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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第38回

10月上旬になりました。だいぶ朝晩の気温がひくくなり秋の気配が濃くなってきましたが、皆様健やかにお過ごしでしょうか。
まだまだ日中は日差しが強いため水分をよく取って皆様健康には充分お気を付けください。さて、光る君へ第38回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>あの伊周、果たして自分とは無縁と言い切れるのか。
>自らを鑑みることなく、誰かを恨むことに没頭してしまうのは、現代人とてその危険性があるのでは?
『鑑みる』は『手本に照らして考える。また、他とくらべあわせて考える事』です。
『自分のして来た事の善悪を考える』という意味なら『省みる』が適切かと思います。
伊周卿は中関白家の当主で、関白だった父から引き継いだ家を背負うも政敵である叔父・道長卿との政権争いに負け、長徳の変で権力者の座からも陥落してしまいました。
権力争いの焦りから帝の后である妹・定子さまに酷い言葉をかけたり辛い思いをさせた事もありました。
しかし、伊周卿は内裏にも戻れず侘しい暮らしをし産褥で亡くなってしまった妹を思い、『枕草子』を広め、彼女の思いを残そうとしたのではないでしょうか。
それでも彰子さまが中宮となり道長卿が政治の中枢にいる以上中関白家の復権は難しく、自分の置かれた立場や道長卿とその周囲を恨み続けるしかなかったのではないでしょうか。
弟・隆家卿の様に親身になり、行いを諌めてくれる人もいましたが、長年の呪詛が心身ともに蝕んで心が壊れて行ったのだと思います。
伊周卿の立場や置かれた環境も考えずに自戒せず誰かを恨むことに没頭した事だけに言及するのは如何かと思います。
ところで、何見氏は過去の私怨から公平な批評ができず、全く無関係の人や物に嫌悪を向け中傷していますが自分を省みた事はあるでしょうか。

寛弘6年(1009年)正月。
藤壺のまひろさんの局をききょうさん(清少納言)が訪ねて来ました。
ききょうさんはまひろさんに「光る君の物語、読みました」と告げ、明るい笑顔で物語について「引き込まれました!」と伝えました。
ききょうさんは「あんな事をお一人でじっとりとお考えになっていたかと思うと。たまげましたわ。まひろさまは真に根がお暗い」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>あんなことを一人でじっとりと考えていたのか?と驚きながら、その直後には「まことに根がお暗い」と批判めいた言葉を続ける。
>そして、グイグイとまひろに迫るのです。
「真に根がお暗い」は「引き込まれました!」と言いながらも立場上手放しで賛辞を送る事も憚られるききょうさんの牽制でしょう。
『グイグイとまひろに迫る』とありますが、ききょうさんの正面アップの画角ではなく、横向きから見るとききょうさんが一定の距離を保ちまひろさんと対峙している事が分かります。
以前のまひろさんの邸にお邪魔して親しく世間話をしていた時と比べ、政治的な陣営や作家としての考えの違いから気安く会話ができない壁ができているのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・清少納言、『源氏物語』を読む?

