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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第32回

8月下旬になりました。まだまだ残暑が厳しいですが、皆様健やかにお過ごしでしょうか。
台風による災害や熱中症アラートが発令されるなどする季節なので、皆様健康には充分お気を付けください。 
さて、光る君へ第32回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

 >「物語のことは忘れておった」なんて言ったかと思えば「続きが読みたい」と、コロコロ態度を変える一条天皇
>担当編集者(道長)にしてみりゃ胃の痛い事態ですが、一方、著者のまひろは、さして気にしていない様子。
道長卿が「お上、過日差し上げた物語は如何でしたか?」とまひろさんの書いた物語について帝に尋ねると帝は「忘れておった」と仰り、道長卿は困惑します。
道長卿はまひろさんに「心にかなわなかった」と伝えますが、まひろさんのは「帝にお読みいただくために書き始めたものですが、最早それはどうでもよくなったので落胆はしない」と言います。
後日、帝は物語をお読みになり、『桐壺』の巻の内容から「あれは朕への当てつけか」とお尋ねになりました。
帝は書いた人物にご興味を持たれ、道長卿は「前越前守の藤原為時の娘、まひろである」と答えます。
帝は「唐の故事や仏の教え、我が国の歴史などをさりげなく取り入れておるところなどの博学ぶりは、無双と思えた」と物語をお褒めになり、まひろさんは彰子さま付きの女房として出仕する事になりました。

>寛弘2年(1005年)
寛弘2年(1005年)3月27日。
一条帝と亡き皇后定子さまの女一宮である脩子(ながこ)内親王の裳着が行われました。
帝の定子さまへの執着はお強く、未だ公卿に復帰していない藤原伊周卿を大臣の下、大納言の上に座らせる様にお命じになりました。
脩子内親王の裳着の儀式では、公卿たちが居並ぶ中、伊周卿が「席を譲られよ」と藤原道綱卿に自分の席のを空けるよう命じます。
突然の席次変更に「えっ、ここに入るの?」と道綱卿が戸惑い、公卿たちが少しずつ移動して伊周卿の席を作ります。
遅れて道長卿が着席し、帝がお出ましになりました。
伊周卿の昇殿は脩子内親王の裳着に参列させるため、表向き帝がお許しになったとされていましたが、真の目的は道長卿への牽制のためでした。
道長卿は内親王の裳の腰紐を結ぶ、『腰結』の役目を任されていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>寛弘2年(1005年)、帝と定子の遺児である脩子内親王の着袴が行われます。
何見氏の言う『着袴(ちゃっこ)の儀』は子供が男女ともに初めて袴を着け幼児から児童に成長したことを祝う儀式です。(指摘され訂正したようですが違いはわかっていて書いているのでしょうか)
『源氏物語』では、第一帖『桐壺』で源氏の君が、第十九帖『薄雲』で明石の姫君が、それぞれ3歳で袴着を行っています。

寛弘2年(1005年)3月27日、脩子内親王の『裳着』の儀が行われました。
『裳着の儀』は平安時代の女性にとっての成人式です。
通例では初潮迎えた後の10代の前半で行われ、婚姻を結ぶ事ができるようになりました。
白粉や引眉、お歯黒などの化粧などとともに正装である女房装束を着用します。
そして、『腰結(こしゆい)』と呼ばれる一族の人望のある男性が『裳』を腰に結び人生の門出を祝福しました。
脩子内親王の場合は道長卿が腰結を務めています。
『御堂関白記』寛弘二年(1005年)三月二十七日条には、『一日中、大雨が降った。一宮(敦康親王)の(一条)天皇との御対面と、女一宮(脩子内親王)の御裳着の儀があった。』とあります。

出典 小学館デジタル大辞泉

>帝はまだ定子へ執着していました。
>彼女の兄である藤原伊周を、公卿でもないのに大臣の下、大納言の上に座らせたのです。
長徳の変後、今や道長卿は左大臣という公卿の頂点に立ち、一方で伊周卿は官職がないままでした。
そこで道長卿の権勢を警戒し『亡き定子さまの兄・伊周卿の復権』をお考えになった一条帝は脩子内親王の儀式にあたって、『(伊周卿を)大臣の下、大納言の上に列する様に』と宣旨をお出しになります。
『大臣の下、大納言の上』とは、所謂『准大臣』や『儀同三司』と呼ばれ、伊周卿は大臣に準じる席次に座れる待遇を受ける事になりました。
『御堂関白記』寛弘二年(1005年)二月二十五日条には『前帥(さきのそち)藤原朝臣(藤原伊周)の座次(ざじ)を、大臣の下、大納言の上に列するということを、外記(惟宗)行利に命じて宣旨を下させた。』とあります。
そして3月27日には脩子内親王の裳着が行われました。
『御堂関白記』寛弘二年(1005年)三月二十七日条には、『一日中、大雨が降った。一宮(敦康親王)の(一条)天皇との御対面と、女一宮(脩子内親王)の御裳着の儀があった。』とあります。
そこでは前帥(伊周卿)が初めて公卿の列に列したとあります。

『御堂関白記』寛弘二年(1005年)二月二十五日条
『御堂関白記』寛弘二年(1005年)三月二十七日条

・まひろ、作家として覚醒する?

>早春のころ、まひろといとは小さな仏像に合掌しております。
春になり、外では鶯が囀っています。
まひろさんは自邸で仏像に花を供え、いとさんと共に手を合わせています。
まひろさんが「母上も春が好きだった」と言い、いとさんが頷きます。
その時外から乙丸ときぬさんの言い争う声が聞こえてきました。
きぬさん曰く「紅を買おうとしたのに、そんな余計なものを買うなと言ったんですよ!」との事。
どうやらきぬさんが紅を買おうとしたら乙丸が反対したらしいのです。
きぬさんは「私は京に来てから紅も白粉も買っていないのに。越前に帰る!」と言います。
一方、乙丸は「こいつが美しくなって、ほかの男の目に留まるのが怖いのです。こいつは、私だけのこいつでないと嫌なのです」と気持ちを吐露しました。
きぬさんが愛おしげに乙丸の頬を撫でながら、「だったらそう言えばいいじゃないか、うつけ」と言い乙丸が謝ります。
夫婦喧嘩は収まり、まひろさんといとさんは困惑しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

いとさんが「お方様も亡き殿様とよく喧嘩をなさいました」言い、火取りの灰を投げつけた事に言及します。
まひろさんが「そんな事あったかしら」と惚けると、いとさんは「殿とお方さまの喧嘩であれに過ぎるものはありませんでした」と面白がっています。
まひろさんが文机に紙を広げるのを見たいとさんが「先だって左大臣様にお渡しした物語はどうなったのでしょう?」と尋ねます。
まひろさんは「あれからお返事はない。きっと帝のお気に召さなかったのよ」と答えます。
いとさんは「よいお仕事になりそうだったのに」と残念がっています。
まひろさんは気にも留めず「でもあれがきっかけでどんどん書きたいものが湧き上がってくるの。帝のおためより何より、今は私のために書いているの」と話します。
いとさんが「それはつまり、日々の暮らしのためにはならぬという事でございますね」と不安そうに尋ねますが、まひろさんは無言で物語を書き綴ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>金にならないことを突き詰めてゆく――
>なんだか父に似てきたまひろ。
いとさんから「先だって左大臣様にお渡しした物語はどうなったのでしょう?」と尋ねられ、まひろさんは「あれからお返事はない。きっと帝のお気に召さなかったのよ」と答えます。 
まひろさんは四条宮で公任卿の北の方・敏子さまに請われ和歌の指南をしながら執筆しています。一家の主である為時公は散位し、彼も道長卿の嫡男・頼通卿の指南役で食い繋いでいる現状では生活も不安定で、道長卿によって帝にまひろさんの書いた物語が献上されれば纏まった収入を得られるといとさんは考えたのでしょう。
実情は帝に献上されたもののまだ道長卿からその後の詳細が語られないため、物語の続きをどうするとも分からないため、いとさんは「日々の暮らしのためにはならぬという事でございますね」と不安なのだと思います。
しかし、まひろさんは「帝のおためより何より、今は私のために書いている」と湧き上がる創作意欲に忠実に執筆活動に勤しんでいるのでしょう。

・伊周の復活?

