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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第31回

8月中旬になりました。お盆休み明けになりましたが、皆様健やかにお過ごしでしょうか。
地震や台風による災害や熱中症アラートが発令されるなどする季節なので、皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第31回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>道長が自ら足を運んで『カササギ語り』を書いてくれと頼んでも、燃えちゃったからもう無理と塩対応。
>「別の物語を書いてくれ」と頼んでも、できるかどうかわからんとダブル塩対応。
>ややこしい!
>しかし越前紙は取りに行く大胆不敵さがイイ!
何見氏は作家ならば『作品を書け』と言われたら依頼主の意向を聞いたりプロットやモチーフを打ち合わせる事もなく、スラスラと案が何でも出てきて簡単に請け負ってくれると思っているのでしょうか。
越前紙はまひろさんが取りに行ったのではなく、道長卿が石山寺でのまひろさんの願いを覚えていて届けたのですが。
藤原公任卿の邸宅・四条宮で女房たちに和歌を教えていたまひろさんは『カササギ語り』という物語を書き、話題となっていました。
しかし、物語は焼失してしまいました。
再度執筆に取り組むも発想が浮かばず庭に出たまひろさんの許に藤原道長卿が訪ねてきました。

『光る君へ』より

道長卿は、入内したものの一条帝に相手にされず、寂しく暮らしている中宮・藤原彰子さまを慰める物語を書いてほしいとまひろさんに頼み込みます。
「カササギ語り」が焼失し、まひろさんは「役に立ちたいけれどそうやすやすと 新しい物語は書けない」と断ります。
まひろさんは『枕草子』を熟読し、弟の惟規さまに悩みを打ち明け、「自分らしい物語を書けばいい」という結論に至り、道長卿に執筆を承諾する旨の文を書きます。
そしてまひろさんはふさわしい紙を道長卿に依頼します。
「越前には美しい紙がある。私もいつか、あんな美しい紙に歌や物語を書いてみたい、と申したであろう」と石山寺でのまひろさんの願いを覚えていた道長卿は越前紙の束を届けさせました。

『光る君へ』より

さらにまひろさんは『中宮様をお慰めする物語』という依頼の裏にある『枕草子に囚われ、亡き皇后さま(定子)から解き放たれぬ帝の気持ちを娘の彰子に向けさせるための物語』という政治的意図を汲み取り、『源氏物語』の執筆を始めました。

>突然、まひろの邸へやってきた道長。
寛弘元年(1004年)。
『カササギ語り』が焼失した翌日、藤原道長卿がまひろさんの邸宅を訪れます。
まひろさんは突然訪ねてきた道長卿を屋敷に招き入れました。
百舌彦さんが人払いのために乙丸を連れて下がります。
道長卿が「為時殿と娘御はいないのか?」と尋ねると、まひろさんは「外に出かけております」と答えます。
そしてまひろさんは「土御門殿で父がお世話になっております。」と礼を言い、「ご聡明な頼通さまの事、いつも父が感心しております」と道長卿の嫡男・頼通卿を褒めました。
道長卿は「四条宮で和歌を教えているようだな」と言い、「なぜ知っているの…?」とまひろさんが驚き尋ねます。
道長卿は「公任から聞いた」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・道長はまひろの物語を読みたい?

>道長の目的は『カササギ語り』でした。
道長卿は『カササギ語り』が評判である事を伝え、まひろさんに「『カササギ語り』を俺にも読ませてくれないか」と切り出します。
まひろさんは「そのためにわざわざ、そのようなお姿で来られたのですか」と訝しげです。
道長卿は「『枕草子』よりずっと面白いと聞いたゆえ。」と言い、まひろさんは「どうでしょう…」と答えます。
道長卿は「物語が面白ければ写して中宮に献上したい」と言います。
まひろさんは「『カササギ語り』は燃えてしまってもうないのでございます。燭を倒してしまい残らず…」と伝えました。
「その話は偽りであろう」と疑う道長卿にまひろさんは床の焦げ跡を見せながら「偽りではない、床に炎の跡もございます」と言い、道長卿は「すまぬ、疑った事は許せ」と詫びます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>『カササギ語り』を燃えてしまった真の理由は、賢子がそうしたからで、まひろはその説明を省いています。
文脈的に『『カササギ語り』を燃えてしまった真の理由』ではなく『『カササギ語り』が燃えてしまった真の理由』ではないでしょうか。
また『賢子がそうしたから』では賢子さんが何をしたのか他人に具体的に伝わりません。
賢子さんが母に遊んでもらいたい、構ってもらいたい余りそれを阻害する物語の草稿に火を付けたため『カササギ語り』が燃えてしまった事はあくまで家族間の問題であり、他人である道長卿に全て打ち明ける必要もなく、まひろさんは『カササギ語りが焼失した』という事実だけを伝えたのではないでしょうか。

>一方の道長にしても隠し事があり、まひろは不信感を抱いている。
>これがもしあかねだったら、このような展開にはならないでしょう。
>愛する誰かが、身をやつしてまで会いに来たら、目を潤ませて抱きついてきそうなところです。
>ききょうも、ここまでややこしくないはず。
>最愛の相手が来たのに、なぜ疑うのか――と、そこはもうまひろの性格ですね。
和泉式部は為尊親王・敦道親王から求愛され、敦道親王に至っては人目も憚らず召人として嫡妻も住まう邸に住まわせ様とするなどし、嫡妻は邸宅を出ていっています。
本作でも親王はあかねさんに執心し、代作の歌を「別の男に懸想しているのでは」と疑い、結果まひろさんに話す事でお互いの愛を確かめる事になりました。
まひろさんは、あかねさん(和泉式部)の様に人目も憚らず道ならぬ恋を謳歌できる性格でも無く、「あかねさまのように思いのままに生きてみたかった…」と言っています。
まひろさんに至っては6年間二人きりの逢瀬も無く、使いを寄越したり文が届くわけでもなく突然質素な狩衣姿の左大臣・藤原道長卿が百舌彦さんだけを連れお忍びで訪ねてくるのだから、突然何事かと訝しがるのもおかしくないと思います。

『光る君へ』より

>夫である宣孝に対しても嘘をついたら見抜いて灰をぶつけたものです。
宣孝公がまひろさんが贈った文を他人にひけらかしたために喧嘩をし、さらに惟規さまが宣孝公が清水の市で若い女に絹の反物を買っていた姿を目撃した事で許す許さないの文の応酬になりました。
久々に夫婦があった際には若い女と会っていた清水の市で買った反物をまひろさんに贈ったために言い合いになり、宣孝公が「おまえの、そういうかわいげのないところに、左大臣様も嫌気が差したのではないか。分かるな~」と煽ったため怒ったまひろさんが灰をぶつけました。
嘘をついたからではありません。

・臥竜を目覚めさせるには誠意がいる?

