見出し画像

大河コラムについて思ふ事~『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第7回

2月中旬になりました。
大寒波が再び襲来し、風が冷たい日が続きます。
まだまだ寒くインフルエンザも流行っていますので、皆さまも健康には充分お気を付けください。 さて、『べらぼう』第7回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。 
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>「わっちは男に惚れる性分じゃねぇ」と蔦重への好意を隠す花の井あらため瀬川(小芝風花さん)。

蔦重さんは常に『吉原のため』『女郎たちのため』を思い『吉原大事に動く自前の本屋』を持つため、地本問屋・西村屋与八さんとは違う吉原細見を作ろうと奔走します。
一方、花の井さんは松葉屋夫妻の意向により、『五代目瀬川』を襲名する事になりました。
それを蔦重さんに伝えると「瀬川ってのは不吉の名じゃねぇか。」と不吉が多い名跡の襲名に動揺しています。
しかし、花の井さんは「不吉の理由は最後の瀬川が自害しちまったからだけど。まことのとこを改めて聞いてみたら、どうも身請けが嫌でマブと添い遂げたかった、それだけらしくてさ。そんな不吉はわっちの性分じゃ起こり様が無い事だし。わっちが豪儀な身請けでも決めて瀬川をもう一度幸運の名跡にすりゃ良いだけの話さ」と言い、蔦重さんに『男前』と言われています。
蔦重さんからすれば、吉原生まれ吉原育ちで数々の花魁を見て来た彼でも花の井さん程豪儀な花魁は見た事はなかったのでしょう。
花の井さんが歴代の瀬川花魁の不吉を『マブと添い遂げたかった、それだけ』と評した様に彼女もまた愛しい人のために自分が出来る事を考え、名跡を襲名したのかもしれません。

>偽板事件のため、牢獄に繋がれてしまった鱗形屋。
小伝馬町の牢屋敷では、偽版の罪を犯した鱗形屋孫兵衛さんが牢に繋がれていました。
「あったぞ!偽版だ!」
客を装い、地本問屋・鱗形屋にやって来た長谷川平蔵さまが『新増早引節用集』を掴み頭上高く掲げた瞬間、奉行所の与力とと同心たちが店になだれ込みました。
『柏原屋が作った『増補早引節用集』を『新増早引節用集』と改題した偽版を作った』という罪で鱗形屋孫兵衛さんは捕縛されました。
「…お前か?お前が漏らしたのか!」
孫兵衛さんは蔦重さんが密告したと勘違いしています。
「違え!俺じゃねえです!」と蔦重さんは否定しましたが、孫兵衛さんは「蔦重、このままで済むと思うなよ。必ず後悔させてやるからな!」と捨て台詞を残し、野次馬の中を引き立てられて行きました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より

捕物の後、戸板が立てられた店の前に佇む蔦重さん。
平蔵さまが粟餅の入った袋を蔦重さんに渡し、「濡れ手に粟餅。濡れ手に粟と棚からぼた餅を一緒にしてみたぜ。とびきり旨い話に恵まれたって事さ。せいぜいありがたく頂いとけ。それが粟餅落とした奴への手向けってもんだぜ」と言い去っていきました。
蔦重さんはため息をひとつついて、「そうなんだろうな…」と呟きました。
そして、「『濡れ手に粟餅』、ありがたく頂きやす!」と蔦重さんは大きな口を開けてパクリと 粟餅に食らいつきました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>偽板事件のため、牢獄に繋がれてしまった鱗形屋。
第6回でも書きましたが。
江戸時代、『版権』という版元(=出版業者)の「出版権」が非常に強い時代でした。
著者から原稿を受け取った版元は、彫師に『板木』を作らせて、それを所有する事で出版権を得ました。
また、ある板元が新刊を出版する際には過去に似たような内容が無いかなどを『仲間』に諮り、出版の了承を得る必要がありました。
版権を犯すものとして、無断複製に当たる『重版』(最も厳しく断罪された)、盗用・部分的模倣にあたる『類版』、そして『差し構え(差し支え)』がありました。
『節用集』は用字・語彙を『いろは』順に集めた辞書の事です。
江戸時代には版本(版木で摺られた本)が広く流通する様になり、男女それぞれに向けたもの、漢詩用、俳諧用など様々な種類の節用集が広く流布していました。

『宝暦新撰早引節用集』
村上伊兵衛
望月文庫( 東京学芸大学付属図書館)所蔵

奉行所の与力が「上方の板元、柏原屋与左衛門より訴えがあった。柏原屋が作りし『増補早引節用集』を『新増早引節用集』と改題した偽版を作った不届き者を捕らえて欲しいと。」と言っていましたが、強制捜索で大量の偽版と版木という決定的な物証が店内で見つかり、鱗形屋は連行されて行きました。
安永四年(1775年)、鱗形屋の手代・藤八は大坂の板元・柏原与左衛門が出版していた『早引節用集』の重版(海賊版を作る事)に手を染めます。
江戸時代、重版はご法度で類版(似たような内容の出版)ともども、かねて禁令が出されていました。
『新増節用集』と改題され出回る偽版に柏原屋は激怒しこの時は書物問屋の須原屋市兵衛が仲裁し示談となりました。
しかし安永六年(1777年)、今度は使用人の徳兵衛が『新増節用集』を重版しました。
徳兵衛は江戸十里四方の所払い(追放)と家財缺所(全財産の没収)が言い渡され、主人の鱗形屋も監督不行届で過料(罰金)となりました。

・『吉原細見』という“粟餅”を狙う地本問屋?

>地本問屋が一堂に介して、鱗形屋のことを話し合っています。
鶴屋の裏手にある地本問屋会所では、西村屋を始め、松村屋、奥村屋、村田屋など江戸市中の地本問屋が集まっていました。
「鱗形屋、どうなるのかねえ。わざわざ奉行所まで出てくるなんてな」
松村屋弥兵衛さんが隣の西村屋与八さんに話し掛けます。
話題はやはり小伝馬町の牢屋敷で取り調べを受けている鱗形屋の事でした。
「何でも、訴えた大坂の板元が厳しい裁きを望んでるからって話だよ」
西村屋与八さんがさも気の毒そうに眉根を寄せました。
奥村屋源六さんが「いやいやいや、厳しい裁きって?たかが偽版でかい?」と首を傾げ、それに西村屋さんが「それが店には三千近くの摺り終わった本があったんだってさ」と答えます。
奥村屋さんが「はぁ~!そりゃ随分派手にやったもんだ」と感嘆し、松村屋さんが「けどキツイ裁きなんか食らったら、どうなんのかね、鱗形屋は」と言います。
村田屋治郎兵衛さんが「身代もかなり傾いておったし」と言えば、松村屋さんが「鱗はもう終いかもしれねえな」と言い、皆腹に一物を抱えつつ鱗形屋に同情している風を装っています。
西村屋さんに至っては「バカな男さ!」とくっと涙を堪え鼻を拭う三文芝居まで。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

その時、話をずっと聞いていた鶴屋喜右衛門さんが手に持っていた煙管ををポンと置きました。
西村屋さんがいよいよ本題かと背筋を伸ばします。
「では、鱗形屋さんに代わって細見を出そうという方はいらっしゃいませんか」と鶴屋さんが言います。
「ウチ、ウチはやりたいです!」
「俺ぁ昔細見だした事あるんだよ!」
「出してたか?」
「おお、そうさ!」
問屋たちが我先にと手を挙げました。
出遅れた西村屋さんがパン!と大きく手を打ち、「私が!僭越ながら私がやるのが一番よろしいかと。吉原に出入りし『改』の蔦重も見知っておりますし」と言います。
松村屋さんは「いえいえ、それはですね…あ…あ…」と二の句が継げないでいます。
会所の者が「蔦屋重三郎という者がやって来ておる様なのですが」と知らせてきました。
鶴屋さんが通す様許可し、玄関で待っていた蔦重さんが部屋に通されました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より

>煙管にもご注目ください。
>煙管は江戸時代のオシャレアイテムですから、いかに粋に吸うのかがポイントとなってきます。
煙草が日本に伝来すると、物珍しさから煙草を嗜む人が現れるようになりました。
やがて『細かく刻んだ葉煙草を煙管に詰めて吸う』喫煙方法が一般的となり広く普及して行きました。
伝来当初の煙管はとても長く煙草を詰める火皿も大きい物でした。
江戸時代初期の『男女遊楽図屏風』には火皿が大きく、頭部の雁首が湾曲した長い煙管を吸う女性が描かれています。
また、尾張藩7代藩主・徳川宗春公を題材にした歌舞伎には牛に乗り華麗な衣装に長い煙管を燻らせるというファッションリーダーを担った宗春公の姿が描かれています。

『紙本金地著色男女遊楽図』
財団法人細見美術財団所有 
京都国立博物館に寄託
『男女遊楽図屏風』(部分)
作者:不明 時代:1624〜1644年
『傾城夫恋桜』
享保十七年(1732年)刊 

江戸時代半ば(18世紀中ごろ)日本特有の品であり毛髪程の細さの『細刻み煙草』が世に広まると、ヨーロッパのパイプや東南アジアの喫煙具を真似た物であった煙管は火皿が小さくなり長さも携帯しやすい様に小型化され短くなっていき、主に20〜30cmの長さの物が好まれました。
アクセサリーの役割も担っていた煙管は趣向に合わせた様々意匠が施されました。
歌舞伎では重要な小道具で、大名、傾城、大盗賊、男伊達、武士、町人、雲助などまで、役柄によって持ち方や吸い方を細かく変えているのだそうです。

一服する遊女『北廓全盛競 大文字屋内一墨』
喜多川歌麿 画

>うーむ、鱗形屋って、今の日本で言えばフジテレビってコトですかね?
>で、地本問屋は他のテレビ局面々とか……今回も業を感じるぜ。
「鱗形屋、どうなるのかねえ。わざわざ奉行所まで出てくるなんてな」松村屋弥兵衛さんが言い、「何でも、訴えた大坂の板元が厳しい裁きを望んでるからって話だよ」と西村屋与八さんが答えています。
奥村屋源六さんが「いやいやいや、厳しい裁きって?たかが偽版でかい?」と首を傾げ、それに西村屋さんが「それが店には三千近くの摺り終わった本があったんだってさ」と答えます。
鱗形屋の罪状は営利目的で大坂の板元・柏原与左衛門が出版していた『早引節用集』の重版(海賊版を作る事)に手を染め元の板元から訴えられた事です。
一方、フジテレビは性加害問題から派生し、編成幹部が女性を誘って会食をセッティングしていたという問題で罪状や問題点の所在が全く違う物なのでミラーリングにもなりません。

・海外展開を見据えた豪華キャスト陣?