>内親王の着袴のあと、道長は土御門にて漢詩の会を開催しました。
脩子内親王の裳着から数日後、道長卿は土御門殿で漢詩の会を催しました。
そこには伊周卿と隆家卿も招かれていました。
伊周卿が「私の様な者までお招きくださりありがたき幸せに存じます」と礼を述べ、それに対して道長卿が「楽しき時を過ごして貰えば私も嬉しい」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

そして『儀同三司・藤原伊周殿』と紹介され、伊周卿が作った漢詩が読み上げられます。
『春帰りて駐(とど)まらず 禁(た)え難きを惜しみ…』
続きが伊周卿の声で読み上げられました。

「花落春帰路」
春帰りて駐(とど)まらず 禁(た)え難きを惜しみ
枝は花を落とし 峰は視界を遮るように聳え 霞は色を失う
春の装いは もろくも崩れて 谷は静かに 鳥のさえずりも消える
年月は移ろい わが年齢(よわい)も次第に老けてゆく
残りの人生 天子の恩顧を思う気持ちばかりが募る

『本朝麗藻』上 春
「花落春帰路」藤原伊周

道長卿が伊周卿の方に目を遣ります。
漢詩の会の後、公任卿、斉信卿、行成卿が被け物を肩にかけ廊下を歩いています。
斉信卿は公任卿と行成卿に「まことにけなげな振舞いであったな。伊周殿は」と言います。
公任卿は「いやいや、あれは心の内とは裏腹であろう」と答えます。
斉信卿に「そう思うか?」と尋ねられ、行成卿は「はい」と答えます。
斉信卿は「うっかり騙されるところだった」と言いました。
そして公任卿は「道長は大したものだ」と言い、斉信卿もそれに同意します。
斉信卿は「帝が伊周に心を向け始めているのに、道長は自分は全く焦っていないといった感じか?」と公任卿に尋ねました。
公任は「敵を広い心で受け止める器の大きさだ」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>内親王の着袴のあと、道長は土御門にて漢詩の会を開催しました。
前述の通り、『着袴』ではなく、脩子内親王の『裳着』の儀です。

>朝服ではない男性貴族がずらりと並び、色彩鮮やか――
>日本古来の男性服は派手で明るいものでした。
『朝服ではない』『日本古来の男性服』にも固有の名称があるのですが。
『日本古来の男性服』ではなく、宮中で用いられる公卿装束です。
F4含め、漢詩の会に招かれた男性貴族たちが具体的にどの様な装束を纏っているか調べることはしないのでしょうか。
装束には、即位や大嘗祭など宮中祭祀に着る『礼服(らいふく)』

『光る君へ』より

諸臣が参内や常の儀式に用いた『束帯(そくたい)』があります。

『光る君へ』より

また、略礼装として冠を付け下着の上に単を着、指貫をはいて袍を着る『衣冠』があります。
『光る君へ』では宿直中の道長卿、公任卿、斉信卿が束帯から着替えていました。

『光る君へ』より

日常の装束として直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ)があります。
道長卿主催の漢詩の会に招かれた貴族たちが着用しているのは『直衣』です。
風俗考証の佐多芳彦氏によると、直衣は『ただぎぬ』とも読み、これは『日常用の服』という意味なのだそうです。
平安時代中期では自分の屋敷などで着るためのカジュアルな装束で、屋敷に来客がある際などの威儀を正したいというときに着る服装が『直衣』でもっとラフな『狩衣』もあります。
プライベートなので冠ではなく烏帽子であり、袴も指貫(さしぬき)を履いています。

私的に着る装束は若い貴族には明るい色、年齢を重ねた貴族には落ち着きのある濃いめの色が好まれたようです。
しかし、絶対に着ることが許されない「絶対禁色」という色目があり、それが天皇の袍の色『黄櫨染(こうろぜん)』と、皇太子の袍の色『黄丹(おうに)』です。

『光る君へ』より

>そんな中、伊周の漢詩が詠まれます。
>『枕草子』で描かれた爽やかな貴公子の姿はそこにはもうない。
道長卿が主催した漢詩の会で伊周卿は『儀同三司』を自称しました。
『儀同三司』とは「准大臣」の唐名で、一条帝が伊周卿を『大臣の下、大納言の上に列する様に』と宣旨をお出しになったため、大臣に準じる席次という事で『儀同三司』を名乗りました。
伊周卿はもともと一条帝に漢籍の講義を行うなど、その文才を高く評価されています。
『小右記』寛弘二年(1005年)四月一日条には『礼部納言(れいほうなごん/源俊賢)が伝えて云(い)ったことには、「昨日の作文会では、外帥(藤原伊周)の詩は、句毎に感が有って、満座は涙を拭った。引出物<「馬」ということだ>が有った」と。』
『小右記』寛弘二年(1005年)四月二日条には『前越後守朝臣(藤原尚賢)が云(い)ったことには、「一昨日、左府(藤原道長)の作文会で、外帥(藤原伊周)の詩に述懐が有りました。上下の者は涕泣(ていきゅう)しました。主人(藤原道長)は感嘆しました。引出物が有りました。…」と。』とあります。

『小右記』寛弘二年(1005年)四月一日条
『小右記』寛弘二年(1005年)四月二日条

伊周卿が漢詩の会で詠んだ『花落春帰路』は平安中期に成立した漢詩集『本朝麗藻』に収録されています。

『本朝麗藻』上 春
「花落春帰路」藤原伊周

・物語は、帝の御心にかなわなかったのか?

>帝は道長を呼び寄せ「伊周を陣定(じんのさだめ)に呼びたい」と言い出しました。
一条帝は道長卿を清涼殿にお呼びになり、「伊周を陣定に参らせるべく、皆を説き伏せよ」とお命じになりました。
道長卿は「恐れながらそれは難しく、陣定は参議以上と定められております故、誰かが身罷るか退くかでない限りありえませぬ」と進言します。
帝は「そなたならば如何様にもなろう」と仰いますが、道長卿は「難しい」の一点張りです。
すると帝は、「朕の強い意向とすれば皆も逆らえまい。されどそれは角が立つ。異を唱える者も出よう。故にそなたの裁量に委ねておる。朕のたっての願いだ」と仰り、道長卿も「図ってみましょうと答えました。
道長卿は「お上、過日差し上げた物語は如何でしたか?」と帝に尋ねます。
帝は「忘れておった」と仰り、道長卿は困惑しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿はまひろのさんの邸を訪れ、まひろさんに「帝に献上したあれは、お心にかなわなかった」と伝えました。
まひろさんも「力及ばず、申し訳ございませぬ」と謝ります。
道長卿が「落胆はせぬのか?」と尋ねると、まひろさんは「帝にお読みいただくために書き始めたものですが、最早それはどうでもよくなったので落胆はしませぬ」と答えました。
そしてまひろさんは道長卿に「書きたいものを書こうと今は思っております。その心を掻き立ててくださった道長様に心から感謝いたしております」感謝の意を述べます。

『光る君へ』より

道長卿は「それが、お前がお前であるための道か」と道長卿が尋ね、まひろさんは「左様でございます」と答えます。
まひろさんはその後も思うままに書き続けています。
道長卿は、縁先に座りまひろさんが書いた物語に目を通しています。
まひろさんの声で文章が読み上げられていきます。

源氏の君は、お上が常にそばにお召しなさるので、心安く里住まいもできません。
心の中では、ただ藤壺のお姿を類なきものとしてお思い申し上げ、このような人こそ妻にしたい。この人に似ている人など…

『源氏物語』第一帖「桐壺」

道長卿は「俺が惚れた女はこういう女だったのか」と、彼女の人格の奥底を覗いた気分で心中で呟いていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>せっせせっせと、藤壺中宮を恋慕う源氏について書いてゆくまひろ。
作中、『源氏物語』第一帖「桐壺」の抜粋文をまひろさんの声で読み上げていたのに具体的に解説しないのでしょうか。

