ、「お前との約束を果たすためだ。やり方が強引だったことは承知している。」と答えます。
道長卿は彰子さまの御前で御簾を越えて対面しようとした敦康親王を万が一のことがあったら一大事と「二度と内裏に上がれぬように致せ」と命じ、行成卿からは「左大臣様がおかしくございます」と諫言されます。
また、土御門と高松殿の子らの身分をはっきりと分けるあまり、明子さま所生の顕信卿の蔵人頭任官の打診を固辞し、明子さまは怒り絶望した顕信卿のの出家という事態を招きました。
かつて道長卿はまひろさんに「道長さまには、直秀のような理不尽な殺され方をする人が出ないように、よりよき政をする使命がある」と言われました。
道長卿がより強い権力を望むのはあくまでかつての約束を果たすためだったのでしょう。
いつの間にか権力そのものの行使が目的になっているのではないかと彰子さまもまひろさんも行成卿も疑問に思い始めたのでしょう。

寛弘8年(1011年)6月。
里下がりをして来たまひろさんの目に、邸に上がり食事をする見知らぬ男の姿が飛び込んできました。双寿丸が「誰?」と尋ね、賢子さんが目を見張り、いとさんは気まずそうにしています。 
事情を知らないまひろさんが「あなたこそ、誰なの?」と問いました。
その見知らぬ男は賢子さんと乙丸を盗賊から救ったという双寿丸でした。
乙丸は事の次第を説明しましたが要領を得ません。まひろさんは「よく分からない」と言いつつも「娘を助けて頂いたみたいでありがとう」と礼を述べました。
双寿丸は「女子が困っていたら助けるだろ、当たり前のことだ」と言います。

『光る君へ』より

>「女子が困っていたら助けるだろう? 当たり前のことだ」
>素敵な台詞をクールに吐く双寿丸ですが、実はそれが当たり前でもないと思うんですよね。
女子が困っていたら助けるという双寿丸の行動が『当たり前でない』とはどう当たり前ではないのでしょうか。
具体的に提示してください。
市井の民(賢子さんは受領層の中流貴族ですが)が賊に大事なものを奪われたり襲われたりしても助けに入る人はいないという意味でしょうか。
それとも女子が困っていたら助けるのが当たり前という考えが『女性は弱いから男性が助ける』という『アンコンシャス・バイアス(性別による無意識の偏見)』だとでもいうのでしょうか。
双寿丸の行動原理を見た限り仕えている殿さま(平為賢公)の教えによるものが大きい様に思います。
女性に限らず困っている人がいたら助けるのは殿さま譲りなのかもしれません。

・新時代の風を吹き込む若き武者?

>一方、双寿丸を露骨に追い払いたい様子のいと。
まひろさんは「いい方なのね」と言いますが、いとさんは双寿丸に、さあもうお腹がいっぱいなら出て行っておくれ」ときっぱりと言います。
いとさんは「今日のところは礼を言うが、姫さまは越後守の御孫君、お前が親しくする女子とは身分が違うのだから」と言います。
双寿丸は「姫さまって面でもないよな」と軽口を叩き、それを聞いた賢子さんは笑いながら「お腹が減ったらまたいらっしゃい」と双寿丸に声を掛けます。
いとさんは口をあんぐりと開け驚いています。
双寿丸は「おう」と返事をして、賢子さんが楽しそうに笑うのを見て帰っていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

その夜。
まひろさんと賢子さんが床を延べています。
賢子さんはまひろさんに、「内裏の仕事は休みなの?」と尋ね、まひろさんは「中宮さまのお許しが出たの」と答えます。
また、まひろさんは「惟規が逝き、帝もお隠れになり…。心が持たないわ」と少し休みたがっていました。

『光る君へ』より

まひろさんは親子の夜具を並べながら賢子さんに、「あの様な武者にも優しいのね」と言います。
賢子さんは「助けてくれた人だもの」と答えますが、まひろさんは「姫さまって面でもないなどと言われても怒る事もなく」と不思議そうです。
賢子さんは「私は怒る事は嫌いなの」と答えます。
まひろさんが「私にはよく怒っていたわよ」と言うと、賢子さんは「そうだけど…母上以外には怒っていません」と答えます。
まひろさんに意外そうに「怒ることは嫌いなの?」と訊かれて賢子さんが頷きます。
そんな母をを賢子さんは訝しみますが、まひろさんは「休みましょう」と灯りを消しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>助けてもらった御礼はするけれど、越後守の孫である姫との身分の違いを強調するのです。
40回でも書きましたが。
9世紀後半から10世紀前半には豪族や有力農民が賜姓皇族(しせいこうぞく:皇族が臣下の籍に降りて姓を与えられた身分)や国司の任期を終えても地方に残った貴族の子孫などを棟梁に仰ぎ武士団となっていきました。

双寿丸は後に肥前伊佐氏、薩摩平氏の祖となる平為賢公配下の武者です。
平安時代の武士は天皇や皇族、貴族の側近くに仕え主人の用向きを伺い、朝廷の実務や警護、紛争の鎮圧にあたる事が主な任務です。

賢子さんは従五位下越後守である為時公の孫であり、貴族に侍り荒事や汚れ仕事も辞さない武士のそのまた下っ端である双寿丸は身分が釣り合わないといとさんは判断したのでしょう。

思えば武士政権の設立を描いた『鎌倉殿の13人』第1回は、舞台が1175年でしたが、新時代の芽は為時の邸でも芽吹いていたんですね。
上東門院と名乗った彰子さまと関白・藤原頼通卿による摂関政治の最盛期と白河院、鳥羽院、崇徳院、後白河院による院政期は何処にいったのでしょうか。
頼通卿は彰子さまの子・後一条天皇(敦成親王)の摂政となり、後朱雀天皇(敦良親王)、後冷泉天皇(彰子さまの孫)の3代52年間に渡り関白の座に就きました。
天皇の外戚になるため娘を入内させましたが皇子に恵まれずこれが摂関政治の終焉に繋がったといわれています。
頼通卿は弟の教通卿に関白を譲り、承保元年(1074年)に亡くなります。

その後藤原氏を外戚に持たない後三条天皇の御代で『荘園整理令』などの政策が行われ、摂関家の権勢は弱まり、白河院が太上天皇として幼帝を後見し政務を執る『院政』がはじまります。

また、康平5年(1062年)には前九年の役で陸奥国の安倍氏が滅亡し、永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)には陸奥国・出羽国で後三年の役が起こり、河内源氏の棟梁・源義家公や奥州藤原氏などの武家が台頭します。

大河ドラマにおいては『炎立つ』『平清盛』が院政期と武士の台頭に当たります。
『炎立つ』では平安時代前期の朝廷と奥羽(東北地方)の関わりから、鎌倉時代に奥州合戦で奥州藤原氏が滅亡するまでを描いています。

『平清盛』では、世は白河院の院政期であり、武士が「王家の犬」と呼ばれ、藤原摂関家をはじめとする貴族たちから蔑まれていた時代から平家一門の栄枯盛衰を描いています。

>「私は怒ることが嫌いなの」
>自分には怒っていたとまひろが反論すると、なんでも母上以外には怒らないのだとか。
>まひろは娘の言葉に考え込んでいます。
「私は怒るのが嫌いなの」と言う賢子さんの言葉はまひろさんと出会った頃の三郎(道長卿)と同じ言葉でした。
まひろさんは賢子さんと双寿丸のやり取りを見て、温厚で身分関係なく付き合い他人思いだった『三郎』を思い出したのでしょう。
その賢子さんがまひろさんの振る舞いに厳しく怒りを表明した事については幼い時に母に甘えられなかった賢子さんがまひろさんに怒ると話した事で甘えられる事も分かり、敦康親王の処遇について父に異を唱えた彰子さまの様子にも重なったかもしれません。

光る君へ』より
光る君へ』より
光る君へ』より

・撫子を摘む我が子に涙する母?