>んで、この「海外のオタク」というのもポイントです。
>突然ですが問題です。
>海外とは、どこの国のオタクか?
>正解は、中国のオタクです。
>TikTok閉鎖騒動で話題になったSNSのRednote(小紅書)があります。
(中略)
>アメリカでは、トランプ大統領がオタク文化からは相当距離があります。
>アメリカの学校図書館から日本の漫画本が撤去される事例も増えておりやす。
>つまりオタクという視点でいくと、中国が田沼時代、アメリカは松平定信時代になるかもしれねえ、ってことですよ
『べらぼう』作中に日本のアニメーションの屋台骨を支えるベテラン中堅クラスのの声優たちが俳優として出演した事とかなり論旨がズレてきている様に思います。
何見氏は『米国は安全保障上の理由から中国系の動画投稿アプリ『TikTok』をの国内での利用を一時的に禁止しており、中国版「インスタグラム」と呼ばれる『小紅書』にユーザーが殺到』というニュースを踏まえつつ、中国推しアメリカ下げで『アメリカはポリコレだらけで松平定信時代になる!その点中国はオタクに優しいのよ!』と中華マウントを取りたいのでしょう。
その一方で『政府が人工知能を用いて不適切と判断した投稿を削除し、SNS上で影響力のあるインフルエンサーに実名投稿を義務付けるネット規制を強めている』『米国民に「ポリコレ疲れ」が起き、 公の議論が現状よりも政治的に正しくなる事に反対する米有権者が全体の52%に上った』というニュースもあります。
また、カップ麺のアニメCM炎上にかこつけ、嫌いな作品やクリエイターの自由な表現をここぞとばかりに叩いている何見氏に於いても『寛政の改革』で厳しい 出版統制を行った『松平定信』公や昨今のツイフェミの『気に入らない表現を潰したがる風潮』に迎合しないとも限らないのですが。

・倍売れる『細見』を作ってみせらぁ!?

>蔦重は、地本問屋の寄り合いに、なんとも明るいノリでやってきました。
「どうも~。にわかのお邪魔、ご無礼仕りの三郎。失礼!」
陽気な地口で芝居掛かった登場をした蔦重さんを地本問屋一同が無言で迎えました。
「ふざけないとやっていられないんだねぇ、蔦重。けど、大事ないからな。これからは私が細見を出してお前さんが改を続けられる様にしてやるからね」
西村屋さんが如何にも蔦重さんを思いやる様な素振りで言いました。
そんな言葉に乗らない蔦重さんは「お心遣いありがとうございます。しかし、今後は俺が板元となって細見を出そうと思っております」とさらり と言ってのけ、会所に衝撃が走りました。
「…前に仲間内の者しか板元にはなれぬ定めとお伝えしたと存じますが」
鶴屋さんがおもむろに口を開きました。
蔦重さんが「ええ、ですからこの際、俺をそのお仲間に加えていただけませんでしょうか。確か板元の数を限るのは出す本の増えすぎによる共倒れを防ぐため。鱗形屋さんはおそらく持ち直すのは難しかろうとお見立てしますし、ならば俺が細見を出し、且つこのお仲間の末席に加えて頂いても差し支えねぇのでは?」と提案しました。
「蔦重、それはさすがに厚かましいぞ!」
西村屋さんが反論したのを皮切りに、
「吉原の内で摺物出すのとはワケが違うんだぞ!」
「主のいない隙に跡を襲おうなんてお前は畜生か!」と地本問屋から一斉に罵詈雑言が飛んできました。
想定内の反応です。
手が出ないところは忘八親父たちよりマシです。
「俺に任せてくれりゃ、今までの『倍売れる』細見を作ってみせますぜ!そうすりゃ皆さんだって儲かる。こりゃ悪い話じゃねえでしょう!」
蔦重さんは自信たっぷりで、地本問屋たちは呆れています。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

西村屋さんが「で、できる訳…」と言いかけた時。
鶴屋さんが「なるほど。ではまず見せて頂きましょうか。『倍売れる』細見とやらを。その上で本当に『倍』売れれば、仲間内に加わって頂くという事で如何でしょう」と穏やかに言いました。
蔦重さんが「そりゃ俺の細見の売り広めは鱗形屋板と同じく皆さまにもして頂ける、と考えてよろしいでしょうか」と言うと、鶴屋さんは「もちろんです。尤も皆さまが売りたいと思う様な細見ならば、でしょうが…」と答えます。
「分かりました。では皆さまが『倍売れる』と思う様な細見を作って参ります」
蔦重さんは一堂に会釈し、悠々と会所を出て行きました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

「鶴屋さん!本当に成し遂げたらどうなさるつもりで?!」
「俺ゃごめんですよ!ここに吉原者が入るなんて!」
西村屋さんと松村屋さんが口々に抗議します。
鶴屋さんは泰然自若として、「そもそも倍なんて 売れる訳ないですよ。それに蔦重の細見が然程売れぬ様、良い細見を出すって手もありますよねぇ」と言うと、再び煙管を手に取って、「どうでしょうか?西村屋さん」とゆったり笑いました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>他の地本問屋も、吉原で摺物出すのとは違う、簡単に本屋になれると思うな!とプレッシャーをかけてきます。
>そしてこうきた。
>「主(あるじ)のいない隙に跡を襲おうなんて、お前は畜生か!」
『偽版事件』による鱗形屋孫兵衛さんの検挙。
これを機に、一生吉原の貸本屋で終わるまいと吉原細見の板元という『濡れ手に粟餅』を取りに行く覚悟を決めた蔦重さんは、自分を地本問屋仲間に加えてくれと交渉に行きました。
かくして蔦重と地本問屋との戦いの火蓋が切られました。
「俺をそのお仲間に加えていただけませんでしょうか。」と言う蔦重さんに対し、西村屋与八さんが「厚かましい」と反論し、奥村屋源六さんが「吉原の内で摺物出すのとはワケが違うんだぞ!」、松村屋弥兵衛さんが「主のいない隙に跡を襲おうなんてお前は畜生か!」と罵声を浴びせます。
しかし蔦重さんは「今までの『倍売れる』細見を作ってみせる」と豪語します
他の地本問屋も呆れています。
奥村屋源六役は関智一さん、松村屋弥兵衛役は高木渉さんです。

>儒教倫理がしっかり根付いているんですね。
>戦国乱世じゃこうはいかんでしょう。
 
松永久秀のように下剋上を実現したとされる者が徹底して貶められてゆくのが江戸時代です。
江戸時代、労働環境が過酷であり苦界であった吉原に於いても、無事に年季明けを務め上げ借金を返済し終わった女郎や身請けされた女郎は堅気の男性と結婚する事もあった様に差別対象ではなく、歌舞伎で演じられたり浮世絵に描かれるなど流行の最先端として一般女性からも注目されていました。
ほとんどが貧しさ故に親に売られて来た少女たちだったため、遊女は『家族のためにその身を犠牲にした孝行者である』と認知されていました。
世間が女郎たちに同情的な視線を向けていた反面、楼主や若衆など吉原者は批判の対象となりました。
作中でも吉原の親父さまたちが自称する様に、楼主は俗に『忘八』と呼ばれました。
『忘八』とは、『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』の八つの徳を忘れた人非人という意味です。
『世事見聞録(文化十三年)』では、女郎の境遇に同情を示しつつも、『ただ憎むべきものはかの忘八と唱ふる売女業体のものなり。天道に背き、人道に背きたる業体にて、およそ人間にあらず、畜生同然の仕業、憎むに余りあるものなり』と楼主を評し、訴えを起こされた楼主に対して幕府からは「楼主は四民の下」だと批判されています。
また、ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルは『日本誌』の中で楼主に対して『決して公正な市民ではない』と差別的な意見を述べています。
作中、「『倍』売れれば、仲間内に加える」と蔦重さんに条件提示した鶴屋さんに松村屋さんが「俺ゃごめんですよ!ここに吉原者が入るなんて!」と反論していましたが、こうした江戸市中と吉原者の相容れない差別の背景も踏まえての事ではないでしょうか。

・忘八どもをこの博打に乗せる?

>蔦重は吉原に戻り、忘八どもにこの話を持ち掛けます。
吉原・駿河屋の二階。
吉原の親父たちは忘八らしく、賭け事を楽しんでいます。
「つまりお前の作った細見が倍売れたら市中の本屋のお仲間に入れてもらえるってぇの?」
蔦重に聞いた話をカボチャこと大文字屋市兵衛さんが確認し、蔦重さんは「へえ。とりあえずそういう話にまとまりましたんで。ここは一つ 親父さま方にも倍!いえ、さらに倍!買い取って頂きたく!」と答えます。
「テメェ…また一言もなく勝手な事しやがって!」と市兵衛さんに頭を引っ叩かれ、蔦重さんは「…言ったらやめろとしか言わねえじゃねえか」と小声で呟きます。
蔦重さんの小声を拾った市兵衛さんが「あ?」と目を剥きました。
蔦重さんは「こんな折はまたと無いと思ったものですから先走ってしまいました!」と早口で被せます。
「俺がお仲間に認められりゃ、吉原は自前の地本問屋を持てるって事です。そうなりゃ入銀で作った本もそれこそ行事の摺物でも、いつでも何でも市中に売り広め出来る様になるって事にございますよ!」
これには親父たちも息を呑みます。
大黒屋のりつさんがその利点に気づき「そうなれば吉原を売り込み放題、万々歳」と言います。
大文字屋市兵衛さんが「張ったぁ!」と蔦重さんに賭けました。
「俺もだ!」と丁字屋長十郎さんが続きます。
「ありがた山!」
親父さまたちが次々と蔦重さんの話に乗る中、駿河屋市右衛門さんだけが終始眉間にしわを寄せていました。
皆が帰った後、女将のふじさんが座敷の片付けを始めても難しい顔で窓の外を見ています。
まだ残っていた扇屋右衛門さんが「面白くねえのか。ここまで大っぴらに本屋になってくると」と苦笑しながら市右衛門さんに尋ねました。
「こりゃ、上手く行きゃ市中の奴らが俺たちを認めるって話でしょう。そんな筋、真に受けて良いもんなんすかね」と答える市右衛門さんの目にはやる気満々で仲の町を駆けて行く蔦重さんの姿が映っていました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>まぁ、吉原は季節限定イベントをやたらと開催する運営なものですから、ガンガン広告を打ちたいわけで。
美しい遊女が吉原を練り歩く花魁道中』などの他、吉原には『吉原三景容』という三大イベントがありました。
流行の発信地でもあった吉原は、客だけでなく旅行者や見物人も多く集まる土地で地本問屋などの出版業も吉原と連携して女郎の錦絵や吉原の案内書である、『吉原細見』を出版し利益を得ていました。
吉原の大通りには春限定で根が付いた桜の木が植えられ、花の散る頃には全て引き抜かれました。
また下草には鮮やかで可憐な山吹が植えられ、女性も含め一般の人々も行き交いました。

『吾妻源氏雪月花ノ内』
歌川豊国 画
国立国会デジタルコレクション

お盆になると吉原では店先に燈籠が飾られました。
玉菊と呼ばれ若くして亡くなった才色兼備の遊女・玉菊に由来するため、『玉菊燈籠』と言います。

『青楼絵抄年中行事. 上之巻』
十返舎一九 著
国立国会デジタルコレクション

八月の『俄(にわか)』とは、『俄狂言(にわかきょうげん)』という、素人が演じた狂言のことです。 路上で突然始められる事が多かったため『にわか』という言葉の語源になったとも言われます。吉原で演じられた俄は『吉原俄』と呼ばれました。
芸者や幇間を中心に、吉原で働く人々も参加して、賑やかな芝居や踊りが繰り広げられました。

『新吉原・俄獅子之図』
豊原国周 画
国立国会デジタルコレクション

・責められる鱗形屋 つけこむ西村屋?

