大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第40回
10月下旬になりました。秋の気配が濃くなり実りの季節になりましたが、皆様健やかにお過ごしでしょうか。
まだまだ日中の日差しが強い日と気温が低い日があり、皆様健康には充分お気を付けください。さて、光る君へ第40回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。
・初めに
>敦康親王を東宮とすることができず、失意の底で、涙を流しながら詠んだ辞世は、途中でおわってしまいました。
>一条天皇の辞世には一体何がかかれ、どんな意図があったのか?
寛弘8年(1011年)6月21日。
臨終出家をされた一条帝は彰子さまに看取られながら、か細くなったお声の限り辞世の歌をお詠みになりました。
帝は「露の身の… か…風の宿りに…」「君を置きて… 塵を出でぬること…」とお詠みになり翌日崩御されました。
作中では、行成卿と道長卿がそれぞれの日記をしたためていました。
行成卿の『権記』には『露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき』とあり、これには『帝(太上天皇)の御志は皇后定子に寄せられたものである(『御志在寄皇后但』)』と記されています。
また、道長卿『御堂関白記』には、『露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事こそ思へ』と記されており、作中の帝の辞世は『権記』から採ったものと思われます。
寛弘8年(1011年)、春。
花吹雪が舞う中藤壺では帝がお渡りになり、公卿が居並ぶ中『源氏の物語』の朗読会が行われました。
宰相の君が『源氏の物語』第33帖「藤裏葉」を帝と中宮彰子さまの御前で読み上げます。
脇には女房たちも控えていました。
あかねさん(和泉式部)は「光る君の華やかな宴の様子を延々と語りながら、ひそかに父を同じくする帝と中納言で締めくくるなんて、お見事ですわ」とまひろさんの文才を称賛しました。
帝が「華やかで、しかも恐ろしいのう」と仰います。
敦康親王が「藤式部、藤壺は光る君を真はどう思っておったのであろうか」と尋ねます。
そして、親王の向かい側に父道長卿と座していた頼通卿が「藤壺は、真は困っていたのではありますまいか。とかく光る君は強引すぎます故」と言います。
敦康親王は、今度はまひろさんに「藤式部。教えておくれ」と尋ねます。
まひろさんは親王の方を向きましたが無言でした。
彰子さまは敦康親王に「私もあれこれ訊くのですけれど、藤式部は教えてくれないのですよ。敦康さま」と言います。
敦康親王は「それなら藤壺は、光る君の事を愛おしんでたと思う事にします」と答えます。
これには道長卿が「例え藤壺の思いを得たとしても、光る君は幸せにはなれなかったと思いますが。不実の罪は必ず己に返って参ります故」と口を挟みます。
まひろさんと赤染衛門は道長卿の方に目を遣り、帝は「左大臣がその様な事を申すのを初めて聞いた」と仰います。
あかねさんが「されど左大臣さま、罪のない恋などつまりませんわ」と言い、赤染衛門も「真に左様でございますね」と同意し、これには彰子さまが驚いています。
赤染衛門は「人は道険しき恋にこそ燃えるのでございます」と答えます。
女房たちが「ウフフフ…」と笑う中、道長卿は俯き一言も発せず、まひろさんはわずかに笑みを見せていました。
>藤壺と光源氏が密通してできた子が即位する展開は実に衝撃的でした。
源氏の君と藤壺中宮との密通の末に産まれた『冷泉帝』が即位した場面は、『源氏物語』第14帖「澪標」です。
今回の朗読会で読まれたのは第33帖「藤裏葉」の朱雀院と冷泉帝による六条院行幸の際お二人が和歌を詠む場面です。
「澪標」では元服を迎えた春宮(冷泉帝)の容貌が実父・源氏の君と瓜二つに成長し、母である藤壺中宮は後ろめたさを感じます。
11歳で即位した冷泉帝は藤壺中宮崩御後に夜居の僧から出生の秘密を知らされ、深く苦悶し実父の源氏の君に帝位を譲ろうとして強く固辞されます。(第19帖「薄雲」)
「藤裏葉」では源氏の君は准太上天皇に叙せられ、異母兄・朱雀院と冷泉帝が源氏の君の邸・六条院に行幸なさいます。
冷泉帝と実父の源氏の君はもちろんの事、側に控えた源氏の君の嫡男で中納言・夕霧(葵の上との子)とも瓜二つでした。
>あかねは絶賛し、帝も華やかで恐ろしいと語ります。
あかねさん(和泉式部)がどの様に絶賛したのか具体的に挙げて下さい。
あかねさんは「光る君の華やかな宴の様子を延々と語りながら、ひそかに父を同じくする帝と中納言で締めくくるなんて、お見事ですわ」と褒め、帝は「華やかで、しかも恐ろしいのう」と仰います。
>作者の藤式部に意図を聞こうとするも、中宮は教えてくれないのだと言います。
>つまり作者は、読み手に見解を委ねているんですね。
この書き方では敦康親王がまひろさんに「藤式部。教えておくれ」と尋ね、まひろさんが「中宮さまは教えてくれない」と言っている様にも感じます。
実際はまひろさんは無言であり、彰子さまが敦康親王に「私もあれこれ訊くのですけれど、藤式部は教えてくれないのですよ。敦康さま」と言います。
この後、敦康親王が「それなら藤壺は、光る君の事を愛おしんでたと思う事にします」と答えるのですが、この台詞を踏まえてこその『作者は、読み手に見解を委ねている』ではないでしょうか。
『源氏物語』とリアルが混ざり合い、現実にあっては困ると敦康親王を彰子さまから離そうとしていた道長卿。
まひろさん同様不義の当事者ながら、「たとえ藤壺の思いを得たとしても、光る君は幸せにはなれなかったと思いますが。不実の罪は必ず己に返って参りますゆえ」と敦康親王を牽制します。
自由に議論をさせたいという解釈にしても人物の台詞を端折り過ぎです。
・命は燃え尽きるが、罪は消えない?
>まひろが筆をもち、物語を続けています。
その夜まひろさんは『源氏の物語』の続きを執筆していました。
その時灯明皿の火が消え、まひろさんが「罪を犯した者は…」と呟きました。
>まひろが筆をもち、物語を続けています。
>誰もが千年生える松になれない。
>命は燃え尽きる。
>ならば相手に偲んでもらえそうなうちに死んで、かりそめの情けをかけてくれただけでも、一途な思いが燃え尽きた証にしたい――。
>ここは『源氏物語』の中心となる思想のようにも思えます。
『物語を続けています』ではなく、『物語の執筆を続けています』などが適切ではないでしょうか。
あと「『源氏物語』の中心となる思想のようにも思えます。」だけでなく出典をお願いします。
まひろさんが執筆しているのは『源氏物語』第36帖「柏木」です。
源氏の君の妻である女三の宮に恋焦がれ関係を結んでしまった柏木。
その事実を源氏の君が知ってしまい、柏木は心労のあまり重い病に臥せってしまいます。
不義密通の罪深さに病んだ柏木が自分の人生を振り返ります。
『誰もが千年生きる松の様に生きられる訳では無いからあの人(女三の宮)が偲んでくれるうちに儚くなりたい。あの人の思い出を燃える様な恋の証にしたい』と命が尽きる前に不義密通の相手である女三の宮を思う場面です。
>もしかしたらこれは日本文学の宿命かもしれません。
>今も昔も、ヒロインが早死にしすぎではないでしょうか?
柏木はヒロインではなく、絶対的権力者の源氏の君の継室女三の宮と不義密通の罪を犯し、罪悪感から病みつき今まさに命が尽きようとしている人物です。
>『源氏物語』は言うまでもない。
>今週末に映画が公開される『南総里見八犬伝』にしても、冒頭で伏姫が自害します。
この後、映画『南総里見八犬伝』、森鴎外の『舞姫』、『三国志』の貂蝉、『金瓶梅』の結末などについて語っていますが、はっきり言って蛇足です。
語りたいなら別記事か自分のnote記事で語って下さい。
・優しき帝は民の気持ちを思う?