>敦成が撫子の花を摘み、彰子がその姿を見ている。
やがて季節は移り藤壺の庭先では撫子が咲く頃となりました。
父帝・一条帝への弔意を示す鈍色の水干を着た敦成親王が撫子の花を摘んでいました。
同じく鈍色の袿を纏った彰子さまは敦成親王の姿を見て「父上の死を知らず、撫子の花を手にしている我が子が」と口にし、歌を詠みます。

見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花
上東門院(中宮彰子)

意訳 
見ていると涙がこぼれる。
父に先立たれた事も母の哀しみも分からない、この無邪気な我が子は、あの人が撫でて可愛わいがってくれた子なのだ。

『栄花物語』巻九
『後拾遺和歌集』569

後ろに控えていたまひろさんが「中宮さまが御歌をお詠みになるのを初めて聞きました」と驚いています。
彰子さまはまひろさんの方を向き「亡き帝と歌を交わし合いたかった。もっともっと、一緒に語り合いたかった。笑い合いたかった。敦成も、敦良も、もっともっと帝に抱いて頂きたかった。」と言います。 
まだ物心もつかず幼気な敦成親王は「見て。綺麗。母上。はい」と撫子の花を彰子さまに手渡しました。
彰子さまは「ありがとう」と撫子を受け取りました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>父の死を知らず、無邪気な幼い我が子が悲しくてならない中宮が、おもむろに歌を詠み始めます>見るままに 露ぞこぼれる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花
>見るだけで涙がこぼれてしまう。 
>父の死も知らずに撫子の花を摘む我が子を見ていると……。
一条帝の崩御は寛弘8年(1011年)6月、季節は移り、庭に撫子が咲く頃になっています。
平安時代になると撫子は『常夏の花』とも呼ばれ、夏の花としてほぼ定着し、愛児の比喩としても用いられるようになります。

詞書には『一条院失せさせたまひてのち、撫子の花の侍りけるを、後一条院幼くおはしまして、何心も知らで取らせたまひければ、思し出づることやありけん』とあります。(今昔物語集巻24第41話)

『栄花物語』によると一条帝崩御当時、敦成親王は物心もつかぬ3歳で彰子さまが亡き帝の供養にと飾っていた撫子を手に取る親王の幼気な様子を『撫子』に掛け、『(父帝の崩御をまだ理解できていない)可愛がられた撫でし子』として読み込んだのだそうです。
彰子さまが自分の心を和歌に託して詠むようになるのは、帝の崩御後だったそうです。
彼女の撫子の歌は『後拾遺和歌集・569』にも採用されています。

・新帝の内裏遷御?

>新たな帝は内裏に入る日が決まっていません。寛弘8年(1011)6月29日。
即位した三条帝は藤原公任卿に、内裏遷御の手筈を命じます。
公任卿は「その役目は実資殿が相応しいと存じます」と固辞しますが、帝は「実資は実資で頼み事がある。そなたがやれ」と仰り、道長卿にも了解をお求めになりました。

『光る君へ』より

既に道長卿は帝の内裏遷御の日取りを陰陽寮に諮っていました。
しかし公任卿は、「こういうのはやりたくない」と道長卿に本音を洩らし、道長卿は「そもそもお前は儀式に詳しいではないか」と言います。
公任卿は「分かっているだけに厄介だ」と不満そうにし、道長卿は「気を入れてやってくれ」と言います。
公任卿は、近くに人がいないのを確認すると道長卿に「帝は俺を自分の側に取り込んで、我らの結束を乱そうとしておられるのではないか?」と囁きます。
道長卿は「それほどの魂胆はおありになるまい」と言いますが、公任卿は「先の帝に重んじられていた者は、遠ざけたいとお考えの様に見えるが」と忠告する。
道長は「ならば振り回されぬようにやって参ろう」と言いその場を去って行きました。
公任卿はため息をつきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

後日、道長卿は「内裏遷御の日が出ましたが、それが亡き院の四十九日に当たる日なのでございます。如何なものでございましょうか」と奏上しました。
帝はさほど気にお留めにならず、「構わぬ。四十九日でも移る」と仰います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

帝は道長卿の傍らに控えた道綱卿、隆家卿、教通卿に「そなたらは朕を側で支えよ」とお声をお掛けになりました。
「三条天皇は道長の兄、甥、息子を側近に望んだ」と語りが入ります。
教通卿は「なぜ兄・頼通でなく自分がお側に上がるのでしょうか」と不思議がっています。 
道長卿は「名誉なことではないか。ありがたく務めよ」と息子を励ます。
一方で兄・頼通卿も「なぜ私ではなく教通なのですか」と訝しんでいます。
道長卿は「帝に取り込まれなかった事を寧ろ喜べ」と言い「お前が先頭に立つのは東宮さまが帝になられた時だ」と言い聞かせます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>左大臣である道長に「よいな?」と念押しすると、道長は陰陽寮にはかっていると返すのでした『御堂関白記』寛弘8年(1011年)6月29日条には『右大弁(源道方)を遣わして、(三条)天皇の内裏(だいり)への遷幸(せんこう)について奏上させた。先日は来月11日に行うということを申した。ところが、故一条院の御葬儀は来月8日である。・・・甚だ近い。・・・陰陽師たちを召して、また事情を聴取した。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘八年(1011年) 六月二十九日条

>二人が帝の前から下がると、公任が、こういうのはやりたくないと道長にぼやきます。
>儀式に詳しいだろと道長に言われますが、だからこそやりたくないのだとか。
>もしも間違えたら恥ずかしいですし、そのときは実資に嫌味の一つでも言われそうですしね

三条帝は藤原公任卿に内裏遷御の手筈を命じました。
「その役目は実資殿が相応しい」と公任卿が断っても三条帝は「実資は実資で頼み事がある」とお許しになりません。
公任卿の様に詳しいからこそ煩わしいのを知っており、不備で嫌味を言われるのは承知ではないでしょうか。
また、三条帝がご自身の内裏遷御で公卿たちの言動を見計らっていらっしゃる様にも見え、公任卿には新帝による新体制に組み込まれたくないという距離感もあるのではないでしょうか。

>内裏遷御の日は「亡き一条天皇の四十九日にあたる」と道長が伝えると、「それでもかまわない」と答える新帝。
『御堂関白記』寛弘8年(1011年)7月1日条には
『内々に(安倍)吉平を召して問うたところ、申して云(い)ったことには、「8月11日が、まず(賀茂)光栄朝臣(あそん)とも意見が一致して、宜しい日でしょう」と。(中略)然るべき御祈祷を行うならば、その日に遷幸を行うのは吉日であると申していた。』とあります。

御堂関白記 寛弘八年(1011年) 七月一日条

>困惑する藤原教通。
>なぜ、兄ではなく自分が帝の側近に望まれたのか
(中略)
>一方、兄の藤原頼通は不満そうだ。
>なぜ私ではないのか。 
藤原教通卿は道長卿の五男ですが、嫡妻・倫子さま所生であるため、同母兄の頼通卿と同じく嫡子として扱われ、兄とともに弱冠15歳で公卿に列していました。
教通卿は「なぜ兄・頼通でなく自分がお側に上がるのでしょうか」と不思議がり、道長卿は「名誉なことではないか。ありがたく務めよ」と励まします。 
一方、頼通卿も「なぜ私ではなく教通なのですか」と訝しみ、道長卿は「帝に取り込まれなかった事を寧ろ喜べ。お前が先頭に立つのは東宮さまが帝になられた時だ」と言い聞かせています。
道長卿は年若い弟の教通卿を三条帝に仕えさせ、一方で道長卿の意を汲む頼通卿には東宮・敦成親王の補佐をさせ、どちらの御代にも影響力がある様に差配したのではないでしょうか。

・高松殿生まれと土御門生まれの格差は縮まるのか?

>道長は、源明子の住まう高松殿に来ています。高松殿では、源俊賢卿が道長卿に「帝の女房を取り込み、お側近くに仕えられるよう図ったもののしくじりました」と打ち明けていました。
この事で帝が不快の念を露わになさった様で、道長卿は「もう少し考えてやらぬか」と言います。
俊賢卿は「此度はいささか早すぎた様でしたが、道長さまの御為に再度図り、帝のお心を掴んでみせます」と答えます。
道長卿の妾で俊賢卿の妹・明子さまが「これ以上嫌われたらどうなさるのです」と言いますが、俊賢卿は「お前には分からぬ」と笑います。
道長卿も「俊賢は儀式に詳しいから、いずれ帝も頼りにされるであろう」と俊賢卿の思いを汲む。そこへ道長卿と明子さまとの子・頼宗卿と顕信卿がやって来て挨拶をしました。
顕信卿が「父上、我々が公卿になる日はいつなのでございましょうか」と道長卿に尋ねました。
さらに顕信卿は「土御門殿の頼通さまは兄上とも私とも年が違わないのに既に正二位の権中納言になっています。どうしても納得できませぬ」と頼通卿を引き合いに出し訴えました。
道長卿は「帝のお心ひとつだ、今少し待て」と諭します。
顕信卿は尚も「いつまで…待てばよろしいのですか」と食って掛かり、頼宗卿に注意されます。
明子さまは息子たちに「心配しないで。父上はちゃんと貴方たちの事を考えてくれていますよ」と諭します。
兄弟の伯父である俊賢卿は「焦ると碌な事にならぬ」と甥たちを叱ります。
俊賢卿自身も失敗しているため「兄上には言われたくありません」と明子さまに言われて俊賢卿は苦笑します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