>まひろよりずっと素直な道長は、疑ったことを謝ります。
焦げ跡を見た道長卿はまひろさんに詫びました。
まひろさんは「無念で夕べは眠れなかった」と言います。
道長卿が「それをもう一度思い出して書けないか」と尋ねましたが、まひろさんは「そういう気持ちにはなれません。燃えたという事は残すほどのものではなかったと思いますので」と答えます。
道長卿は「ならば中宮さまのために新しい物語を書いてくれぬか」と改めて依頼します。
さらに「帝のお渡りもお召しもなく、寂しく暮らしておられる中宮様をお慰めしたいのだ」と言います。
これを聞いてまひろさんは驚いた表情になります。
道長卿は「政のために入内させたとはいえ、親として捨て置けぬ」と言います。
まひろさんは「道長さまの役には立ちたいと思う」と言いながらも「そうやすやすと新しいものは書けぬ」と言います。
道長卿は「おまえには才がある。やろうと思えばできるはず」と言います。
まひろさんは「買いかぶりです」と否定しますが、道長卿は「俺に力を貸してくれ」と重ねて懇願しました。
そして道長卿は立ち上がり、「また参る。どうか考えてみてくれ」と言い、百舌彦さんを伴い去っていきました。
そこに為時公と賢子さんが戻ってきました。
まひろさんが声をかけると楽しげだった表情が消えていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>無念で昨夜は眠れなかった。
>そうこぼすまひろに対し「思い出して書けないか?」と願う道長ですが、そんな気持ちになれないそうで……
>うーん、わがままでめんどくさい奴だな。
>自分の父親には「土御門で家庭教師をして家計をどうにかして!」と言っておきながら、自分自身は道長の依頼に怒涛の塩対応。
>見ていてイライラした方もいらっしゃるかもしれません。
為時公の場合は自身は散位し無職となりましたが、道長卿が彼の学者としての漢籍知識を買い嫡子・頼通卿の指南役に指名しますが、一旦断ろうとします。
しかし、使用人を含め家族の生活がかかるため指南役を請けてほしいとまひろさんが説得して職を得ました。
そしてまひろさん自身も藤原公任卿の妻・敏子さまに乞われて四条宮で和歌の指南を始めます。
その傍らまひろさんは『カササギ語り』の執筆を始め、それは四条宮の女房たちの間で評判になりますが、草稿は焼失してしまいました。
為時公の心遣いで改めて物語を書く時間はできましたが、それまで書いたものを全て失いまひろさんの中で喪失感が大きく、「思い出して書いてくれ」と頼まれても前の様に気乗りせず簡単に創作できるわけでもなく、「そういう気持ちにはなれません。燃えたという事は残すほどのものではなかったと思いますので」と割り切り一旦断るのが精一杯だったのではないでしょうか。
それをまひろさんの気持ちを考えず『わがままでめんどくさい奴』『塩対応』『見ていてイライラ』と自分のお気持ちだけを押し付けるのは如何かと思います。
ましてや見ていてイライラしているのは何見氏なのに『見ていてイライラした方もいらっしゃるかもしれません。』と他人に責任転嫁するのもどうかと思います。
ライターとして、長期間かけて作った作品や書き溜めていたものが一瞬にして消え去ってしまった時の『思い出して書いても違うものになっている』喪失感や徒労感を味わった事がないのでしょうか。

>あれだけお願いをされて、まひろはどう思うのか?
>孔明臥龍――『蒙求』から、そう思い出しているかもしれません。
『蒙求』から諸葛亮の三顧の礼を引き合いに出して権力者がアポ無し訪問で頼めば簡単に事が運ぶと思っていませんか。
まひろさんは諸葛亮の様な世にでない軍師ではなく、和歌の指南の傍ら文筆活動をする元受領の娘です。
何見氏は頼みを断ったら『何の実績もない若造がこんなに頼んでいるのに塩対応とか面倒なやつ』と思っているのでしょうか。
まひろさんに限らず、人にものを頼むのはそう簡単ではないと思います。
ましてや作品を政の道具にされる可能性があるなら慎重にならざるを得ないでしょう。

・公任、出仕を辞める?

>寛弘元年(1004年)、ちょっとした事件が起こります。
寛弘元年(1004年)、秋。
中宮大夫・藤原斉信卿が従二位に叙され、ひとつ年上の藤原公任卿を追い抜いての出世でした。
官位を抜かれた公任卿は出仕をやめ、昼間から酒を飲み書を読む暮らしをしていました。
妻の敏子さまが、「斉信さまが訪れました」と伝え「通せ」と言う公任卿でしたが、「若き日によく来ていたから案内などなくてもよい」と案内を伴わず斉信卿が現れました。
「忙しいのではないのか」と問う公任卿に、斉信卿は「いつまで拗ねておるのだ」と言います。
公任卿は「和歌や漢詩を学び直しておった。本来の道に戻ろうと思うておるだけだ」と答えます。
公任卿は「政で一番になれないのなら、こちらで一番に」と考えていました。
斉信卿は「道長は中宮大夫を務めて従二位となった。俺もたまたま中宮大夫だったゆえ位を上げてもらえただけだ」と言いますが、公任卿は「お前を中宮大夫にしたのは道長で、娘の事を託したのだ」と言い酒を注ぎます。
「まあまあ」と斉信卿が公任卿を宥め「内裏にお前がおらぬと調子が出ぬ。出仕してくれ」と頼み込みます。
公任卿が「誰かに頼まれたのか」と尋ねますが、斉信卿は「俺の気持ちだ」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>藤原斉信が従二位となり、一歳年上の藤原公任を追い抜いてしまい、それが不満で公任は出仕を辞めたのです。
>なんと、しょーもない話なのか。
長保6年(1004年)10月。
公任卿の1歳年下で権中納言であった斉信卿が従二位に叙せられます。
貴族は家柄や能力に応じ初位(そい)から一位までの位階(いかい)を与えられ、位に相当する官職に任じられました。

当時の公任卿は正三位中納言、従二位に叙せられた斉信卿は内大臣にもなれる位階になったのです。
ライバルであり友人でもある斉信卿に官位の上で先を越された公任卿はただちに出仕をやめ、寛弘元年(1004年) 12月には中納言左衛門督の辞表を道長卿に提出します。
これは『御堂関白記』寛弘元年(1004年)十二月十五日条に『退出の後、経通朝臣、左衛門督の辞書を持ち来たる。即ち奏せしむ』と記述があります。
7ヶ月の不参を経て、寛弘2年(1005年)7月に従二位に叙せられ公任卿は再び参内します。
何見氏は『しょーもない話』と書いていますが、かつて父が関白まで昇り詰めており公任卿は家格や体面を気にしたのではないでしょうか。

『御堂関白記』寛弘元年(1004年)十二月十五日条

>道長の出世により中宮太夫へ上げてもらっただけだと斉信が語ると、道長はお前に娘を託したということだと公任は言います。
『中宮太夫』ではなく、『中宮大夫(だいぶ)』です。
『中宮職』は律令制下で官司の一つで中務省に属し、中宮に関する文書事務および庶務を取り扱う役所です。
長保元年(999年)、一帝二后が成立以降皇后宮職・皇太后宮職と別に中宮職が置かれました。
長官 (かみ) である『中宮大夫』は四位相当ですが、納言などが兼任しました。
斉信卿は中宮彰子さまの中宮大夫だけではなく、後に彰子さまが産んだ敦成親王(後の後一条天皇)の春宮大夫(とうぐうだいぶ)と道長卿の四女で後一条天皇の中宮となった威子さまの中宮大夫に任ぜられます。
公任卿の言う通り、道長卿は斉信卿を信頼し彰子さまの中宮大夫に指名したのでしょう。