>中宮は、閨で帝を心配しています。
寛弘8年(1011年)5月22日。
帝は藤壺の寝所で彰子さまと閨を共にされています。
彰子さまは帝の肩に頬を寄せながら「大分暖かくなりましたが、お上は寒い冬の日も暖かい衣服をお羽織りになりませぬ。火取りも使われませぬ。いつも不思議に思っておりましたが、それは何故でございますか?」と尋ねました。
帝は「苦しい思いをしている民の心に少しでも近づくためだ。民の心を鏡とせねば上には立てぬ」とお答えになりました。
彰子さまが微笑み「お上は太宗皇帝と同じ名君であられます」と帝を褒め、帝は「『百錬鏡』か」と仰います。帝はふとお気付きになり、「中宮は『新楽府』を読んでおるのか」と彰子さまにお尋ねになりました。
彰子さまは「まだ途中でございます」と答えますが、帝は「そのように朕を見てくれていたとは気づかなかった」とお喜びになります。
帝は夜具に彰子さまをそっと横たえ、お抱きになろうとしました。
しかし帝は心の臓の辺りを押さえ呻き声をお上げになり、その場に崩れそうになられます。
「お上!」と心配する彰子さまに、帝は「いつもの事だ」と仰います。
後日。
道長卿が帝の御前を去ろうとすると、御簾の内側では帝が苦しげに咳込まれています。
彰子さまに「お上、こちらをお飲みください」と促されて帝が薬湯をお飲みになっていました。
そして彰子さまは「帝が亡くなられる事などあるまいの。帝を失うかも知れないと思うと怖い」とまひろさんに不安を打ち明けます。
彰子さまは「側にいて帝の顔色が時々悪く、息遣いが苦しそうである」と気付いていました。
帝が「大事ない」と仰り、薬師にも相談していなかったとの事です。
彰子さまは「お上に何かあったら此度の事は私のせい」と自分を責めます。
まひろさんは「その様な事をお考えになってはなりませぬ。今日はお加減もよろしい様です。きっと回復されましょう」と彰子さまを励ましました。
>どんなに寒くても薄着なのだとか。
>冷えは万病のもとですから気になりますが、聞けば帝は「民の思いを味わいたい」のだとか。
彰子さまに「お上は寒い冬の日も暖かい衣服をお羽織りになりませぬ。火取りも使われませぬ。いつも不思議に思っておりましたが、それは何故でございますか?」と尋ねられ、帝は「苦しい思いをしている民の心に少しでも近づくためだ。」と仰っています。
「味わいたい」とは仰っていません。
>そして申し訳ありません、先週のレビューにて『貞観政要』だと書いてしまいました。
>新楽府も『貞観政要』も「貞観の治」と称される唐太宗の政治を礼賛していますので、混同してしまい大変失礼しました。
第39回でも書きましたが誤りの箇所に訂正が入った様です。
ところで『新楽府』「百錬鏡」についての補足説明は無いのでしょうか。
彰子さまがまひろさんと読んでいたのは『貞観政要』ではなく、白居易の『新楽府』二十二「百錬鏡」です。
唐の太宗の治世の政治のあり方を『貞観の治』といい、太宗自身の言行と、宰相たちとの政策上の問答を記録した『貞観政要』は、その後の各王朝でも参照されました。
『貞観政要』には『新楽府』「百錬鏡」と同じ詩が入っています。
藤壺では、まひろさんによる彰子さまへの『新楽府』の御進講が行われていました。
『新楽府』は唐代の詩人白居易の著作『白氏文集』に収録された諷諭詩50篇であり、貴族たちにとって重要な教養とされていました。
『紫式部日記「日本紀の御局」』によると、御進講も初めは人目を避けて行なっていました。
やがて道長卿や一条帝も知るところとなり、道長卿は漢籍を能書家に書かせて奉献させています。
これを踏まえ、彰子さまが『高者、未だ必しも賢ならず、下者、未だ必しも愚ならず』という『澗底松』の一節を聞き、帝と同じ学問を知りたいとまひろさんに『新楽府』の御進講を頼んだエピソード。寝所で彰子さまが「お上は太宗皇帝と同じ名君であられます」と言った事で帝が「中宮は『新楽府』を読んでおるのか」とお気付きになったというエピソードになったのではないでしょうか。
また第39回レビューで『>中国のように史書編纂をしていない日本の場合、』と何見氏は言っていますが、何故紫式部は『日本紀の御局』と揶揄されるに至ったのでしょうか。
古事記と日本書紀は日本最古の歴史書で、神話を含め日本の建国から初期の天皇の時代までを記録しています。
天武天皇の命で古事記は712年太安万侶により、日本書紀は720年に舎人親王により編纂されました。
>以前も指摘しましたが、この頃の貴族にとっては現在のお屠蘇が最高級の薬です。
>現代の感覚からすればハーブドリンク程度のものですね。
>それでも当時からすれば神秘の妙薬です。
屠蘇とは屠蘇散(とそさん)と呼ばれる数種類の生薬を配合し、日本酒や味醂に漬け込んだ正月に飲む特別な酒の事です。
唐代の中国の災難厄除けの儀式が日本に入り、宮中では、元日から三日間御薬を天皇に献じ、一献は屠蘇、二献は白散(白朮、桔梗、細辛を調合して温酒で飲む)、三献は度嶂散(麻黄、山椒、白朮、桔梗、細辛、乾薑、防風、肉桂を調合したもの)を供しました。
『光る君へ』作中でも、元日の『御薬の儀』て屠蘇が帝に献じられていました。
40回作中で彰子さまが帝に飲ませた薬湯は酒ではありませんし、正月でもありません。(帝のお加減が悪化したのは5月)
>東洋医学は、とにかく“冷え”を警戒しますので、まず帝が薄着という時点で注意が必要でしょう。
>きっと健康マニアの実資は厚着をしていることでしょうね。
>天下を担う帝ですから、まずは自身の体を労らねばなりません。
一条帝は民に対しても思いやりをお忘れにならない天皇で、寒い日には「日本国の人民の寒かるらむに、吾、かくて暖かにてたのしく寝たるが不憫なれば(国民皆が寒い思いをしているのに、自分だけぬくぬくと寝るのは忍びない)」とあえて薄着をしたという逸話があります。
作中帝が「苦しい思いをしている民の心に少しでも近づくためだ。」と仰っていたのはこの逸話を踏まえたものと思われます。
何故ここで『健康マニアの実資は厚着をしている』という根拠の無い話が出るのでしょうか。
・帝は崩御の“卦”が出る?
>道長も帝の具合を心配していました。
>では薬師を呼ぶのか?
しかし、帝の病状は日に日に悪化の一途を辿っている様で、道長卿は何かを思案する様に日記に記しています。
寛弘8年(1011年) 5月25日。
道長卿は大江匡衡公に帝の容態を占わせました。
匡衡公は「一六天上水 ニ七虚空火 三八森林木 四九土中金 五鬼欲界土」と占っていきます。
そして並んだ算木を見せて「世が代わると出ましてございます」と結果を伝えます。
続けて匡衡公は「豊の明夷、豊卦は不快。恐れながら、崩御の卦が出ております」と言いました。病に伏せていらっしゃる帝は、御帳台の帳をわずかにお開けになります。
そして、二人の会話をお聞きになってしまいました。
道長卿は「ご寿命の事など聞いておらぬ」と言い、匡衡公は「それは重々承知しておりましたが、この卦も出てしまいました以上、お伝えせねばと存じまして」と答えます。
道長卿は外に目を遣りながら、「25年にも及ぶご在位故、譲位はあっても良いと思っていたが、まさか崩御とは…」と言います。
匡衡公は、「この卦は醍醐天皇と村上天皇崩御の時と同じ卦にございます。更に今年は三合の厄年で異変の年であり、御病の平癒はならぬかと存じます」と伝えました。
道長卿は「もう良い、分かった」と匡衡公を下がらせました。
帝は再び帳をお閉じになり寝台の上にお座りになるとご自身の運命を受け止めていらっしゃる様でした。
>道長も帝の具合を心配していました。
「帝を失うかも知れないと思うと怖い」とまひろさんに不安を打ち明ける彰子さまを励ますまひろさんとは逆に、道長卿は「お上は尋常ではあらせられない。すこぶる重く病みなされた」と日記に記述しているのですが、解説は無しでしょうか。
『御堂関白記』寛弘8年(1011年)5月23日条には、『主上(一条天皇)は、この何日か、尋常ではいらっしゃらなかった。今、頗(すこぶ)る重く病みなされた。そこで内裏(だいり)に参上した。』とあります。
>では薬師を呼ぶのか?