寛弘8年(1011年)8月11日。
一条帝の四十九日であるこの日、三条帝は内裏にお入りになりました。
公卿たちが廊下に居並んで出迎え、道長卿が一礼します。
帝は道長卿に「左大臣、朕の関白となって貰いたい」と仰います。
帝は「朕の指南役としてそばにいて貰いたい」とも仰います。
道長卿は「ありがたくはごさいますが今年重き慎みがあり昇進の事は慎む必要がごさいます。お許しを」と答えました。
帝は「長年の苦労に報いたいと思ったが断わるのか?」とお尋ねになります。
道長卿は「申し訳もない事」と再度許しを乞い、帝は「真に残念なことではあるが泣く泣く諦めるといたそう。その代わり朕の願いを1つ聞け」と仰います。
さらに帝は「娍子(すけこ)を女御とする。妍子(きよこ)も女御とする」と仰います。
道長卿はそれに対し、「娍子さまは亡き大納言の娘で、無位で後ろ盾も無いため女御にはできませぬ。その先例もありません」と答えました。
しかし帝は、「関白の事は分かったから、娍子の事は断るでない。娍子も妍子も女御だ」と告げ立ち去れました。
残った道長卿は眉を潜めました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>そんな兄に対し、明子が苦言を呈すと、俊賢も妹を黙らせようとする。
>俊賢は儀式に詳しいから、帝も頼りにするだろうと余裕の道長。
台詞をあまりにも端折り過ぎだと思います。
道長卿が「もう少し考えてやらぬか」と言い、俊賢卿が「此度はいささか早すぎた様でしたが、道長さまの御為に再度図り、帝のお心を掴んでみせます」と答えます。
明子さまに「これ以上嫌われたらどうなさるのです」と言われ、俊賢卿は「お前には分からぬ」と笑います。
兄妹のやりとりに、道長卿が俊賢卿をフォローする様に「俊賢は儀式に詳しいから、いずれ帝も頼りにされるであろう」と言います。

>兄の源俊貴が、焦ってもろくなことがないと道長をフォローするのですが、逆に妹から言われてしまいます。
>「兄上に言われたくありません!」
『源俊貴』とは誰でしょうか。
『源俊貴』ではなく、『源俊賢』です。

>8月11日は先帝の四十九日、新帝が内裏に入ると、さっそく帝は動きます。
一条帝の四十九日である8月11日、三条帝は内裏にお入りになりました。
『御堂関白記』寛弘8年(1011年)8月11日条には『この日が、故一条院の七七日の御正日である…この日、新帝(三条天皇)は内裏(だいり)に参内なされた。…未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)に、天皇は私(藤原道長)を御前に召され、蔵人(くろうど)・殿上人(てんじょうびと)・蔵人所雑色(くろうどどころぞうしき)を定められた。その儀は、常と同じであった。』とあります。

『御堂関白記』 寛弘八年(1011年) 八月十一日条

>道長を関白にするつもりのようです。
>しかし、丁重に断る道長。
一条帝の御代を払拭しようと、若い次世代公卿を側近にし新政に意欲を燃やす三条帝は一条帝の四十九日の法事の日にわざわざ新造御所への遷御をなさいました。
そして道長卿を関白に任じますが、道長卿は『今年重き慎みがあり昇進の事は慎む必要がある』事を理由に断りました。
未成年の天皇を補佐する役職を『摂政』、成年後の天皇を補佐する役職を『関白」』と言います。
関白は成人の天皇を補佐する令外官であり、摂政とともに臣下が就く最高の職位でした。
摂政・関白は、天皇臨席などの例外を除いて太政官の会議には参加しない(あるいは決定には参与しない)慣例があります。
このため道長卿は関白職を固辞し、国政に関する情報を常に把握し天皇の勅命や勅答の権限を統制できる『内覧』のみを有したのだと思います。

>娍子(すけこ)を女御にする――。
>そう聞かされた道長は、慌てながら「大納言の娘に過ぎず、先例もない娍子は女御にできない」と反論しますが、帝は譲らず、娍子を女御にすると言い張ります。
『女御』は天皇の後宮の身位の一つで天皇の寝所に侍した后妃です。 
また『更衣』は本来天皇の衣替えに奉仕する女官の呼称であったが、後に女御に次ぐ后妃の身位になりました。
序列は一番上が『皇后』と『中宮』、次が『女御』、その次が『更衣』となります。
父親の地位が大臣以上の姫君が入内すると『女御』となり、『更衣』はそれよりも低い官職となり、複数人いる場合があります。
道長卿は正二位・左大臣、娍子さまの父は藤原済時卿で正二位・大納言です。
父の官職に合わせれば妍子さまは女御、娍子さまは更衣となりますが三条帝は東宮時代からの愛妃である娍子さまを女御としたので実質の『二后並立』となり、道長卿は『先例が無い』と言ったのでしょう。

・源氏の物語を読むことを辞めている道長?

>まひろが執筆していると、道長がやってきます。
藤壺の局ではまひろさんが『源氏物語』第40帖「幻」を書き続けていました。
まひろさんは一条帝の四十九日の後も彰子さまに倣い鈍色の衣を纏い喪に服しています。
局に道長卿が訪れ、「まだ書いておるのか?」と尋ねます。
まひろさんはムッとしながら「随分な仰り方ではありませんの…書けと仰ったのは道長さまです」と言い、道長卿も「すまぬ」と詫びました。
道長卿が「光る君と紫の上はどうなるのか?」と尋ねます。
まひろさんは、「紫の上は死にました」と言い、道長卿は大変驚きます。
まひろさんは「誰も彼もいずれは黄泉路へ旅立つと思えば、早めに終わってしまった方が楽だと思う事もございます」と至極あっさりと話します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>構想段階なのか、それとも道長が読んでいないのか。
>というと、既に執筆箇所は「幻」です。
>光源氏の死が示唆される巻です。
>紫の上が亡くなった「御法」は執筆済みということになります。
一条帝がいらっしゃる時は道長卿も帝へ物語を献じるため足繁くまひろさんの局に通い、原稿に目を通していたのではないでしょうか。
第33帖「藤裏葉」までは製本がなされ一条帝に献上されていました。
道長卿は源氏の君と藤壺の関係に固執し、彰子さまと敦康親王の仲を疑うなど物語に囚われていた面もありますが、先を読む事はしていなかったのかもしれません。
道長卿の目の前でまひろさんが執筆していたのは第40帖「幻」の前半部分です。
『源氏物語』で生前の光源氏が描かれる最後の章です。
ヒロイン・紫の上が第39帖「御法」で亡くなり、源氏の君の心はますます暗く沈むばかりでした。

失意のため心ここに在らずの52歳の源氏の君は次第に仏教に傾倒していきます。
「幻」はそんな彼の最後の1年を、春夏秋冬の情景とともに描いています。

『源氏物語』第40帖「幻」
重要文化財「源氏物語絵色紙帖 幻 詞冷泉為頼」
京都国立博物館蔵
『光る君へ』より

>東洋の伝統として、書くことで「政治批判する」「諫言する」ということがあります。
>光源氏は栄耀栄華を極めたにもかかわらず、女三宮を妻に迎えたことでその世界がほころび、崩れてゆきました。
>このドラマのまひろは、そこに驕り高ぶった道長への諫言を込めたのかもしれません。
まひろさんは道長卿に『第一皇子である敦康親王を東宮候補から降ろし、外孫の敦成親王を東宮に据えた事』や『帝や彰子さまの意向を無視して独断で決定した事』について何故そうしたのかと疑問をなげかけたのであり、人の妻である女三の宮に柏木が密通し不義の子が産まれた事について奢りがあると諫言したい訳ではないと思います。
作中、道長卿とまひろさんの不義はまだ若い時分でそれを元に『罪と罰』をテーマに『若菜上』『若菜下』『柏木』を執筆しており、まひろさん自身の罪も含まれているのではないでしょうか。
紫の上の死については「誰も彼もいずれは黄泉路へ旅立つと思えば、早めに終わってしまった方が楽だと思う事もございます」と言っており、源氏の君の様な貴人も栄華の絶頂からあっという間に『死』という終着点へと向かうという達観もあったのではないでしょうか。

>韓流時代劇では、家臣たちが王に向かい「王様〜〜〜! どうか、お聞きくだされ!」と絶叫する場面があります。
>心の底から諫言を聞いて欲しいとき、朝鮮の人士はしばしばああして訴えました。
>華流時代劇では、諫言を聞いてもらえない官僚は、文字通りしばしば吐血してまで無念を示します。
>近年の大河ドラマで諫言といえば『麒麟がくる』の明智光秀が思い出されます
何かを評価するのにいちいち「〜ではー」と所謂『出羽守』をしないと大河ドラマを批評できませんか。
諫言についても『この出来事に対しこの人物のこういうところは諫言である』でいいところをほぼ一項目長々と韓流時代劇だの華流時代劇だの必要がないと思います。
それよりも『源氏物語』第40帖「幻」について具体的に解説をしてください。

>ここでの道長みたいな「あなたのファンです。>でも最近読んでないや」の方がよほどイラつくと思いますね。
かく言う何見氏も『銀英伝はそこで引っかかって見ていない』とあり、見ていない、読んでいないのに勝手な思い込みとイデオロギーで叩いている事になりますね。
誰が誠心誠意に問題があるのでしょうか。

・まひろは鏡となり、道長を映す?