>そのころ鱗形屋は拷問を受けていました。
その頃小伝馬町の牢屋敷では、鱗形屋孫兵衛さんが奉行所から拷問を受けていました。
偽版事件の黒幕を問われ、孫兵衛さんが「で…ですから、小島松平家のご家老様のた…たっての願いで…致し方なく擦りまして…」と事実を語っても、「武家に罪をなすりつける気なのか!」と信じて貰えず殴る蹴るの拷問を受けます。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>本当のことを語っても、腐れ商人が武家に罪をなすりつける気なのか!と殴る蹴るの暴行を受けてしまう。
『士農工商』は江戸時代の職能に基づく身分制で、古代の中国で使われていた言葉でした。
『漢書』には「士農工商、四民に業あり」と記されており、これは「民の職業は4種類に分けられる」という事を示しています。
武士・農民・職人・商人を総称して『四民』と呼びました。
武士に対し、農工商の身分は『町人』と呼ばれ、士農工商の下には所謂賤民がいて差別対象となりました。
近年の研究により身分制度を示す単語として適切ではないという意見が多数を占める様になり、2000年代には、『士農工商』の記述が文部科学省検定済教科書から削除されました。

鱗形屋孫兵衛さんが奉行所から拷問を受けている際、小島松平家の家老の関与を白状しましたが、「武家に罪をなすりつける気なのか!」と信じて貰えませんでした。
数少ない産物になると節用集の海賊版を鱗形屋から仕入れて売りさばいて現金収入を得ていた駿河国小島藩。
奉行所の捜査を察した小島藩の家老は『家中に、偽板出版に噛んだ家臣が居り、それを大阪の板元が探している。訴えが上がれば当家は見逃して欲しいという嘆願』とともに勘定吟味役・松本秀持公に袖の下を贈り、鱗形屋を切り捨てていました。
武士から見れば『商人は農民や職人と違って何も生産していない、商人は物を作らずただ動かしているだけ』という差別的考えがあった様で、このため孫兵衛さんは真実を告白しても信じてもらえなかったのではないでしょうか。

>日本独自の拷問は、おおよそ江戸時代に“確立”および“洗練”されてきます。
江戸時代は所謂『自白主義』で容疑者の『自白』に基づいて裁きが行われました。
つまり「コイツが怪しい、下手人だ」とされ、徹底的に問い詰められ時に拷問を用いて『自白』を迫られる場合もありました。
中には『決めつけ刑事』ならぬ『決めつけ奉行』がいたかもしれません。
寛保二年(1742年)、八代将軍・徳川吉宗公の治世、『公事方御定書』によって拷問が制度化され、『笞打』『石抱き』『海老責』『釣責』が正式な拷問として定められました。
『牢問』とは、牢屋敷内の穿鑿所(せんさくじょ)で町奉行吟味での判断による拷問で『笞打』『石抱き』『海老責』がこれに当たり、『拷問』は牢屋敷内の拷問蔵で行われ老中(または将軍)の許可が必要でした。『釣責』がこれに当たります。

・笞打…殺人、放火、強盗、関所破り、文書偽造など、『死罪』に値する罪の自白のために、後ろ手に縛り『箒尻』という棒で肩を打ち据える。
・石抱き…算盤責、石責めとも。
脚部を露出させられ、三角に削った材木を並べた「十露盤(そろばん)板」の上に正座し背後の柱に括り付けられる。その後太ももの上に一枚当たり12貫 (= 45㎏)の石の板を乗せる。
・海老責…下着姿にさせられ胡座で顎と足首が密着する二つ折りの姿勢のまま縛られ、そのまま3~4時間放置。
・釣責…後ろ手にされ、掌が両肘あたりに来るように交差され捻り上げられ、肩の骨が外れてしまうのを防ぐためにしっかりと縛り付けられてから釣り上げられる。

>『光る君へ』のころですと検非違使とその部下の双寿丸あたりは、容疑者という時点で殺していてもおかしくはなかった。
>直秀も取り調べも何もなく殺されていましたね。
何故昨年一年通してレビューを書いているのに確認せずにでたらめな人物設定を書くのでしょうか。
双寿丸は藤原隆家卿と親交のある武者・平為賢公の配下で、為賢の許で武術の研鑽に打ち込んでいる武者です。

『光る君』へ
『光る君』へ
武将ジャパンより

また、直秀たち散楽一座は東三条殿に義賊として忍び込み捕らえられました。
人を殺めておらず盗みも未遂だったため、鞭打ちで済むはずでした。
直秀たちを助けたい道長卿は「手荒な事はしないでくれ」と検非違使に心付けを渡します。
しかし、散楽一座は都から追放と見せかけ鳥辺野に連行され、放免たちに殺されてしまいました。

『光る君』へ
『光る君』へ
『光る君』へ

・無理じゃねえ、工夫をこらしてやってやらぁ?

>蔦重がパチパチとそろばんを弾き、帳簿をつけています。
その頃蔦屋では。
つるべ蕎麦の半次郎さんが「鱗形屋、このままじゃ身上半減とか島流しになんじゃねぇかって話だよ」と言い、次郎兵衛さんが「はあ〜、そりゃもうおしめぇだね」と答えます。
その側で蔦重さんは細見『花の源』を片手に算盤を弾き、珍しく噂話に無関心です。
「重三、お前割に平気の平左だね」と次郎兵衛さんが言うと、蔦重さんは数字を紙に書き付けながら淡々と「俺ゃ知ってたんですよ。やってんの鱗形屋だって。探られてるのも知ってて『危ねえ』とも言ってやらなかった。俺ぁ鱗の旦那を嵌めたようなもんなんで」と言います。
次郎兵衛さんと半次郎さんは顔を見合わせました。
「今の俺に出来んのは嵌めたに見合うだけの良い細見を作るだけです」
蔦重さんの自責と呵責交じりの決意でした。
次郎兵衛さんは手を伸ばし、義弟の頭をそっと撫でました。
「何すか急に!」
「うん、何だかさ」
次郎兵衛さんは何と声を掛けていいか分からない様です。
「いやいや、やめてくだせぇ!気味が悪いな!」

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

そんなこんなで蔦重さんは「細見を『半値』で出せねえかって」と考えを次郎兵衛さんと半次郎さんに説明します。
蔦重さんが「実は細見が倍売れれば、板元としても認めてもらえるって話になってて」と言い、二人は「ああっ?」と同時に声を上げました。
蔦重さんは「あ、言ってなかったか。そうなんです。そういう話になってて、で、倍売れるためには倍の冊数をまずは本屋の軒先に並べてもらわなきゃいけねぇ。仮に今までと同じ値の分 仕入れてもらえるものとしたら、半値なら自ずと倍の冊数並ぶ事になるじゃねえですか」と説明し、「お、お前策士だねえ!」と次郎兵衛さんが感嘆の声を上げています。
しかし半値で売って儲けを出すには、本作りに掛かる経費も半値にしなければならない。
しかし、蔦重さんは言い放ちました。
「これより『良いもの』を半値で作るんです!」
半次郎さんが「良いものって?」と尋ねると、蔦重さんは「そこは…お二人にも手伝ってもらえねぇかと!」と答えました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>にしても、ペナルティが重すぎるんですね。
放火や殺人でないこうした犯罪は、どうにも判例がわかりにくいものです。
>世間は薄々勘づいているとは思います。
あまりに重い。
>こりゃ武家あたりと何かやったんじゃないかと思っている人がいても不思議はありません。
6回でも書きましたが。
江戸時代、京・大坂・江戸の3都では出版業が発達しており、3都の本屋仲間は公認され、『版権』が認められました。
江戸時代にはまだ「著作権」の概念が無く、あったのは版元(=出版業者)の「出版権」でこれを『版権』といいました。
著者から原稿を受け取った版元は、彫師に『板木』を作らせて、それを所有することで出版権を得ました。
ある板元が新刊を出版する際には、過去に似たような内容が無いかなどを『仲間』に諮り、出版の了承を得る必要がありました。
この「出版権」は版木の所持によって担保され、証券など財産と同様に扱われました。

版権を犯すものとして、無断複製に当たる『重版』(最も厳しく断罪された)、盗用・部分的模倣にあたる『類版』、そして『差し構え(差し支え)』がありました。
また板木が傷んだり焼失したとき、合法的に再び刻して出す『再板』ですが、これにも仲間同士の承認が必要でした。
当時の『重版』とは海賊版の偽造・販売なのでご法度で、『類版』と共に禁令が出されていました。
『節用集』はそれまでも重版・類版の訴えが起こされ、『宝暦新撰早引節用集』の版元である大坂の本屋・柏原屋与市(与兵衛・与左衛門)と木屋伊兵衛らは、宝暦2年の出版以降に他の版元が出した節用集を『宝暦新撰早引節用集』の重版や、検索法やサイズの真似(類版)であるとしてたびたび訴え出ました。
安永四年(1775年)、鱗形屋の手代・藤八が『新増節用集』と表題だけを変え出版したため、柏原屋と木屋から『宝暦新撰早引節用集』の重版で訴えられました。
この時は書物問屋の須原屋市兵衛さんが仲裁に入り、何とか示談になりました。
安永六年(1777年)、今度は使用人の徳兵衛が『新増節用集』を重版します。
徳兵衛はお白洲に引き出され、『江戸十里四方の所払い』と家財缺所(家財没収)が言い渡されました。
『所払い』とは追放刑で江戸十里四方とは江戸城を中心に、半径5里(約20キロ)圏内の出入りを禁じるという刑でした。
徳兵衛の主人である孫兵衛さんも監督不行届となり、社会的信用を失いました。
作中、半次郎さんが「鱗形屋、このままじゃ身上半減とか島流しになんじゃねぇかって話だよ」と言いますが、『身上半減』とは財産の半分を没収される事です。

・危ない女郎大文字屋の「かをり」登場?