>というと、そうではなく、なんと赤染衛門の夫である大江匡衡から占いの結果を聞いています。
(中略)
>匡衡によると、今回の占い結果は醍醐帝と村上帝が崩御した時と同じようで、さらに今年は三合の厄年だと念押ししています。
>結論、もう快癒の見込みなしとのことです。
『御堂関白記』寛弘8年(1011年)5月25日条には、『内裏(だいり)から退出した。土御門第の法華三十講の結願であった。講が終わって、また内裏に参った。女方(にょうぼう/源倫子)も同行した。(大江)匡衡朝臣(あそん)を召して、易占(えきせん)を奉仕させた。』とあります。
『権記』 寛弘8年(1011年) 5月27日条には、匡衡公の易筮(えきぜい=筮竹(ぜいちく)を用いた易占い)の内容を行成卿が記述しています。(下記引用)
これを踏まえ、作中の「世が代わると出ましてございます」「豊の明夷、豊卦は不快」「崩御の卦が出ております」という結果が出た描写になっているのだと思います。
また『権記』には『延喜・天暦』とあり、醍醐天皇の治世『延喜』と村上天皇の治世『天暦』の事を指します。
この時代は摂関を置かず天皇自らが主導する「親政(しんせい)」の時代でした。
これは作中の「この卦は醍醐天皇と村上天皇崩御の時と同じ卦にございます」という台詞に対応しています。
『三合の年』とは陰陽道でいう厄年の一つで、暦の上で一年に大歳・太陰・客気の三神が合する事です。これを大凶とし、この年は天災、兵乱などが多いのだそうです。(出典 精選版 日本国語大辞典)
道長卿は帝の崩御を覚悟し号泣し、その様子を帝は御几帳の綻びからご覧になっていたのだそうです。
>そもそも、臣下が勝手に「そろそろ御譲位もありか?」などと言ってしまうのがおかしい。
寛和2年(986年)道長卿の父・藤原兼家卿の策謀により花山帝が退位・出家し、兼家卿の外孫・一条帝が即位する政変が起こりました。(寛和の変)
第10回では、兼家卿が息子たちを差配し、花山帝を退位・出家させる様子が描かれました。
『大鏡』には、道兼が言葉巧みに花山天皇を宮中から連れ出す様子や、出家後にだまされたと知った花山天皇が悲嘆に暮れる様子が記されています。
>そんな道長と比べたら、藤原実資のほうがはるかに清廉潔白で立派、気骨がある政治家でしょう。
>科挙のある宋ならば、実資のような秀才タイプこそが大政治家になっていたはずです。
摂関政治は娘を后として入内させ、産まれた皇子の外戚として後ろ盾になり、幼少や病弱な天皇が即位した際には摂政や関白あるいは内覧という要職に就きその補佐に当たる事もありました。
清廉潔白でどんな時も自分の意見を的確に述べる言わば良心の様な藤原実資卿ですが、残念ながら実資卿には后がねにする娘がおらず、小野宮流が頂点に立ち、政を取り回す事は難しいでしょう。
宋の『文治政治』を引き合いに出したかったのでしょうけど、ここで日本では採用されなかった科挙を引用しても平安日本とは政治形態が違うと思います。
・左大臣の仰せのままに?
>陣定が開かれ、道長は「譲位の備えを始める」と宣言しました。
道長卿は陣定で公卿たちの意見を聞くため、「ご譲位の備えを始めたいと思うが如何か?」と切り出しました。
藤原実資卿が「帝はまだお若い、お加減が少し悪かったからと言って、ご譲位に備えるとは何事か!」と反対し、藤原顕光卿は「帝がご譲位をお望みなのか?」と尋ねます。
道長はそれを否定しながらも、「既にご在位25年で東宮様の御年も…」と言いかけます。
実資卿はこれにも「考えられぬ!」と声を張り上げました。
東宮傅である道綱卿は、「東宮様と離れられるのは嬉しいけどな〜」と1人笑顔を浮かべています。
道長卿は「実資殿のお考えは分かった。何か意見はあるか?」と一同に問い掛けました。
源俊賢卿が「左大臣さまの仰せのままに」と言い、藤原斉信卿は「ご譲位もよろしいかと」と答ます。
藤原公任卿は俊賢卿と同じく「仰せのままに」と答えました。
しかし、藤原行成卿だけが無言のままでした。
竹三条宮では、敦康親王が藤原隆家卿に一条帝の具合を尋ねています。
隆家卿は「朝廷を挙げてご快癒を祈っているので、ご案じ召されないように」と答えます。
しかし敦康親王は「私はこの先どうなるのであろう」と将来に不安を覚えていました。
ききょうさんは「皇后さまがお産みになった第一の皇子さまが東宮になられるは古くからの倣い。亡き皇后・定子さまのお忘れ形見・敦康様以外のお方を帝がお選びになる事なぞありえませぬ」と言います。
隆家卿は眉を顰め、ききょうさんを「先走るでない」と窘めます。
藤壺では彰子さまの実子・敦成親王が乳母の宰相の君と毬で遊んでいました。
そこへまひろさんがやって来ました。
敦成親王を見てまひろさんは、道長卿の「中宮さまと敦成親王さまを、よろしく頼む。敦成親王さまは、次の東宮となられるお方故」という言葉を思い出しました。
まひろさんはそこへやって来た宮の宣旨に、「次の東宮は敦康さまでございましょうか?」と小声で尋ねます。
宮の宣旨は「控えよ!」と窘めながらも「我々が考えるのも畏れ多いが、まあ敦康さまであろう。第一の皇子におわす故」とこっそりと打ち明け、「そんな事より帝の御平癒を祈るように」と言って去って行きました。
まひろさんは幼い敦成親王の姿に目を遣りました。
道長卿は四納言を土御門邸に呼びました。
藤原公任卿が「今宵、我らが呼ばれたのは、敦成親王様を次の東宮にする話か」と尋ねます。
道長卿は「そうだ」と答え、「易筮(えきぜい)によれば今後帝がご政務に戻られる事はない」と打ち明けました。
藤原斉信卿が「易筮が出た事を言えばよかったのに」と言い、道長卿は「まずは皆がどう思っておるか知る事が大事だと思ったのだ」と答えます。
藤原行成卿は「次の東宮は第一の皇子であるべきと考えますが…」と意見を述べます。
しかし源俊賢卿は後見が中関白家出身の隆家卿である事を気にし「罪を得た家の子だ」と反論します。
行成卿は「強引な事をやって恨みを買えば、敦成さまにも道長さまにも何が起きるか分かりません」と懸念しています。
斉信卿は「今宵この話を聞いた以上、俺は敦成さまを推す」と意見を述べました。
公任卿は「実資さまと隆家は我らが説得いたそう」と言い、俊賢卿が「お任せを」と言います。
そして斉信卿が行成卿に「お前は無理せずともよいから俊賢に任せておけ」と声を掛けます。
四納言は道長卿の部屋を退出し、渡殿へ差し掛かりました。
公任卿は「恐らく崩御の卦も出ておるのであろう」と言い、行成卿は「言霊を憚って道長さまは仰せにならなかったのだと存じます」と答えます。
それを聞いた斉信卿が公任卿に、「お前、言ってしまったじゃないか今」と指摘し、公任卿は「いけない、いけない」と口元を袖で隠しながら言います。
それまで庭先を見ていた俊賢卿が「崩御なら話は一気に進みます。それもやむなしか」と述べ、1人先に去っていきました。
次いで他の3人も帰って行きました。
星が瞬く夜の事でした。
清涼殿の寝所で帝は儚い星明かりに照らされる様にご自身の手を見つめていらっしゃいました。
>陣定が開かれ、道長は「譲位の備えを始める」と宣言しました。
>まだ若いのに何事か!と正面切って反対するのは実資。
道長卿は陣定で「ご譲位の備えを始めたいと思うが如何か?」と切り出し、公卿たちの意見を聞こうと問いかけています。
これに対し実資卿は「帝はまだお若い、お加減が少し悪かったからと言って、ご譲位に備えるとは何事か!」と反対します。
>敦成の東宮計画のために集められたのだと三人は察知。
>行成だけが辛そうに、第一の皇子であるべきだと訴えます。
藤原公任卿が「今宵、我らが呼ばれたのは、敦成親王様を次の東宮にする話か」と尋ね、道長卿は「易筮(えきぜい)によれば今後帝がご政務に戻られる事はない」と打ち明けます。
藤原斉信卿が「易筮が出た事を言えばよかったのに」と言い、道長卿は「まずは皆がどう思っておるか知る事が大事だと思ったのだ」と答えます。
その後、行成卿は「次の東宮は第一の皇子であるべきと考えますが…」と意見を述べます。
何見氏は都合の良いところだけを切り取ったり説明を省きすぎるのではないでしょうか。
>その上で「行成は何もせずともよい」とまで言われるのです。
斉信卿は行成卿に「お前は無理せずともよいから俊賢に任せておけ」と声を掛けています。『何もせずともよい』とは言っていません
・妍子は銅鏡しか求めていない?