『源氏物語』第一帖「桐壺」

>「俺が惚れた女は、こういう女だったのか……」
>めんどくさい女です。
>恋に溺れ、相手を恋に溺れさせていくあかね(和泉式部)とは違う。
>道長は寛大でよい男かもしれません。
ここでもまた『面倒くさい』ですか。
いい加減、人物の性格や言動を評価するのに面倒くさい以外の語彙力はないのでしょうか。
また、道長卿は帝に献上した物語の評価が思わしくない事を報告にまひろさん邸を訪ね、まひろさんも書きたいものを書こうと執筆活動に勤しんでいるのであり、逢瀬を楽しむ事が目的ではありません。
ここで相手を恋に溺れさせるあかねさん(和泉式部)を引き合いに出す必要はあるでしょうか。

>とある女性作家が、かなりの高齢でデビューした契機を語っていました。
>彼女の夫は、自分の目につかないところで書くように語っていたため、夫の死後にならねば満足に執筆できなかったそうで……。
>目の前にいる女の目を、常に自分に向けさせたい男はいるものです。
作家の名前をだすのは憚られるのかもしれませんが、具体的に書く事ができない、引用も無いのなら例を挙げる必要も無いのではないでしょうか。
道長卿は左大臣の立場て『帝に献上したい物語』の執筆を依頼したのであって、自分に目を向けさせ、執筆を邪魔する行為とは真逆だと思います。

それはさておき、このまひろも厚かましく見える。
>クライアントの依頼に応じられなかったのにあまり反省してない様子です。
>そもそも依頼主の道長は、帝への提出前に「この作品はちょっと……」と懸念していました。
「『枕草子』に囚われるあまり、亡き皇后様から解き放たれぬ帝に、『枕草子』を超える書物を献上し、こちらにお目を向けていただきたかったのだ」と、『帝に献上したい物語を書いてほしい』と頼んだ道長卿でしたが、帝は「忘れておった」とそっけなくお答えになりました。
道長卿はまひろさんが残念がる事を想定していたのでしょう。
しかし、まひろさんは帝のお気持ちや道長卿の思惑に関心はなかった様です。
クライアント(道長卿)の依頼も読み手(帝)の心に刺さらぬ一方的なものでした。
まひろさんにとって『帝に献上したい物語』はきっかけにすぎず、ひたすら『自分が自分であるため思うまま書きたいものを書く』という作家の性に突き動かされているのだと思います。
気持ちの赴くままに書いた作品が評価を受ける事は作家として『厚かましい』事でしょうか。

・帝は教養の高いものに心惹かれる?

>出世が遅れたことを気に病んでいた藤原公任は、辞表を出していました。
寛弘2年(1005年)7月。
先年12月に中納言左衛門督の辞表を出した公任卿に翻意を促す目的で、帝は公任卿を従二位に昇進させました。
しかしこの辞表を出すように勧めたのは同じく小野宮流の藤原実資卿でした。
実資卿に礼を言う公任卿に、実資卿は「辞表はうまく効いたようだな」とほくそ笑みます。
「実資殿の導きのおかげ」と公任も笑顔を見せます。
従二位の位階を並ばれた斉信卿が、「ただのごね得ではないか」と言い、さらに「帝のお心も他愛無いものにおわすな」と公任卿に面と向かって言出だします。
いずれにしても、斉信卿と公任卿が従二位、実資卿は正二位という事になりました。
実資卿がそれぞれを指しながら「従二位、従二位、正二位」と位階を確認し、公任卿も「正二位…」と復唱します。
その様子を斉信卿は呆れた表情で見ています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は飛香舎(藤壺)へ向かい、敦康親王に投壺の道具を献上しました。
初めての投壺に敦康親王が目を輝かせています。彰子さまは親王に「左大臣殿に投壺のお礼を」と促し、「嬉しく思う」と親王は道長卿に声をかけました。
そこへ帝のお渡りが知らされます。
お触れのない急なお渡りのため道長卿は彰子さまに事前の触れがあったのか確認しますが彰子さまは否定します。
道長卿は慌てながらも「ここでお顔を拝見できるとは」と帝に挨拶をしました。
敦康親王は「左大臣に貰った」と嬉しそうに投壺の壺を帝に見せました。
「ご一緒に遊びましょう」と親王が言い、彰子さまも帝に何か言いかけましたが、親王は書の稽古の時刻となっていました。
嫌がる親王に帝は稽古に行く様に促され、道長卿も退出しようとしました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

その道長卿を帝はお引き止めになりました。、
帝は「待て。読んだぞ」と仰り、「あれは朕への当てつけか?」とお尋ねになりました。
「その様な事はございませぬ」と否定する道長卿。
すると帝は「あれを書いたのは誰なのか?」とお尋ねになりました。
道長卿は「前越前守の藤原為時の娘、まひろでございます。以前、帝にお目通りがかなったと伺っております」との道長卿の言葉に帝はまひろさんを思い出されました。
そして「唐の故事や仏の教え、我が国の歴史をさりげなく取り入れておるところなぞ、書き手の博学ぶりは、無双と思えた」と感想を述べられました。
「その女にまた会ってみたいものだ」と帝が仰います。
道長卿はすぐにも召し出すつもりでいました。
帝は「会うなら続きを読んでからにしよう」と仰り、道長卿は「続き…ですか?」と戸惑い尋ねます。
帝は「あれで終わりではなかろう」と笑みを浮かべられます。
困惑しながらも道長卿は「承知仕りました」と答えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ちなみに、このスネるゴネ得辞表作戦は、東アジア伝統といえるかもしれません。
(中略)
>そこで手放すか、引き留めるか――
>君主の器が問われるので「止めに入ることがマナー」とも言える。
>帝にはそういう漢籍知識、アピールが効くわけですね。
寛弘元年(1004)10月。
藤原斉信卿が従二位に叙せられ、正三位の公任卿を超えました。
斉信卿は、松尾大社など神社に帝が行幸した折に差配を行い、恩賞として位階を賜っていました。
衝撃を受けた彼は出仕拒否状態となり、12月には辞表を提出します。
『御堂関白記』寛弘元年(1004年)十二月十五日条には『(藤原)経通朝臣(あそん)が、左衛門督(さえもんのかみ/藤原公任)の辞表を持って来た。すぐに(一条)天皇に奏上させた。中納言と左衛門督両方の辞表である。』『辞表を求める事情は、右衛門督(えもんのかみ/藤原斉信)が二度の行幸の行事を奉仕したことによって加階され、左衛門督(藤原公任)の上臈(じょうろう)となったということである。そこで、その後は内裏(だいり)に参ってこない。そういう事情である。』とあります。
当時、辞表はすぐに受理しない決まりがあったため帝には届かず、公任卿は自宅に引き籠もったまま、外出しない日々が続きました。

『御堂関白記』寛弘元年(1004年)十二月十五日条

公任卿が2度目の辞表を提出したのが、引き籠もりを始めて10ケ月になる寛弘2年7月でした。
この際に公任卿に助け舟を出したのが同じく小野宮流の藤原実資卿でした。
公任卿は実資卿の助言を受けて職を辞すると申文を提出しました。
これを一条帝に引き止めてもらう形で、自身の位を引き上げる事に成功しています。
実資卿は公任卿の従二位叙任を非常に喜んで、『この喜びは世にも稀な事である』『先年の恥を雪(すす)いだ』と『小右記』に記しています。

『小右記』 寛弘二年(1005年) 七月二十一日条
『小右記』 寛弘二年(1005年) 七月二十九日条
『光る君へ』より


>道長は藤壺にやってきて、敦康親王に投壺(とうこ)の道具を贈っています。
『投壺』は金属製の壺に向かって矢を投げ入れられる遊びです。
作中では、第7回でF4が投壺を楽しんでいました。