>このゆるいファンの道長は結局、彰子のもとに一条天皇を連れてくるためだけの道具だと思っている。
>そう示すような嫌なやりとりです。
まひろさんは「道長さまはそういう事はございませんか?」と尋ね、道長卿は「今はまだ死ねぬ」と答えます。
まひろさんが「道理を飛び越えて、敦成さまを東宮に立てられたのはなぜでございますか。より強い力をお持ちになろうとされたのは」と尋ねました。
道長卿は「お前との約束を果たすためだ。やり方が強引だった事は承知している。されど俺は常にお前との約束を胸に生きてきた。今もそうだ」と答えます。
「まさか7年前の約束を?」
まひろさんは様々な感情が入り混じった様な眼差しで道長卿を凝視します。
道長卿は「お前と交わした約束は未だ何一つ果たせておらぬ。その事は、お前にだけは伝わっていると思っておる。これからも中宮さまを支えてやってくれ」と言って出て行きました。
まひろさんは一切言葉を発せず、何か考え込むかの様でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>このゆるいファンの道長は結局、彰子のもとに一条天皇を連れてくるためだけの道具だと思っている。
道長卿は最高権力者の左大臣です。
『ゆるいファン』とは。
彰子さまが皇子を産む様に一条帝の目を藤壺に向けようとまひろさんの『源氏物語』を利用し、まひろさんは出仕しました。
まひろさんは道長卿の意向に応えるだけでなく、彰子さまに政の道標となる『新楽府』のご進講も行いました。

ファンの証しである扇子を贈ったくらいで誤魔化せると思っているんですか?
>「まひろ推し!」みたいなうちわを持って浮かれてはしゃいでいればいいってもんじゃないんですよ。
>本当にふざけた男ですね。
>あの微笑ましいまひろと三郎の扇子も、もはやへし折りたいくらい私は苛立っています。
道長卿がまひろさんに贈ったのは扇子でも団扇でもなく、『衵扇(あこめおうぎ)』といい宮廷の女房が正装の際に用いた檜扇(ひおうぎ)の一種です。
せっかくの宮中絵巻を描きながら『ファンの証しである扇子』『「まひろ推し!」みたいなうちわ』などと風情の欠片も無い名称で呼ばないでください。
何見氏がどんなにラブコメ憎し、道長卿憎しでへし折りたくても、扇は道長卿が褒美と称して贈り彼がどんなに変節してもまひろさんが「鳥が逃げてしまった」と追いかけ出会った河原での思い出とともに大切にしているものです。
何見氏が私怨で壊したがっているのは作中で『若紫』が生まれるきっかけになった大事なキーアイテムです。
何見氏は勝手な怒りで他人の大切なものを平気で破壊できる人の気持ちがわからない人の様です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道長は愛があると訴えたいようだけれども、まひろが物語にどれほど入れ込んでいるのか理解しているはずです。
>愛している人が喜んでいる顔を見ることに、彼は喜びを感じないのでしょうか。

まひろさんはかつて六条の廃院で「道長さまには、直秀のような理不尽な殺され方をする人が出ない様に、よりよき政をする使命がある」「道長さまは、この国を変えるために高貴な家に生まれた」と道長卿に訴え「まひろの望む世を目指す」と告げていました。
しかし、一条帝の意向を曲げさせてまで敦康親王を退け、外孫の敦成親王を東宮に据えたものの、「お前との約束を果たすためだ」と強い権力を求め始めた道長卿に、まひろさんは理想を実現するという目的のために権力者になるはずがより強い力をお持ちになろうとする事に重きを置いているのではと懐疑的になっているのではないでしょうか。

・彰子を慰める和歌の会?

>彰子を慰めるためか。
>女房たちが和歌を詠んでいます。
紅葉が色付く季節になり、藤壺では女房たちの歌会が催されています。
この歌会は一条帝を失った悲しみに暮れる彰子さまを慰めるためのまひろさん発案による催しでした。
女房たちに加え、藤原頼通卿・頼宗卿の兄弟が参加しています。
まずは赤染衛門が歌を披露しました。

誰にかは 告げにやるべき もみぢ葉を 思ふばかりに 見む人もがな
赤染衛門

意訳
誰に告げたらいいのでしょうか。
紅葉の美しさを私と同じ思いで眺める人があって欲しいものです。

赤染衛門集

一同がその歌に感心しています。

『光る君へ』より

次いでまひろさんが歌を詠みました。

なにばかり 心づくしに ながめねど 見しにくれぬる 秋の月影
紫式部

意訳
昨夜は何ほども心を砕いてみていたわけでもありませんのに、見ているうちに、美しい秋の月が涙で曇ってしまったことでした

紫式部集
『光る君へ』より

あかねさんも歌を詠みました。 

憂きことも 恋しきことも 秋の夜の 月には見ゆる 心地こそすれ
和泉式部

憂鬱なことも恋しいことも、すべて秋の夜の月に映し出されている気持ちがいたします

和泉式部集

このあかねの歌を聞いた左衛門の内侍は、「一段と艶っぽいお歌だこと」と評しました。
あかねさんは「恋をしているからかしら」と返し、頼通卿の方を見ます。
頼通卿も驚いたようにあかねを見つめていました。

『光る君へ』より

>喪服と、そうでない服装が分かれており、先帝の喪に服している状況がみえてきます。 
古代、中世の時代、死は恐怖の対象とされ、周囲に伝染すると考えられており『死穢』といいました。
神道においては人間・動物の死と出産、女性の生理は「三不浄」として忌避されこれを『触穢禁忌』と呼びました。
死穢は不可抗的に死者の家族や血縁親族を汚染するため、一定の期日を経るか、祓を受けるまでは神社への参拝や神事への参加、公家の場合には参内を控える事が求められてきました。
『延喜式』においては、人の死穢30日、産穢7日、六畜の死穢5日、産穢3日の謹慎が定められており、その間鈍色の衣を着て喪に服すのが慣例でした。

歌会が行われたのは秋であり、6月に崩御された一条帝の四十九日が間近になり、徐々に裳が明け日常に戻り始めたのでしょう。
『栄花物語』巻九によると8月11日に三条天皇が遷御され、彰子さまは琵琶殿に移り紫式部ら女房も同行します。
また、東宮・敦成親王は東宮御所に入り母とは離れて暮らす事になりました。
一条帝の思い出が遠のくのも辛く彰子さまは祈りを捧げる日々を過ごしていたのだそうです。

>この歌は一段と艶っぽいとざわめかれます。
>「恋をしているからかしら?」
>あかねが艶然と微笑むと、貴公子たちはドギマギするばかりでした。
あかねさんの歌に「一段と艶っぽいお歌だこと」と評したのは左衛門の内侍で「恋をしているからかしら」と返したあかねさんが見たためにドキドキしていたのは道長卿の嫡男・頼通卿です。
歌会の場には頼通卿と教通卿の兄弟が呼ばれていました。

『光る君へ』より

・清少納言の舌鋒?

>宮の宣旨が、藤原彰子に問いかけます。
そこへ取り次ぎの女房が来て宮の宣旨に何やら耳打ちしています。
宮の宣旨が清少納言(ききょうさん)の来訪を告げました。
頼通卿は「今日は内々の会故、日を改めさせよ」と言いますが、彰子さまは「通せ。枕草子の書き手に私も会ってみたい」と言います。
まひろ何とも言えぬ複雑な表情です。
そして鈍色の袿を纏ったききょうさんが現れ、廊下に居並んだ女房たちに道を開けさせると中宮彰子の御前に座りました。
そして「お楽しみの最中にとんだお邪魔をいたします。敦康親王様から中宮様へのお届け物がございます」と用向きを述べました。
彰子さまが「そなたが枕草子で有名な清少納言か?」と尋ねると、ききょうさんは「お初にお目にかかります。亡き皇后定子さまの女房、清少納言にございます」と挨拶しました。
宮の宣旨が「お届け物とは?」と問います。
ききょうさんは「椿餅でございます。亡き院も皇后さまもお好きでした。敦康親王さまも近頃これがお気に召して、中宮さまにも届けたいと仰せになりました」と伝えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

御簾の奥から「敦康さまはお健やかか?」と尋ねる彰子さまに、ききょうさんは声を震わせながら「もう敦康さまの事は過ぎた事におなりでございますね」と批判します。
また「この様にお楽しそうにお暮らしとは思いもよらぬ事でございました」とも言います。
藤壺は亡き一条帝の喪に服していないと言わんばかりの言い様にその場に居合わせた藤壺の女房たちに緊張が走りました。
赤染衛門が張り詰めた場の空気を変えようと「私たちは、歌の披露をしておりましたの。あなたも優れた歌詠み。一首、お読みいただけませんか」と笑顔で申し出ますが、ききょうさんは「ここは私が歌を詠みたくなるような場ではございませぬ。敦康さまには脩子(ながこ)内親王と私がいますから忘れてくださっても問題ありません。失礼します」と言い放ち、まひろさんを睨んでその場を立ち去っていきました。
唖然としてききょうさんを見送ったまひろさんは思わず筆を取り、「清少納言は得意げな顔をしたひどい方になってしまった」と日記にききょうさんの事を書き綴りました。