>帝が道長を呼び出し、譲位するから東宮(居貞親王)に話したいと告げます。
寛弘8年(1011年)5月27日。
帝は道長卿を清涼殿にお呼びになりました。
帝はやつれたご様子で御座所に座ると御前に座す道長卿に「朕は譲位すると決めた」と仰いました。
そして、帝は声を出すのも辛そうなご様子で、「東宮と会って話がしたい」と仰いました。
道長卿が「帝が東宮さまとお会いになりたいと仰せでございます」と伝えると、居貞親王は表向きは心配しつつも嬉しさが滲み出た声で「帝はそれほどお悪いのか?して、それはいつだ?」と尋ねます。
道長卿は「只今陰陽寮に諮っております」と答えます。
居貞親王は「分かった。私は明日でもよい。それはないか」と仰り、道長卿は「近々でございます」と答えました。
居貞親王は、「妍子の顔でも見て帰れ」と道長卿に勧めました。
妍子さまは鏡を手に道具の品定めをしていました。
笑顔で「これが気に入った」と言った後、「これも良いな」と目移りし、傍らの女房に「お目が高い事。さすがでございます」と煽てられています。
妍子さまは全てが気に入った様で、「これら皆買い上げよ」と女房たちに命じていました。
その様子を見ていた道長卿は「東宮の蓄えとて潤沢ではない。その事を少しはお考え下さいませ」と妍子さまを窘めました。
しかし妍子さまは「母上がそういうものは土御門が引き受ける故、好きにして良いと仰せになりました」と道長卿に反論します。
なおも道長卿は「土御門の財にも限りがございます」と苦言を呈します。
しかし、「つまらぬ事しか申されぬのならお帰りください」と妍子さまは耳を貸そうとしません。
道長卿は「東宮さまはいずれ帝となられる。帝の后として相応しいお方になられる様、お願い申し上げます」と言います。
妍子さまは「父上の御為に我慢して年寄りの后になったのです。これ以上我慢はできませぬ」とけんもほろろです。
妍子さまが「あ〜あ…どうせなら敦明さまがようごさいました」と言い出し、これには道長卿も驚き「あ…あつ…」と言い淀んでしまいました。
>帝が道長を呼び出し、譲位するから東宮(居貞親王)に話したいと告げます。
>今度は「いつ会うのか」と急かすように聞き返します。
>陰陽寮に調べさせてからと説明すると、「明日でもよい」と相変わらずグイグイ来る東宮。
>それは無理でも近々だと道長は答えます。
『御堂関白記』寛弘8年(1011年)5月27日条には『(一条)天皇は、私を遣わして、東宮(居貞親王)と御対面なされるということをお伝えになられた。これは御譲位に関する事であろうか。東宮が内裏(だいり)に参られる際の御室礼(しつらい)について、すぐに承って奉仕させた。』とあります。
また、『御堂関白記』 寛弘8年(1011年) 6月8日 条には、『蔵人所に陰陽師などを召し出し、御譲位の日を勘申させたところ「十三日午時」となった。次いで、東宮に陰陽師を召し出し、入内するべき日時を勘申させた。』とあります。
>姉である彰子が「三鏡の教え」を理解していることと比較してしまいます。
>彰子は知性を磨き、政治を理解する鏡になりました。
>しかし妍子は、銅鏡に映る見た目しか気にしていない。
『唐の太宗は名高い揚州の銅鏡ではなく、人の心を鏡として政治を行った』
中宮彰子さまは白居易の『新楽府「百錬鏡」』をまひろさんから学びました。
為政者に対して、『人の心』を鏡にして政治を行うように戒める内容で、『三鏡の教え』としても知られます。
一つ目の鏡は『銅の鏡』で鏡に自分を映し、元気で明るく楽しい顔をしているかと確認する事。
ニつ目の鏡は『過去の鏡』で過去の出来事しか将来を予想する教材がないので歴史を学ぶ事。
三つ目の鏡は『人の鏡』で部下の厳しい直言や諫言を受け入れる事。
彰子さまは読んでいないと思われますが、太宗自身の言行と宰相たちとの政策上の問答を記録した『貞観政要』にも『三鏡の教え』は採用されました。
妍子様の場合、土御門の財を頼みに銅の鏡を多数買い求め派手好みの生活はしても、父・道長卿の諌める言葉に将来の帝の后として聞き耳を立てる事はまだまだ難しい様です。
>そして、宋の商人は朱仁聡の後も続々やってきて、こうした高級品を売りつけていることがわかる。
>この状況を平安貴族はどうしたのか?
>というと、結局、何も対策しないまま有耶無耶になってゆき、この先、平清盛が日宋貿易で力を蓄えてしまうのですね。
>誰を東宮にするか、ネチネチ考えているより、他にもっとやりようはある。
『他にもっとやりようはある』
どの様なやり様があるのか具体的に提示して下さい。
私的な商取引を博多限定で暗黙に認めていて、宋との国交も安定した状態で何を対策するのでしょうか。
平氏が力を蓄えない様に宋との国交を遮断しろとでも言うのでしょうか。
現状、病に倒れられた一条帝が東宮・居貞親王に譲位されるご意思を固められた状態であり、次の東宮に誰を推すかは急務だと思います。
元々宋との貿易は商人の私的な交易に依るもので、朝廷は貴重な唐物を入手するルートを失いたくなかったため、私的な商取引も暗黙に認め博多津のみでの交易を許可しています。
朱仁聡さんの商船が漂流し越前に停泊した後帰国して以来、海を渡ってきた宋の商船は筑紫の鴻臚館に滞在して貿易していると思われます。
平安時代中期には唐物使に代わって大宰府の役人が管轄し、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された唐物を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入する仕組みなのでしょう。
11世紀には鴻臚館での貿易は衰退していき、寛治5年(1091年)に宋商人・李居簡が鴻臚館で写経した記述を最後に文献上から消えていきました。
この日宋貿易に着目したのが平清盛公の父・忠盛公で、平氏が力を持つには、日宋貿易によって資金力を得ることが重要だと考えました。
忠盛公は鳥羽院からの命令と称し日宋貿易の権限を大宰府から奪い、博多での利益を独占しました。
朝廷内で権力を増した平清盛公は日宋貿易をさらに発展させ、京に近い瀬戸内海に面した「大輪田泊」を整備し拠点にしました。
『光る君へ』の時代、1011年頃には伊勢平氏の祖・平維衡公が藤原道長卿に仕えています。
>そしてこの場面には、実資なら「ありえん!」と怒髪衝天しそうな要素も潜んでいます。
>宋の商人は薬を持ち込んでいないのでしょうか>高値で売れる商材ですから、用意されていてもおかしくはありません。
>もしも道長が帝の体調を気遣っているのであれば、そこを聞き出そうとしてもよいはず。
>健康マニアの実資なら、自分自身のためにも薬の在庫を尋ねていたことでしょう。
『健康マニアの実資なら、自分自身のためにも薬の在庫を尋ねていた』
実資卿のその様な逸話や出典があるなら具体的に出典許を挙げて下さい。
『小右記』 長和3年(1014年) 6月25日 条には『眼を患って九州で治療している按察納言(藤原隆家卿)の使いが鎮西(九州)から来た。小児(実資卿の娘・千古)の病を治す生虫の薬を持って来た。』とあります。
いくら実資卿が度々貴重な薬を買い求めていたとしても居貞親王の後宮にいるはずもなく、あくまでも実資卿の私的な購入です。
公の医療施設として典薬寮(てんやくりょう=宮中の医薬をつかさどった役所)があり、帝の体調や薬について管理しているものと思います。
・帝は敦康親王を東宮にしたかった?
>譲位を決めた帝は、行成を呼び出し、ただひとつやり残したことがあると告げます
譲位を決めた帝は敦康親王を次の東宮にとお考えでした。
寛弘8年(1011年)5月27日。
藤原行成卿をお呼びになり、「病に伏し、譲位も決まり、最早己のために望むものは何もない」と仰います。
そして、「ただ一つ…敦康を東宮に…そなたから左大臣を説得してほしいのだ」とお頼みになります。
行成卿は「敦康親王さまをお慈しみになるお上の気持ち、真にごもっとも、この行成感じ入りましてございます」と答えました。
「ならば…」と仰りかけた帝のお言葉は行成卿によって否定されてしまいます。
先例や歴史に詳しい行成卿は「お考え下さいませ」と清和天皇の事例を引用します。
「清和天皇は文徳天皇の第四の皇子でしたが東宮になりました。それは外戚の藤原良房公が朝廷の重臣であった故にございます。左大臣さまは重臣にして敦成親王さまの外戚。敦成親王さまが東宮になられる道しかございませぬ」と帝を説得しようとします。
帝は「朕は敦康を望んでおる!」と強い口調になられるも咳き込んでしまわれます。
行成卿は「恐れながら、天の定めは人智の及ばざるものにございます。敦康親王さまを東宮とする事、左大臣さまは承知なさるまいと思われます」と訴えました。
そして「なにとぞ…」と頭を下げました。
信頼する行成卿に説得され、帝は暫くお考えになった後、「分かった…下がれ…」と絞り出す様にお答えになりました。
帝のお言葉を受け、行成卿は下がって行きました。
行成卿が下がって行くのを帝は御簾越しにご覧になっていました。
そして帝は苦渋の決断に涙を流し頭を抱えていらっしゃいました。
帝の御前を下がった行成卿は道長卿の直廬に行き、「お上が只今敦成親王さまを東宮にと仰せになりました」と報告しました。
目を閉じその言葉を聞いた道長卿は「なんと!またしてもお前に救われたか…!」と行成の肩に手を置きます。
そして、道長卿は「行成あっての私である!」と行成卿に感謝し、2人は微笑み合います。
行成卿は帝と道長卿の間で板挟みになり、道長卿が去ると複雑な表情を浮かべため息をつきました。
>しかし行成はあまりに責任感が強いのです。
>しかも『権記』という日記があるため、彼の場面はドラマでも再現しやすい。
『『権記』という日記があるため』
行成卿が次期東宮を敦成親王とする様、清和天皇の事例を挙げ「清和天皇は文徳天皇の第四の皇子でしたが東宮になりました。それは外戚の藤原良房公が朝廷の重臣であった故にございます。左大臣さまは重臣にして敦成親王さまの外戚。敦成親王さまが東宮になられる道しかございませぬ」と一条帝を説得する場面の出典を具体的に挙げて下さい。
『権記』寛弘8年(1011年)5月27日条には、『(一条)天皇から召しが有った。御前に伺候した。おっしゃって云(い)ったことには、「譲位するということは、決定がすでに行われた。一親王(いちのみこ/敦康親王)については、如何(いかが)すべきであろうか」と。(中略)今、左大臣(藤原道長)はまた、現在の重臣外戚、その人であります。外孫である第二皇子(敦成親王)を定めて儲宮(もうけのみや)としようと思われるのは、最も当然のことです。今、聖上(一条天皇)は、正嫡であることによって第一皇子(敦康親王)を儲宮としようと思われたとしても、丞相(藤原道長)は未だ必ずしもすぐには承引しません。現に御病悩されたならば、時代はたちまち変事が、もしかしたら嗷々(ごうごう)とするでしょう。』とあります。
・中宮は「左大臣の仰せのままに」とはならない?