『光る君へ』より

『春秋左氏伝』にも記述が見える(『晋侯以斉侯宴。中行穆子相。投壺。』)上流階層の宴席での遊戯で、『礼記』には投壺篇があり、投壺の儀礼、壺と矢の寸法、席から壺までの距離などを細かく規定しています。

『明宣宗行楽図』より投壺の図

朝鮮半島でも伝統的に投壺(투호 トゥホ)が行われました。
主に旧正月などの特別な節日に行われ、行事として現存しています。

申潤福『蕙園伝神帖』より『林下投壺』

日本には奈良時代に中国から伝来し、『つぼうち』『つぼなげ』とも称されました。
正倉院には投壺用の銅製の壺と木製の矢が残っています。

『源氏物語』や百人一首に準えた点式にそって採点し、その得点を競う投扇興は投壺が元になったといわれています。

>「ああ、あの女であるか。唐の故事や仏の教え、我が国の歴史を取り入れている。書きての博学は無双である。その女にまた会ってみたいものだ」帝はそう言います。
これがなかなか重要で、読むとためになるのです。
まひろさんの書いた物語の何の辺がどの様に唐の故事や仏の教え、我が国の歴史を取り入れていて読むとためになるのでしょうか。
具体的に書いてください。
「唐の故事や仏の教え、わが国の歴史をさりげなく取り入れているところなど、書き手の博学ぶりは無双と思えた」と称賛した一条帝。
帝がお読みになった『桐壺』の巻には博学ぶりが伺える記述が見られます。

『源氏物語』第一帖「桐壺」光源氏の誕生
『源氏物語』第一帖「桐壺」命婦帰参

唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇的な恋愛を綴った白居易の『長恨歌』を引用し、『桐壺帝の寵愛を一身に受ける桐壺更衣』、『帝と更衣の恋愛関係に対する世間の視点』、『最愛の桐壺の更衣を失った帝の嘆き』を表現しています。
最愛の皇后・定子さまを亡くした一条帝からすれば、「自分に対するあてつけか」と感じるのも無理はない様に思います。

『源氏物語』第一帖「桐壺」高麗人の観相

『宇多帝の御誡め』とは、宇多天皇が譲位の際、13歳の新帝・醍醐天皇に遺した『寛平御遺誡』の事です。
『寛平御遺誡』の中にはこの様な記述があります。

外蕃の人必ずしも召し見るべき者は、簾中に在りて見よ、直に対ふべからざらくのみ。

意訳:
外国から来た人は、直接顔を出すのではなく、御簾を隔てて見なさい。
直接対面する事はしない様に。

寛平御遺誡

また、鴻臚館は朱雀大路を跨いだ七条に東鴻臚館・西鴻臚館として設けられた外交および海外交易施設です。
高麗人の人相見に源氏の君を見せるのに、『宇多帝の御誡め』があるため宮中に呼べず、帝は源氏の君を鴻臚館に遣わしたんですね。
歴史上の故事を引用する事で、物語の舞台や時代背景を読み手に想像させる事ができました。

第19回ではききょうさん(清少納言)の紹介で、まひろさんは中宮定子さまとの対面が叶い、帝もお渡りになった事でまひろさんは『宋の科挙の様に身分が低い人でも政治に加われる仕組みが我が国でも導入されるべき』と主張し、『身分の高いものが必ずしも賢いとは限らない』という白居易の『新楽府』からの一節も披露しました。
帝は「男だったら登用してみたい」と思わせるほどで、帝はその事を物語の作者を知った事で思い出したのでしょう。

・藤壺出仕の誘い? 

>かくして道長はまひろに会いにきます。
道長卿はまたまひろさんの邸を訪れました。
乙丸に呼ばれて姿を現すまひろさんでしたが、在宅中だった為時公も道長卿を目にし唖然としていました。
道長卿はまひろさんに「中宮さまの女房にならぬか?帝が物語の続きを読みたいと仰せになった」と出仕の話を持ちかけますが、まひろさんはさほどに興味を持たないのか表情も変えず、道長卿に咎められます。
まひろさんは「続きならこの家で書いてお渡しします」と言います。
しかし、道長卿は「それでば駄目だ。帝は博学なお前にも興味をお持ちだ。中宮さまの側に侍れば、帝がお前を目当てにお渡りになるやも知れぬ」と本当の狙いを告げます。 
まひろさんは「囮でございますか?」と尋ねます。
道長卿は「そうだ。娘と離れ難ければ連れて参れ。女童として召し抱える。考えてくれ」と告げて帰っていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

土御門殿では、まひろさんの名を聞いた倫子さまが驚き、「殿がなぜまひろさんをご存じなのですか?」と尋ねます。
道長卿は「公任に聞いたのだ。面白い物語を書く女子がおると。」と答えました。
そして道長卿は「帝はその女子が書いた物をお気に召し、続きをご所望だ。藤壺にその女子を置いて先を書かせれば、帝も藤壺にお渡りになるやも知れぬ」と倫子さまに打ち明けました。
倫子さまは「名案ですわ」と答えます。 
道長卿は「そうか、倫子がよいならそう致そう、これが最後の賭けだ」と言い、昔からまひろさんを知っている倫子さまにも「私も嬉しゅうございます」と異存はありませんでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは「この先の事を考えると、私が藤壺に女房として上がり、働くしかない」と為時公に打ち明けます。
為時公は「儂もまだまだ働ける。年寄り扱いするでない。」と言いながらも、「帝の覚えめでたく、その誉を持って藤壺に上がるのは悪い事ではない。他の女房達も一目置こう」と誇らしげに語ります。

>ゆえに道長は出仕を望んでいるのですが、まひろはこう答えます。
>「囮でございますか」
>あれだけ大量の越前紙をもらい、契りを交わした相手に、この態度はいかがなものか。
大量に越前紙を頂いたのは、物語を執筆するためであり、それはまひろさんが「この家で書いてお渡しします」と言っています。
まひろさんは今まで通り、自宅で家族と暮らしながら執筆活動して道長卿が取りに来る方式を望んでいます。
しかし、藤壺への帝のお渡りになる方法を考えている道長卿は「帝が物語の続きを読みたいと仰せなので中宮さまの女房として出仕してほしい」とまひろさんの出仕を望みました。
まひろさんは政治的な動きを感じ取り、「囮でございますか」と尋ね、道長卿も納得して貰うため誤魔化しが効かないと踏んで「そうだ」と答えています。
自分たちの政治的な目的のためにまひろさんの執筆作品を利用しているから道長卿は頼み込んでいるのに、何見氏の様に『あれだけ大量の越前紙をやって契りも交わしたのに断るなんて!』では身分や立場を利用して搾取しに来た様なものではないでしょうか。

>しかし、そうではなく、ただ単に面倒くさそうにも見えるまひろ。
>彼女は、対人スキルが皆無に等しいのでしょう。
ここでもまたまひろさんを面倒くさいと揶揄していますが、なせまひろさんがその状況でそう思ったのかを考える事はしないのですね。
父・為時公が散位して久しく、いくら道長卿のご好意と言えど嫡男の漢籍指南だけでは心許なく、まひろさん自身も四条宮で和歌の指南役を務めて生活を支えている状態でまだ幼い娘・賢子さんがいるため、家から離れ難かったのではないでしょうか。
平安時代は恋愛関係でも一夜を共にして初めて互いの顔を知る事もあるのに、取次など男性との距離が近く、後宮での務めに抵抗感がある人もいたでしょう。

加えて為時公からは以前「学問が女を幸せにするとは限らぬ」「宣孝殿の様に、そなたの聡明さをめでてくれる殿御はそうはおらぬゆえ」と言われた事もあり、人目を気にしながら働く女房としての出仕には尻込みもしたのではないでしょうか。
そこで道長卿は「娘と離れ難ければ女童に召し抱える」と親子での出仕も視野に入れ、出仕をんでいます。
母親が幼い娘の事を考えて在宅以外の仕事の話を保留したら『対人スキルが無い』は意味が分かりません。
因みに賢子さんの事で躊躇うまひろさんに道長卿が提案した『女童(めのわらわ)』とは、貴人のそばに仕えて、雑用にあたる少女の事です。(出典 精選版 日本国語大辞典)
分かり易い例では映画『かぐや姫の物語』に出てくるかぐや姫のお世話をする『女童』でしょう。