出典 小学館デジタル大辞泉

>内裏にお前がいないと寂しいから、出仕して欲しい――
>斉信がそうストレートにお願いすると、今度は「誰かに頼まれたのか?」と猜疑心を募らせる公任です。
>コイツも、めんどくさい奴だな! 
>ただし、乱世だったら軍師になれるタイプですよね。
斉信卿を中宮大夫に指名し、従二位に昇格させたのは友人でもあり最高権力者の道長卿なので、公任卿は「道長が自分を引き止めるために斉信に頼んだのでは」と思い、「誰かに頼まれたのか?」と訝しがり、斉信卿は「俺の気持ちだ」と自分の意志で四条宮に来た事を強調したのではないでしょうか。
親友同士ではあってもお家の名誉のために出世を競い合う間柄の葛藤を描いているのに「面倒臭い奴だから軍師になれる」とは。
禄に史料に沿った具体的な解説も無く、全くお門違いの持論を長々展開しマウントを取ろうとする方が面倒ではありませんか。

>公任は、打毱のあと、愛情でなく身分で女を妻にすると語り、まひろと視聴者をがっかりさせたことがあります。
>彼には、感情を無視してでも、理論を求めるところがある。
打鞠の試合後の『雨夜の品定め』オマージュの様な場面では、観戦に集った女性たちについて公任卿や斉信卿が語っていました。
公任卿は「女こそ家柄が大事だ」「家柄のいい女は嫡妻にして、あとは好きな女のところに通う」と自らの結婚感を語っています。
これに同意を求められた道長から、否定の言葉が聞こえてこなかった事や彼らがまひろさんの様子を「地味でつまらん」と評した事でまひろさんは傷ついてしまいました。
しかし、公任卿は当時の関白家の嫡男であり、家格に相応しい家柄の女性を嫡妻に迎え、子を成して家を栄えさせなければなりません。
なので、嫡妻以外の身分の低い女性などは妾として通うものという平安時代の慣例を述べたのだと思います。
公任卿の妻・敏子さまは、村上天皇の第五皇子・昭平親王の子女で藤原道兼卿の養女という出自です。

>これが極端になると『鎌倉殿の13人』の三浦義村枠ですね。
>北条時政とその息子たちが源頼朝について挙兵したあと、三浦義澄と義村は援軍に駆けつけようとするも、悪天候で川が荒れていて引き返すしかありません。
(中略)
>義村は別に「義時が死んでもしゃあねえか」とまでは思っていないにせよ、ここで悲しんだって無駄だから、そういう手間を省いていたのでしょうね。
治承4年(1180年)石橋山の戦いの際、頼朝軍と合流するため8月22日に三浦を出た三浦義澄公率いる三浦一族は、23日大雨により増水した丸子川(酒匂川)を渡河できずにいたところ、頼朝軍の敗北を知り、24日に引き返しています。(『吾妻鏡』)
『源平盛衰記』によればその後鎌倉の由比ヶ浜で畠山重忠公の軍勢と合戦となり双方郎党に犠牲が出ています。

『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条

その後本拠の三浦・衣笠城は重忠公に攻められ、『吾妻鏡』によれば89歳の三浦一族の惣領、三浦介義明公が討ち死にしています。
増水した川を無理に渡り頼朝軍に加勢しようとすれば三浦軍の本隊に甚大な被害が出る上、留守にした三浦に引く事も出来なくなるのでお家の存続を考えての退却だと思います。
ちなみに『鎌倉殿』作中では義村公の判断で退却していますが、三浦義村公が初めて史料に登場するのは『吾妻鏡』寿永元年(1182年)8月11日条だそうなので、実際の退却は義澄公の采配だと思います。

・斉信だけでなく、実資まで公任を説得する?

>すると今度は、藤原実資まで公任のもとへやってきました。
公任卿と斉信卿が話しているところに大納言・藤原実資卿がやって来ました。
慌てて背筋を正す公任卿と斉信卿に実資卿は「不思議な眺めでございますな」と言い、2人の側へ座ります。
斉信卿は「私共はもとより仲間でございます」と答えました。
公任卿が実資卿に「何か急ぎの用でも?」と尋ねると、実資卿は「道長殿は中宮大夫を務めて従二位となった。此度も中宮大夫であられた斉信殿が従二位となられただけ。」と言い、斉信卿に「今それ私が申したところでございます」とツッコまれます。
実資卿はまたも「内裏に公任殿がおられぬと調子が出ぬ」と斉信卿と同じ文言を話し、斉信卿に「あっ、それも今私が…」とツッコまれます。
実資卿は「ああ、そう…」と返しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

公任卿は訝しげに「誰かにお頼まれになったのですか?」と尋ねますが、実資卿は「いや、私の気持ちである」と言い、沈黙が流れます。
あまりに物言いが同じなため項垂れつつも公任卿は「会いに行くなら今ですぞ、間もなく学びの会が始まりますゆえ」と実資卿を促し、実資卿は「ではこれにて」と立ち去ります。
実資卿の言動を不思議がる斉信卿。
「実資殿も隅に置けぬのだよ」と公任卿が言い、斉信卿が「えっ、そうなのか?」と驚いています。
ぽくぽくと廊下を歩く実資卿。
実資卿はある女房から誘われ「今日は忙しいゆえ」と言いつつ部屋へと消えて行きました。
その様子を学びの会に来たまひろさんが目撃します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>今回の人事は、道長が中宮太夫からさらに出世したからのものであり、公任の実力不足ではない。 
前述しましたが、『中宮太夫』ではなく『中宮大夫』です。

>「誰かに頼まれたのか?」
>さすがに公任がそう言い、「私の気持ちである」と答えるのですが、これまた斉信と同じなんですね。
>いったい何事なんだ。
実資卿を演じる秋山さんは公式インタビュー動画『君かたり』内で同じ思いから公任卿の許に向かった斉信卿と実資卿について以下のように語っています。 

「やっぱり公任のことはどうしても必要というか、特別に思っているんでしょうね。なので、あそこまでして、照れ臭い感じですけどなんかうまいこと感情を出しすぎないようにしながらも結局は説得しに行ってましたもんね。
(中略)
斉信もそれを言いに来て、だから公任のことは結構みんな必要としているんでしょうね。だって言ってましたもん。『公任殿が内裏にいないと調子が出ぬ』って言っていたんで。なんでしょう、調子が出るために必要な人なんじゃないですか。いますもんね、そういう人ってね。やっぱり公任はいてほしいんでしょうね、みんな」

>ダラダラしていると学びの会が始まってしまうとかなんとか……
公任卿は「会いに行くなら今ですぞ、間もなく学びの会が始まりますゆえ」と実資卿を促しています。

>NHKドラマでは、山本耕史さんと町田啓太さんの使い方が被っているようにも思えます
>お二人とも土方歳三を演じました。
>今後は、近藤正臣さんや成田三樹夫さんのようなキャリアになるのでしょうか。
>お二人ともこれから末長く時代劇でクールなキャリアを重ねていきそうで、素晴らしいことです

『青天を衝け』で描かれる新選組で町田さん演じる土方さんがピックアップされる事が気に入らず『触れられないで一太刀で死んでゆく。池田屋が屋内戦闘ということすら認識していないようなコメント(土方さんは別働隊で池田屋に駆けつける途中で屋外に逃げ出した浪士と交戦している場面)』『殺陣は古臭い、ダサい、もう飽きてしまった……とうんざり』『人が亡くなった事件を、美しさだけで押し通そうとする。それがどれほど無神経なことか』と何でもイチャモンを付けていましたが、忘れた様に今更褒めようとしているのが白々しいです。

『青天を衝け』より
武将ジャパン『青天を衝け』レビュー
武将ジャパン『青天を衝け』レビュー
武将ジャパン『青天を衝け』レビュー

・あかねは『枕草子』にグッと来ない?