>藤壺でこのことを聞かされた中宮は、なぜ一言もなく東宮を敦成にしたのか!と怒りを炸裂。
道長卿は中宮彰子さまに帝のご譲位と敦成親王が東宮になる事を伝えに藤壺に向かいました。
この驚天動地の決定に、彰子さまは道長卿に「何故私にひと言もなく、次の東宮を敦成とお決めになりましたのか?」と尋ね、道長卿は「帝の仰せでございます」と答えます。
彰子さまは「病でお気持ちが弱っておいでの帝を、父上が追い詰めたのですね」と声を荒げましたが、道長卿は「帝のお考えでございます」と繰り返すばかりです。
彰子さまが「信じられぬ。帝は敦康さまを次の東宮にと私にも仰せであった。お心が変わるはずがない」と言うと道長卿は「お怒りの訳がわからない。敦成さまは中宮さまの第一の皇子」と言います。
彰子さまは「敦成はまだ4歳、今東宮にせずともその先があります」と怒気を含めて語ります。
彰子さまは「それに私は敦成の母でもありますが、敦康さまの母でもあるのです。敦康さまをご元服の日まで育てたのは私でございます。2人の皇子の母である私に何の相談もなく、次なる東宮を敦成とお決めになるなぞとんでもなき事!」と涙を浮かべ憤ります。
さらに彰子さまは「父上はどこまで私を軽んじておいでなのですか!」と父を追及しますが、道長卿は無言のままです。
彰子さまは「帝にお考えを変えていただきます」と翻意を促すため席を立ち出て行こうとしますが、道長卿が彰子さまを片手で制します。
その様子をまひろさんが見守ります。
道長卿は立ち上がり、彰子さまに「政を行うは私であり、中宮さまではございませぬ」と冷たく言い放ちます。
そして道長卿は一礼し、藤壺を出て行きました。
まひろさんは彰子さまの方に目を配ります。
彰子さまは涙を流し「中宮なぞ何もできぬ、愛しき帝も敦康さまもお守りできぬとは」と自身を責めます。
まひろさんが傍らに寄り添うと彰子さまは「藤式部、何故女は政に関われぬのだ」と言います。
まひろさんは無言で彰子さまに寄り添うしかありませんでした。
道長卿は1人物思いに耽り、まひろさんも藤壺で何か考え事をしていました。
>藤壺でこのことを聞かされた中宮は、なぜ一言もなく東宮を敦成にしたのか!と怒りを炸裂。「何故私にひと言もなく、次の東宮を敦成とお決めになりましたのか?」と彰子さまが尋ねた時は『怒りを炸裂』というよりも静かに道長卿を問い詰める様な口調です。
>彼は変わったのです。
>中宮が皇子の年齢を持ち出すことで、道長の卑劣さが炙り出されます。
寛弘8年(1011年)現在、一条帝は32歳、東宮・居貞親王は36歳です。
一条帝は病に伏せ居貞親王に譲位をする旨を道長卿に語りました。
39回で公任卿が『順当に行ったら次の東宮は敦康さま、その次は敦明さま(現東宮・居貞親王第一皇子)』と言った様に、寛弘7年(1010年)頃までの定石通りの即位順でした。
順当に行っても道長卿の外孫である敦成親王は彰子さまが言った様に僅か4歳です。
定石通りならば、敦成親王の即位は一条帝から数えて4代以降となり、少なくとも20年はかかると思われます。
20年ともなると45歳である道長卿の寿命も怪しく、敦康親王や敦明親王に皇子が生まれる可能性もあるため敦成親王の即位の保証はありません。道長卿は「俺の目の黒いうちに、敦成さまが帝におなり遊ばすお姿を見たい」と、伊周卿が亡くなり帝が病に倒れた今、中関白家が推す敦康親王を継承順位から外す動きに出たのでしょう。
道長卿は四納言を賛同する仲間に引き入れ周囲の公卿を説得し、行成卿は『清和天皇が文徳天皇の第四皇子でありながら外戚の藤原良房公の後ろ盾が強く東宮になった』事例を引用し帝に敦成親王が次期東宮になる事を認めさせました。
彰子さまは道長卿に「何故私にひと言もなく、次の東宮を敦成とお決めになったのか?」と問うています。
相談無しに病で弱られた帝に東宮の決定を迫った強引さに彰子さまは怒っているのです。
>敦成だけでなく、敦康も元服まで守り育て、母だと思ってきた。
>二人の皇子の母であると訴える中宮。
>道長にとって帝の血を引く孫は一人でも、中宮にとって子は三人いるのです
敦康親王は亡き皇后定子さま出生の皇子で彰子さまが母代わりとなり育てた皇子です。
彰子さまの実子は敦成親王と敦良親王です。
道長卿は外孫の敦成親王を東宮にしようとし、彰子さまは「私は敦成の母でもありますが、敦康さまの母でもあるのです」と言っており、敦良親王の事は継承順位に入っていないのではないかと思います。
>「藤式部……何故女は、政に関われぬのだ……」
かつて中宮は無口でした。
>「仰せのままに」と何事も受け止めていたのに、今はこうもはっきりと反論し、食い下がるようになりました。
>ここの嘆きは重大深刻かつ、このチームが一番言いたい核心のように思えます。
道長卿に軽んじられたと知り、「帝に考えを変えていただく」と立ち上がる彰子さまの姿ににかつて「仰せのままに」と受け入れるばかりで宮中で「うつけ」とさえ囁かれた形ばかりの中宮の姿はどこにもありませんでした。
しかし、道長卿は彼女を押し止め「政を行うは私であり、中宮さまではございませぬ」と冷たく言い放ちます。
そこにはかつて入内するにも意思の無い姫君に戸惑う父の姿はありません。
父の膨大な権力を知る彰子さまは引き下がらざるを得ず、『新楽府』を通じて為政者の心得も学んできたのにおなごであるが故に政治的に無力である事を「何故?」とまひろさんに問いかける事しかできませんでした。
道長卿は『御堂関白記』 寛弘8年(1011年) 6月2日条に『中宮に隠避しようとする為に敢えて中宮に伝えなかった』と記述しており、『権記』寛弘8年(1011年)5月27日条には、『後に聞いたところによると、「后宮(きさいのみや/藤原彰子)は、丞相(藤原道長)を怨(うら)み奉(たてまつ)られた」と云(い)うことだ。』とあり、彰子さまが『怨み奉られた』とある程道長卿と意見が対立した事が分かります。
彰子さまがまひろさんに問うた「何故、女は政に関われぬのだ」がいつか『賢后』に繋がるのでしょう。
・道長か 彰子か??
>成長して世に出ると共に、そんな青臭い理想論だけでは生きていけないと、人は本質を忘れ、曲げて生きていくようになります。
>公任は器用に曲がり、実資はなかなか曲げらない。
>本質が柔らかい斉信や道綱は、葛藤そのものがそもそも存在しません。
しかしさらに歳をとり、自分は千年も生きる松ではないと悟ると、一周回ってしまうことがあるもの。
>理想を忘れて名声だの富だの求めて、それでほんとうによいものだろうか?
『公任は器用に曲がり、実資はなかなか曲げらない。』は『曲げられない』ではないでしょうか。
公任卿は藤原北家小野宮流、関白太政大臣・藤原頼忠卿の嫡男です。
父の後出世に恵まれず、風流に生きながらも才知を活かして道長卿の政権の中で生き延びる道を見つけたのではないでしょうか。
実資卿は小野宮流であっても、道長卿や四納言よりも年長で有職故実に精通し「朝廷を尊重しない場合に限り鋭い批判を差入れる事で賢人右府」と称えられ、信頼を得ています。
斉信卿は長徳の変以来左大臣側の側近として抜け目なく出世をし中宮大夫。
道綱卿は東宮傅として東宮居貞親王に仕え、娘の宰相の君は藤壺の女房で敦成親王の乳母となりました。
他にも早くに親類を亡くし後ろ盾が無いため左大臣家寄りながら『本意ではなくとも成すべきは成す』ために敬愛する帝のご意思との板挟みになる行成卿や政争に負け父は流刑になり、お家の再興のために左大臣側に付く源俊賢卿などがいます。
『源氏物語』の柏木の様に、不器用で不義を犯して『松の様に千年生きられない』と刹那を生き罪悪感に苛まれる人もいるでしょう。
皆それぞれのお家や血筋を残すために意思を曲げなければ行けない場合もあり、だからこそ葛藤が生まれるのでしょう。
・譲位 そして践祚(せんそ)へ?