『かぐや姫の物語』より

>道長はそこまで頭がきれるとも思えず、あまりセリフも長くはありません。
>これは、こっそり練習しましたね。
>倫子に対してどう説明するか。
>必死にアリバイを考えた。
倫子さまに「殿がなぜまひろさんをご存じなのですか?」と尋ねられ、道長卿は「公任に聞いたのだ。面白い物語を書く女子がおると。」「帝はその女子が書いた物をお気に召し、続きをご所望だ。藤壺にその女子を置いて先を書かせれば、帝も藤壺にお渡りになるやも知れぬ」と考えを打ち明けます。
まひろさんは公任卿の北の方・敏子さまに請われ四条宮で和歌の指南役として招かれ、そこで『カササギ語り』という創作物語を披露しました。
後日、道長卿は仲間内の酒宴で公任卿から「自分の妻のところに面白い物語を書く女が出入りしている」「藤原為時の娘」という噂を聞きました。
まひろさんを説得し、帝が藤壺にお渡り頂くための政の手段として物語を所望し、献上します。
結果、帝は続きを所望しているのでまひろさんを出仕させたいと倫子さまに相談したのではないでしょうか。
淀みなく話している辺り、練習したかどうかは分かりかねますが、道長卿は個人的な余計な話はせず、事実しか話していないのに『アリバイ工作』とは。

>為時が、まだ働ける、年寄り扱いするなと言いますが、帝の覚えめでたく、その誉れをもって藤壺で働くのは悪いことではないと語るまひろでした。
「帝の覚えめでたく、その誉を持って藤壺に上がるのは悪い事ではない。他の女房達も一目置こう」と言ったのは為時公です。

・まひろ、決断する?

>思えば為時は、花山天皇の信頼を得たものです。
>あのときのことを思い出すと、感慨深いものがあるのでしょう。
まひろさんは賢子さんの事が気がかりでした。 為時公は「自分もいともおるゆえ、案ずるでない」と言います。
さらに為時公はまひろさんから、道長卿が「娘と離れ難ければ女童に召し抱える」と賢子さんを連れて来てもよいと言った事を聞きました。
しかし為時公は「内裏とは華やかだが恐ろしき所でもある。お前ほどの才があれば恐れる事もないが、賢子のような幼子が暮らす場所ではない」と幼い賢子さんまで出仕させる事を躊躇います。
まひろさんも賢子さんが為時公に懐いている事から「私がいなくても平気かも」と考えました。
為時公も「母を誇りに思う娘に育てる故」とまひろさんを安心させ、背中を押します。

『光る君へ』より

賢子さんが文机に向かい執筆するまひろさんの側に来て、「母上は私が嫌いなの?」と尋ねます。
まひろさんは「そんな事はありませんよ、大好きよ」と答えます。
さらに賢子さんは「大好きならばなぜ内裏に行くの?」と尋ねます。
まひろさんは「賢子も一緒に内裏に行く?」と持ち掛けましたが、賢子さんは「行かない。じじがかわいそうだから」と答えます。
まひろさんは「じじではありません、おじじさまでしょ」と訂正します。
賢子さんはさらに「行かない!」と声を張り上げました。
まひろさんは「休みの日には帰って来る。さみしかったら月を見上げて。母も同じ月を見ているから」と賢子さんを諭そうとします。
賢子さんは尚も「行かない!」と言ってその場を去っていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは内裏に上がり、藤壺で彰子さまに目通りしました。
倫子さまが穏やかな笑みをうかべ「新しい女房である」と紹介し、「出仕は来月からで今日はご挨拶に伺いました。」と説明します。
その場には道長卿や女房として出仕している赤染衛門もいます。
まひろさんは自己紹介をします。
道長卿は「帝のたってのお望みで、この藤壺で物語を書くことになった、お目をお掛けくださいませ」と彰子さまに伝えました。
彰子さまは『帝のお望み』という言葉を訝しがります。
道長卿は「この者が描いた物語を帝が大層気に入り、格別にお取り立てになりました」と説明しました。
まひろさんは「帝と中宮さまの御ために一心にお仕え申し上げる所存にございます」と述べました。
しかし、彰子さまは無言のままで、倫子さまは笑顔で頷きます。
反面道長卿は不安げな表情です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>為時は、それには反対の様子。
>内裏は華やかだがおそろしきところであり、賢子のような幼い子が暮らすところではないと語るのです。
為時公は「内裏とは華やかだが恐ろしき所でもある。お前ほどの才があれば恐れる事もないが、賢子のような幼子が暮らす場所ではない」と言っています。
為時公はまひろさんの様な才があれば恐れる事もないが賢子さんの様な幼子が暮らす場所ではないと親子を対比して懸念を述べ、賢子さんを後宮に連れて行く事に反対しています。

・自己完結できる女たち?

>このあと、まひろと久々に再会した赤染衛門が内裏を案内してゆきます。
彰子さまへの目通り後、まひろさんは赤染衛門から内裏の中を案内されました。
赤染衛門は「帝のお目に留まるとは、ご立派になられましたね」とまひろさんを褒めます。
まひろさんは否定しますが、赤染衛門は「今の藤壺の行き詰った気分が改まるとよろしいのですが」とまひろさんに何かを期待するかの様です。
赤染衛門はまひろさんの娘についても尋ねました。
まひろさんが「7歳の娘がおります」と答えると、赤染衛門は「ご夫君を亡くされて大変でしたわね」とまひろさんを労わります。
一方で自身の夫・大江匡衡公については、「夫はいても大して当てになりませんけど…」と辛口評価です。
赤染衛門の夫は方々に子を作り、その子たちを皆彼女が育てていたのです。
赤染衛門は「そのうち最初の子が大きくなって、下の子らの面倒を見てくれるようになり、帰って来ない夫を待つのにも飽きたので、土御門殿に上がったのです」と土御門殿の女房になった経緯を明かしました。
赤染衛門の身の上話はまひろさんには初耳でした。
「人の運不運はどうにもなりませんわね」と赤染衛門は笑い、「あんなに素晴らしい婿君と巡り合えた土御門のお方さまは類まれなるご運の持ち主、羨ましい」と言いました。
これにはまひろさんも同意します。
まひろさんは赤染衛門に中宮彰子さまについて尋ねますが、赤染衛門は「それが…謎ですの」とだけ答えます。
幼少時から側にいたはずなのに、奥ゆかしすぎて分からないとの事でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>そりゃ、いちいち『枕草子』を持ち出され、比較されていたら辛いですよね。
>道長の倹約思考で、豪華に飾るにせよ限界はあります。
藤原伊周卿が『枕草子』の写本を作らせ帝を始め世に広めた事もあり、帝が未だ亡き定子さまに執心していらっしゃいます。
赤染衛門は道長卿や倫子さまが帝が藤壺にお渡りになり彰子さまに目を向けさせようと苦心している事も知っているので、まひろさんの様な豊富な教養や創作力のある女房が入る事を期待しているのではないでしょうか。

>彼女は文才で夫をアピールしたこともあり、良妻の鑑ともされます。
赤染右衛門の夫は大江匡衡といい、菅原氏(菅家)と並ぶ学問の家柄の大江氏出身で、一条朝では文章博士になっています。 
赤染衛門は歌人であり、歴史物語『栄花物語』の前半(道長の時代まで)の作者との説があります。
夫の匡衡公とも鴛鴦夫婦で知られ、仲睦まじい夫婦仲から『匡衡衛門』という二つ名でも呼ばれていると『紫式部日記』に記述があります。
また、良妻賢母で匡衡公の尾張赴任にも共に下向し夫の昇進を後押ししていたといわれています。