>「根が暗いのはわかっています」
>ききょうが放った先制パンチは、まひろにするりと躱されました。
まひろさんも「暗いのはわきまえております」と答えます。
ききょうさんは、「光る君は側にいたら、一言言ってやりたい様な困った男でございますわね。玉鬘の君に言い寄るところのしつこい嫌らしさなど呆れました。されどそういう困った男を物語の主になさって男のうつけぶりを笑いのめすところなぞ真にまひろさまらしくて。それだけではございません。まひろ様の漢籍の知識の深さ、この世の出来事を物語に移し替える 巧みさ、どれもお見事でございますわ。」と『光る君の物語』に於ける「漢籍の知識の深さ」「この世の出来事を物語に移し替える巧みさ」などを評しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは「手厳しいききょう様からそのようにお褒めいただいて嬉しゅうございます。」と喜び、ききょうさんは「私、手厳しいでしょうか?」と尋ねます。
まひろさんは「以前、左大臣様の事を人気 もやる気もない人と仰せになっていましたもの」と道長卿を話題に挙げ、ききょうさんは「真に見る目がございませんでした」と答えます。
まひろさんは「ききょうさまの様に才気溢れる楽しい方が藤壺にいらしたらもっと華やかになりますのに」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ききょうは「光る君は困った男だ」と批判。
>キャラクターにダメ出ししつつ、玉鬘へのセクハラ三昧に呆れ果てたと具体例を出します。
>例えば「私は、なんか嫌!」と、ふわっとしたフィーリングだけで語っても攻撃力不足でしょう。
>具体例をあげてこそ批判は刺さる。
歴史に関する文物や風習がどの様なものであるかも調べずお気持ちだけで批判をしているつもりで具体的な史料などを提示しながらの解説もせず、全く関係の無い事柄ばかり話して何を言いたいのか分からないレビューはそれこそ『ふわっとしたフィーリングだけで語っても攻撃力不足』でしょう。
『玉鬘へのセクハラ三昧に呆れ果てたと具体例を出します』とありますが、ききょうさんは『光る君は側にいたら、一言言ってやりたい様な困った男でございますわね。玉鬘の君に言い寄るところのしつこい嫌らしさなど呆れました』と言っています。
会話などは正確に述べなければ真意が伝わらないのではないでしょうか。
『源氏物語』で玉鬘が登場する第22帖「玉鬘」から第31帖「真木柱」(まきばしら)までを『玉鬘10帖』と呼ばれます。
玉鬘は頭中将と夕顔の間に生まれた娘で、乳母によって筑紫で育てられ、肥後の豪族大夫監の熱心な求愛を拒否し上洛しました。
玉鬘は母・夕顔の侍女だった右近の仲立ちにより、源氏の君の邸・六条院に養女として引き取られました。
その経緯は第22帖「玉鬘」で描かれます。

源氏の君は35歳。
地位も名誉も手に入れ栄華を極めており、彼は夕顔に似た美しい玉鬘を引き取り側に置く事で、周囲の殿方が振り回されるのを見て楽しもうと考えていました。
玉鬘は思惑通り冷泉帝の他、たくさんの男性から言い寄られます。
しかし自分自身も玉鬘に対して本気になり、口説こうとするも手は出しません。
第25帖「蛍」では『源氏の君とは身分違い故に真に受け関わりを持つと噂の種になる、それが嫌だ』と玉鬘は思います。
源氏の君も深入りはいけないと自戒しつつ、玉鬘の許へ通いついつい口説き文句を並べ立てます。源氏の君は突然手を握ったり関係を迫り『実の父親なら、こんな仕打ちもなかろうに…』と玉鬘を困らせてしまう有り様でした。

>そういう困った男を物語の主役にして、男のうつけぶりを笑いものにするなんて、まひろらしくて素晴らしいと貶し、褒め、貶してゆく。
>作品としては良くても作者としては性格サイテーだろ!
>そういう含みはどうしたって感じさせますね。
『姫君の困惑や嫌悪とは裏腹に自分以外の殿方が振り回される様子を楽しみ自らも言い寄る困った男』にききょうさんは呆れ、『そういう困った男を物語の主になさって男のうつけぶりを笑いのめすところ』をまひろさんらしいと評価しているのですが。
何見氏の書き方だと『困った男のうつけぶり』ではなくその男を主役に据えた女流作家が性格最低と解釈しているように見えます。

>そのうえで、まひろの漢籍知識、世相を批判し物語に反映させる技量は褒める。
>これほど卓越した技は褒めておかないと、かえって自身の名が廃りますからね。
ききょうさんは「まひろ様の漢籍の知識の深さ、この世の出来事を物語に移し替える 巧みさ、どれもお見事でございますわ。」と『源氏物語』の完成度の高さ、巧妙な作意について絶賛します。
どんなに敵陣営の作者が書いた嫌いな作品でも作品をきちんと読み、『良いと思った事』『好みではない事』を公平に評価するのは批評家として大事ではないでしょうか。