>東宮は帝と対面のため、清涼殿を訪れます。
寛弘8年(1011年)6月2日。
東宮居貞親王は、帝との対面のため清涼殿を訪れました。
黄丹袍(おうにのほう)を纏い、下襲の裾を公卿に持たせた居貞親王が渡ってきました。
居貞親王が「お久しゅうございます、御病の由、心よりご案じ申し上げます」と挨拶を述べると、帝は「朕は譲位する。東宮であるそなたが践祚せよ」と力なくお命じになります。
居貞親王は「仰せ畏まりましてございます。ご退位はまことに残念ながら、この上は良き帝となれるよう、誓って励みます」と答えました。
さらに帝は声を振り絞るように、「東宮は…敦成といたす」とお告げになりました。
居貞親王は「承知つかまつりました。ご病状を拝察し、これにて御免を被ります。どうかくれぐれも玉体をご厭いくださいませ」と淀みなく述べました。
帝は力を使い果たしたかの様に脇息に寄り掛かっていらっしゃいます。
その夜居貞親王は嫡妻・娍子(すけこ)さまに酌をさせながら「敦康を避けて敦成を東宮にするとは、左大臣め抜け目ないな」と言います。
娍子さまは、「左大臣殿とは仲良くなさった方がよろしいのではありませんか?」と居貞親王に尋ね、親王も「そうだな。ようやく私の世になる。公卿らを纏めて私の政を進めるためにも、左大臣を蔑ろにはできぬ」と答える。
居貞親王は「孫の敦成が東宮となれば、道長は早々に譲位を迫ってくるやも知れぬ」と警戒しています。
そして、「しかし言いなりにはならぬ。私は今の帝とは違う故」と言い切りました。
その11日後の寛弘8年(1011年)6月13日。
「一条天皇は譲位し、25年に及ぶ一条朝は幕を閉じた。」と語りが入ります。
三種の神器が一条帝の御座所から居貞親王の許へ移されました。
居貞親王は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を纏い即位して三条帝となりました。
そして敦成親王が東宮となりました。
道長卿は立太子に際して中宮彰子さまと敦成親王に拝謁し祝意の後、「一身を抛ってお仕え致します」と述べました。
彰子さまは道長卿に「東宮さまを力の限りお支えせよ」と命じました。
一方竹三条宮では、東宮になれなかった敦康親王に親王の後見人である藤原隆家卿が「無念でございます」と告げました。
脩子内親王は「これが我らの宿命なのか」と言います。
敦康親王は「致し方ない」と言いますが、ききょうさんは「まだ帝になれないと決まったわけではありませぬ。この先何が起こるかわかりませぬ」とまだ諦めきれない様子です。
隆家卿はそんな彼女を困惑の表情で見つめます。
しかし敦康親王は、「父上の姿を見ていたら、帝という立場のつらさがよく分かった。穏やかに生きて行くのも悪くなかろう」と語ります。
隆家卿が「親王さま、気晴らしに狩りにでも行かれませぬか」と狩りに誘いますが、敦康親王は「殺生はせぬ」と答え隆家卿は思わず笑ってしまいました。
>東宮の後ろには下襲の裾をもつお付きの人もいました。
>こういう再現が見られるところに、大河ドラマの意義があります。
帝との対面のため清涼殿を訪れた東宮・居貞親王は黄丹袍(おうにのほう)を纏い、下襲の裾を公卿に持たせています。
黄丹袍(おうにのほう)は皇太子もしくは皇嗣が儀式の際に着用する束帯装束の袍の事です。
黄丹は梔子(くちなし)と紅花で染めた色で、昇る旭日を象徴し、皇太子(東宮)以外使用する事ができない『禁色』となっています。
風俗考証・佐多芳彦氏によると、『黒い束帯を着た貴族が居貞親王の下襲の裾を持っているのは、威儀を正すためです。鎌倉時代の絵巻物『駒競行幸絵巻(こまくらべぎょうこうえまき)』に、歩いている東宮の後ろで黒い束帯を着た貴族がこのように下襲の裾を持っている様子が描かれた場面があり、これを再現しています。』との事です。
また、『下襲の裾は職によって長さが変わり、天皇が最も長く、身分が下がるに従って短くなります。長い裾をキレイに広げて見せつけ、そして立場のある黒い束帯を着た貴族にそれを持たせて従わせることで、東宮としての威儀を正しています。』とも仰っています。
『御堂関白記』寛弘8年(1011年)6月2日条には、『一条天皇と東宮(居貞親王)の御対面が有った。これは御譲位についてである。巳剋(みのこく/午前9時~午前11時ごろ)に、東宮が渡御された。御対面の儀の際は、清涼殿南廂の御東障子の許に御茵(しとね)一枚を敷いて、東宮がお座りになられた。』とあります。
>そして話し合いから11日後、譲位となり、25年に及ぶ一条朝は幕を閉じたのでした。
寛弘8年(1011年)6月13日。
三種の神器が一条帝の御座所から居貞親王の許へ移され一条帝は譲位し、25年に及ぶ一条朝は幕を閉じました。
三種の神器が一条帝の御座所から居貞親王の許へ移されます。
『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月13日条には、『この日、旧主(一条天皇)は、御病悩が極めて重かった。そこで旧主は、譲位の儀に際しての様々な事を行うことができなかった。私は、旧主の御前に伺候していた。戌剋(いぬのこく/午後7時~午後9時)の頃は、旧主の御病悩は頗(すこぶ)る宜しくいらっしゃった。』とあります。
>三条天皇の御代となり、敦成が東宮となります。
居貞親王は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を纏い即位して三条帝となりました。
居貞親王改め三条帝がお召しになっていたのは黄櫨染御袍です。
天皇が皇室祭儀の恒例臨時を通じて最も多く用いられる御装束です。
櫨(ハゼノキ)の樹皮と蘇芳から染め出される色で桐、竹、鳳凰、麒麟の文様があしらわれています。
真昼の太陽の色を象徴しており、天皇以外には着用できない禁色になっています。
そして敦成親王が東宮となりました。『御堂関白記』寛弘8年(1011年)6月13日条には『東宮(敦成親王)の御在所に参って、慶賀を啓上した。拝礼(はいらい)が有った。皆、靴を着していた。』とあります。
・「君を置きて」?