『紫式部日記』赤染衛門

>あんなに素晴らしい婿とめぐりあえた土御門は類まれな方だと褒め称えます。
赤染衛門は「そのうち最初の子が大きくなって、下の子らの面倒を見てくれるようになり、帰って来ない夫を待つのにも飽きたので、土御門殿に上がったのです」と言っています。
また、倫子さまについても『あんなに素晴らしい婿君と巡り合えた土御門のお方さま』と言っています。
『土御門』だけでは地名もしくは邸宅の名前になってしまいます。
赤染右衛門は倫子さまに憚り、名前ではなく土御門のお方さまと呼んでいるのでしょう。
『土御門殿』は元は宇多源氏・源雅信卿の邸宅です。
雅信卿の娘の倫子さまも土御門大路南、京極大路西に所在した土御門邸で出生しました。
後に藤原道長卿が婿に入り、本邸として重要な位置を占めました。
後に中宮彰子さまの里御所となり、邸宅にちなんで上東門院を院号としました。
土御門殿は現在の京都市上京区京都御苑(京都大宮御所北側部分)に当たり、土御門殿の東にあたる鴨川西岸には法成寺が建てられました。(現在はいずれも跡のみ)

出典 小学館デジタル大辞泉
土御門殿跡(京都御苑内)

・巨星墜つ?

>道長のもとに、安倍晴明が危篤であるという知らせが届きました。
道長の許に、安倍晴明公が危篤との知らせが届きました。 
道長卿は馬を飛ばし駆けつけます。
晴明公の屋敷では須麻流さんが簀子縁に座り、『おん あみりた ていせい から うん』と 阿弥陀如来の真言を唱えていました。
床に伏せた晴明公は「お顔を拝見してから死のうと思いお待ちしておりました」と道長卿が来るのを待っていました。
道長卿は「思いの他健やかそうだ」と言いますが、晴明公は「私は今宵死にまする」と予言しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

晴明公は「ようやく光を手に入れられましたな。これで中宮様も盤石でございます。いずれあなた様の家からは、帝も皇后も関白も出られましょう」と言います。
黄昏の中、枕元に座る道長卿は「それほどまで話さずともよい」と晴明公を牽制しますが、晴明公は「お父上・兼家さまが成し遂げられなかった事を成し遂げます」とも予言します。
道長卿は「父の真似をする気はない」と否定します。
しかし晴明公は「ただ一つ。光が強ければ闇も濃くなる。それだけはお忘れなく。呪詛も祈祷も人の心の有り様である」と忠告しました。
晴明公は「私が何もせずとも人の心が勝手に震える。何も恐れることはありませぬ。思いのままにおやりなさいませ」と遺言の様な言葉を残しました。
祈祷をしていた須麻流さんが小さな嗚咽を洩らします。
道長卿は「長い間世話になった」と晴明公に一礼しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

その夜、目を覚ました晴明公の瞳に星が宿りました。
晴明公の寝所に星空と大きな三日月が浮かび、星を読む者に戻った晴明公と須麻流さんの魂は星に導かれていきました。
『その夜自らの予言通り晴明は予言通り世を去った。』と語りが入りました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>その夜、自らの予言通り晴明は世を去ったのでした。
>まるで人から星の一つへなるような、そんな死でした。
月刊『星ナビ』編集部さんによると、晴明公が没した際の星空には二十八宿の一つ・鬼宿(黄道十二星座では蟹座)が中心に写っていたとの事です。
鬼宿には『積尸気(プレセペ星団)』という屍体から立ち上がる薄気味悪い怪しげな妖気という意味の星官があり、魂の昇る所とされました。

鬼宿(古今図書集成)

また、おうし座の『プレアデス星団(昴)』は二十八宿では『昴宿(ぼうしゅく)』と呼ばれ、清少納言の『枕草子』第236段「星は」にも記されました。

『枕草子』第236段「星は」
昴宿図(古今図書集成)

『すばる』の語意は『すばる(統ばる)』または『すまる(統まる)』であり、「統一されている」「一つに集まっている」という意味です。
六星が糸で統べたように集まった形を玉飾を糸で一括りしたものに見立て、『古事記』では「五百津之美須麻流之珠(いおつのみすまるのたま)」『万葉集』では「須売流玉(すまるのたま)」、『日本紀竟宴和歌』では「儒波窶玉(すばるのたま)」などと呼ばれました。(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)
須麻流さんの名は『昴』から名付けられたのではという考察もありました。

>DAIKIさんはインタビューで、肢体に障害のある演者は大河初だと意義を述べておられました。>素晴らしい取り組みだと思います。
DAIKIさんが演じる須麻流さんは、劇中でその素性が語られることはなく、『大鏡』の逸話になっている花山帝の退位では晴明公の邸の前を牛車が通り、「只今、牛車が屋敷の前を通り過ぎていきました」と晴明に告げる場面では『須麻流が喋った!』とSNSで話題になりました。
DAIKIさんは軟骨無形成症のダンサーで、本作が俳優デビュー作ですが、役柄について「晴明の従者」以上の設定は聞かされておらず「須麻流が何者なのかっていうのは僕も探り探りの状態」だったそうです。
「劇中、須麻流が言葉を交わすのは晴明とだけで、ほかのキャストの方々と目線を交わしたりすることもないので、そもそも人なのかもはっきりしません」との事で、視聴者内でも『妖精では』『式神では』と言われていました。(前述の『大鏡』の逸話では式神が牛車の通過を告げる)
DAIKIさんは「従者でありながら晴明にパシリにされるようなことはほぼなく、僕の中では親友というかニコイチのようなイメージが強くなっている気がします。従者というよりもバディに近いかもしれません」との事です。
晴明公を演じるユースケ・サンタマリアさんは「(須麻流は)僕の大事な相棒というか、片割れというか、2人で1人という感覚でやっていました。」との事です。

『光る君へ』より

・伊周の復帰、月食、火災、八咫鏡消失?

>帝はついに伊周を陣定に召し出す宣旨を下しました。
寛弘2年(1005年)11月。
一条帝は、伊周卿を再び陣定に召し出す宣旨を下しました。
これを面白く思わない人々がいました。
実資卿は「全く言葉もない」と憤り、右大臣・藤原顕光卿は、「左大臣殿は何をしとったのだ」と言います。
道綱卿は、「左大臣さまを責めるのはどうかと思います」と言います。
これには「帝をお諫めできるのは左大臣殿しかおらぬ!」と顕光卿が反論します。
しかし、道綱卿は「右大臣さまがお諫めしても良いではありませんか」と抗議し、顕光卿は言葉に詰まりました。
実資卿は「言葉もない」を繰り返し、不吉なことが起こらないかと案じていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

そしてその夜、皆既月食が起き、内裏は闇を恐れて静まり返ります。
帝は燭台の側で物語を読んでいましたが、その火が突然消えました。
しかも月食が終わる頃、温明殿(うんめいでん)と綾綺殿(りょうきでん)の間から火の手が上がり、瞬く間に内裏に燃え広がりました。

『光る君へ』より

帝は藤壺出炎の中に立つ彰子さまを見つけられ、「敦康はどこだ!」と親王の消息をお尋ねになります。 
彰子さまは「只今お逃がせ参らせました」と答えます。
帝は彰子さまが立ち尽くしているため、「何をしておる!」とお声をかけます。
彼女自身は「お上は如何なされたかと思いまして…」と逃げずにいたのだそうです。
帝は「参れ」と彰子さまの手をお取りになり、途中転んでしまった彰子さまのてをお引きになりながら、共にお逃げになりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