>かくして、蔦重は二人の仲間とともに聞き込みを開始します。
どうしたら皆をあっと言わせる細見ができるか。翌日から蔦重さんは今までの細見について吉原の客に聞き取り調査を始めました。
中には「細見って何?」と言う河岸見世の客もいました。
半次郎さんは蕎麦屋の客に、次郎兵衛さんは矢場の遊び仲間たちに聞き取りをしました。
『タダなら欲しい』という客の意見には「タダのもんなんか江戸中探したってねえよこの野郎!」と半次郎さんからツッコミが入ります。
そして『細見を持って行けば揚代が半値になる』などの有意義な意見を紙片に書いて持って来てくれました。
三人は湯屋の帰り道、温まった体で通りを歩いています。
「どうだい、役に立ちそうな考えはあるかい?」と半次郎さんが尋ねます。
蔦重さんは次郎兵衛さんが書き付けた紙片の一枚に目を留め、「この買える女郎が載ってねえって」と尋ねます。
次郎兵衛さんが「ああ、細見に載ってる女郎は大見世ばかりで。手が届く女郎は載ってねぇって」と答えます。
「これは大事なところかもしれませんねぇ」と蔦重さんが気になりながら歩いていると、いきなり 誰かが後ろから抱き付いて来ました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

「男前はタダってのは?」
見れば年若い女郎が瞳をキラキラさせて蔦重さんを見上げていました。
大文字屋の振袖新造・かをりさんでした。
「細見を持ってきた客が男前ならタダにしては?そうすれば男前はこぞって細見を買い、男前の客がどっと増えんしょう?蔦重の様な」
かをりさんは蔦重さんにぎゅーっと抱き付き、くんくんと匂いを嗅ぎます。
彼女は禿から振袖新造になったばかりで暇さえあれば蔦重さんを追いかけ回していました。
「考えてくれてありがとな、かをり。けど離してくれっか?」と蔦重さんが言うと「一目見た時から分かりんした。蔦重とわっちは前世からの縁!」とさらにきつく抱き付きます。
次の瞬間、バシン!と尻を引っ叩かれ、かをりさんは悲鳴を上げました。
仕置き棒を持った大文字屋の遣り手・志げさんが鬼の形相でかをりさんを睨みつけています。
志げさんが「何やってんだい!この小童(こじょく)が!ほら離れな!」とかをりさんを滅多矢鱈に叩きます。
「ババア、落ち着け!かをり、離れろ!な」
蔦重さんがかをりさんを引き剥がそうとしますが、かをりさんは「嫌嫌いやぁ~!」とさらに抱き付きます。
次郎兵衛さんと半次郎さんはポカンとして目の前の騒動を見ています。
すると志げさんが仕置き棒で蔦重さんの顔をグイグイと押し、「いいのかい?離れないと蔦重の顔に傷がつくよ!」と言います。
かをりさんはパッと蔦重さんと離れ、「蔦重〜!大文字屋で待っておりんす〜!」と志げさんに襟首を掴まれながら見世に戻って行きました。
「…お好きな人だけどうぞって、危ねえ女郎一覧が付いてるってのは?」と次郎兵衛さんが呟きました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>背景には吉原らしい色っぽい江戸時代のダーツこと投げ矢遊び。
>腰をかがめて矢を拾う女の尻にムラムラすることが主目的の客も少なくなかったそうですぜ。

次郎兵衛さんが、矢場の遊び仲間たちに聞き取りをしていました。
『矢場』は料金を取って楊弓(ようきゅう=遊戯用小弓)を射させた遊戯場です。
江戸時代、寛政(1789~1801)の頃には寺社の境内や盛り場に矢場が出来、矢場女(矢取女)という矢を拾う女を置いて人気を呼びました。
間口一、二間のとっつきの畳の間から七間半(約13.5メートル)先の的を射て、的の他品物を糸で吊り下げて景品を出しました。
矢取女が目当ての客も多く、的場の裏にある小部屋を接客場所とした私娼窟でもありました。
(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))
因みに、この矢場が明治時代に廃れて行き、明治二十年(1887年)頃からは銘酒の酌売を看板にし裏では数名の私娼を抱える『銘酒屋』が流行します。

『職人尽絵詞』第3軸(部分)より楊弓
鍬形蕙斎(北尾政美)画
手柄岡持(朋誠堂喜三二)詞書
国立国会図書館所蔵
『べらぼう』より

>「買える女郎が載ってない」
>要するに高い大見世ばかりで、安い河岸の女郎は掲載されていないということですね。
安永四年(1775年)一月、蔦重さんは『改』として鱗形屋版細見の卸しと小売りを務めました。従来の細見はどの店に何という遊女がいるのかは書いてあっても、安価な河岸見世は書いておらず店の場所も正確に書いてないので、初めての店には行きにくかったのだそうです。
下記画像は鱗形屋から安永四年(1775年)に出版された『吉原細見・花の源』です。

『吉原細見花の源』
鱗形屋 安永四年(1775年)刊
国立国会図書館デジタルコレクション 

>すると、遣り手婆の志げがやってきて、棒で叩いて引き離そうとします。
>「ババア! 落ち着け!」
そう止めようとする蔦重。
吉原に於ける『遣手』は『香車(きょうしゃ)』や『遣手婆(やりてばば)』とも呼ばれました。女郎や新造(若い遊女で新しく務めに出た人)、禿(花魁の身の回りの世話や雑用をする少女)を監督する女性の事です。
「遣手」は吉原の文化や風習を知らなければ勤まらない難しい役どころで、基本的に30歳を超えて身請けされなかった女郎が就く場合が多かったそうです。 
女郎の管理・教育、客や当主・女郎間との仲介、客の品定めをして遊興の程度を図り食事の手配などを行ったりしました。
時には特定の客と親しくなり過ぎ、脱走や心中を図った女郎の折檻をする事もありました。
『婆』と呼ばれるのは女郎たちから恐れられていた事が由来だとか。

・新之助、助太刀いたす?

>蔦重と次郎兵衛が「あいつ、あぶねえな」とぼやきつつ帰っていきます。
蔦屋に戻ると、店先で小田新之助さんが奉公人の留四郎さんと立ち話をしていました。
蔦重さんが「新さん!今日はうつせみに会いに?」と尋ねると、新之助さんが「いや、こちらだ。細見を工夫したいって言っておったではないか」と前回の細見を見せました。
「そうでした!何かあります?こうなってればいいというところ!」
蔦重さんの勢いに少々たじろぎながら、「もう少し薄くならぬものかと。この厚さでは、懐にしまうと嵩張るではないか」新之助さんが実際に細見を懐にしまって見せました。
懐でもたつき、取り出そうにも不便そうです。
その時蔦重さんの頭の中では、熊さん八っつぁんが細見で新目当ての女郎屋を探しています。
熊さんが「八っつぁん、丁字屋ってなどこだっけ?」と尋ね、「おう、ちょいと待ちな」と答える八っつぁんの手には小ぶりになった細見があります。
新之助さんが「薄くなれば収まりが良くなり、これを片手に吉原を歩けるのではないかと」と言い、「昔の細見は一枚摺りで、持ち歩いて女郎を物色したらしい」と留四郎さんが新之助さんに教えました。
「…行ける」
蔦重さんの中で颯爽と細見を取り出し目当ての女郎屋を探す客の想像図が出来上がりました。
「行けますよ。薄くて持ち歩ける細見」
これなら掛かりも半値で行ける。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

「新さん!一つお手伝いいただけませんか!うつせみに一度会えるくらいは払いま…」
蔦重さんが言い終わらないうちに「助太刀いたそう!」と新之助さんが食い気味に言います。
こうして、『薄くて持ち歩ける細見』作りは前回の細見『花の源』を全てバラらして項を並べるところから始まりました。
序、全体地図、茶屋や引手茶屋の一覧。
無駄な部分は無いか、省けるところは無いか、詰められる箇所は無いか。
新之助さんと相談し、蔦重さんは細見をどんどん薄くしていきます。
「蔦重、女郎屋はどうするのだ?」と新之助さんに尋ねられ、蔦重さんが「これ本当の見世の並び通りに並べる ってできねえですかね」と言います。 
新之助さんが「それが私にはちと分かりかねるな」と言います。
蔦重さんが「義兄さん」と振り向けば次郎兵衛さんが「なるほどな。おい、留ー!」と留四郎さんを呼び、留四郎さんが手早く女郎屋の項を実際の並び通りに並べて行きました。

『べらぼう』より

一方、西村屋与八さんは鱗形屋に出向き、手付金の小判五両を袱紗から出して提示し「細見の版木を売らないか。高く買い取るよ」と孫兵衛さんの妻・りんさんに持ち掛けていました。
「主人のおらぬ間に然様な決め事は…」とりんさんが困惑していると。
三両追加、二両追加…
もう一押しのところで次男の万次郎さんが出てきて「おとっつぁんでないと決められませんから!」と突っ撥ねられてしまいました。
西村屋さんは店に戻り、手代の忠八さんに膝枕で耳掃除をしてもらいながらその話をしています。
「細見の版木を一から起こすとなると、結構な手間と掛かり。そこまでしておやりにならずともよろしいのでは?」と忠八さんが言います。
西村屋さんは「バカを言っちゃいけないよ。これをきっかけに蔦重が仲間内に入ってみろ。私らは吉原絡みの頬を一切出せなくなるに決まってる。逆にいま細見をウチが出せば、吉原をウチだけが扱うようにできるって事さ」
西村屋さんは甘えるように「何か良い手はないかねぇ?」と忠七さんの膝を指でくるくると撫でました。
「そういえば、細見を出しておる男がもう一人おりませなんだか?」
忠七さんの言葉に西村屋さんは「おった!」と身を起こし、古い細見を引っ張り出し始めました。
「ああ!これだこれ!この貧乏臭い細見!」
『松のしらべ』という細見の奥付には『板元 小泉忠五郎』とあります。
「そう、こいつだ!浅草の小泉忠五郎!」

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>この和服の構造は踏まえておかないと、失敗してしまうところですね。
>『青天を衝け』では、渋沢栄一が懐から『論語』をおもむろに取り出す場面があって脱力しました。
>んなもん懐に入れたら邪魔で仕方ねえ。
>そもそも、持ち歩くもんでもねえだろ。
何見氏は『青天を衝け』と渋沢栄一氏が気に入らない、絶対にこき下ろすんだという気持ちから『渋沢栄一が懐から『論語』をおもむろに取り出す場面』を全否定していますが。
江戸時代、一般的な『草双紙』のサイズは中本(19cm×13cm程)です。
また、茶席や書き付けやちり紙などで使われ懐に入れて携帯する紙を懐紙といいます。
特に茶席で使用する『本懐紙』は男性用が17.5cm×20.6 cm程度、女性用が14.5cm×17.5 cmのものが一般的です。

『青天を衝け』作中で取り出した『論語』は一般的な『草双紙』の中本サイズなので、懐から本が覗いたり膨らんでいる状態ですが、A4サイズのムック本の様に大きく邪魔という訳ではないと思います。

『青天を衝け』より

因みに、明治四十年(1907年)第一生命保険創立者の矢野恒太氏によって論語の注釈書『ポケット論語』が著されました。
渋沢氏が『論語と算盤』を著したのは大正5年(1916年)の事です。

>留四郎も「そもそも昔は一枚刷りで持ち歩くことが前提だった」とフォローします。
どの様なものであったのか具体例を提示する事は無いのですね。
明暦の大火(1657年)後、吉原が浅草寺裏に移転して新吉原遊郭が出来た頃。
細見は一枚摺りの地図形式のものが出されていました。
しかし、折り畳むと小さくなるものの、広げて見なければならないのが欠点だったと考えられます。

『芳原細見図』すはらや市兵衛
板元 三郎兵衛(万治元年(1658年))
国立国会図書館デジタルコレクション

>板木を一から起こすことになり、なかなか面倒なのだとか。
>手間とかかりがあるとわかっていても、西村屋はなんとか蔦重の野望を阻止したい。

西村屋与八さんは主無き鱗形屋に出向き、手付金の小判五両を袱紗から出して提示し「細見の版木を売らないか。高く買い取るよ」と孫兵衛さんの妻・りんさんに持ち掛け、次男・万次郎さんに断わられていました。
江戸時代当時、作家の『著作権』はまだ確立しておらず、板元の『出版権』が強い時代でした。
『出版権』は版木の所持によって担保され、版木は証券同然に取り扱われ版木の所有者が変わると出版権も移譲されました。
また、火災で板木が燃えてもその板木に対する権利は生きており取引されていました。
現代でいうならレコードやCDの制作者が有するマスター音源に対する『原盤権』が近いでしょうか。
鱗形屋の『吉原細見』の版木を入手できれば自分の出版物として発行出来るため、西村屋さんは金で版権を買おうとしたのでしょう。
しかし、鱗形屋の財産である版木を手放す訳にいかない鱗形屋の親子から断わられ、自力で細見を発行することを決めました。そして以前から細見の『改』をしていた浅草の本屋・小泉忠五郎さんを引き込んだのでした。

・蔦重の思いは月光のように透き通っている?