>まひろは学びの会に向かう途中であかねを捕まえて『枕草子』の感想を再確認します。
四条宮での学びの会の後、まひろさんはあかねさん(和泉式部)に「『枕草子』をどのように読んだのか聞かせてほしい」と頼みました。
あかねさんは「覚えてないわ」と答え、さらに「覚えてないけど、あまり惹かれなかった」と感想を述べます。
あかねさんは「艶かしさがないもの。『枕草子』は気が利いてはいるけれど、人肌の温もりがないでしょ。だから胸に食い込んでこないのよ。巧みだなぁと思うだけで」ととあっさり言い放ちました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

そしてあかねさんは歌を詠みます。

黒髪の 乱れも知らず うち伏せば まづ搔きやりし 人ぞ恋しき
和泉式部

意訳:
黒髪の乱れにも気づかずに横たわっていると初めてこの髪をかき撫でてくれた人が恋しく思われる。

後拾遺和歌集 恋三 755
『光る君へ』より
『光る君へ』より

あまりの艶っぽさに戸惑いつつ、まひろさんはあかねさんに「あかねさまがお持ちの『枕草子』をお借りできないでしょうか」と頼み、家に持ち帰りました。
かつてまひろさんはききょうさんに、「皇后さまの影の部分も知りたい」と言い、ききょうさんから「影などはない」と否定されました。
帰宅後、あかねさんから借りた『枕草子』の写本を読み進めるまひろさんの脳裏をききょうさんの「華やかなお姿だけを人々の心に残したいのです」という言葉が過ぎりました。
そしてまひろさんは空が白むまで『枕草子』を読み続けました。

『光る君へ』より

>まひろは学びの会に向かう途中であかねを捕まえて
学びの会に向かう途中ではなく、学びの会が終わった後にまひろさんはあかねさんに声を掛けています。

>肌のぬくもりと香りまで漂ってきそうな歌を詠むあかね。
まひろさんに『枕草子』の感想を尋ねられたあかねさんが『艶かしさがない』『人肌のぬくもりが足りない』と答え、詠んだ歌は
黒髪の 乱れも知らず うち伏せば まづ搔きやりし 人ぞ恋しき』
というものでした。
黒髪が乱れるのも構わずうち伏せているところにその黒髪を掻き撫でてくれたあの人のことが忘れられないという愛する人との事後を思わせる扇情的な一首です。
『後拾遺和歌集』恋三755入集の他、『和泉式部集』にも「恋」の題で詠まれた19首のうちの一首となっています。
この和歌は与謝野晶子の歌集『みだれ髪』にもタイトルモチーフとして活かされたのだそうです。
与謝野晶子は『紫式部日記』『和泉式部日記』を現代語訳しています。

因みに『鎌倉殿の13人』では亀の前さんが和泉式部の歌を北条政子さんに解説しています。(知識マウント?)

『鎌倉殿の13人』
『鎌倉殿の13人』
『鎌倉殿の13人』
『鎌倉殿の13人』

>ここで、まひろが熱心に読んでいる『枕草子』は、根本先生が書いております。
>右肩上がりの溌剌とした書体です。
書道指導の根本先生曰く、清少納言の書は現存しておらず、ききょうさん直筆の『枕草子』はスタッフ相談の上ききょうさんを演じるファーストサマーウイカさんの癖などを反映した書風を作り、吹き替え無しで御本人が書いていたのだそうです。(完成品は根本先生の清書)
まひろさんがあかねさんから借りた『枕草子』の写本は『誰でもない書』という発注で根本先生がお書きになったそうです。

『光る君へ』より

・道長は妻たちの心を見つめていない?

>道長が彰子のところへ行くと、彰子は瓢箪に顔を描いていました。
彰子さまの住まう藤壺を訪れた道長卿は、彰子さまが瓢箪に顔を描いているのを見かけ、「中宮さま」と声を掛けます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

「だいぶん寒くなりましたな」と彰子さまの側に座りますが、そこに敦康親王の姿はありません。「敦康親王さまは?」と道長卿が尋ねると彰子さまは「笛のお稽古にいらしております」と答えます。
道長卿が「ご不便はございませぬか?」と尋ねると、彰子さまは「父上と母上は、どうかなさったのでございますか」と両親の仲が拗れている事を察したのか心配する様に尋ね返しました。
道長卿は驚きますが「ご心配いただくような事ではございません」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

土御門殿に戻った道長卿を倫子さまが出迎えましたが、道長卿は妻と特に話す事もなく奥へと引っ込んでしまいました。
高松殿では、寝所で明子さまが倫子さまの子・頼通卿が元服時に正五位下に叙された事を指摘します。
「私の子の巌と苔も間もなく元服です」という明子さまに道長卿は「月日が経つのも早い」といいますが、明子さまは「我が子にも頼通さまに負けない地位をお与えくださいませ」と我が子への官位を求めます。
明子さまは「私は醍醐天皇の孫。北の方様は宇多天皇の御曾孫。北の方様と私はただの嫡妻と妾とは違う事、殿とてお分かりでございましょう」とさらに畳み掛けてきます。
しかし道長卿は、「土御門の家には世話になった。土御門殿には財もある。それがどれだけ私を後押ししてくれたか分からぬ。」と倫子さま始め土御門殿への恩義を感じていました。 
明子さまは体を起こし、面白くなさそうに「私には血筋以外何もないと仰せなのでごさいますか?」と尋ねます。  
道長卿は「それが全てではないと言うたのだ。内裏で子供同士が競い合うことも止めたい。明子が争う姿を見せれば、子供たちもそういう気持ちになってしまう。気を付けよ」と明子さまを諭します。  
しかし明子さまはそっぽを向いてしまいました。
道長卿は帰宅しようと装束に手を伸ばし、明子さまはそれを止めようとします。
道長卿は「放せ。また参る故」と高松殿を出て行きました。
「以来道長は土御門殿にも高松殿にも帰らず、内裏に泊まることが多くなった。」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>明子は土御門の頼通、つまりは倫子の子が従五位で元服したと聞いて悔しがっているようで、明子の産んだ巌君と苔君もそろそろ元服だと言い出します。
道長卿には倫子さまと明子さま二人の妻がいます。
作中で明子さまが言うように倫子さまは宇多源氏の血を引く曾孫、明子さまは醍醐源氏の血を引く孫でありどちらもいい血筋の家柄です。
しかし、左大臣源雅信卿の娘として土御門殿他財産を継いだ倫子さまに対し、安和の変で失脚した源高明卿の娘明子さまは財力を失っており、女院・藤原詮子さまの後ろ盾により道長卿と結婚しています。
長保2年(1000年)彰子さま立后の際、土御門殿より入内した事を理由として倫子さまは従二位に叙され、嫡男・頼通卿は元服後に正五位下に叙せられます。 
頼通卿他、嫡妻である倫子さま所生の男子は明子さま所生の巖君(頼宗卿)・苔君(能信卿)らよりも高い地位に就き優遇されました。