翌日。
東宮・居貞親王は、「昨夜の火事で八咫鏡を焼失したのはまことなのか?」と道長卿に問いただしていました。
道長卿は「賢所まで火が回り、持ち出せなかった」と報告し、頭を下げました。
詫びる道長卿に、居貞親王は「叔父上が謝ることはない。これは祟りである」と言います。
居貞親王は「伊周を陣定に戻したりするからこうなったのだ、叔父上もそう思うであろう」と仰います。
しかし道長卿は「帝も八咫鏡焼失で傷ついておられます。これ以上帝をお責めになりませぬ様」と嗜めました。
居貞親王は「東宮が帝を責め奉るなどあろうはずもない」と言います。
しかし「月食と同じ夜の火事、これが祟りでなくて何であろうか。天が帝に玉座を下りろと言うておる!」と親王が主張します。
道長卿は「帝はお若くご退位は考えられない」と言います。
居貞親王は「中宮が皇子を儲けられるまで、帝のご退位は避けたかろうが」と前置きしたうえで、「此度の事でよく分かった。帝の御代は長くは続くまい」と明言しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

その後道長卿は帝に「中宮彰子さまを帝自ら助けた事、強きお心に感服致しました」と礼を述べました。
帝は「中宮故当然である。そなたの事は頼りにしている」と仰います。
しかし、帝は「中宮と何度も申すのは疲れる」と仰り、道長卿に下がる様に命じます。
道長卿は廊下で伊周卿と出会いましたが、無言のまま通り過ぎていきました。
そして伊周卿は帝に、「火の回り具合からすると放火に間違いございません。火をつけた者が内裏におります」と進言します。
伊周卿は「この火事は私を陣定に加えたへ事の、不満の表れと言われているが、たとえそうであろうとも、火をつけるなどお上のお命を危うくするのみ。そういう者を信じてはなりませぬ。」と述べました。
さらに伊周卿は「お上に取って信ずるに足る者は、私だけにございます」と言い放ちました。

『光る君へ』より

>実資は、言葉もない、不吉なことが起きねばいいと漏らし、道長も困惑しているようです。
寛弘2年(1005年)11月14日。
一条帝は、伊周卿を再び陣定に召し出す宣旨をお出しになりました。
『小右記』寛弘二年(1005年)十一月十四日条には、『大外記(滋野)善言朝臣が云(い)ったことには、「昨日・・・内裏に参りました。左府(藤原道長)がおっしゃって云ったことには、『帥(藤原伊周)が朝議に参預するよう、宣旨を書き下すように』ということでした。未だ前例のない事です」ということだ。』とあります。

『小右記』 寛弘二年(1005年) 十一月十四日条

>その夜、皆既月食が起きました。
>闇を恐れ、内裏は静まり返る中、悲鳴があがります。
>日食が終わるころ、温明殿と綾綺殿の間から火が起こり、瞬く間に燃え広がっていったのです。
なぜ数行上で『皆既月食』と書いているのに『日食が終わるころ』になるのでしょうか。
確認してください。
小右記寛弘二年(1005年)十一月十五日条には、『未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時)の頃、内裏に参った。・・・戌剋(いぬのこく/午後7時~午後9時)の頃、退出した。この頃、月蝕であった。亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)に及んで、皆既となった。同剋の終剋、末に復した。』とあります。
また、『御堂関白記』寛弘二年(1005年)十一月十五日条には『月蝕は、覆いを月に付けたようであった。未だ元に復さない頃に、一寝した後、人が申して云(い)ったことには、「西の方角に火事があります」と。起きて見てみると、火事は内裏であると見えたので、馳(は)せて参った。』とあります。

『小右記』寛弘二年(1005年)十一月十五日条
『御堂関白記』寛弘二年(1005年)十一月十五日条

>帝は藤壺に向かいます。
>敦康親王はもう逃げていて、彰子が残っています。
内裏が焼亡した際、一条帝は彰子さまと共に徒歩で脱出したようです。
『小右記』には「此の間、路に参会の上下の人無し」『御堂関白記』には「此の間、人、候ぜず」とあり、月蝕での闇を恐れ出てこない者や賢所の八咫鏡を守るため人員が割かれるなどあったのかもしれません。

七殿五舎
『光る君へ』より

>三種の神器である八咫鏡が今回の火災で消失したのです。
内裏は火災に遭っているので今回の場合は『焼失』です。

消失…存在していたものが消えて無くなる事
焼失…価値あるものが焼けて無くなる事。
焼けたために失う事。

宮中賢所の八咫鏡は3枚存在したとの事で(天徳4年(960年)の火災による)、寛弘2年(1005年)の火災で2枚が焼失しました。
残り1枚が伊勢の神鏡(八咫鏡)の形代となったのだそうです。  

・道長の愛を求めて散る火花?

>藤原行成が火災の不始末を報告しています。
この度の内裏の火事について、行成卿が道長卿に説明していました。
「月食を恐れて蔵人も中宮の女房も皆宿所に下がっており、帝の側に蔵人がおらず、中宮の側にも女房が…」と言いかけた行成卿に、「もうその話はよい!」と道長卿は声を荒げますが、すぐにそれを詫びます。
行成卿は「敦康親王の別当として申し上げねばと思ったものの、差し出た事でございました」と謝罪します。
するとその時、恒方さまが誰かを引き止める声がし、藤原隆家卿が「私は兄とは違います!」と道長卿と行成卿の会話に割って入りました。
隆家卿は「その事をどうしてもお話ししたかった」と言います。
さらに隆家卿は「兄は家の再興に命を懸けておりますが、私はそうではありませぬ。私の望みは志高く政を行う事のみでごさいます」と言い放ちました。
「そのような事で左大臣さまは騙されぬ」と行成卿が止めに入ると、隆家卿は「貴方と話しているのではない」と意に介しません。
行成卿は隆家卿に、「兄・伊周が帝を篭絡し、そなたは左大臣さまを懐柔する。そういう企みであろう」と激しい口調になり、隆家卿も行成卿に応じようとしますが、道長卿が止めに入りました。
道長卿は行成卿に「そなたは下がれ」と命じ、行成卿は腹に据えかねた様な表情をしています。
行成卿が下がり、隆家卿は「あのお人は、左大臣さまの事が好きなんですかね?」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>「あのお人は左大臣様のことが好きなんですかね」
>これはなかなか核心をついています。
>道長は自分を好きになってくる倫子、明子、行成にはそっけなく、そうでもない相手に心を許しているようにも思えるのです。
行成卿は隆家卿に「兄・伊周が帝を篭絡し、そなたは左大臣さまを懐柔する。そういう企みであろう」と権勢しており、伊周卿の様に復権の為に隆家卿が道長卿を懐柔してきているのではないかと思っているのではないでしょうか。
行成卿にとって道長卿は推し人物で、隆家卿は政敵側の人物の身内であり信用できないため離そうとするのはおかしな事ではないと思います。
隆家卿は道長卿の事でムキになる行成卿を見て「左大臣さまの事が好きなんですかね」と誂っているのもあると思います。

・「お前が、おなごであってよかった」?

寛弘二年(1005年)12月。
まひろさんは藤壺に参内する事になりました。
親子が対面し、別れを惜しみます。
為時公は「帝にお認めいただき、中宮様にお仕えするお前は我が家の誇りである」と誇らしげに言いました。
惟規さまは「大げさですねえ…」と言いながらも、まひろさんに「俺、内記にいるから遊びに来なよ」と誘います。
まひろさんが「中務省まで行ったりしても良いのかしら?」と尋ねると、惟規さまは「待ってるよ」と明るく答えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは賢子さんの事を為時公といとさんに頼みました。
いとさんは「お任せくださいませ」と涙ぐみながらも賢子さんを抱にしめます。
為時公は「身の才のありたけを尽くして素晴らしい物語を書き、帝と中宮様のお役に立てるよう祈っておる」と激励します。
「大げださな…」と口を挟む惟規さまを余所に、まひろさんは「精一杯務めて参ります」と答えます。
為時公は目に涙を浮かべながらも「お前が…女子であってよかった」と言い、まひろさんの目にも涙が浮かびます。
雪の降る中、まひろさんは涙を浮かべて見送る乙丸に「たまには帰って来るから泣かないで。きぬを大事にね」と声を掛けます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは内裏に出仕しました。
赤紫の唐衣を纏いまひろさんは藤壺へ向かいます。
そこには女房たちがズラリと居並んでいました。
その末席には赤染衛門もいます。
まひろさんは彼女たちに挨拶をしつつ一礼し、女房たちもまた礼を返します。
まひろさんの宮中での生活が始まりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>弟の惟規は大袈裟だとからかいながら「内記にいるから遊びにこい」と姉に声をかけています。
>「中務省まで遊びに行けるの?」
>「待ってるよ」
>そう返す惟規ですが、果たして二人にそんな時間があるのかどうか。
まひろさんの務める藤壺から惟規さまの務める中務省まで距離がどうか、二人にそんな時間があるのかどうかは別として。
惟規さまはこれから後宮に務める姉に、『いつでも中務省の内記に自分はいるから困ったらいつでもおいで』と惟規さまは言っているのではないでしょうか。
因みに藤壺は二重の塀で囲まれた内裏のうちにありますが、まひろさんが初めて出仕した12月は11月の内裏焼亡の直後であり、ここでいうところの内裏は里内裏としていた『東三条第』と思われます。

内裏
大内裏

・MVP:まひろ?