>蔦重が、四五六という職人に、『吉原細見』の彫りを依頼しにきました。
目処が付いた蔦重さんは、原稿を持って腕利きの彫師・四五六さんに直談判にやって来ました。
「確かに中本(ちゅうほん)一枚は五匁だけどよ」と四五六さんは渋い顔です。
「お前、この字詰まりで五匁ってなあ、あるかいそんな話!」
茶屋が並ぶ『待合の辻』などは余白なしの文字数びっしりで渋るのも無理はありません。
蔦重さんは「そこをなんとか。全丁新たに起こし直ししますんで。二十丁なら結構な額になりますし」と言います。
「たった二十丁!細見一冊で?」と驚く四五六さんに蔦重さんは「へぇ。判を大きくし、その分 薄くするんで」と答えました。
「んな割の悪ぃ仕事受けられっか!べらぼうめ!」
四五六さんが蔦重さんを追い出しに掛かります。
「じゃあ今後の直しの方の手間賃を…」と蔦重さんが言い終わらぬうちに「出てけ出てけ」と表に放り出されました。
戸が閉まる瞬間、さっと手桶を挟んでその隙間から、「半年ごとに直しに色を付けて支払うという事では」と粘りますが、四五六さんは力づくで戸を閉めようとします。
「では、吉原の大宴会付きで如何でしょうか?」
これに食い付かぬ男はいません。
四五六さんが途端ににこやかになり、無事交渉成立となりました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

蔦屋に戻り、顛末を新之助さんに報告しました。
「前より気になっておったのだが、蔦重なら宴会も安く引き受けて貰えるのか?」と新之助さんが尋ね、「いやいやいやいや、忘八を舐めちゃいけねぇです。けどま、倍売れれば職人さんたちを一度もてなすくらいの儲けは」と蔦重さんが答えました。
「しかしそれでは蔦重は全く儲からぬのでは?」と新之助さんが尋ねると「まあ、深川や品川やらで遊ばせろと言われるとアレですが。吉原 なら行って来いなんで」と蔦重さんが答えます。
新之助さんは「李白の『静夜思』の如きだな。蔦重の吉原への思いは」と言います。
しかし、どっぷりと吉原に根を下ろしている蔦重さんは李白の様に故郷を偲ぶだけでは済まないのでした。
そこへ次郎兵衛さんが「親父さまたちが二階に来いって」と伝えに来ました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>木版画ですから板を掘って印刷することになります。
>しかし、あまりの文字の細かさに渋っている。
彫師の四五六さんが『中本(ちゅうほん)一枚は五匁』と言っています。
絵入りの草双紙や滑稽本・人情本などに使われるサイズである『中本』は美濃紙(28.2㎝×40.9㎝)を半分にして袋綴じしたもので、13cm×19cm程度(だいたい単行本コミックサイズ)です。  
しかし、蔦重さんの想定の中で八っつぁんが持っていた細見は文庫本サイズ(105mm×148mm)です。
当然文字と文字の間が詰まり、手間を考えると中本一枚のお代5匁(銀1匁=2,166円なので10,830円)では割に合わないと渋ったのでしょう。
さらに蔦重さんは「20丁なら結構な額になります」と言っています。
時代考証担当・山村竜也氏によると、『実際に、一つ前の「花の源」の時は全47丁(見開き)だったものが、今回の「籬の花」では23丁に減っている。』との事です。
『中本』は原則的に一冊が5丁(袋綴の紙数五枚=10頁)となっています。
20丁なので紙が20枚40頁、一枚10,830円なので金1両と40匁(216,600円)ですね。
※江戸時代の換算相場は『1両=13万円』として『金1両=銀60匁(もんめ)=銭(銅)4000文』なので、銀1匁=2166円、1文=32.5円
「半年ごとに直しに色を付けて支払う」と蔦重さんは言いますが乗り気でない四五六さんは彼を追い出そうとします。
そこですかさず「では、吉原の大宴会付きで如何でしょうか?」と言う蔦重さんに四五六さんはニッコリ。
江戸っ子の職人のやる気が上がる方法を心得ています。

『べらぼう』より
『べらぼう』より

>新之助は、そんな蔦重の思いを「李白の『静夜思』のようだ」と感心しています。
新之助さんは「李白の『静夜思』の如きだな。蔦重の吉原への思いは」と言います。
『静夜思』は李白が25歳で故郷を出て、長江流域を放浪しながら湖北省安陸の小寿山にいた頃の31歳の時の作で、遥か彼方の故郷のことを思い、静かな秋の夜に冷え冷えとした霜かと思った月光を辿りその山月を望んで故郷を偲んでいます。
新之助さんは蔦重さんがいつも故郷の吉原を思い奔走する姿に、李白の故郷を偲ぶ心を重ねたのでしょう。

『静夜思』李白

・西村屋と忠五郎の脅迫?

>忘八親父たちの前にいたのは西村屋と忠五郎でした。
駿河屋の二階には吉原の親父たちの他に西村屋与八さんと小泉忠五郎さんが居り、蔦重さんは寝耳に水の話を聞かされました。
「忠さんの細見を西村屋さんの後ろ盾で出すって事ですか?」と蔦重さんが尋ねると、「そう。で、忠五郎が『改』に回るのでよろしくと皆様にご挨拶に伺った訳さ」と西村屋さんが答えます。
「けど、忠さんは仲間内ではないですよね?忠さんの細見はウチの本と同じ、浅草界隈だけの摺物って扱いでしょう?」と蔦重さんが尋ねれば、西村屋さんが「だから私と組んで出すって話でね」とぬけぬけと言います。
蔦重さんはカッとなり「そりゃ話がおかしくありませんか?その形は、俺は『定』がある故罷りなんねぇって言われましたが」と反論します。
西村屋さんは「そう!その通り!けど、『蔦重にまともな細見が作れるのか』って向きも多くてね。仲間内から頼まれて、此度に限りこの形が許される事になったのさ」と悪びれず言います。
雲行きが怪しくなり親父たちはにわかに慌て出しました。
大文字屋市兵衛さんが「あの、お仲間内から頼まれたって事は…」と尋ねると、西村屋さんが「まあ、皆ウチの細見を仕入れるだろうね」と答えました。
「じゃあ蔦重が倍売るってのは」と丁字屋さんが尋ねると西村屋さんは「そこなのですよ 」と、さも同情しているような風でため息をつきます。
示し合わせた様に忠五郎さんが「蔦重、お前もこっちに来て共に『改』をやらねえか?」と口添えします。
「俺らのような摺物屋風情が市中の本屋に加わる なんざ、分を弁えろって話…」
「お断りします」
忠五郎さんが皆まで言う前に蔦重さんがきっぱりと断りました。
「とにかく倍売れれば、俺はお仲間に入れてもらえるって約束 なんで。俺は倍売って、地本問屋の仲間入りをします」と宣言しました。
「…そうかい。では皆さん、後はよろしく」
西村屋さんは親父たちに会釈をして忠五郎さんと帰って行きました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

西村屋さんたちが去った後、駿河屋市右衛門さんが「西村屋が来たのはただの『ご挨拶』ではあるまい」と言います。
さらに市右衛門さんは「実はな蔦重…。蔦重の吉原細見を買い入れた女郎屋の女郎は『雛形若菜』に載せねえと脅されたんだ…」と明かしました。
蔦重さんは「そうですか。じゃあ俺が代わりになるもん作りますって事で」と言い、大文字屋市兵衛さんが「話聞いてたのかよ!こうなったらもうお前の細見は扱って貰えねえ。どの道倍なんて売れねえ!お前は板元になれねぇってそう言われたんだよ!」と反論しました。
市右衛門さんも「だからな、板元になるのは諦めろ…」と言います。
「あいつは吉原の事なんてこれっぽっちも考えてねぇんですよ!」
堪りかねて蔦重さんは叫びました。

『べらぼう』より

蔦重は、忠五郎は地本問屋の仲間内ではないはずだと確認します。
>だからこそ西村屋と手を組むんだそうで。
>「定」に反していておかしいと蔦重が指摘すると、その通りだと開き直りながら西村屋は抜け抜けと言います。
鱗形屋親子から細見の版木の譲渡を断られた西村屋さんは自力で細見を発行する事を決断し、以前から細見の「改」をしていた浅草の本屋の小泉忠五郎さんを抱き込みました。
忠五郎さんが改として携わる細見を西村屋さんの後ろ盾で出す事になったと知り、蔦重さんは地本問屋の『定』に反していると反論します。 
地本問屋の鶴屋さんは蔦重さんが細見を出すと宣言した時、「前に仲間内の者しか版元にはなれぬ定とお伝えしたと存じますが。」と言いました。
しかし、西村屋さんは忠五郎さんの参入を「仲間内から頼まれて、此度に限りこの形が許される事になった」と語りました。
江戸時代に本屋仲間に入っていない者が出版した本を『私家版(蔵板物とも)』といい、自由な出版ができたものの出版権の保証がされず、全国への流通はできませんでした。
しかし、板木代などの初期費用がかからず販売の利益だけを得られたため本屋仲間の許可を取って本屋が私家版を売る事もあり、私家版発行者にとっては全国に売る事ができました。
西村屋さんは版木を入手できなくとも忠五郎さんを抱き込み私家版である細見を仲間の許可を得て自分の出版物として発行する事で、忘八と蔑む吉原者である蔦重さんに対抗しました。
さらに女郎屋にも蔦重さんが制作する細見を取り扱ったら不利益になるという妨害工作を仕掛けてきました。
度重なる理不尽と『甘い汁を吸う』地本問屋に「あいつは吉原の事なんてこれっぽっちも考えてねぇんですよ!」
堪りかねて蔦重さんは叫びました。 

・腐れ外道にも「侠気」はあるはずだ?