>一条院は剃髪出家し、読経が響く中、死の床にいます。
寛弘8年(1011年)6月21日。
読経の声が響く中、臨終出家し太上天皇となった一条帝が御帳台に仰臥しています。
帝は意識が遠のく中、声にならないお声でかろうじて歌をお詠みになります。
「露の身の… か…風の宿りに…」
彰子さまが帝の手を握りしめます。
「君を置きて… 塵を出でぬること…」
帝は歌を詠み続け、彰子さまが「お上…」と泣きじゃくります。
彰子さまの涙は止まらず、なおも「お上…お上…お上…」と呼び掛け続けました。
寛弘8年(1011年)6月22日、一条帝は崩御されました。
『辞世の歌を詠じた翌日、一条天皇は崩御した』
と語りが入ります。
行成卿は『権記』に、『辞世に詠まれた帝(太上天皇)の御志は皇后定子に寄せられたものである』(『御志在寄皇后但』)と記しました。
行成卿の目から一筋の涙が頬を伝いました。
また、道長卿も『御堂関白記』に『巳剋(みのこく)に一条院は崩(萠)じなされた。』と太上天皇崩御の旨を書き綴っていました。
彼の頬にも涙の跡が残っていました。
藤壺では彰子さまや女房たちが帝の喪に服すため鈍色の衣を纏っていました。
>道長は一条院のそばに彰子がいたことも記しています。
>一方、行成は定子の歌を踏まえているとする。
>つまり、今回のタイトルである「君を置きて」の「君」とは、道長の解釈では彰子であり、行成の解釈では定子となります。
寛弘8年(1011年)6月21日。
一条帝は譲位後死の床に就かれ、ただちに出家しました。
一条院は彰子さまに見守られ、意識が遠のく中声にならないお声でかろうじて歌をお詠みになります。
翌日、一条院は静かに崩御なさいました。数え32歳でした。
道長卿と行成卿がそれぞれ日記に一条院の辞世を書き留めます。
この一条院の辞世の歌は文献によって微妙に違う形で伝わっており『君』が誰を指しているのかの解釈が変わります。
行成卿は『権記』に『その御志は、皇后(藤原定子)に寄せられたものである(御志在寄皇后)。但し指して其の意を知り難し』と付記しており、『君』を皇后定子さまと解釈しています。
時代考証・倉本 一宏氏は『行成は日記の中で「中宮」彰子と「皇后」定子を使い分けており、一条が辞世を詠んだ対手を定子と認識しているのである。』と仰っています。
当時、妊娠や産褥で亡くなった女性は成仏できないと考えられていたそうで、行成卿は「第一皇子の敦康親王が東宮になるのが筋」と理を訴えるも実現しなかった事もあり、定子さまへの帝の思いも汲み取りたかったのではないでしょうか。
『御堂関白記』 には『中宮(彰子さま)が御几帳の下におられたので』とあり、『君を置きて』に彰子への思いが刻まれていると道長卿は解釈したのです。
>実際、道長のほうは、聞き間違い、書き間違いの可能性が高いのです。
>なにせ道長は「崩御」の「崩」を「萌」と書いてしまうほどのそそっかしさ。
>その日記には、あんな済ました顔をして、こう書いているのです。
道長卿は『御堂関白記』 寛弘八年(1011年) 六月二十二日条の中で、『巳時「萠」給(巳の刻に崩(萠)御されました)』と記述しています。
『萠』は『萌』の異体字です。
作中の日記では『萠』と書き間違えた部分は再現されず『崩』となっているようです。
因みに『御堂関白記』 寛弘8年(1011年) 6月22日条には『巳時「萠」給(巳の刻(午前9時〜午前11時)に崩(萠)御されました)』とあり、『権記』 寛弘8年(1011年) 6月22日条には『午剋(正午頃)、上皇の気色、絶ゆ。』とあります。
道長卿は、側近くに伺候したいと希望する者が多かったにも関わらす、「朝廷の行事が有る」ということで、公卿の多くを帝の臨終に伺候させなかったそうです。(『御堂関白記』 寛弘八年(1011年) 六月二十二日条)
時代考証・倉本 一宏氏は『死亡時剋を巳剋(午前九時から十一時)と記しているのも、道長自身も最初の臨終の際以降は一条から離れていたためであろう。』と仰っています。
>ちなみにくどいようですが、お隣の中国ではこういうことは起こり得ません。
>科挙を突破した宋代の官僚は優秀です。
>中国の視聴者は、忠実に再現された道長の悪筆に困惑します。
>科挙の答案は悪筆であると減点されるため、悪筆である官僚もまずいないのです。
くどいというよりも何故ここで『お隣の中国では〜』と中華マウントをする必要があるのでしょうか。
『御堂関白記』は悪筆や誤字脱字も含め、公卿の私的な日記が自筆で1000年も残るという事に価値があり、国宝・世界遺産になっているのに、『科挙の答案は悪筆であると減点される』『科挙を突破した宋代の官僚は優秀』とマウントを取っても見当違いです。
>一条院は、定子と同じ土葬を望んでいました。
>しかし火葬にされてしまったのです。
>これも道長がうっかりしていたためとされます。
>ただ忘れていたのか、それとも定子とのつながりを断ち切りたいから無視したのか。
>いずれにせよ外道でしょう。
一条院の火葬の逸話を引用して道長卿を『外道』と晒し上げても歴史は変わりません。
それよりも具体的に出典を提示し解説すべきかと思います。
『権記』 寛弘8年(1011年) 7月8日条には、葬送は七月八日に行なわれ、北山の巌陰(いわかげ)で荼毘に付されました。
公卿たちは無地の喪服を縫ってこれを着し、葬送に奉仕したが、道長卿・斉信卿・隆家卿は素服を着ませんでした。
その理由は、朝廷の政務や儀式があるというものでした。
翌日、7月9日に火葬が終わると、一条院の遺骨は、東山の円成寺に仮安置されます。(『権記』寛弘八年(1011年) 七月九日条)
道長卿は院の生前の意向を思い出しました。
それは「(定子と同じく)土葬して、(北山の)円融院法皇御陵の側に置いて欲しい」というものでした。
「故院(一条院)が御存生の時におっしゃられたところである。何日か、まったく覚えていなかった。ただ今、思い出したのである。ところが、きっと益の無い事で、すでに決まってしまったのである」というのが道長卿が行成卿に語った言葉でした。(『権記』寛弘八年(1011年) 七月二十日条)
>『八重の桜』放映時、「朝敵である会津を美化している」という時代錯誤としか思えない批判を見かけました。
>そういうことならば、ざっとここ十年をみた範囲で『平清盛』『麒麟がくる』『鎌倉殿の13人』『光る君へ』も、改めて考えると十分不敬です。
>遡ればさらに増えますね。
会津藩は蛤御門で長州藩兵と戦い、敵の突破を阻止し、(禁門の変)藩主・松平容保公は会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰」を孝明天皇より賜わりました。
しかし、慶応2年12月に孝明天皇が崩御し、慶応3年10月14日の大政奉還で江戸幕府が消滅します。
慶応3年12月9日には王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生しました。
慶応4年、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発。
桑名藩や旧幕府軍とともに薩長中心の新政府軍と戦い敗北しました。
これより朝廷は会津藩を『朝敵』としました。
会津藩は奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に抵抗しますが会津戦争に敗北して降伏しました。
『八重の桜』が『朝敵である会津を美化』していたかは分かりませんが、何見氏の事なので『薩長がー』『長州の陰謀がー』となるのは目に見えています。
さらに『八重の桜』を悪し様に言われた事を恨み、『他の大河ドラマも不敬だ!遡ったらまだあるぞ!』と喚き立てて私怨を撒き散らすのは大河ドラマレビューとして如何かと思います。
一見現代では不敬に見えるものもその時代の政治形態のうねりであったり、世間の動きであったりを踏まえて解説するのが歴史ライターではありませんか。
>紫式部が道長の「妾」とされる根拠として、『紫式部日記』にある道長のセクハラ短歌があります。
>「あんな物語を書いているなら好きモノなんでしょ、エロいんでしょ〜」
>「一晩中戸を叩いていたのになんで開けないのぉ〜」
>こういうゲスな歌です。
>道長は和泉式部にも「おぬしもエロいのぉ〜」とセクハラをかましております。
何見氏は往々にしておじさん構文という名のセクハラ発言を自らアフィリエイトブログで垂れ流しますが、『紫式部日記』の出典先をせめて提示して解説して下さい。
源氏物語を書いていた紫式部に対して、道長卿は梅の実の下に敷かれていた懐紙に「お前は好色者と評判がたっているので、見た者は口説かないでいられないと思うだろう」と紫式部を誂う和歌を書きます。(すきものと 名にし立てれば 見る人の をらで過ぐるは あらじとぞ思ふ)
その和歌に対して、「誰にも口説かれた事がないのに、誰が私の事を好色者だと言いふらしたのでしょうか?心外です」と紫式部は返歌を詠んでいます。(人にまだ をられぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ)
また紫式部が宮仕えをしていた頃、夜更けに彼女の局の戸を叩く人物がいました。
紫式部は警戒して戸を開ける事はありませんでしたが、翌日藤原道長から歌が届き、(夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ 真木の戸口に たゝきわびつる)紫式部も返歌しています。(たゞならじ とばかりたゝく 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし)
ある人が扇を持っているのを見て、道長卿が「誰の扇だ?」と問うと「あの方のです」と和泉式部から貰ったものだと話します。
すると道長卿はその扇を取り上げ、『浮かれ女の扇(浮気な女の扇)』とイタズラ書きをしました。
それを知った和泉式部は、『越えもせむ 越さずもあらむ 逢坂の 関守ならぬ 人な咎(とが)めそ (和泉式部集225)(男と女の逢瀬の関を越える者もいれば、越えない者だっている。恋の道は人それぞれなのに、何の関係もない貴方に咎められる覚えはありません)』と歌を詠みました。
・双寿丸、賢子と乙丸を救う?