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。

『紫式部日記』和泉式部と清少納言
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>届けものとは、つばき餅でした。
>亡き院(一条天皇)も皇后も好きだったと好きだったと説明します。
>『源氏物語』にも登場する日本最古級の菓子ですね。
ききょうさんは「椿餅でございます。亡き院も皇后さまもお好きでした。敦康親王さまも近頃これがお気に召して、中宮さまにも届けたいと仰せになりました」と伝えています。
彰子さまに椿餅を届けさせたのは敦康親王なのでそこを省いては行けないと思います。
『源氏物語』で椿餅が出てくる場面を具体的に紹介してください。
虎屋さんによると、椿餅は椿の葉の間に俵形の道明寺生地を挟んだもので、2月頃の季節菓子なのだそうです。
当時は小豆餡などは無く、甘味は生地に甘葛を入れる程度で、現在とは違う味だったと考えられるそうです。
『源氏物語』第34帖「若菜上」で若い貴公子たちが蹴鞠の後、梨・柑橘類などの水菓子や椿餅などを食べる場面があります。

『源氏物語』第34帖「若菜上」

>懐かしみ、敦康親王の様子を彰子が尋ねると、敦康様はお健やかと言いつつ、こう続けます。
>「もう敦康様のことは過ぎたことにおなりでございますね。このようにお楽しみにお過ごしとは思いも寄らぬことでございます」
「敦康さまはお健やかか?」と尋ねたのは彰子さまで「もう敦康さまの事は過ぎた事におなりでございますね。この様にお楽しそうにお暮らしとは思いもよらぬ事でございました」と批判したのはききょうさんです。
『こう続けます』とあるため全て彰子さまの台詞に見えます。

>まひろは三白眼になって、ききょうを睨みつけます。
>ききょうも鋭い目線を投げかけ、去ってゆく。
瞳(黒目)の上か下に白目が現れた状態を「三白眼」といいますが、まひろさんは床に座った状態で立ち上がったききょうさんの顔を見ているのだから上目がちになるのではないでしょうか。

>まひろは月の印がついた硯で墨を擦り、「清少納言」と書きます。
>清少納言は、得意げな顔をした、ひどい人になってしまった……。
まひろさんの月の彫り物がある硯は道長卿からの贈り物ですが、扇と違い割りたいとはならないのでしょうか。
刺々しく言い返し帰って行ったききょうさん。
唖然としたまひろさんは思わず筆を取りました。「清少納言は、得意げな顔をした、ひどい人になってしまった」
「紫式部日記」の中でも、最も有名な一節のひとつでしょう。

『紫式部日記』清少納言

・叢雲のかかる月のように?

>しかし、変わってしまったのはききょうだけなのか。
その夜、まひろさんは簀子縁に立ち、帰ってしまったききょうさんを思いながら月を眺めていました。
しかし、雲に隠れて月ははっきりと見えません。
そして同じ頃、土御門殿でも道長卿が月を見上げていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>しかし、変わってしまったのはききょうだけなのか。
>月を見る道長の姿も見えます。
>この場面は、百人一首にとられたのこの歌も連想させます。
『めぐり逢ひて』は月に託して、幼友達と巡り逢った事を書いているそうです。
幼馴染みから道ならぬ恋をした想い人の道長卿。かつては宮仕えや暮らしの話をした仲だったききょうさん。
雲隠して見えない月は微妙になった関係の象徴でしょうか。

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
紫式部

意訳
久しぶりに逢えたのに、それが貴方だと分かるかどうかのわずかな間にあわただしく帰ってしまわれた。
まるで雲間にさっと隠れてしまう夜半の月のように。

『新古今集』雑上・1499

・左大臣様がおかしくおわすのだ?

>敦康が彰子のもとへやってきました。
後日、敦康親王が藤原行成卿を伴い藤壺を訪ねてきました。
彰子さまが椿餅の礼状を兼ね、いつでも藤壺に来てもよいとの文を敦康親王へ届けさせたのでした。
御簾越しに彰子さまが「いつぞやは美味しい椿餅、ありがとうございます」とお礼を言いました。
彰子さまと敦康親王は今では御簾越しに話す事しか出来なくなっていました。
敦康親王は「中宮さま…お顔が見えませぬ。せっかく参りましたのにお顔が見えねばつまりませぬ」と言います。
そして、敦康親王は「御無礼仕ります」と言い、まひろさんと行成卿が見ている目の前で御簾を捲り上げます。
慌てて行成卿が声を掛けますが、敦康親王は御簾の内に入り御前に進み出て彰子さまと直に顔を合わせました。 
突然の出来事に彰子さまは目を丸くしています。
敦康親王は「安心してください、光る君のようなことはしませぬ。ただお顔を拝見したいだけでございます」と言いました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

この敦康親王の行動を聞いた道長は「御簾を越えたのか!」と血相を変えました。
行成卿は「越えられはしましたがお二人になられたわけではなく、しばらくそのままお話しになってお帰りになりました」と報告しますが道長卿は「信じられぬ」と疑っています。
道長卿から「敦康さまが二度と内裏に上がれぬように致せ」と命じられ、行成卿は大変驚きます。
行成卿は「先の帝の第一の皇子であらせられます。そんな事はできませぬ」と断りました。
『源氏物語』の源氏の君と藤壺の不義が念頭にある道長卿は「中宮様はこの先、国母ともなられるお方。万が一の事があったら一大事だ」と言います。
これには行成卿が毅然とした態度で「恐れながら、左大臣さまは、敦康さまから多くの事を奪いすぎでございます。敦康さまがお気の毒でございます」と反論します。
道長卿は居丈高に「お前は私に説教するのか」と言います。
行成卿は「左大臣さまがおかしくおわします。失礼します」と席を立ち、去って行きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>敦康が彰子のもとへやってきました。
>つばき餅のお礼の文を頂戴し、飛んで参ったそうです。
彰子さまは椿餅のお礼とともにいつでも藤壺に来てもよいとの文を敦康親王へ届けさせたので敦康親王は藤壺にやって来たのだと思います。

>「左大臣様がおかしくおわします。失礼いたします」
>あれほどまでに道長に心酔しきっていた行成が、こうも厳しく言い切るとは……。
>これも諫言です。
>果たして道長はこれを聞きいれるのかどうか。
行成卿は道長卿の意を汲み、不本意ながら一条帝に敦康親王を退け、敦成親王を東宮に立てるよう進言しました。
道長卿の思い通りになり彰子さまの子・敦成親王が東宮になりました。
行成卿は一条帝や敦康親王への申し訳無さもあったのではないでしょうか。
「恐れながら、左大臣さまは、敦康さまから多くの事を奪いすぎでございます。敦康様がお気の毒でございます」とは普段従順な行成卿の精一杯の諫言だったのではないでしょうか。
しかし道長卿の言葉は「お前は私に説教するのか」。
「左大臣さまがおかしくおわします」
行成卿は見限らずとも強い言葉を掛けるしか無かったのではないでしょうか。

・都大路をゆく武者たち?

>賢子が乙丸と共に都を歩いています。
ある日の事。
壺装束姿の賢子さんが乙丸を伴い辻を歩いていました。
すると、そこに平為賢公率いる武者の隊列が通りかかり、乙丸は怯えています。
賢子さんはその隊列の中に双寿丸の姿を見つけました。
双寿丸も気付き「おう」と言い二人は話し込みます。
双寿丸は賢子さんに「あれが為賢さまだ。強そうだろ」と主君を紹介しました。
双寿丸は「これから盗賊を捕まえに行くんだ」と言います。
賢子さんに「気をつけてよ」と言われ、双寿丸は「おう」と答えました。
賢子さんは双寿丸に「帰ってきたら、またうちに夕餉に寄りなさい」と告げ、双寿丸は隊列に戻って行きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