>入銀ものなら懐も傷まない。
>手も銭も抜き放題。
>その本で吉原を盛り立てようなんて考えは毛筋ほどもねえ。
「あいつの狙いは吉原の入銀です。入銀もんなら売れようが売れまいがてめえの懐は痛まねえ。何なら手も抜き放題。その本で吉原を盛り立てようとか、んな考え毛筋程もねえ!ただ楽して儲けてえだけなんです!」
西村屋さんが『甘い汁を吸い放題』と言った事を蔦重さんは忘れていません。「けど考えてみてくださいよ。奴らに流れる金は女郎が体を痛めて稼ぎ出した金じゃねえですか。それを何で追い剥ぎ みたいな輩にやらなきゃならねえんです?女郎の血と涙が滲んだ金を預かるならその金で作る絵なら本なら細見なら、女郎に客が群がる様にしてやりてえじゃねえっすか!そん中から客 選ばせてやりてえじゃねえっすか!吉原の女はいい女だ、江戸で一番の女だってしてやりてえじゃねえっすか!胸張らせてやりてえじゃねえっすか!それが女の股で飯食ってる腐れ外道の、忘八のたった一つの心意気なんじゃねえっすか!」
蔦重さんの全身全霊の言葉に親父たちは打たれた様に黙り込んでいます。
「そのためには余所に任せちゃ駄目なんです。吉原大事に動く自前の本屋を持たなきゃいけねぇんです。今はその二度とは無い折りなんです。だからどうかつまんねえ奴に負けねえで…共に戦ってください!」
蔦重さんが畳に額を擦り付け、深々と頭を下げました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>あの忘八親父どもが……道徳心なんて捨て去った奴らの顔に何かが浮かんだ。
新興の板元(版元)として名乗りを挙げた蔦重さんに対し、地本問屋仲間たちはまだ仲間でない蔦重の細見ではなく、西村屋の細見を仕入れるので私版の細見は諦めてそちらに合流しないかと誘います。
蔦重さんはこれを一蹴します。
その上、蔦重さんの細見を買い入れた女郎屋の女郎は西村屋の人気錦絵シリーズ「雛形若菜」には載せないと脅し販路を妨害してきました。
地本問屋たちが既得権を死守すべく吉原者が独自に出版する事を許さず、かつて西村屋さんが『甘い汁を吸い放題』と言った事も踏まえ、蔦重さんは親父達の前で「あいつ(西村屋)は吉原を盛り立てようとか良くしてやろうとか、そんな考えは毛筋ほどもねえ、ただただ楽して儲けたいだけ」とぶち撒けます。
その上、「女郎の血と涙が滲んだ金を預かるなら、その金で作る細見なら、女郎に客が群がるようにしてやりてぇじゃないですか。それが女の股で飯食っている腐れ外道の、忘八のたったひとつの心意気じゃねえですか!」と訴え、畳に額を付ける程頭を下げました。
これには徳を忘れ女郎を搾取する『忘八』たちも感銘を受けた様です。
『女の股で飯食っている腐れ外道』なのは蔦重さんも百も承知で、ならば己の利ばかりの市中の地本問屋に女郎たちが体を張って稼いだ金を吸い上げられるよりも、吉原自前の本屋を持ち吉原の忘八の手で盛り立てようと考えたのでした。
SNSには「うっわ!すごい台詞」「すげーワードぶっ込んできた」「女の股で飯食ってる腐れ外道の忘八なんてセリフをNHKで聞こうとは」「こういう啖呵を日曜夜八時のNHKで聞く。胸がすくね」「攻めるねえ今年の大河」「蔦重、よく言った…」といった感想が続々と寄せられたそうです。

・なぜ、日本では『水滸伝』が廃れたのか??

>中国四大奇書という作品があります。
「へぇ、重三がそんな事をね」
見世に戻った松葉屋半左衛門さんが女将のいねさんに蔦重さんの言葉を聞かせています。
「あぁ、花魁たちに胸を張らせてやんのが忘八のたった一つの心意気じゃねえかって。だから共に戦ってくれって。さすがにグッときちまったよ」
蔦重さんの言葉がただの正義感でない事は皆分かっています。
年中吉原を走り回っている蔦重さんを子供の頃からずっと見て来ました。
「戦うってどういう事だい?」といねさんが尋ね、半左衛門さんが「細見を倍売らねえと、お仲間には入れて貰えねぇのさ。で、そこに西村屋が、敵が現れたって訳でさ」と答えます。
いねさんが「西村屋ってのは随分な老舗だろ?重三に勝ち目はあんのかい?」と再度半左衛門さんに尋ねます。
半左衛門さんがふと視線を感じて振り向くと、花の井さんが物言いたげにこちらを見ていました。
「…花魁、一つ俺たちも考えてみるかい?細見を倍売る手立てをさ」
半左衛門さんがそう言うと、滅多に感情を見せない花の井さんが「あい!」と明るく答え、この時ばかりは嬉しそうに破顔しました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>中国四大奇書という作品があります。
>『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』
>『べらぼう』と何の関係があるのか?
>ありやす、ばっちしあります。
(中略)
>そりゃ『水滸伝』に興味持たれねえわ。
>でもそれじゃあ、いかんでしょ?
>松葉屋では、いねが夫からその話を聞いています。
何見氏は事あるごとに所謂江戸っ子風の『べらんめえ口調』の話し言葉でレビューをかいていますが、読者の殆どが気を許した友人ではなく顔も見た事の無い赤の他人なのではないですか。
私的なブログではなく、商業アフィリエイトブログの原稿なのできちんとした日本語でレビューを書き、砕けすぎた表現は控えた方が良いと思います。
それと『べらぼう』と関係があると推している様ですが、この項目の大半が『中国三大奇書』、殊に『水滸伝』と忘八が如何に繋がりがあるかに終始し、項目の半分が必要のない話になっています。
『松葉屋では、いねが夫からその話を聞いています。』とありますが、何見氏の文章では『『水滸伝』に興味持たれない』という話をいねさんが聞いた様にさえ見えます。
いねさんは夫の半左衛門さんから「花魁たちに胸を張らせてやんのが忘八のたった一つの心意気じゃねえかって。だから共に戦ってくれって。さすがにグッときちまったよ」と蔦重さんの言葉に感銘を受けた事を聞いたので、「重三がそんな事を」と感心しているのです。
そして花の井さん共々松葉屋夫妻は『細見を倍売る手立て』を考える事にしたのです。

・なんとしても西村屋に勝つためには、ネタを増やす

>西村屋と忠五郎が打ち合わせをしております。「西村屋が出て来たって事は」
「倍売るも何も、そもそもこちらの細見は扱って貰えぬ事もある訳か」
蔦重さんから話を聞いた次郎兵衛さんと新之助さんが考え込みました。
蔦重さんが「地本問屋の親父たちがその関わりを振り切ってもこっち を置いてみたいって考える、決め手が何かあれば良いんですが」と言います。
新之助さんが「持ち歩きしやすく、半値。もう十分な気がするが」と言うも、後が無い蔦重さんが「よし、もっとネタを増やしましょう」と言い出しました。
「えっ、これ以上にか!?」
次郎兵衛さんと新之助さんの目がまん丸になりました。
蔦重さんが「実はちょいと気になってたとこではあるんでさ。半値なら細見を買うって連中がいたとして、そいつらが行ける見世ってなぁ、ここに載ってる大見世じゃねぇなって。こうなりゃ、河岸見世まで全て載せるつもりでやりましょう!」と言います。
新之助さんが「薄さは諦めるのか?」と尋ねると、蔦重さんは「いや、薄いまま全て入れ込みます」と答えます。
これには「お前、これ以上に詰め込むなんて。どうやっても無茶だろ」と次郎兵衛さんが呆れています。
蔦重さんが「無茶でも!無茶だからこそ、値打ちがある。決め手になるってもんじゃねえですか!」と言うと、根負けした新之助さんが「…よし、女郎屋の所から見直そう」とため息ひとつ動き出し、次郎兵衛さんは「え〜」と天を仰ぎました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

それからは怒涛の日々が続きました。
割り付けのやり直しが続き、「…ああ〜!もう~!」と苛立って紙を引き裂いたり荒れる新之助さんを蔦重さんが「最後なんで!」と吉原名物の巻せんべいや甘露梅で宥めます。
手伝いよりも菓子の次郎兵衛さんには「貴方何やってんですか。手伝ってくださいよ!」と新之助さんが苛立ちをぶつけました。
倒れ込み「もう無理〜!」と愚痴る新之助さん。
「留〜!」
「あ〜い!」
新之助さんの八つ当たりを受けて次郎兵衛さんが留四郎さんを呼びました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

彫師の四五六さんはあまりの安値と文字の詰まり具合に怒り心頭で、「こんなもん吉原十遍でも足りねえぞ、えぇ!」と蔦重さんに怒りをぶつけ、蔦重さんが「申し訳ねえ。ごめんなさい。すいやせん」と平謝りしています。
ついにキレた四五六さんが「謝りゃ良いと思ってんだろ!」と商売道具のノミを投げつけ、柱に刺さり蔦重さんが「道具は大事にしてくださいよ」と驚いて宥めています。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

見世の前では西村屋の改である小泉忠五郎さんと鉢合わせになり、蔦重さんは「舐めるな」と威嚇され足を踏まれました。
蔦重さんは「踏んでます」と冷静に切り抜けます。

『べらぼう』より  

>忠五郎は闘争心に火がついている。
>彼は、わきまえない蔦重に怒りをたぎらせていました。
>めんどくせえけどよくいるタイプね。
>酷い扱いをしている会社や上司でなく、労働条件の改善を求める同僚にキレ散らかすタイプよ。>おめえみたいな奴が世の中を悪くしているって気づいて欲しいぜ。
『酷い扱いをしている会社や上司でなく、労働条件の改善を求める同僚にキレ散らかすタイプ』
地本問屋からコケにされる蔦重さんにかこつけ『界隈から嫌われる私と一緒!』と意見の違う人を見下してキレている何見氏が忠五郎さんの事を悪く言えた義理ありますか。
『おめえみたいな奴が世の中を悪くしているって気づいて欲しいぜ』
ブーメランでしょうか。

・西村屋を蹴散らす秘策?

>花の井が、松葉屋夫妻と『細見』を見ています。
河岸見世の二文字屋では、女将のきくさんを筆頭に女郎たちが細見の製本を手伝っています。
新之助さんは「マブだと思って摺りなんし〜」と揶揄われながらも共に作業をします。
女郎たちが歌を口ずさみ、摺り、折り、裁断、綴じと作業が続きました。
とにもかくにも蔦重版吉原細見は完成に近づきました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

松葉屋では、半左衛門さんと女将のいねさんと花の井さんが歴代の細見を山積みにして知恵を絞っていました。
「細見というのはさほど変わり映えもせんもんでありんすな」
「どう作ろうが載ってる事は同じだからねぇ」
途方に暮れている花の井さんと半左衛門さんの傍らで、いねさんが何冊か細見を手に強かな笑みを浮かべました。
「見切ったざんす。細見がバカ売れするのは名跡の襲名が決まった時さ!」
いねさんの言葉を聞いて花の井さんと半左衛門さんはハッとしました。
いねさんが「有名な名跡の襲名が決まった時の細見ってのは、どれもこれも売れてやしなかったかい」と言い、半左衛門さんも興奮気味に「売れた!売れてたよ!あの子、染衣が四代目の瀬川が名跡を継いだ時も!」と言います。
花の井さんは意を決した様に「…ならば」と口を開きました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