>ちなみに来年大河の予習でも。
>江戸城大奥では、将軍が同衾する際には、そばに監視役がつきます。
>ここでの明子のように、閨でおねだりをされると支障があるためです。
高松殿は明子さまと子供たちの住む個人宅であり、江戸城大奥の様な公的な政が絡む空間ではありません。
比較するなら後宮の女御や更衣の居る局ではないでしょうか。
道長卿は内裏で自分の子供同士が競い合わない様に明子さまに嫡妻と争う姿を見せてはいけないと諭しています。

>道長が内裏に泊まるということは、一人で眠るのかというとそうとも限りません。
>女房と同衾しても、特に数のうちにも入らないだけ。
>そうした女房は「召人」(めしうど)と呼ばれます。
>まひろが内裏にあがったら、そういう手段もできるということです。
道長卿が内裏に泊まり込み働いていた事が『御堂関白記』に『候宿す』という言葉で記されています。

摂関期古記録データベース
『御堂関白記』 長保二年(1000年) 正月三日条
『御堂関白記』 長保二年(1000年) 正月十日条
『御堂関白記』 寛弘元年(1004年) 正月十三日 条

『召人』とは平安時代、貴族に仕えてその貴族の御寝に侍したことのある女房の事です。(出典:精選版 日本国語大辞典)
和泉式部は敦道親王(帥宮)から求愛され、召人として邸に住みました。『源氏物語』第二十四帖「胡蝶」では、玉鬘に求婚している兵部卿宮(源氏の弟)について、『独身だが大層浮気っぽく、お通いになる女性が多いと言うことですし、召人など情を交わした女も数多くいるようだ』と『召人』が出てきます。

『源氏物語』第二十四帖「胡蝶」

さて、紫式部ですが、寛弘2年(1006年)に召し出され、中宮・彰子さまに女房として仕えています。
女房とは宮中や貴族など奥向きの女官もしくは女性使用人の事で中宮に仕える女房は「宮の女房」と呼ばれ主人に対する家庭教師や秘書の役割も果たしました。
女房の中には主人の元に通う殿方と関係を持つ人もいたかもしれませんが、あくまで主人は彰子さまであり、如何にも召人にしてヤりたい放題の様に言うのは如何かと思います。

・ややこしい、暗い、鬱陶しい姉上?

>まひろは実家に戻った弟の藤原惟規に、“自分らしさとは何か”と尋ねています。
夜、まひろさんは弟・惟規さまと酒を酌み交わしながら語り合っています。
まひろさんは惟規さまに「惟規。惟規の自分らしさって何だと思う?」と尋ねました。
「はあ?」と怪訝な顔をする惟規さまにまひろさんは「答えてよ」と言います。
惟規さまは「やなことがあっても、すぐに忘れて生きてるところかな」と言い、まひろさんも頷きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

さらにまひろさんは「じゃあ私らしさって何?」と尋ねます。
「えー…難しいな」と言う惟規さまに、まひろさんは、「うん、私って難しいと思う」と答えます。 
「そういう意味じゃない」と惟規さまが言い、まひろさんは「もっと色々言ってくれ」と惟規さまに求めます。
まひろさんは「人と話していると、色々分かることがあるから」と言い、惟規さまは「そういう事をグダグダ考えるところが姉上らしいよ。そういうややこしいところ、根が暗くて鬱陶しいところ」とずばり意見を言います。
『根が暗くて鬱陶しい』と指摘され、まひろさんは何処か吹っ切れた様子です。 
「自分で訊いたんだから怒るなよ」と言う惟規さまを置いて、まひろさんはその場を立ち去ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>だいたい“人と話してわかることがある”ってなんなんでしょう。
>まひろは自己完結型なのだけれども、外部のフィードバックも時折必要とする。
>そのとき忖度してズバズバ言わない相手だと、キャッチボールにならないからあまり役に立たない。
他人の異なる意見をヘイトだ差別だと全く聞き耳を持たず、上から目線で馬鹿にしたり汚い言葉で相手を傷つけているのに一方的に持論だけを押し付けて『絶縁された!』と憤っている人には分からないと思います。

>中国史ですと、「諫議大夫」という専門職があったほどです。
『諫議大夫(かんぎだいふ)』とは中国の官名の一つで天子の誤りを諌め、国家の利害得失などについて忠告する役職です。
まひろさんは『私らしさとは何か?』を模索しており、客観的で飾らない率直な言葉で伝えてくれる惟規さまに意見を求めたのであって、過ちを糾弾される事はこの場では求めていないと思います。

・書くからには、紙をください?

>内裏で道長が文を見ると、まひろからでした。内裏の直廬(じきろ)で道長卿は文机の上の書状を見ようとして、ひとつだけ宛名がない文を見つけました。
それはまひろさんからの文で、こう記されていました。

中宮様をお慰めするための物語、書いてみようと存じます。
ついては、相応しい紙を賜りたく、お願い申し上げます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

早速、道長卿と百舌彦さんがまひろさんの邸宅に出向きました。
百舌彦さんが物語を書くための紙の束を屋敷に運び込みます。
家中の者たちが見守る中、道長卿は包みを一締め開封してまひろさんに渡しました。
「お前が好んだ越前の紙だ。私もいつかあんな美しい紙に歌や物語を書いてみたいと申したであろう」
石山寺での逢瀬でまひろさんが宋語で話した事を道長卿は覚えていました。
「まことによい紙を」と、まひろさんは高級な越前紙を届けてくれた道長卿に礼を述べ、「中宮彰子さまを慰められる様に、精一杯面白いものを書きたい」と道長に語りました。
道長は「俺の願いを初めて聞いてくれたな」と嬉しそうですが、まひろさんは「まだ書き始めてもいない」と言い笑います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

福丸さんはいとさんに、「さっきのが左大臣さまか?」と尋ね、いとさんは「そうよ」と答えます。
「左大臣さまがこんなところ来るんだ…」と福丸さんは驚いており、いとさんは「来るのよ」と答えます。
福丸さんが「すごいなこの家…」と言うといとさんは得意げに「すごいのよ」と言います。
まひろさんは墨を擦り、物語を書き始めました。まひろさんは文字をしたため、紙の手触り・質感を味わっていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>「洛陽の紙価を高める」という言葉があります。
>まひろならば知っているでしょう。

洛陽の紙価を高める

意味:
著書の売れ行きが良いさま。
晋の左思(さし)の著した『三都賦(さんとのふ)』が好評を博し、これを書き写す者が多く現れたため、首都の洛陽では当時貴重であった紙の価格が高騰したという故事から。
『洛陽の紙価を高からしむ』『洛陽の紙価貴し』ともいう