賢子さんが家で書物を整理し虫干ししていると双寿丸がやってきました。
「本当に来た」と言う賢子さんに双寿丸が「来いって言ったろ」とツッコミます。
いとさんが「二度とくるなと言ったでしょうに!」と叱りますが、「腹減った! 飯、飯、飯!」と双寿丸は意に介しません。
賢子さんに夕餉を用意するよう言われ、いとさんは渋々用意をします。
そこへまひろさんが帰宅しました。
賢子さんに「母上まで来たの?」と言われ、まひろさんはここは「私の家だ」と答えます。
まひろさんは「そなたも息災のようね」と言い、双寿丸は「おう」と答えます。
そしてまひろさん、賢子さんに双寿丸を交えた夕餉が始まり、渋い顔のいとさんを横目に双寿丸はご飯を頬張ります。
双寿丸が「この家には書物がいっぱいあるなぁ」と設えを眺めていると賢子さんが「読みたかったらいくらでも貸してあげるわよ」と言い、まひろさんは顔を顰めます。
双寿丸は「字は読めない。あっ、自分の名前だけは書けるぞ」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>すると馬に乗った武士がいかめしい顔をして歩いてくる。
『馬に乗った武士』が『歩いてくる』様な書き方で騎兵なのか歩兵なのか分かりにくくなっていますので、『馬に乗った武士を先頭に行軍してくる』などでは如何でしょうか。
風俗考証の佐多芳彦氏によると、都を荒らす盗賊を捕らえに向かう平為賢公の軍勢は京都の治安を守る検非違使で、平安時代末期の絵巻物『伴大納言絵巻』や『清獬眼抄』という文献資料などから、それぞれの立場に応じた格好を再現なのだそうです。
平為賢公が身に着けているのはクラシックな大鎧で大鎧の下に着ているのは当時の武官たちの標準的装束の水干で、朝廷において武装を整える=弓を手に取ることを意味するため、為賢公は太刀や腰刀を佩かず弓矢を携えているそうです。

『伴大納言絵詞』模写
国立国会図書館所蔵
『光る君へ』より

>『源氏物語』の世界観では、健康的に日焼けして、イキイキシャキシャキしているというだけで、男が怖がられるものですから。
『源氏物語』には、髭黒大将という男性が出てきます。
華やかで色好みな源氏の君や着実に出世を重ねる頭中将(内大臣)が典型的な公卿であるとすれば、髭黒大将は血筋には何ら問題は無いものの髭が濃く色黒な外見。
いい年になってから玉鬘に恋をして無理やり自邸に住まわせ結婚してしまうという無骨な男性です。
髭黒大将の北の方はショックで病み、玉鬘のために邸の改築を考えていた髭黒大将に灰を浴びせかけます。

>これもややこしい話で、顔が見える時間帯に堂々と家までくるなんて当時の貴族にとっては異常なことなのです。
>「夜這い」という言葉は、顔も見えない夜になってから、そっと忍んでやってくるという意味。
平安貴族の女性はほとんど邸に籠りきりで、お世話係の女房が付いている状態です。
男性は、破れた塀やら庭の垣から着物の裾とか髪の毛の先だけなどの姿や調度を垣間見て、恋の和歌を送ります。
女性が気に入れば夜暗くなったら男性は顔が分からない宵闇の中、彼女の家に家人の伝手で忍び入ります。(これが夜這い)
この夜這いが3日連続で続けば三日餅を食し結婚が成立となります。
双寿丸は賢子さんの恋人でも無く命の恩人と紹介されており食事に誘われた仲です。
当然当時の貴族の恋愛作法を何ら踏襲しておらず、身分と相まっていとさんにとっては主人である為時公の留守に家に来て飯を無心し姫さまと不躾に話す不審人物の何者でもなかったのでしょう。

・都をさすらい、強くなった双寿丸?

>ここで彼の境遇が想定できます。
「自分の名前だけは書ける」と言う双寿丸にまひろさんは「足で書くの?」と尋ねます。
さらにまひろさんは「そなたはそのような身なりをして、字も書けないなぞと言っているけれど、実は高貴な生まれではない?」と問いかけ、双寿丸は「母上、大丈夫かよ…」と戸惑いの表情を浮かべています。
まひろさんは「失礼、独り言です」と詫びます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

賢子さんが「文字を教える」と申し出ると双寿丸は「俺は武者だから要らぬ」と断ります。
さらに賢子さんは「人の上に立つならば読めた方がいい」と勧めますが、双寿丸は「俺は字が読めぬ哀れな輩ではない」と固辞します。
双寿丸は「人には得手不得手がある。俺らは体を張って戦うのに向いている。字を書いたり読んだりするのは向いてはおらぬ。学問の得意な者らは俺らの様には戦えぬだろう?それゆえ武者であることに誇りを持てってうちの殿さまが言っていた」と言います。
まひろさんが「双寿丸は殿の許で武術を学んでいるの?」と尋ねると、双寿丸は「皆で共に戦うことを学んでいる」と答えます。
さらに双寿丸は「石投げが得意な者は弓の射手が矢をつがえてる間に石を投げる。弓と石で敵の先手を倒してから太刀で斬り込んでいくのだ。戦がない世がよいけれど、そうは言っても人の世だ。殿はそう言っている」と語ります。
まひろさんは何か得るものがあったのか感心して聞いています。
双寿丸は「仲間を作ればひとりでいるより楽しいし仲間のために強くなろうと思える」とも言います。
まひろさんは「それも殿が言っていたの?」と興味津々で、双寿丸は「お前の母上はいちいち絡んでくる」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

いろいろ語りながらご飯を頬張る双寿丸でしたが「あ!飯がない!」と叫びました。
ご飯が椀に残っていない事に気付き、いとさんにおかわりを所望しますが、もうありません。
賢子さんが「じゃあ、これあげる」と自分の椀を差し出します。
双寿丸が「いいのか?」と尋ねると賢子さんは「うん」と答えます。
双寿丸から楽しそうに話を聞く賢子さんをまひろさんは微笑ましく見つめていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ここで彼の境遇が想定できます。
>通じるところが多いとされる直秀の場合、文字が読める程度の教育は感じさせました。
>没落貴族という推察も納得できます。
>一方で双寿丸の場合、一人きりの孤児として、僧侶に保護されたのではないかと推察できます。
双寿丸の素性について、演じている伊藤健太郎さんは「君かたり」に於いて『双寿丸のバックボーンみたいなものが、もともと捨て子で拾われて武術で強くなっているというキャラクターなんですけど、すごくいい意味で身分の違いとか、そういうものを関係なくフラットに人と接することができる人物だなというのはすごく思っています。』と仰っています。
「自分の名前だけは書ける」と言う双寿丸にまひろさんは「足で書くの?」と尋ねます。さらにまひろさんは「そなたはそのような身なりをして、字も書けないなぞと言っているけれど、実は高貴な生まれではない?」と問いかけます。
まひろさんは直秀ではなく、河原での出会いの時は素性がしれなかったが高貴な貴族の三の君だった『三郎』の様な素性を想像したのでしょう。

>賢子は「じゃあこれをあげる」と自分のぶんの飯をあげるのでした。
>「いいのか?」
>「うん」
>そう言い合う二人は愛くるしいようで、ここはかなり危険な問題提起のある場面でした。
『ここはかなり危険な問題提起のある場面』とは具体的にどんな危険な問題提起があるのでしょうか。

・武者こそが時代を変える?


>双寿丸の場合、都大路のスラムから拾われて武者になったことが推察できますが、これがまず危険です。
>彼の話を聞くと、平為賢はそういう孤児を集めて、武術を鍛錬し、戦闘員としている。
>こういうことをすると反社会組織がどんどんできていくので潜在的に危険という意味です。
上記でも書きましたが。
9世紀後半から10世紀前半には豪族や有力農民が賜姓皇族(しせいこうぞく:皇族が臣下の籍に降りて姓を与えられた身分)や国司の任期を終えても地方に残った貴族の子孫などを棟梁に仰ぎ武士団となっていきます。
双寿丸は後に肥前伊佐氏、薩摩平氏の祖となる平為賢公配下の武者です。
平安時代の武士は天皇や皇族、貴族の側近くに仕え主人の用向きを伺い、朝廷の実務や警護、紛争の鎮圧にあたる事が主な任務です。
藤原氏も河内源氏の源頼光公や源頼信公、藤原保昌公、平維衡公、平致頼公といった所謂道長四天王を私的な侍として抱えていますかま反社会組織とは。
もちろん常陸で平将門公の乱や瀬戸内の藤原純友公の乱が起きたり、陸奥国・出羽国で前九年の役・後三年の役が起きたりした様に地方での反乱や異民族の入寇があるなどしていますが、争いの鎮圧に向かうのもまた武士の役目です。
平将門公の乱では伊勢平氏、後三年の役では奥州藤原氏など、鎮圧にあたった武士達が台頭していくのです。

>そもそも道長は直秀が非業の死を遂げたあと、検非違使の組織刷新を掲げていたと思います。
>それがどういうわけか、武者に頼っています。
>平為賢は坂東武者、常陸出身です。
>当時の移動は大変危険ではあるものの、踏破できるだけの武力があれば制限なく行き来できます。
>地方出身の武装勢力が都まで到達し、孤児を拾い集めて膨れ上がっている。
>非常に危ない。
検非違使とは、平安京の「非」法・「違」法を「検」察する官職で平安京内における違法行為を摘発し、犯罪人を捕らえる役人です。
後に訴訟及び裁判までも扱うようになりました。
現代でいうなら警察組織と司法組織を合わせた役所でしょうか。
また、武官が治安維持を担当する「近衛府」は内裏の警護、「兵衛府」は宮城の門以外の宮城警備を担当する役所で担当部署がそれぞれ決まっていました。