その頃、蔦重さんは九郎助稲荷に完成した細見を納め、パンと手を合わせていました。
「お稲荷さん。なんとか倍売ってくれ。頼むぜ」
新しい吉原細見の題名は『籬(まがき)の花』。
籬とは表通りの格子ではなく入り口の脇土間と張見世を仕切る格子の事です。
籬によって格の違いはあれど、中の女郎たちは皆精いっぱい花を咲かせています。
蔦重さんがいつもより念入りに拝んでいると、後ろから花の井さんの声がしました。
「蹴散らせそうかい?西村屋の細見は」と言いながら鳥居を潜って来ます。
蔦重さんが「これでダメならもう江戸中担いで回るの助だ」と言います。
「良いねえ。べらぼうだ」と花の井さんは機嫌よく笑いながら蔦重さんに二つ折り紙を渡して来ました。
花の井さんが「ウチで女郎の入れ替えがあったんだよ。悪いけど直してくんな」と言い、蔦重さんが「え!直してってお前、もう綴じちまって」と戸惑います。
蔦重さんは困った事になったと思いながら紙片を開きました。
次の瞬間、蔦重さんはアッと息を呑みました。
「お前、これ…」
紙片には『花の井改め瀬川』と書いてあります。
花の井さんは「名跡襲名の時の細見は売れるって言うし、しかも二十年近く空いていた名跡が蘇るんだよ。直す値打ちはあるんじゃないかい?」と言います。
蔦重さんが「けど、けど、お前。瀬川ってのは不吉の名じゃねぇか。んなもん負っちまってお前」と動揺しています。「不吉の理由は最後の瀬川が自害しちまったからだけど。まことのとこを改めて聞いてみたら、どうも身請けが嫌でマブと添い遂げたかった、それだけらしくてさ。そんな不吉はわっちの性分じゃ起こり様が無い事だし。わっちが豪儀な身請けでも決めて瀬川をもう一度幸運の名跡にすりゃ良いだけの話さ」と花の井さんはサバサバと言ってのけました。
蔦重さんは圧倒され「…男前だなぁ、お前」としか言葉が出てきません。
「じゃあそれ頼んだよ」
お使いでも頼む様な気軽さで帰って行く花の井さんを蔦重さんが呼び止めました。
「花の井!…いつもありがとな」
「前にも言ったと思うけど、吉原を何とかしたいのはあんただけじゃない?だから礼にゃ及ばねえ。けど…任せたぜ、蔦の重三」
最後は蔦重さんの褒め言葉の様に花の井さんは男前に決めました。
「…おう、任せとけ」
蔦重さんがそう言うと花の井さんはふっと笑って去って行きました。
これで王手を打ってやる。
蔦重さんは紙片を握り締め駆け出しました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>そして蔦重たちは、いよいよ印刷へ。
>二文字屋の女郎と歌いながら印刷をこなす面々。
>からかわれつつ仕事に励む新之助も、元気を取り戻しています。
河岸見世の二文字屋では、女将のきくさんを筆頭に女郎たちが細見の摺りと製本を手伝っています。
『べらぼう』作中での製本は『和綴じ(四ツ目綴じ)』の様です。 
きくさんのセリフに「刺しなんし〜」と口ずさむ歌があるのでこれは『四ツ目綴じ』での糸を通す穴を千枚通しで開ける作業だったのではないでしょうか。
他にも女郎たちが摺り、折り、裁断、綴じの作業をしています。

板元は、現代でいう出版社です。
板元は浮世絵や本の企画から制作資金の調達、彫師・摺師などの職人との交渉、工程管理、さらに販売、版木の管理まで担う様になります。
蔦重さんの細見はギリギリまでコストダウンするため頁数が減らされ、文字の間が詰められました。
また、摺り師を頼まず、河岸見世の女郎たちによる『問屋制家内工業』にして製作資金をなるべく使わない様にしたのではないでしょうか。
問屋制家内工業とは、問屋などが原材料や道具を職人などに貸して商品を買い取る産業形態です。

『べらぼう』より

>「名跡襲名は売れる、二十年空いていた名跡が蘇るのならば、直す価値はある」
>花の井がそう告げると、蔦重が「瀬川は不吉な名前じゃねえか」と気にしています。
不吉のワケは最後の先代が自害したからさと瀬川。
>そのいきさつを聞いたら、見受けが嫌で、“マブ”と添い遂げたかっただけだと語ります。
『見受け』ではなく『身請け』です。
身請けとは芸娼妓を年季中に代償を支払って落籍させる事です。
芸娼妓の場合の身請け金は、身代金(前借金)以外の付加借金などが加算されたが、明確な算出基準があった訳ではありません。
高級遊女の身請けには1000両以上を要しましたが、身請け後に離縁する場合の生活保証を明記した身請け証文が伝えられています。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

紙片には『花の井改め瀬川』の文字。
吉原でも指折りの大見世『松葉屋』に代々伝わった名跡で、江戸時代を通じてこの名を背負った遊女は九人いました。
有名絵師たちも歴代『瀬川』をモチーフに作品を描いています。
初代瀬川は元々医師の娘で武士の許に嫁ぎましたが、夫が盗賊に殺される悲劇に見舞われました。
彼女は困窮して松葉屋の遊女となり「瀬川」を名乗りました。
享保年間(1716年〜1736年)に吉原で夫の敵に出会い、仇討ちを果たしたそうです。
花の井さんが話していた先代に当たる四代目『瀬川』は下総(千葉県の一部)の農家の出身で宝暦年間(1751~1764)に活躍し名妓の誉れ高い花魁でした。
紫式部に似ているので『小紫』と呼ばれ、和歌、漢詩、書、三味線、浄瑠璃、占いなど、ありとあらゆる芸事に通じていました。
御用達の豪商江戸屋宗助に身請けされましたが、28歳の若さで亡くなりました。
若くして亡くなったため「自害した」などの噂がでたのかもしれません。

名付けや位決めには、見世の楼主(主人)や女将の意向も重要でした。
殊に高位の花魁は、関係する茶屋などが口を出す場合もあったそうです。
作中の花の井さんの五代目襲名の様に新たな花魁の襲名披露で利を得る場合などは特に慎重になったのではないでしょうか。
女郎の名跡はしばしば古典落語のモチーフにもなり、『瀬川』の名跡は『松葉屋瀬川』という名作落語になりました。
下総古河・下総屋の若旦那・善次郎と遊女の瀬川の恋愛模様を巡る人情噺です。

「雛形若菜の初模様・松葉屋瀬川 さゝの 竹の」
鳥居清長 画
東京国立博物館 所蔵

・『吉原細見』、完成?

>さて、いよいよ『細見』ができました。
「この頃の地本問屋は一般的な買い付けの他、自前の本を交換して仕入れ合う習慣がありました」と語りが入ります。
鶴屋の裏手の会所には地本問屋たちが集まっていました。
西村屋与八さんと小泉忠五郎さんの前には新しい細見が並べられ、皆見本を手に取って感心しています。
「はあ…こらまた美しい。小川紙ですか?」
奥村屋源六さんが紙に手を滑らせました。
西村屋さんは「ふふ、忠五郎のおかげでまこと 良い出来となってさ」と言います。
村田屋治郎兵衛さんが「これだけ上品な仕立てなら、贈答の用が増すだろうな」と言います。
吉原の案内目的ではなく、地方から来た観光客が江戸土産に細見を買い求める事も多いのです。
「題も良いですね。新しい細見はこれだ!と意気込みが伝わります」と、鶴屋喜右衛門さんが褒めます。 
その名も『新吉原細見』。
西村屋さんは得意満面です。
「ところであの男は来ないのかね」 
奥村屋さんの言う『あの男』とはもちろん蔦重さんの事です。
「尻尾巻いて逃げ出したのかもしれねぇな」
松村屋弥兵衛さんが笑います。
西村屋さんが「まさか然様な事は」と言いつつ嘲笑を浮かべたその時―

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

「遅くなりました!」と蔦重さんが大きな荷を担いで入ってきました。
「どうもどうも危うく遅まき唐辛子。なんつって、すぐに支度 いたしますので」
軽口を叩きながら末席で荷を解いていると、鶴屋さんがやって来ました。
「楽しみにしていたんですよ。倍売れる細見とやらを」
密かに身構えていた蔦重さんは思いっきり愛想笑いを浮かべ「あ、ありがとうございます!ではどうぞおーっ!」と言いました。
そして懐からスッと細見『籬の花』を取り出し、鶴屋さんに差し出しました。
見たこともない薄さに鶴屋さんが絶句し、西村屋さんたちも唖然としています。
鶴屋さんが「…随分と薄いようですが」と尋ね、蔦重さんが「へぇ。持ち歩ける様に。細見はそもそも歩きながら使うものでございますし」と答えます。
地本問屋たちが寄ってきて品の無い仕立てだのなんだのと『籬の花』を腐し始めました。
西村屋さんが「斯様に薄っぺらな、中も軽薄なんじゃないかい?」とケチをつけます。
「どうでしょう」
蔦重さんがニンマリとします。
中を見て驚きやがれ、べらぼうめ。
鶴屋さんが本をめくると、横から覗いていたら奥村屋さんが「なんじゃこりゃ!」と素っ頓狂な声を上げました。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

「全ての店を入れ込むとこうなりまして」
ぎっしりと女郎屋の名前が詰まった各町の地図は地本問屋たちの度肝を抜きました。
「す、全て入ってんのかい!これで!」
「へぇ。河岸の安見世に至るまで 全てを入れ込みました。女郎屋を睨み合いの形にするなど、見せ方を工夫しまして何とか収めまして」と蔦重さんが言います。
動揺を見せまいと鶴屋さんは口を引き結び本を繰っていきます。
その時、勝手に別の一冊を見ていた 松村屋さんが驚愕して叫びました。
「瀬川!瀬川って、あの瀬川か?」
蔦重さんは取り立てて騒ぐ事ではないという様にさらりと言います。
「へぇ、不吉の名跡とされ、もう二度と名乗る者は無いと言われてたあの瀬川です。先日それでも名跡を継ぐという花魁が出まして。五代目の襲名と相成りました」
西村屋さんと忠五郎さんがみるみる青ざめていきます。
「決まったのが遅うございました故、今朝まで 直し…大変でしたよね。西村屋さん」と蔦重さんが問うと西村屋さんが「…え?」と言います。
蔦重さんがさらに「え?まさかそちらの細見には載っておらぬのですか?」と畳み掛け、松村屋さんが「載ってねえのか?そっちには」と西村屋さんに問い質すような眼差しを向けます。
「まぁ、仕方中橋!吉原の外にいる方に応じるというのも難しいでしょう」
蔦重さんのささやかな嫌味に、忠五郎さんが悔しそうに唇を噛みます。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