>そのころ、都では散楽一座が芸を披露していました。
街では民たちが散楽一座の芸に熱中していました。
虫の垂れ衣付きの市女笠を被り街を歩く賢子さんのお供をしていた乙丸が野菜と瓜を交換しています。
その時、乙丸を突き飛ばして何者かがその瓜を奪っていきました。
逃げる盗人を賢子さんが追いかけ瓜を取り返そうとします。
しかし、路地裏に賢子さんの笠が落ちているのを見た男たちの1人が下卑た笑いを浮かべ、賢子さんを羽交い絞めにし乱暴しようとします。
そこへ青い衣の男が現れて賢子さんに乱暴しようとした男たちを投げ飛ばしました。
そして盗人から瓜を取り返して賢子さんに渡します。
路地裏に遅れてやって来た乙丸が2人を見ました。
青い衣の男は乙丸を背負い、瓜を手にした賢子さんと並んで歩きながら「俺は双寿丸だ」と自己紹介しました。
賢子さんが「腕っぷしが強いのね」と言うと双寿丸は「お前も気が強いんだな」と笑います。
背負われた乙丸が「姫様にお前などと!」と抗議し、双寿丸の頭にげんこつを落とします。
そんな乙丸に賢子さんは「乙丸、背負って頂いている方になんという事を…」と窘めます。
双寿丸は乙丸をわざと脅かすような仕草をして、賢子を笑わせました。
賢子さんたちが邸に戻りました。
いとさんが乙丸が双寿丸に背負われているのを見て驚き、きぬさんが夫を心配しています。
賢子さんは「物盗りに遭ったところを助けて貰ったの」と言い、いとさんは双寿丸を訝しげに見ます。
賢子さんは双寿丸に「お礼にご馳走するわ。この人がいなければ、命がなかったかも知れない」といとさんに言います。
双寿丸は邸内に通され食事を振舞われましたが、賢子さんが双寿丸といる事にいとさんは眉を顰めます。
双寿丸は「こんなにゆっくり飯が食えるなんて」と食事を楽しんでいます。
賢子さんが「どんな暮らしをしているの?」と尋ねると双寿丸は「俺は平為賢さまんところの武者だ下っ端の下っ端で、男ばかりでもたもたしていたら、食いっぱぐれる事もある」と答えました。
そこにいとさんが「たんと召し上がって、姫様の事は今日限りお忘れくださいませ」と口を挟みます。
さらにいとさんは「姫さまのおじいさまは越後守であらせれます。
あなたさまとは釣り合いませぬ故」とまで言います。
双寿丸は「この人何言ってるの?」と訝り、賢子さんは「いと、失礼よ」といとさんに注意し、「ま、いいけど」と2人は笑います。
そこに里下がりしたまひろさんが帰って来ました。
まひろさんの目に、邸に上がり食事をする見知らぬ男の姿が飛び込んできました。
双寿丸が「誰?」と尋ね、賢子さんが目を見張り、いとさんは気まずそうにしています。
事情を知らないまひろさんが「あなたこそ、誰なの?」と問います。
>青年は手慣れていて、格闘の心得があるとわかる。
では当時の格闘技はどんなものだったのか?
というと、これがよくわかりません。
相撲も当初は“蹴り”が禁止されていません。
日本における相撲の記録の最古は『古事記』の建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方神(タケミナカタ)の争いと言われています。
タケミナカタが、「然欲爲力競」と言いタケミカヅチの腕を掴んで投げようとすると逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまいました。
『日本書紀』には紀元前23年(垂仁天皇7年)野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が天皇の前で力比べをします。
「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、蹴り技の応酬で最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速を踏み付け腰骨を踏み折り絶命させたとされます。
宿禰・蹴速は相撲の始祖として祀られました。
奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになり、相撲は年中行事・神事となっていきます。実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として武士の下で広まり、戦国時代になると織田信長公などの大名が熱心に相撲人の養成に力を注ぎました。江戸時代、相撲が興行化して民衆一般に広がり勧進相撲や見世物となり、現代に近いルールが作られていきます。
>『鎌倉殿の13人』のトウも、華麗な格闘術を披露していましたね。
『鎌倉殿の13人』のトウちゃんを演じた山本千尋さんは幼少から中国武術を習い数々の世界大会で優勝した経験があり、持ち前の身体能力を生かして多くの作品でアクションシーンを演じています。
・ここで質問「双寿丸はイケメンですか?」?
>現代人ならば「イケメンでしょ!」と答える方が多いと思います。
>私も賛成です。
>しかし、いととまひろの顔を見ると、そうは思っていないように感じます。
>健康的に日焼けしていて、髪はボサボサで、ガツガツと食事する。
>思ったことをズケズケという。
>もうイケメンどころか「なんだこの野蛮人……」と警戒しているのでしょう。
何を以てイケメンとするのか、イケメンと誰が判断するのか、双寿丸は時代背景的にイケメンなのかが非常に曖昧なのですが。
双寿丸は藤原隆家卿と親交があり、後に肥前伊佐氏、薩摩平氏の祖となる平為賢公配下の武者です。
平安時代の武士は天皇や皇族、貴族の側近くに仕え主人の用向きを伺い、朝廷の実務や警護、紛争の鎮圧にあたりました。
9世紀後半から10世紀前半には豪族や有力農民が賜姓皇族(しせいこうぞく:皇族が臣下の籍に降りて姓を与えられた身分)や国司の任期を終えても地方に残った貴族の子孫などを棟梁に仰ぎ武士団となっていきました。
賢子さんは従五位下越後守である為時公の孫であり、貴族に侍る武士のそのまた下っ端である双寿丸は身分が釣り合わないといとさんは判断したのでしょう。
まひろさんの実家は父・為時公が越後守として単身赴任し、弟・惟規さまが亡くなったばかりです。
まひろさんは宮仕えのために内裏に居り、実質いとさんや乙丸夫妻など使用人が姫さまである賢子さんと守る家になっています。
里下がりをしてきたまひろさんがたまたま目にしたのは見知らぬ男が邸に上がり食事をして娘と親しく話し込む姿です。
自分が来ても名乗りもしない若い男を見たら「誰?」となっても不思議ではないでしょう。
>『鎌倉殿の13人』では、木曽義昌が都でさんざんバカにされていました。
>彼だっていい男でしたよね。
>それでも野蛮人扱いだったものです。
何見氏の言う鎌倉時代の木曽氏は木曽義仲公の嫡男・木曽義高公でしょう。
木曽義昌公は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で信濃国木曾谷の領主木曾氏の第18代当主です。
木曽義高公の家は清和源氏義賢流木曽氏、木曽義昌公の家は藤原流木曽氏です。
大河ドラマ『真田丸』では元々有力国衆だった義昌公は主君・武田勝頼公を見限り織田家に味方し、信濃国衆の妻子を人質に取りました。
真田家も例外ではなく真田兄弟は家族の奪還に向かいます。
因みに義昌公は真田丸作中、真田家のゴッドマザーことおとりおばばさまに「大恩ある武田家を裏切りおって」とビンタされた人でもあります。
・MVP:一条天皇?
>現代人でも真面目な人からすると、「君」が複数いて、どちらかわからない時点で、ものすごく大変なことのように思えるはずです。
一条帝の辞世は『君』が定子さまだと解釈した行成卿(彼の帝に対する思いも含め)、彰子さまであってほしいと願う道長卿(敦成親王の東宮擁立や誤字脱字や火葬の件はあれども)と聞いた人によって様々な解釈がなされました。
『君=定子さまを想い続けられた帝のお心』の解釈はききょうさんの様に今も一筋であり続ける人の拠り所になるのかもしれません。
何見氏の様に人の異なる意見を一切受け入れず、他人を見下す叩き棒にする人には分からないかもしれませんが。
・鹿を指して馬と為す?
>鹿を指して馬と為す――とは『光る君へ』でまひろも語っていた言葉です。
>誰かに媚びるため、目の前の鹿を馬だと言い張る。
>要するに忖度ですね。
秦の始皇帝の死後。
悪臣の趙高が自分の権威を試そうと二世皇帝・胡亥に鹿を献上しましたが、趙高はその鹿を「馬だ」と言って押し通しました。
しかし、周りは皆が趙高を恐れていたので「それは鹿だ」と異を唱えた者はおらず、「鹿です」と言った者は処刑されました。
忖度しない、できない側ではなく、権力によって無理矢理押し通す趙高の様な者やそれに同調する者は『馬鹿』だと言っているのです。
>なぜ、こんなことを書いているか?というと、昨日、大河ドラマの後にNHKスペシャル『ジャニー喜多川 “アイドル帝国”の実像』が放送されたからです。
>大河ドラマともむろん関係が大いにあります。
(中略)
>こういう仲間意識、まさに鹿を指して馬だと言い張るような忖度が、大河ドラマまで腐らせたのではないか――
>あの番組を見て改めて感じたものです。
>私自身は昨年、鹿を見せられても「これは馬です」とは言いませんでした。
>それで正解だったのだと確認できた意味でも、昨晩のNHKスペシャルは意義のある番組だったと思います。
結局、学生時代の『縁の地巡りをしたかったのに!ジャニーズ巡りをしたいとか宣ったジャニファンに小馬鹿にされた!奴らは新選組巡りなんて「キモっw」と思われて小馬鹿にするに違いない!ジャニーズとファンは不快!』というつまらない私怨が払拭できず、根拠があるかどうかも定かでないもう誰も言及しない情報に踊らされ「鹿を馬と言え!じゃないと罵ってやる!」と喚き散らしているだけでしょう。
元ジャニーズ事務所の俳優主演のドラマは侮辱していいと自分の意見に賛同しないファンダムは汚い言葉で罵倒していいと自分だけ気持ち良くなっているだけではないですか。
何見氏の言う『鹿を「馬と言え!」』に賛同して「はい馬です」と言えるほど視聴者も馬鹿ではないと思います
※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
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