>口では学問を究めると言いつつ、昇進と出仕が叶うと嬉しそうにしていた藤原公任。
>道長に「下がれ」と言われて落ち込んでいた藤原行成。
>そして、定子を励ますために書き始めていた清少納言。
>こうしたクリエイターたちと比較すると、まひろはとことんマイペースのように思えます。
行成卿がクリエイターだというのなら、道長に「下がれ」と言われて落ち込んでいた事ではなく、『後ろ盾となる身内を早くに亡くし、思うような出世を望めなくとも得意の美麗な書で『白氏文集』などの書写が評判を呼び『三蹟』の一人と言われる』など捜索活動の面に注目すべきではないでしょうか。

>かなりの変人です。
>そしてその変人ゆえに彼女は勝利をおさめました。

周りには変人に見えるかもしれませんが、まひろさんにとっては『帝に献上したい物語』はあくまできっかけで、ひたすら『自分が自分であるため思うまま書きたいものを書く』という作家の性に突き動かされての捜索活動です。
その結果生み出された『源氏物語』は帝が続きを所望するほどの評価を受け、中宮彰子さまに仕えるため出仕する事になりました。
父・為時公は感極まりながら「お前が女子(おなご)であって良かった」とまひろさんの才能に敬意を払いました。
かつて夫・宣孝公が教え思いを馳せた宋の科挙や律令制の役職では女性は活躍できません。
まひろさんの才を認めながらも「男(おのこ)であったなら」と言い続けた父は、文才を買われ後宮に出仕する娘が誇らしかったのでしょう。

『光る君へ』より

・跂つ者は立たず跨ぐ者は行かず?

跂(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。

意訳
背伸びをしようと爪先立ちをしている者は長く立っていられない。
早く歩こうと大股で歩く者は長く歩いていられない。

『老子』

>迷惑をかける。
>誹謗中傷をする。
>炎上する。
>そうしたコンテンツがバズり、利益を生み出す仕組みが出来上がってしまった。 
(中略)
>バズりたければ、PVを稼ぎたければ、憎悪を煽るのは妙手です。
>インターネット媒体だとPV重視で、無難でファンダムが好む論調を流すことが王道だとわかってはいます。
31回コラムでも貼りましたが、何見氏が昨年大河ドラマレビューで私怨から執拗に出演俳優たちを中傷していた事は明白です。
相手に言った事を棚に上げ、『自分は悪くない周りが私を攻撃するんだ』と声高に叫んで憎悪を煽ろうとしているのは誰でしょう。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』33回~
大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』48回~

>しかし、そのせいでおかしくなってしまう事例を私は目にしました。
>あるユーザーがいました。
>その人はとある作家のファンでした。
(中略)
>どうしてそうなるのか?
>犯罪として裁けないのか?
>むろんそうした規制は重要ですが、もうひとつ、個々人が防ぐ手段をまひろは提示しているように思えます。
>他人のフィードバックよりも、自分を前面に出し、重視すること 
とある作家のファンであるあるユーザーとやらは存在しているのっしょうか。
それと『光る君へ 批評は関係あるのでしょうか。
相手が自分と合わない思考をし始めたならそっと離れれば良いのてはないでしょうか。
他人のフィードバックよりも、自分を前面に出し、重視する=他人の考えや気持ちを一切無視して自分の意見を押し付ける
をやるから人が離れていくのではないですか。

>2012年の大河ドラマは『平清盛』でした。
>視聴率は低迷したものの、ネットのファンダムは盛り上がり、ハッシュタグに寄せられたファンアートが公式チームにより神社に奉納されました。
>チームは、ネットのファンに酔いしれているように思えたものです。
作品を好きな人が好きな人物や場面をファンがファンアートにしたり、それが一大ムーブメントになってハッシュタグができる事に何の障りがあるでしょうか。
その流れで現在も朝ドラ絵、大河絵のタグが毎年作られ、人の目を楽しませているんですが。
まひろさんの様な「自分が書きたい気持ちに突き動かされ書く」事と変わらないのではないですか。
人が楽しんでいるところに私の嫌いなものを楽しむなと無理矢理入り込んで理不尽な理由を付けて叩くのは荒らし行為と同じです。

>たとえば乗馬にしたって、今年の道長の方がはるかにしっかりこなしています。
>放映時、動物愛護だのなんだのあやしい言説がネット上で広まっておりましたが、今年の打毱と乗馬を見る限り、デマの類でしょう。
平安時代の打鞠は白・赤2組(各4騎~10騎)の間で行われる団体戦。
『光る君へ』の場合は行成卿以外のF4と直秀の4人と相手方4人の計8名、控えの馬を合わせても10頭程と思われます。
10頭程の平安時代の競技と人の声や銃火器の音が響き、一度に何十頭もの馬が行き交う合戦ロケとは違うと思います。

『放映時、動物愛護だのなんだのあやしい言説がネット上で広まっておりましたが』と何見氏は言っていますが、馬は元来臆病で繊細です。
脚を怪我すれば、場合によっては予後不良で生存にも支障が出ます。
馬は消耗品で替えが利くとでも思っているのでしょうか。

因みに『葵〜徳川三代〜』での関ヶ原合戦のロケは、参加した馬の数60頭、俳優陣、エキストラ陣も含めた出演者が270名との事です。
家康公役の津川雅彦さんが、「茶の間で楽しめるぎりぎりの壮絶感と合戦の臨場感に、出演者でありながらのめり込んでしまいました」と話していた程のスケールだったそうで、その後の大河ドラマなど、さまざまな作品で再利用されています。

さて、『どうする家康』
岡田准一氏は乗馬などのアクションに定評があり、大河ドラマ『軍師官兵衛』やその他出演した時代劇映画でも乗馬の腕を披露しています。
また松本潤氏は富士遊覧の場面の乗馬ロケで『僕自身、こんなに近くで、きれいな富士山を見たのは久しぶりで、ロケに来られて本当に良かったと思いました。信長さんと2人での乗馬シーンも、時代劇らしくて、気持ちよかったですね。』と語っています。

『どうする家康』より

ネット上で賛否がわかれているCG技術を駆使した乗馬シーンについては、「バーチャルプロダクション」という最新技術を導入しており、「時代劇を撮影するロケーションについては年々、条件が厳しくなっている。ロケ自体、屋外と言うことで天候に左右される。撮ったときに、当時だったらないはずの建物が映り込んでいたり、当時いないはずの鳥の声が聞こえたりとかもある」と林総局長。「天候に左右されて、1日に取れる時間もすごく短かったり、制限ができるなかでどうしたら持続可能な時代劇の撮影方法を開発できるのかと取り組んでいるのが、バーチャルプロダクション」と解説されています。

『徳川家康と「徳川四天王」の子孫が どうする家康 を語り合ったシンポジウム』(2023年4月25日)では制作統括の磯CPが「いま日本で撮影に動ける馬って10頭ぐらいしかいないんですよ。馬が全然育っていなくて。エキストラの方たちも今は安全を考えて、気温が35度を超えると撮影が中止になる」と仰っていました。







※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?



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