>まひろにしても、印象論で返すのではなく、以前左大臣のことを人気もやる気もないと言っていたことを持ち出してきました。
『左大臣』とは誰の事でしょうか。
以前から覚える気のない人物名を『女房』『左大臣』など固有名で呼ばなかったり変なあだ名で呼ぶ事が多いですが、『具体例をあげてこそ批判は刺さる』のではないですか。
『左大臣』は道長卿の事ですね。
まひろさんは「以前、左大臣さまの事を人気 もやる気もない人と仰せになっていましたもの」と言い、ききょうさんは「真に見る目がございませんでした」と答えています。
18話でまひろさんは自宅を訊ねてきたききょうさんから『ケチで細かいことに厳しいと、女房の間では人気がない』と道長卿の評判を聞かされていました。
その頃から『手厳しいききょう様』であった、その人から褒められたと喜び、ききょうさんは現在の道長卿の栄華を踏まえて『見る目がなかった』と評したのではないでしょうか。

『光る君へ』より

>いちいち過去の言葉を持ち出すのって、本当に鬱陶しいですよね。
>今ならスマホのメモに記録していそうです。
平安時代の女性の日記は後年になってから当時の出来事や来し方を振り返って書く回想録の形をとるものが多く、『枕草子』や『紫式部日記』の様に季節の移ろいや年中行事などの情報だけでなく、日々の愚痴や喜怒哀楽なども記録しています。
メモに記録する様に日記を書いたり過去の出来事を回想する事の何が悪いのでしょうか。
むしろスマホのない時代、記憶力は大変大事なものだったと思います。

>これはどう答えても相手に打撃を与えられる、巧みの技といえる策でしょう。
>まひろはしれっと謙遜できるけれども、ききょうはそうではない。
>ここで藤壺に行こうと言おうものなら、職場の先輩ヅラをされかねない。
>一方、断っても「私と知恵比べする時間がないのでしょうか?」という願意を含めてニヤリとされかねない。
>断ることまで見越していたとも思えてきます。
まひろさんは「ききょうさまの様に才気溢れる楽しい方が藤壺にいらしたらもっと華やかになりますのに」と言います。
これは『源氏物語』の作意について『男のうつけぶりを笑いのめす』『漢籍の知識の深さ』『この世の出来事を物語に移し替える巧みさ』などと的確に批評を下したききょうさんの才女ぶりをまひろさんが正当に評価し、『藤壺にいらしたらもっと華やかになる』と言ったのではないでしょうか。
もちろんききょうさんは皇后・定子さまに揺るがぬ忠誠を誓っているわけですが、まひろさんは自分の考えを表出はするものの、人の気持ちまで慮る余裕がなくききょうさんの気持ちの機微まで思い至らないのではないでしょうか。

・ききょうの忠義?

>まひろのスカウトに対し、ききょうは、自分自身の素直な忠義を見せます。
まひろさんは「ききょうさまの様に才気溢れる楽しい方が藤壺にいらしたらもっと華やかになりますのに」と言いました。
これにはききょうさんが「それはお断りいたします」と断り、「私は亡き皇后定子さまのお身内をお支えするために生きております。今も竹三条宮で脩子内親王さまのお世話をしておりますし、今日は、敦康親王さまのご様子を伺いに参りました」と言います。
さらにききょうさんは「中宮さまが、ご自身の皇子さまをお産みになった後も、まだ敦康さまを藤壺にお置きになるのは、なぜなのでございましょう?」と問い、まひろさんは「中宮さまが敦康さまを、敦成さま同様に大切にお思いになっているからでございましょう」と答えます。
さらにききょうさんは「そのような綺麗事、源氏の物語をお書きになったまひろ様とも思えません」と言い、まひろさんは「中宮さまはそういうお方なのです。帝も中宮さまをお信じになって、敦康さまをお託しになっていると存じます」と反論します。
ききょうさんは「そうですか。私はいかなる世となろうとも、皇后定子様の灯を守り続けて参ります。私の命は、そのためにあると思っておりますゆえ。」と言います。
ききょうさんはまひろさんに「まひろさまは何ゆえ、源氏の物語をお書きになったのですか?もしかして、左大臣様にお頼まれになったのですか?」と問い、「帝のお心から『枕草子』を消してくれと。亡き定子様の輝きをなきものとするために」と言いながらまひろさんを睨みました。
まひろさんは「帝のお心をとらえるような物語を書きたいとは思いました」と答えるのが精一杯です。
するとききょうさんはまひろさんに「私は腹を立てておりますのよ、まひろさまに。『源氏の物語』を恨んでおりますの」と本音をぶつけました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>何かのために命を賭けられるなんて、素晴らしいことです。
>清少納言は『枕草子』の作者であり、作品の印象からか、軽妙どころか軽薄という批判すらあります。
清少納言に対しての『軽妙どころか軽薄という批判』とは具体的にどの様なものでしょうか。
紫式部が中宮・彰子さまの藤壺に出仕した際、彼女は夫藤原宣孝没後4年で33歳頃だと言われています。
皇后・定子さまは既に亡くなり、その女房であった清少納言は、既に宮仕えを辞去していました。(作中では竹三条宮で脩子内親王さまのお世話をしている)
紫式部にとっては、華麗な貴族の生活は馴染めぬ世界であった様で、『源氏物語』では宮中という華やかな世界の裏で悪口・蔭口などが渦巻く世界も同時に描いています。
また紫式部は『紫式部日記』で歌人や文筆家を激しく批判し、その矛先は清少納言や和泉式部に向けられた事もあります。
因みに清少納言も『枕草子』で『人のことをあれこれ言うのを怒る人こそ、道理に合わない人だ。どうして他人の噂話をしないでいられようか。』と言っています。 