出典:『晋書』巻92・列伝第62・文苑伝

>ここで「紙を大量によこせ!」と迫るまひろは、現代ならばさしずめ最高級ラップトップかタブレットあたりを、執筆用に寄越せと交渉しているようなものでしょう。
>紙は消耗品ですから、サブスクの方が近いかもしれませんね。
まひろさんは文で『中宮さまをお慰めするための物語、書いてみようと存じます。ついては、相応しい紙を賜りたく、お願い申し上げます。』と伝えており、彰子さまを慰めるための物語を書くために多くの紙がいる事は承知しているでしょう。しかし、どんな紙でも良いわけではなく『中宮さまに献上するに相応しい紙を賜りたい』と依頼しており、「紙を大量によこせ!」と言っている訳ではありません。 
サブスク(=サブスクリプション)は一定期間一定額でサービスや商品が利用できるサービスの事ですが、最高級ラップトップ・タブレット含め、登場人物が高級な越前紙に込めた思い入れや情緒を無視した例えになってしまうのでしょうか。

『光る君へ』25回より
『光る君へ』25回より

まひろさんは為時公について越前に赴いた際、越前の紙作りの現場を見て美しい紙に魅了されていました。
道長卿は石山寺での逢瀬の際にまひろさんが『越前には美しい紙がある。私もいつかあんな美しい紙に歌や物語を書いてみたい』と話していた事を覚えていて、まひろさんの依頼に対しその思いに応える様に高級な越前紙を取り寄せわざわざ自ら届けたのでしょう。
因みに時代考証を担当されている倉本一宏先生によると、『源氏物語』全五十四帖で94万3135文字だそうで、これを記すためには617枚の料紙が必要になるのだそうです。

『紫式部と藤原道長』講談社現代新書

https://read.amazon.com/kp/kshare?amazonDeviceType=A2CLFWBIMVSE9N&asin=B0CHRM7H47&id=hv5g3hpm2fhzpgrb7n4wyb73wa

『光る君へ』27回より

かつて六条の廃院でまひろさんに『俺の願い』を伝えても「北の方になれない」と断られ報われなかった道長卿が、物語の執筆という『俺の願い』をはじめて聞いてくれたと報われる場面でもあります。

『光る君へ』11回より

・道長を疑うまひろ?

>物語ができあがり、道長がまひろの前で読んでいます。
出来上がった物語に道長卿が目を通しまひろさんが柱にもたれかかりそれを待っています。
一通り読むと道長卿は「よいではないか」とまひろさんに言います。
まひろさんが「どこがでございますか」と尋ねると、道長卿は「え…ああ、飽きずに楽しく読めた」と答えます。
しかしまひろさんは、「楽しいだけでございますよね。真にこれで中宮様をお慰めできるのでしょうか」と満足がいかない表情です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

「書き上がったから俺を呼んだのだろう」と、訝し気に尋ねる道長卿。
しかし、まひろさんは「お笑いくださる道長さまを拝見していて、なにか違う気がいたしました。」と答えます。 
道長卿は「これで十分面白い、明るくてよい」と言います。
しかし、まひろさんは彰子さまも物語をそう思ってくれるかという点を懸念していました。
それを聞いて道長卿は言葉に詰まりました。 
まひろさんは「中宮さまと申し上げるとお目が虚ろになります」と嘘を見抜き、「もしや道長さま、偽りを仰せでございますか?」と尋ねます。
まひろさんが「正直なお方」と言うと、道長卿は「お前にはかなわぬな…」と呟き、まひろさんは「やはり…」と納得します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は「実はこれは帝に献上したいと思うておった。」真相を語り始めました。
驚くまひろさんに道長卿は「『枕草子』に囚われるあまり、亡き皇后様から解き放たれぬ帝に、『枕草子』を超える書物を献上し、こちらにお目を向けていただきたかったのだ」という狙いを語りました。
道長卿は「それを申せばお前は、私を政の道具にするのか!と怒ったであろう?故に偽りを申したのだ。」と言います。
それはまひろさんも認めるところでした。
「すまなかった」と道長卿は謝り、物語をまひろさんに返しました。
まひろさんは意欲を見せ、「帝がお読みになるものを書いてみとうございます」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿が「ならばこれをお渡ししていいのか」と訊くとまひろさんはその物語とは違うものを書く事を提案します。
そして「帝の事をお教えくださいませ」と道長卿に頼みます。
まひろさんは道長卿が間近に目にした帝のお姿、お人柄、女院さま(詮子さま)や皇后さま(定子さま)との事など、帝の普段のお姿などを聞き、知ろうと思ったのでした。
しかし道長卿は、「ああ…どこから話していいものか…」と困惑しています。
まひろさんは「どこからでもいい、帝の生身のお姿を」と踏み込みます。
さらにまひろさんは「家の者たちは、私の邪魔にならぬようにと宇治に出かけております。と言う。時はいくらでもありますゆえ」と言います。
道長卿は納得し、帝や宮中の事を話し始めました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>はぁ、めんどくせぇ~!
>どれだけ褒められても、具体性がないとお世辞と思ってしまうか、あるいは、おだててされに何かかさせたいのかと、猜疑心をめぐらせてしまうようです。
一通り読んだ道長卿が「よいではないか」と感想を述べ、まひろさんが「どこがでございますか」と尋ね、「飽きずに楽しく読めた」と答える道長卿に対して納得いかない。まひろさんが「楽しいだけでございますよね。真にこれで中宮様をお慰めできるのでしょうか」と言う場面で何見氏はまたも『面倒くさい』と言っていますが、それ以外の語彙は無いのでしょうか。
感想は具体的に『この場面のここが面白い』『ここはこう思う』と伝えるものではないでしょうか。
あと『おだててされに何かかさせたいのか』は『煽ててさらに何か書かせたいのか』でしょうか。
きちんと推敲しないと読み手に伝わらないと思います。
『中宮様をお慰めする物語』という名目で依頼に来た道長卿の反応からまひろさんは「中宮さまと申し上げるとお目が虚ろになります」と言葉の嘘を見抜き、『未だ定子さまに囚われる帝を彰子さまに向けさせるため『枕草子』を超える物語が必要』という本当の目的を聞き出しました。

>まひろが「政の道具にするな!」と怒ると思い、中宮様のためだと偽ったとのことです。
>確かに怒ったかもしれない……と、そこは冷静に考えるまひろ。
>彼女も怒るポイントがおかしいですよね。
>騙す理由に納得できれば、実はそこまで怒らない。
>その上であっさりと「帝が読むものを書きたい」と言い出しました
まひろさんの潔癖な性格をよく知る道長卿は、創作物を政治利用する事をよく思わないのではないかと『中宮彰子さまをお慰めする物語』の裏にある『定子さま死後もなお囚われる帝のお気持ちを彰子さまに向けさせるための物語』という政治的な意図を自分から言う事ができなかったのではないでしょうか。
結局まひろさんは真の意図を知って、一層創作意欲をかきたてられました。
まひろさんは最初は彰子さま、次いで帝という読者層を意識して作品を変えようとし、まずは道長卿に帝のお人柄や周りの人々について取材します。
かつて恋文の代筆業をしていたまひろさんは歌を贈る相手や文の読み手の人となりを知る事の重要さを知っているのでしょう。

・帝も、人であればこそ?