9世紀末の宇多天皇の頃、重税による治安の悪化で盗賊が横行し、京に集められた稲などの官物を狙い内裏に侵入する者もいました。
この対策として清涼殿の滝口に詰め天皇を護衛する滝口の武士が設けられました。

今回の平為賢公の軍の場合は、大内裏の外の賊の討伐の様なので都の治安を守る検非違使が出動し、何らかの理由で武士団の応援が必要だったのでしょう。

>双寿丸の言葉から、平為賢は書籍の重要性を理解していないことが伝わってきます。
>戦術もまだまだ原始的であり、戦略はまだないのです。
双寿丸曰く、平為賢公の教えは『それぞれが得意な役割を担い、力を合わせて戦えば一人一人の力は弱くとも負けることはない。』という集団戦での連係です。
さらに双寿丸は「石投げが得意な者は弓の射手が矢をつがえてる間に石を投げる。弓と石で敵の先手を倒してから太刀で斬り込んでいくのだ。』という戦術のひとつを語っています。

『光る君へ』より

投石は現代のように舗装されていない土地が多く、武器となる石を見つけるのは容易でした。
弓矢に比べて風の影響を受けにくく、鎧越しに打撃を与えやすいと言う特徴があり、投石は重要かつ効果的な戦術でした。
平安貴族は従者を用い抗争になる事もありました。
しばしば投石が武器となり、『大鏡』第4巻「隆家」に記された花山院の逸話では、院が「我が(邸の)門前を牛車で通り抜けられる者はおるまい」と仰せになりこれに藤原隆家卿が反応するも、門前には荒法師や大・中童子、合わせて7、80人が、大きな石を持ち、5、6尺の杖で待ち構えており隆家卿は退却したと記述されています。

また、川原などで二手に分かれて小石を投げ合い勝負を争う『石合戦』『印地打ち』という遊びがありました。
印地打ちは鎌倉時代に盛んで、多くの死傷者が出て禁止されたこともありました。

『年中行事絵巻』

弓については『伴大納言絵詞』に描かれている弓はおよそ6尺前後(約180cm)程度と、後世の和弓に比べて短いのだそうです。

『伴大納言絵詞』

戦い方としては、まず双方名乗りを挙げ鏑矢による開戦の合図があります。これを「矢合わせ」といいます。
戦いはまず矢戦から始まります。遠距離では遠矢の射合いとなります。
当時の弓矢の射程距離は、50メートルから100メートルくらいと言われ、45度の角度で放つ遠矢では、当然鎧を貫通させることは困難です。
しかし、近距離ほど威力を増し馬に乗ってできるだけ近くまで突進し狙いを定めて矢を放つ事もありました。
投石兵のいる平為賢公の軍は弓と投石の混合で遠戦に臨むのでしょう。
矢を射合いながら接近し矢を射合いながら接近した両軍は、乱戦の太刀打の戦になります。
馬を駆けさせ、敵とすれ違いざまに馬上から太刀を振り下ろして戦います。
反りの入った平安時代の太刀は馬上から振り下ろすことを想定したものでした。

道長が彰子に苦言を呈しています。

・彰子は仲間を集め、妍子は御簾を超える?

>道長が彰子に苦言を呈しています。
>敦康様は元服したのだから、これまでのようにお会いになるのはいかがなものか。
藤壺に道長卿がやってきて、彰子さまに「敦康さまは元服したのだから、これまでの様にお会いになるのは如何なものか」と苦言を呈します。
そんな道長卿に、彰子さまは「左大臣は何を気にしているのか」と不満げです。
「敦成親王と敦良親王をさらに慈しみください」と言う道長卿に彰子さまは「既にそうしております」と答えます。
道長卿は「ならば今よりなお慈しめ」と言い立ち去っていきました。
道長卿が去った後、悩んだ彰子さまは「父上は敦康さまをはじき出そうとしておられるのだろうか?」とまひろさんに尋ねます。
まひろさんは「敦成さまを東宮とされた故、敦康さまのご様子が気になられるのではないか、中宮さまと皇子さま方の幸せを心から願っておられると存じます」と答えます。
彰子さまは「されど…この先も父上の意のままになりとうはない」と言います。
まひろさんは「ならば仲間をお持ちになったらいかがでございましょう?」と言い、彰子さまが「仲間?」と尋ねます。
まひろさんは双寿丸から聞いた『得意分野を生かし、それぞれが力を合わせて戦えば、1人1人の力が弱くても負けることはない』という言葉を思い出し「中宮さまには弟君が大勢おられましょう。いろいろお話されては。皆で手を結べばできない事もできます」と弟君たちを味方につける事を進言しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

彰子さまは倫子さま所生の藤原頼通卿と教通卿、明子さま所生の頼宗卿と顕信卿を呼びました。
「彰子はこの日腹違いの弟たちも藤壺に呼んでいた」と語りが入ります。
不審がる頼通卿に彰子さまは「私は早くに入内したためそなたらとは縁が薄い、それも寂しいとこの頃つくづく思うようになり、声をかけた」と召集の理由を語り礼を述べ、弟の顕信卿を紹介します。
顕信卿は「そういえば小さい頃姉上と話した覚えがありませぬ」と言い、彰子さまは「私は昔は口数が少なかった故。教通の事はよく覚えている」と答えます。
彰子さまが「教通は駆け比べが好きであった」と言うと教通卿は「母上が喜ぶので、そういう事にしておいただけ」と本音を洩らしました。
彰子さまは「父上をお諌めできるのは我らしかおらぬとも思う。そなたらが困った時は私もできる限りのことをするゆえ、東宮の行く末のために皆、力を貸してほしい。父上のよりよき政のためにも、我らが手を携えていくことが大切だ」と本題を切り出します。
頼通卿は「もちろんでございますよ。姉上」と同意しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

寛弘8年(1011年)10月5日。
彰子さまは琵琶殿に移り、藤壺には三条帝の女御で妹の妍子さまが入りました。
藤壺に入った妍子(きよこ)さまに敦明親王は狩りの話をしています。
「兎は小さいながら右へと左へと逃げ足が速く、追って狩り立てるのは格別の面白さがあります」と話す敦明親王に、妍子さまは「もっと狩の話をしてくれ」とせがみます。 
敦明親王はさらに「狩りはこちらの動きを獣に悟られてはしくじる」と語ります。
「風下から音を立てずに近寄って…一気に仕留める!」と、敦明親王は実際のその動作をしてみせ、「極意はこれに尽きます」と言いながら御簾の中を見ました。
しかしそこに妍子さまの姿はありません。
いつの間にか妍子さまは敦明親王の背後に回っており「好き」と囁きます。
「おやめくださいませ」と戸惑う敦明親王でしたが妍子さまは「敦明さまも延子さまより私の方がお好きだもの」と言い迫ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

そんな2人を娍子さまが見ており「そこまで!」と声を掛けました。
妍子さまは「何しに来られたの?邪魔なさらないで」と不機嫌です。
娍子さまは妍子さまの前に進み出ると、「申し訳ございませぬ。我が息子が無礼を働きましてお許し下さいませ」と謝罪します。
敦明親王は「母上…私は何もしておりませぬ」と言います。
娍子さまは「黙りなさい。事もあろうにお父上の、お父上の、帝の女御さまに何と言うことをとは!」と親王を叱りつけました。
敦明親王は「私をお疑いになるのですか?」と驚いていますが、娍子さまは尚も「お許しください」と謝罪します。
妍子さまは「もういいです」と不満げに立ち上がります。
そして娍子さまは「この事は帝には仰せにならぬ様に伏してお願いいたします」と敦明親王に頭を下げました。
妍子さまは一人面白くなさそうにしています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>このドラマの道長は、鈍感な上にあまりに自分の言いたいことばかりを押し付けていて、理論がないので本当によろしくないと思えます。 
何見氏は道長卿の性格を鈍感とよく評していますが、自分の言いたい事ばかりを押し付けているとあるのだから単に鈍感なのではなく、まひろさんの書く物語にかぶれ過ぎなのと、自らの理想を実現しようとするあまり権力を行使しするので人の気持ちまで慮る余裕が無くなっているのではないでしょうか 

>ならば仲間を伴ったらいかがか?とまひろが提案します。
>彰子の弟たちのことです。
作中で彰子さまが意見を言い合え意向を反映させられる仲間として自らの兄弟を召喚するきっかけになる大事なまひろさんの言葉を端折り過ぎです。
「ならば仲間をお持ちになったらいかがでございましょう?」と言い、彰子さまが「仲間?」と尋ねます。まひろさんは「中宮さまには弟君が大勢おられましょう。いろいろお話されては。皆で手を結べばできない事もできます」と言っています。