蔦重さんがダメ押しとばかりに、『籬の花』を二冊手に取り、西村屋さんに差し出して「取っけえてください。その細見一冊と」と言いました。
西村屋さんが「一冊と?」と尋ねます。
蔦重さんが「へぇ。うちは薄っぺら で粗末なもんで、随分 安く作れまして皆さまにも従来の半値で売って頂きたく」と言い、西村屋さんは「半値?」と腰を抜かさんばかりです。
細見を見ていた鶴屋さんも思わず目を上げ、蔦重さんを振り返りました。
「この細見は巷のありふれた男たちにも買って貰いてえと思ってます。その時に四十八文か二十四文かは大きな違ぇだ。四十八文なら見送るけど、二十四文なら買う奴は必ずいる。半値なら一つ隣の親父の分も買ってやろうという奴もいましょう。この細見はそこを当て込んでいます。しかも これは世に聞こえた名跡・瀬川の名が載る祝儀の細見」
蔦重さんが地本問屋たちに向かって言うと蔦重さんは鶴屋さんに視線を移しました。
「どうでしょう。俺の細見は。倍売れませんかね?」 
「売れるかもしれませんね」
鶴屋さんは気を取り直した様にいつもの穏やかな笑みを浮かべました。
遠目から「百部くれ!百部!」と大きな声が掛かりました。
「これ売れるだろう!必ず!すまねえな西村屋さん!」
声の主は岩戸屋源八さんでした。
これを機に 西村屋さんとあまり交流のない地本問屋が一斉に『籬の花』に群がりました。
「ああっ、うちもくれ! 三十……いや、五十、5五十くれ!」
忙しく本の交換に応じている蔦重さんを、西村屋さんと忠五郎さんが屈辱に震えながら見つめています。
鶴屋さんもその様子を見ていましたが、やがて ぽつりと独り言ちました。
「まあ倍は売れるかもしれませんが…」
その頃、鱗形屋では。薄闇の中、次男・万次郎さんが字の手習いをしています。
戸の開く音に振り返ると、須原屋市兵衛さんに支えられ髪を乱した鱗形屋孫兵衛さんの姿がありました。 
「今戻った」

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

>小川紙を表紙に使って高級感をアピールする作りなんだとよ。
贈答に向いていて土産になるとすれば、こういう装丁の路線がピッタリなんだとさ。
前述しましたが、私的なブログではなく商業サイトのレビューですので、砕けたべらんめえ口調や乱暴な口語ではなく丁寧なですます口調で書いては如何でしょうか。
西村屋さんが蔦重版の細見と差別化を図るため、武蔵の地場産業である最高級の小川紙を使ったので贈答品向きになったという描写なのですが、解説もなく産業自体を卑下する様な言い方は如何かと思います。
小川紙(小川和紙)とは、埼玉県比企郡小川町周辺で生産されている和紙の事で、その最高級品が『細川紙』です。
埼玉県比企地域での和紙作りの歴史は古く、日本で紙作りが本格的に国産化された奈良時代からすでに生産されていたといわれています。
奈良時代に編纂された『正倉院文書』によると、天平九年(737年)には、美作・出雲・播磨・美濃・越前などで本格的に紙漉きが始まったそうです。
宝亀五年(774年)の記述に『武蔵国紙』という文言が見られ、この『武蔵国紙』が小川和紙の起源ではないかといわれています。
江戸時代になると、江戸の繁栄とともに和紙作りも盛んになり、比企郡・大里郡・秩父郡に於いては文化十四年(1817年)には705戸、幕末の慶応四年(1868年)には1336戸の和紙製造家があったとの事です。
冬の日差しに天日干しにされた小川和紙が陽の光に輝く姿はまさに千両にも値するという事から『ぴっかり千両』という言葉が生まれました。
平成二十六年(2014年)には石州半紙・本美濃紙・細川紙が『和紙 日本の手漉き和紙技術』としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。

>タイトルも『新吉原細見』だとよ。
>現代ならさしずめ『シン・吉原細見』かね。
>鶴屋も褒めてますぜ。
『吉原細見』の最も古いものは、貞享年間(1684〜1688年)のものという説があり、当初は一枚刷りで吉原の地図が掲載されたものでした。(作中で留四郎さんが話していましたが。)
やがて横本の形に統一され、享保年間の中期1725年頃には、地本問屋によってかなりの点数が発行されたそうです。
享保十三年(1728年)には、湯島の相模屋与兵衛が『新吉原細見之図』という小本横綴(横長に綴じられた本。美濃紙を二つ折りにした大きさの美濃本や半紙本といったものをさらに横に二つ切りや三つ切りにした本)の細見を発行し、評判を取りました。
人気の冊子だったため版元もこぞって乗り出しましたが、元文三年(1738年)頃には、『吉原細見』を刊行する版元は鱗形屋と山本九左衛門の二つになり、次第に『吉原細見』発行は鱗形屋のほぼ独占状態になりました。
版木は証券同然に取り扱われ、出版業者の間で板木を売り買いする事も出来ました。
板元は元の板元の『出版権』を買うか仲間の許可を得るかして権利を有したため、作中で西村屋さんが『新吉原細見』の表題を使える様にすれば良い訳で、鶴屋さんが「題も良いですね」と褒めているという事は認められているのではないでしょうか。

『べらぼう』より

>中身はさらにべらぼうでね。
>目にした連中は驚いています。
>全見世入り込んだレイアウトに驚いています。
>そして「瀬川」の名前に一同驚愕。
>五代目瀬川襲名に度肝を抜かれておりやす。

鱗形屋の重版事件を機に『吉原細見』の出版に乗り出した蔦重さんは横本から縦本に改め、『吉原細見 籬乃花』を刊行しました。
『籬(まがき)』とは竹や柴などで目を粗く編んだ垣根の事で、遊郭では遊女屋の入り口の土間と店の上がり口との間の格子戸を意味します。(出典 小学館デジタル大辞泉)
吉原の場合、妓楼には往来に面した店先に女郎たちが居並ぶ張見世があり、『花』に例えられる女郎たちを紹介する冊子という意味でしょうか。

『吉原格子先之図』
葛飾応為 画
太田記念美術館 所蔵

吉原内の道を地図のように描き、店の場所と所属する遊女が一覧できる様にし、文字などを圧縮して徹底して情報を詰め込みました。
また、これまでの細見には掲載されていなかった河岸見世の女郎も紹介しました。
見開き(一丁と呼ぶ)に多くの情報を詰め込んだ事により、従来の細見に比べ頁数を半分程度の23丁に減らしました。
徹底的な コストカットで客が持ち歩きやすく、四十八文のところを二十四文と従来の半値で手に入れられる様にしたのです。
江戸時代の換算相場は「金1両=銀60匁(もんめ)=銭(銅)4000文」なので、銀1匁=2166円、1文=32.5円。現在の金額で780円で買えました。
因みに蕎麦一杯は16文。現在の金額で520円です。
さらに作中では松葉屋の花魁・花の井さんの五代目『瀬川』襲名を吉原細見の中で掲載していましたが、蔦重さんは「巷のありふれた男たちに買ってもらいてえと思っています。しかも、これは世に聞こえた名跡、瀬川の名が載る祝儀の細見!」と周囲の度肝を抜き購買意欲を煽ったのでした。五代目『瀬川』襲名の情報は蔦重さんが吉原者だからこそ、吉原独自の情報だからこそ、才覚が発揮された案内でもありました。
現在はパブリックドメインとなっておりオンラインで全ページ読む事ができます。

相模屋与兵衛『新吉原細見之圖』
享保十三年(1728年)刊
国書データベース
鱗形屋孫兵衛『細見花の源』
安永四年(1775年)刊
国書データベース
蔦屋重三郎『新吉原細見 籬乃花』
安永四年(1775年)刊
江戸東京博物館所蔵
国書データベース
蔦屋重三郎『新吉原細見 籬乃花』
安永四年(1775年)刊
江戸東京博物館所蔵
国書データベース

そして「瀬川」の名前に一同驚愕。五代目瀬川襲名に度肝を抜かれておりやす。
>この場面は、声優のキャスティングが効いておりまして、声だけで誰が驚いているか把握できます。
「瀬川!瀬川って、あの瀬川か?」と驚愕する地本問屋・松村屋弥兵衛さんを演じているのは高木渉さんです。
「百部くれ!百部!これ売れるだろう!必ず!すまねえな西村屋さん!」と言った岩戸屋源八さんを演じているのは中井和哉さんです。
お二人とも声に覚えのある声優さんです。

『べらぼう』より
『べらぼう』より
『べらぼう』より

・MVP:花の井改め瀬川?

>江戸っ子の好みは、女だろうと「男前」で「侠気」を持ち合わせてなけりゃならねえ。
>そのことを描いてきました。
>キャラクターとして素晴らしいというだけでなく、江戸っ子の好みにピタッとハマるところが粋の極みですね。
西村屋与八さんが浅草の本屋の小泉忠五郎さんを『改』として抱き込み、さらに吉原の妓楼にも蔦重さんの細見を取り扱えば不利益になるという妨害工作を仕掛けて来たため、さしもの忘八親父さまたちも意気消沈していました。
しかし、西村屋さんの本性を知る蔦重さんは「あいつは吉原を盛り立てようとか良くしてやろうとか、そんな考えは毛筋ほどもねえ、ただただ楽して儲けたいだけだ」と親父さまたちに訴えました。
さらに「女郎の血と涙が滲んだ金を預かるなら、その金で作る細見なら、女郎に客が群がる様にしてやりてぇじゃないですか。それが女の股で飯食っている腐れ外道の、忘八のたったひとつの心意気じゃねえですか!」と頭を下げました。 
女の性を切り売りしているという倫理観は別として、『腐れ外道の忘八』と蔑まれた吉原者が女郎たちにしてやれるのは『吉原のため、女郎たちのために吉原大事に動く自前の本屋を持ち、華やかに演出してやる事だ』と蔦重さんは訴えたのです。
それに真っ先に応えたのが花の井さんの所属する松葉屋の夫婦でした。
『松葉屋』に代々伝わった名跡『瀬川』は名妓の誉れ高くも歴代の悲劇から不吉の名でもありました。
しかし、花の井さんは「わっちが豪儀な身請けでも決めて、瀬川をもう一度幸運の名跡にすればいいだけの話さ」と事も無げに言いました。
花の井さんからすれば、『吉原を盛り上げる事』の他に、『叶う事が無い『間夫』の蔦重さんの後押しをしたい』という切ない幼馴染を慕う気持ちもあったかもしれません。
蔦重さんはそんな花の井改め『瀬川』の心意気を『男前』と評しました。
蔦重さんは吉原界隈の皆の手を借り、さらに既に製本した細見に『瀬川』の名跡を入れ、満を持して『吉原細見 籬の花』を世に出したのです。

・総評?

>今週は声優さんが多数登場したこともあり、どうしたって「オタク文化」を考えてしまいまして。
>そんなときにこんなニュースが飛び込んできたワケですよ。
>アニメ産業崩壊リスクに国連も警鐘――ってやつ。 
>「クールジャパン」で検索をかけりゃ、お上のサイトが出てきます。
>でもこれっておかしいんじゃねえか?と思うワケです。
『発想をドンドン出しお上に目をつけられるワルいエンタメを作った蔦重はすごい!仲間うちや既得権に頼って自分の利益ばかり追い求める奴は産業ごと潰す!「クールジャパン」は悪!アニメ産業は崩壊する!』と言いたいのでしょう。
『べらぼう』には地本問屋たちを演じる高木渉さん、関智一さん、松田洋治さん、中井和哉さんだけでなく、扇屋宇右衛門役の山路和弘さんという声優メインの方々だけでなく、鶴屋喜右衛門役の風間俊介さんの様に声優として出演経験のある俳優さんもいます。
いずれも日本のアニメーションの屋台骨を支えてきたベテラン・中堅声優さんたちが演技の幅や裾野を広げるために俳優として『べらぼう』に出演していたのですが。
彼らの地盤であるアニメ、ゲーム等のコンテンツや応援するファンを見下し『既得権益である「クールジャパン」に加担する悪』の様に悪様に言うのは如何かと思います。

『べらぼう』より


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?


いいなと思ったら応援しよう!