『紫式部日記』才女批評・清少納言


『枕草子』 人の上言ふを腹立つ人こそ  

>この場面は見ていて辛いような、思い当たるところがあるような……
>私の個人的な経験をここにつらつらと書くことは控えたいようで、思い当たるところはあります。
>私はききょうタイプと相性が最悪です。
>こちらから嫌いになる前に、あちらが怒って絶交宣言をしてくることがあまりに多いのです。
相手の性格タイプ関係なく他人が楽しんでいる作品や物をこれでもかと侮辱し言葉で傷つけて「あちらが陰謀論者になったんだ!私は悪くない!なのにあちらが絶縁するんだ!」と被害者仕草するから愛想つかされるのではないですか。

・まひろの言い分?

>ただ、まひろにだって言い分はある。
>ききょうにしても、まひろが大好きな道長の悪口を言っていました。
>友達なら、好きな者の悪口を言ってはいけないルールであれば、ききょうだって違反している
>もちろん彼女はまひろと道長の関係性を知らないので、仕方ないところではありますが。
>そう割り切りつつも、まひろの中では減点一点と判断されていても不思議はないでしょう。
18話でまひろさんは自宅を訊ねてきたききょうさんから『ケチで細かいことに厳しいと、女房の間では人気がない』と道長卿の評判を聞かされ、ききょうさんが帰った後で『あの人人気ないんだ…』としみじみ独り言ちていました。
まひろさんは『光る君の物語』の評価としてハッキリと本人に意見をぶつけ、褒めるだけでなく手厳しい批判もできる公平な人物としてまひろさんは「以前、左大臣さまの事を人気 もやる気もない人と仰せになっていましたもの」とかつてききょうさんが道長卿を批判していた事を引合いに出したのではないでしょうか。
まひろさんがいくら道長卿と恋愛関係だとしても彼女の性格上盲目的にかばう事はないと思います。
またまひろさんもききょうさんの定子さま一途で彼女の存在を無き者にしているのではという怒りや悲しみからの「『源氏の物語』を恨んでおりますの」という本音を受け入れたのだと思います。

>漢籍に出てくる定番として【諷諫】(ふうかん)があります。たとえ話をして、諌めることです。
>主君が酒宴を開いて盛り上がっているとする。>するとため息混じりに「あの酒池肉林を楽しんだ紂王も、こんなノリだったんですかねえ」という。
>言外に「こんな馬鹿騒ぎはあの暴君である紂王のようだ。恥を知れ!」と込めているわけです。>『源氏物語』の「桐壺」からはそういう意図を読み解ける。