>道長は帝について語ります。
道長卿は生身の帝の姿を知りたいというまひろさんのために一条帝や宮中の事を語り続けました。
帝が誕生された時は麗しかった事。
皇后定子さまに夢中であった事。
定子さま入内の時の帝は幼く、定子さまはよき遊び相手であった事。
帝は定子さまを大事にし、亡き女院・詮子さまも涙を流して喜んでいた。
帝の定子さまへの愛は我らが思うより強かった。
などと道長卿は宮中の様子を語り、まひろさんは興味深げに耳を傾けています。

『光る君へ』より

ひとしきり話した後、道長は「俺もどうしたらよいのか分からなかったのだ」と心情を吐露しました。
帝が亡き定子さまに囚われ続けていると知ったまひろさんは「帝もまた人でおわすという事ですね」と言いました。
まひろさんは「かつて父との事、道長さまとの事も思っている事とやっている事が相反しており、悩んでいた時、それは人だからじゃと亡き夫に言われた事がございます」と打ち明けました。
まひろさんは「帝のご乱心も人でおわすからでございましょう。心がだめだと叫んでいても体は執着してしまう。道長さまがご存知ないところで、帝もお苦しみだったと思います」と言い、道長卿は「…それを表に出されないのも、人ゆえか」と漏らしました。
まひろさんは「女も人ですのよ」と言い、「その様な事分かっておる」と道長卿が答えます。
まひろさんは「人とは何でございましょうか」と問いかけ、2人とも黙り込んでしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まひろは理詰めで人の心や情けをあえて見ないようなこともしてしまう。
>見えないわけでなく、見ればきっちり観察できるけれど、時々すっ飛ばすと。 
まひろさんは「かつて父との事、道長さまとの事も思っている事とやっている事が相反しており、悩んでいた時、それは人だからじゃと亡き夫に言われた事がございます」と亡き夫・宣孝公に「それは人だからじゃ」と言われたという自らの経験を踏まえた上で、「帝のご乱心も人でおわすからでございましょう。心がだめだと叫んでいても体は執着してしまう。」と帝の定子さまへの愛情と政治的にままならぬお立場を慮ります。

「人とはなんなのでございましょうか」
>まひろはますます、哲学的な悩みに突っ込んできました。めんどくさい。
(中略)
>悪くはないようで、なんだか仏僧の問答じみた返事に思えるのですが……
>まひろはやはり、相当の変人なのでしょう。
またここでも『面倒くさい』ですか。
史料を読んだり人物像を考える事もせず、皆『面倒くさい』『(何見氏の理解しようとしない人物は)変人』では考察になりません。
『人とはなんなのでございましょうか』というまひろさんの探求は、宣孝公の「それは人だからじゃ」という答えだけでなく、惟規さまの「そういう事(私らしさとは?など)をグダグダ考えるところ。根が暗くて鬱陶しいところ」という率直なまひろさん評だけでなく、近江の石山寺で『蜻蛉日記』の作者右大将道綱母こと藤原寧子さまと出会った事も影響があるのではないでしょうか。
寧子さまは石山寺でまひろさんに「心と体は裏腹」と語りました。
『それが人だから』『帝もまた思いと行動の矛盾に悩む人である』という苦悩を描く上でモチーフになるのではないかと思います。

『光る君へ』第15回より

・月を見ながら思うこと?

>いつの間にか日が沈み、二人は月を見ています。
日が暮れて道長卿が帰途につきます。
『呼吸をしているような満月』が輝いています。 
道長卿は「帝の御事を話すつもりが我が家の恥を晒してしまった。我が家は下の下だな。呆れたであろう」とまひろさんに話し、まひろさんは「帝も道長様も、皆お苦しいのですね」と答えます。道長卿は「これまでの話が役に立てばよいが」と言います。
まひろさんはそれには応じず、満月を見上げました。
まひろさんの「人はなぜ月を見上げるのでしょう?」という言葉に、道長卿が「なぜであろうな」と相槌を打ちました。
まひろさんが「かぐや姫は月に帰って行きましたけど、月にも人がいてこちらを見ているのやも知れませぬ。それ故こちらも見上げたくなるのやも」と言います。
道長卿は「相変わらずおかしな事を申す」と言い、「おかしきことこそめでたけれにございます」とまひろさんは反論します。
それはかつて散楽一座の直秀が言っていた言葉でした。
道長卿は「直秀も月におるやも知れぬな」と月を見上げます。
そして道長は、「誰かが今、俺が見ている月を一緒に見ている。そう願いながら月を見上げてきた。皆そういう思いで月を見上げているのやも知れぬ」とも言う。
そしてまひろさんに「もう帰らねば」と言い、出て行きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは新しい物語の執筆に着手します。
まひろさんは「帝、中宮、皇太后、女院、死」とプロットの様な単語を紙に書き付けていきます。
構想を練るために庭を歩き回るまひろさんを目にしたいとさんが為時公に「お方様はどうにかなってしまわれたのでしょうか」と心配そうに尋ねます。
為時公は「左大臣様の頼みに応えようとしておるのであろう。放っておいてやろう」と娘を気遣って言います。
そのそばで賢子さんは石蹴りをしています。
まひろさんはいよいよ本編の執筆に取り掛かりました。
まひろさんの周囲を様々な文章を書き連ねた色とりどりの紙片が舞います。
まひろさんは天から降ってくる閃きに突き動かされ筆を執ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>このドラマでは石山寺が確かに重要な役割を果たしています。
(中略)
>『源氏物語』の構想を寝るのはその石山寺ではなく藤原為時邸でしたが、月の設定は残してありますね。
構想を寝る』ではなく『構想を練る』ではないでしょうか。
石山寺公式によると、寛弘元年(1004年)、紫式部は中宮彰子さまからの物語の執筆依頼を受け、石山寺に7日間の参籠をしました。
その時、琵琶湖の湖面に映える満月を眺め、須磨の地に流された貴公子が月を眺め都を恋しがる場面を構想を練ったのが『源氏物語』の始まりといわれています。
紫式部が使ったとされる部屋は、鎌倉時代頃には「源氏の間」と呼ばれていた様です。

『石山寺縁起絵巻』 第4巻第1段
湖面に映る月影を見て物語の構想を得る紫式部
土佐光信 画

作中まひろさんは道長卿の依頼を受け、自邸で『源氏物語』を執筆しています。
紫式部の曽祖父・権中納言藤原兼輔が建てた『堤中納言邸』跡に建つ廬山寺公式によると、『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』などのほとんどを堤中納言邸で執筆したのだそうです。
昭和四十年十一月、境内に紫式部邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられました。

廬山寺
廬山寺

>こうして月が重要な要素となると、道長の有名な【望月の歌】もより印象が深まるのかもしれません。
道長卿は自宅への帰りがけに「月にも人がいてこちらを見ているのやも知れませぬ。それ故こちらも見上げたくなるのやも」と言い、「おかしきことこそめでたけれにございます」と語るまひろさんに応じ、かつての友であった直秀を懐かしみ「直秀も月におるやも知れぬな」と彼を月に帰ったかぐや姫もしくは月に住まうという桂男に準えたのではないでしょうか。
『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば』という道長卿の『望月の歌』は寛仁2年(1018年)四女の威子さまが後一条天皇の中宮となった祝の宴で詠んだと言われる歌で、藤原実資の『小右記』に記述があります。

つきのかつら、呉剛
(月岡芳年画)

>まひろは執筆モードに入り、無愛想さがますます際立っています。
>為時も、いとも、彼女を放置。

まひろさんは無愛想なのではなく、構想を練るために考えながら庭を歩き回っていますし、いとさんはその様子を見て「お方様はどうにかなってしまわれたのでしょうか」と心配そうに為時公に尋ねたため、為時公は「左大臣様の頼みに応えようとしておるのであろう。放っておいてやろう」と気遣って構わずにいるのですが。
そのそばで賢子さんは石蹴りをしています。

・帝の愛が最愛の人を殺す物語?