>東宮のために皆の力を貸して欲しいと頼み込むのでした。
こちらも彰子さまの言葉を端折り過ぎです。
彰子さまは「父上をお諌めできるのは我らしかおらぬとも思う。そなたらが困った時は私もできる限りのことをするゆえ、東宮の行く末のために皆、力を貸してほしい。父上のよりよき政のためにも、我らが手を携えていくことが大切だ」と弟たちに語っています。

>敦明が何もしていないと釈明をするものの、娍子は「黙りなさい」と手厳しく、父の女御に何をしているのかと苦言を呈しています。
>そして娍子は妍子に「このことは帝には仰せにならぬように」と念押しするのでした。
妍子さまは敦明親王の背後に回っており「好き」と囁き、敦明親王が戸惑う姿を娍子さまも目撃していますが、敢えて我が子敦明親王を父の女御に言い寄ったかの様に叱りました。
敦明親王は完全に冤罪でしたが娍子さまは妍子さまに「このことは帝には仰せにならぬように」と念押しします。
平安時代、人妻に密かに通う行為を「密か事」といいました。
しかし、『大宝律令』では妻を離縁する条件の中に『淫らな事』がありました。
姦通罪が規定され、二年から二年半の徒刑になる事もありました。
徒刑と断罪されると、首枷をはめられ、夜間は三、四人を紐で繫ぎ、昼間は紐を外して労働させられました。
『不義密通』は罪とされているため、帝の女御である妍子さまと我が子・敦明親王の「密か事」を目撃してしまった娍子さまは宮中での良からぬ噂になり道長卿に露見する事を恐れ、敦明親王が妍子さまに言い寄った事にして離縁事由にならないよう配慮したのではないかと思います。
同時に妍子さまに帝に報告しないよう口止めをしています。

・道長は、顕信の絶望を読み解けなかった?

>藤原通任を参議にすると帝が言い出しました。寛弘8年(1011年)12月18日。
12月の除目が迫り、三条帝は娍子さまの弟・藤原通任卿を参議に任じる事を道長卿に打ち明けました。
蔵人頭である通任卿は、半年前に蔵人頭の職に就いたばかりであからさまな身内贔屓人事でした。
道長卿は「通任は半年前に蔵人頭になったばかりにございます。たった半年で参議にするというのは如何なものでございましょうか」と異議を唱えましたが、帝は「娍子の弟故取り立ててやりたい。左大臣も息子たちを取り立てておるではないか。朕は左大臣の子・教通も傍に仕えさせている」と仰います。
「それ故に通任も参議にしてはよいではないか」と言うのが帝のお考えでした。
また蔵人頭の座が空くため、帝は「顕信(道長卿と明子さまの子)を蔵人頭にしてやろう。それならばよかろう」と仰います。
道長卿は「ありがたきお言葉ではございますが、顕信に蔵人頭はまだ早いと存じます。顕信には帝をお支えする力はございませぬ」と固辞しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

しかし、顕信卿は蔵人頭になりたがっていました。
高松殿で父が蔵人頭任官の打診を断った事を知り顕信卿は「父上、私は蔵人頭になりとうございました」と言います。
そんな顕信卿を道長卿は「焦るな。今は帝に借りを作ってはならないのだ」と諭します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

明子さまは「殿は顕信よりご自分が大事である、参議への近道である蔵人頭への就任を、父親が拒むとは信じられない」と言います。
道長卿は「顕信の事は考えておる」と言います。
明子さまは「偽りを申されますな。出世争いにならぬ様にと、殿は私の子にばかり損な役割を押し付けて来た。どの口で顕信のことも考えておるなどと仰せになるのでございますか」と挑むかのような口ぶりです。 
顕信は泣きそうな表情で「私は、父上に道を阻まれたのですね。私はいなくてもよい息子なのでございますね」と悲痛な叫びを挙げます。
「そのような事は…」と言いかける道長卿に、明子さまは「許しませぬ。帝との力争いにこの子を巻き込んだ貴方を私は決して許しませぬ」と強い口調で訴えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

その後百舌彦さんが「道長に比叡山の僧、慶命(きょうみょう)が火急の用と言って来ております」と知らせに来ました。
慶命は「藤原顕信さま、本日出家あそばしてごさいます」と伝えます。
明子さまは道長卿に掴みかかり叫びました。
「貴方が顕信を殺したのよ」

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>これには、有能すぎて蔵人頭に長年とどめ置かれた行成や実資からすれば、妬ましい限りの話でしょう。
寛弘8年(1011年)12月18日。
三条帝が叙任について口を挟まれました。
帝が娍子さまの弟で半年前に蔵人頭になったばかりの藤原通任卿を参議に任じようとしている事に関してこれは明らかな身内贔屓人事で道長卿も「たった半年で参議にするというのは如何なものでございましょうか」と苦言を呈しています。
筋の通らない人事や事柄に関して厳しく苦言を呈す藤原実資卿が妬ましいと思うでしょうか。
『御堂関白記』寛弘8年(1011年)12月18日条には『修理大夫(藤原)通任が参議を兼任した<蔵人頭(くろうどのとう)の上臈である右大弁(源)道方は、左大弁に(藤原)説孝がいたので、任じることはできない。説孝は、大弁を経ること6年の功労をすでに積んでいる。…ところが主上(三条天皇)は、旧意が許さず、任じなかった。また、大弁が蔵人頭(くろうどのとう)である時は、他官の頭が超越(ちょうおつ)する例はない。「ところが朝恩がすでに深かったので、任じたものである」と云(い)うことだ>。』とあります。

・MVP:藤原道長?

>今回だけで何人が道長への愛を失ったことでしょう。
>彰子は静かに父を見限る。
彰子さまは弟たちを集め「父上をお諌めできるのは我らしかおらぬとも思う。そなたらが困った時は私もできる限りのことをするゆえ、東宮の行く末のために皆、力を貸してほしい。父上のよりよき政のためにも、我らが手を携えていくことが大切だ」と言っていますが、道長卿を見限っていたならば『父上をお諌めできるのは我らしかおらぬ』『父上のよりよき政のためにも、我らが手を携えていくことが大切』と言うでしょうか。
行成卿やまひろさんの様に道長卿が道を違えたら皆で諌めていこうと思っているのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道長の何が絶望的で、どうして摂関政治が破滅するのか?
>それは結局、利害だけで結びつき、理念も道徳心もない、そんな堕落が原因ではないかと今回は見えてきます。
道長卿存命の時期は摂関政治全盛の時期に当たります。
『光る君へ』作中でも今後自分の娘4人を次々と「中宮」や「皇后」や「皇太子妃」とし、絶大な権力を手にする姿が描かれると思います。
そして外孫である敦成親王を帝にすべく奔走し続けるのではないでしょうか。
嫡子の藤原頼通卿も天皇の外戚として摂政・関白に就任しますが外祖父になれなかったため摂関家を「外戚」に持たない帝の新政を経て、白河院の院政期に繋がります。

・徳は才の主にして、才は徳の奴なり?

徳は才の主にして、才は徳の奴なり。

意訳
立派な人になるには人格と才能が必要だが、人格を高めることの方が重要だ

菜根譚

>このドラマは、韓流や華流ドラマを意識していると言われます。
>宮廷劇である点もそうでしょう。甘ったるいラブロマンスもそう。
>宋語を語る点でも意識を感じました。
(中略) 
>韓流や華流ドラマの特徴として、儒教の道徳心があります。
『光る君へ』を語るのに万人が知っているかどうかも分からない韓流や華流ドラマを意識していると主張し、類似作品例の提示も解説もしない独りよがりでは理解できないと思います。
また韓流や華流ドラマをレビューしたいなら別記事を立ててやってください。

>現在NHK BSにて放映中の『三国志 秘密の皇帝』では、劉備ではなく、献帝の弟である劉平が民を慈しむ姿勢を見せます。 
>そのため周りの者たちがその人徳に圧倒され、曹操が悔しがるところがみどころです。
>乱世の奸雄と嘯く曹操ですら、道徳心を捨て切ることはできていないわけです
こちらも『三国志』の話がしたいのなら別記事を立てるか自身のnoteで語ってください。

>先週放映された「ジャニー喜多川 “アイドル帝国”の実像」後の反響の結果、旧ジャニーズ保証本部長が解任されました。
>徳など度外視し、利害だけで生きてきた人間にふさわしい末路かと思います。
>『どうする家康』も、利害ゆえに不自然なまでに持ち上げる人々の姿が見えました。彼らの徳はどうなっているのでしょうか。
『徳』だの『道徳心』だの『利害』だの御大層な事を宣ったところで所詮は何十年も私怨で凝り固まっているだけに過ぎないので関係ない人からすれば『お前の恨みなど知った事か』となるのですが。
人の大切な思い出や好きなものを破壊したい人が『徳』だの『道徳心』だの言っても虚しいだけです。
『彼らの徳はどうなっているのでしょうか。』
余計なお世話です。



※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
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