>まひろが書き上げた物語を読み、道長は困惑していました。

まひろさんが書き上げた物語を道長卿が受け取りに来ました。
物語に目を通した道長卿は、「かえって帝のご機嫌を損ねるのではなかろうか」と案じるます。
まひろさんは「これが自分の精一杯、これで駄目ならこの仕事はここまでにございます」と述べ、「帝に奉ってくださいませ」と頭を下げました。

『光る君へ』より

その2人がいる場所へ賢子さんが現れました。
まひろさんは「左大臣さまよ。ご挨拶して」と賢子さんを促します。
賢子さんは「賢子にございます」と挨拶します。
道長卿に「いくつだ?」と訊かれて賢子さんが「6つだ」と答えると、まひろさんの目線が泳ぎます。
道長卿は賢子さんを呼び寄せ膝の上に乗せ、「母親に似て賢そうな顔をしておる」と頭を撫でながら言います。 
家中の者たちは心配そうに、あるいは微笑ましくその様子を見ていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんが書いた物語は製本され、「お上のお慰みになれば」との言葉と共に一条帝に献上されました。
「後で目を通しておく」と帝は仰りながらも、それだけの用件であったため、「蔵人に渡しておけばいいものを」とご不満そうでした。
その頃まひろさんは、既に道長道長卿に渡したはずの物語のあちこちを加筆修正しています。
「お出ししてしまったのに、まだ直すのか…」と為時公が呆れた様子で尋ねると、まひろさんは「直していると止まりませぬ。物語は生きておりますゆえ」と答えます。
そして続きの執筆に取り掛かりました。

『光る君へ』より

内裏では、道長卿が下がった後、帝がまひろさんの物語をお手に取られ、お読みになり始めました。

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり
はじめより我はと思ひあがり給へる御方々、めざましきものにおとしめそねみ給ふ。

意訳:
いずれの御時にか、女御、更衣があまたお仕えしている中に、それほど高い身分ではありませんが、格別に帝のご寵愛を受けて、栄える方がおりました。
宮仕えのはじめから「我こそは」と思い上がっていた方々は、その方を目障りな者として蔑み、憎んでいたのです。

『源氏物語』第一帖「桐壺」

後に『源氏物語』と呼ばれる様になるその物語を帝は一旦お閉じになってしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・MVP:まひろ?

>このドラマらしいめんどくさい陰キャ全開で創作に迫ってきました。
>惟規がズバリ言いましたが、まひろはめんどくさくて鬱陶しくて、性格がひねくれています。
「私らしさって何?」というまひろさんの問いに対して、惟規さまは「そういう事をグダグダ考えるところが姉上らしいよ。そういうややこしいところ、根が暗くて鬱陶しいところ」と評価していますが、「めんどくさくて鬱陶しくて、性格がひねくれている」とは言っていません。
『面倒くさい』以外の語彙力はないのでしょうか。
相手が真剣に『人とはなんなのでございましょうか』と考察している時に何の考えも無く『面倒くさい』ではドラマもまともに見ていないのではと思ってしまいます。

>さらには歴史の謎にも迫ってきた。
>『源氏物語』の執筆動機。
>執筆された順番。
>諸説あります。
『諸説あります』ではなく、具体的に解説してください。

『光る君へ』より

紫式部は20代半ばすぎに藤原宣孝公と結婚し、一女を設けます。
結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めたのが『源氏物語』の始まりといわれています。(参照: NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 )

『紫式部日記』には、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいた事から「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」とあります。

「源氏物語」は、現代で読んでいる順番通りに書かれたのではなく、後から挿入された部分や、完成後に順番が入れ替えられた部分があるという説があり、作中で一条帝がお読みになっていた第一帖「桐壺」は後から挿入されたという説が三条西家が伝える『源氏物語聞書』に記されているそうです。

・「キーボード武士」の時代?

>大河ではありませんが、こんなニュースがありました。

>この記事で取り上げている『虎に翼』は素晴らしいけれども、ガス抜きにされていないか、目くらましになっていないか。
>そこへの猜疑心は抱いていても良いのではないかと思います。
初手から『大河ではありませんが』と断ってでも『虎に翼』の話がしたいなら他に記事を立てるか、自身のnoteで記事を書いてください。
この項目自体が蛇足です。
大河ドラマレビューに具体性のある解説を充実させたら如何かと思います。

ただ、この記事には特徴がありまして。
NHKの悪いドラマとして朝ドラの『ちむどんどん』があげられています。
>この作品は「袋叩きにしてもいい定番朝ドラ」枠です。
>この前は『半分、青い。』でした。
好きな朝ドラが「袋叩きにしてもいい定番朝ドラ」枠になっている!差別ダー!と声高に叫びたいのなら、大河ドラマレビューを削らずnoteで語ってください。

>それこそNHKの胡散臭いドラマということならばむしろ大河でしょう。
>2010年代は大荒れでした。
>2012年『平清盛』の「王家」論争で荒れ、2013年『八重の桜』では不可解なことが起きております。
>2015年、2018年はさらにおかしい。
>2019年はあの東京五輪、2021年は新札プロパガンダ、そして2023年はジャニーズタイアップ。
>本来の目的を見失っているのではないかと思ったものです。 
自分の嫌いなきにいらない作品は全て何十年も前の私怨をほじくり返し、理不尽な理由をつけて誹謗中傷し、『胡散臭いドラマ』『プロパガンダ』『ジャニーズがー!』と叩く要素を探し回り、『差別がー!』『ポリコレが』『ジェンダーが』と喚き散らすならもう大河ドラマを観なくてよいのではないですか。
昨年の様にドラマだけでなく俳優やファンまで執拗に中傷する状況は異常です。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』48回~

>「キーボード戦士」という呼び方が痛烈で、しびれました。
>大河ドラマで言えば「キーボード武士」が発生しやすく、かつ、それに惑わされぬことが肝要に思えるのです。
キーボード戦士だろうがキーボード武士だろうがどうでもいいです。
自分の書いた文章に酔いしれ、他人がドラマを楽しんでいるところに土足で踏み込んで叩き棒を振り回して喚き散らし、気に入らないと相手を「エコーチェンバーだー!」とぶん殴ってくる人に賛同する人は少ないと思います。



※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?


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