諷諫(ふうかん)
『史記』滑稽
例え話をして、遠まわしに諫める事。他の事に事寄せて、それとなく諌める事。

『史記』滑稽

酒池肉林
『史記』殷紀
贅沢の限りを尽くした盛大な宴会。また、淫らな宴会。酒を池に満たし、肉を林に掛ける意から

『史記』殷紀

『酒池肉林』殷の暴君紂王が、池に酒を満たし木々に肉を掛け、男女を裸にしてその間を追いかけ回らせ、昼夜を分かたず酒宴を張ったという故事が元です。
『源氏物語』第一帖「桐壺」は白居易の『長恨歌』の唐の玄宗皇帝と楊貴妃の恋を引用し、桐壺帝が身分の低い桐壺更衣に夢中になり政が疎かになるなどの設定を借りています。
『源氏物語』第一帖「桐壺」に言及するなら『長恨歌』を例えに出す方が適切だと思います。

>まひろは「ききょう様ともあろうお方が【諷諫】もわからないのですか?」と反論できるワケですね。
>あなたの漢籍教養は、所詮、「香炉峰の雪」と聞いて御簾を捲り上げるような、そんな軽薄さでしか表現できないの? 
>そう考えるとすごい煽りです。
>まひろは『源氏物語』を書くことで、「お前の完敗だ!」と突きつけたようなもの。
『源氏物語』第一帖「桐壺」に言及しておいて白居易の『長恨歌』ではなく、『史記』殷紀の『酒池肉林』の故事を例えに出してドヤ顔している人に『「香炉峰の雪」と聞いて御簾を捲り上げるような、そんな軽薄さでしか表現できないの? 』などと言われても全く響かないのですが。
原文では『香爐峰雪撥簾看(香炉峰の雪は簾を撥げて看る)』なのですが。
御簾を巻き上げる以外にどんな表現があるでしょうか。
『さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり』とはこの事では。

・元服と呪詛?

>寛弘6年(1009年)、敦成親王をあやす敦康親王の姿を微笑みながら見守る中宮 
寛弘6年(1009年)。
藤壺では敦康親王が弟の敦成親王をあやし、中宮彰子さまがその様子を見て嬉しそうにしています。
敦康親王家別当・藤原行成卿が藤壺を訪ね、敦康親王に「敦康親王さまのご元服について左大臣さまにご相談いたしたく存じます」と打診しました。
彰子さまも「もう11歳であらせられますものね」としみじみ言います。
しかし、敦康親王は「行成、私は元服なぞ望まぬ。元服したらこの藤壺を出ていかねばならぬではないか」と渋ります。
行成卿は「いつかは元服されねばならない」と説得します。
敦康親王に彰子さまは、「元服された姿を見てみたい、ゆくゆくは帝になられる敦康さまですゆえ」と声をかけました。
そして彰子さまは「元服されないまま帝になることはできませんでしょう?」と言い聞かせますが、親王はなおも「嫌である」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

寛弘6年(1009年)2月。
藤壺で彰子さまと彼女が産んだ敦成親王に対する呪詛の形跡が見つかりました。
土御門殿では、道長卿に百舌彦さんが「この様なものが敦成親王さまのお側で」と呪詛の証拠である紙に書かれた『厭府(まじない札)』を見せました。
道長卿は「敦成親王の寝所に呪符が見つかった。」と行成卿にそれを見せました。
形代には「敦成」と記されており、敦成親王の寝所の縁の下から発見されたものでした。
行成卿は「誰がこのような」と驚いています。
道長卿は「敦成さまの誕生をいまいましく思っている者の仕業であろう」と言います。
道長卿は行成卿に「誰が行ったものか調べてくれ」と命じました。
行成卿の調べにより、円能という僧侶が浮かびあがってきました。 
円能は検非違使に逮捕され厳しい尋問を受けます。
検非違使が「事もあろうに中宮さま、若宮さま、左大臣さまを呪詛奉るとは何事か!」と円能を詰問し、呪詛の依頼者は伊周の縁者で伊周卿と敵対する者を排除する目的であると白状しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>円能という僧侶が浮かび上がり、厳しい尋問により犯人はすぐにわかりました。
>伊周の縁者です。
>劇中では名前がまだ出てきませんが、伊周にとっては母方の叔母にあたる高階光子だと伝えられています。
高階光子さまと源 方理卿が伊周卿の邸を訪れ、道長卿を呪う呪詛に誘う場面が37回で描かれ、何見氏のレビューでも『定子の母方にあたる高階光子が「敦康親王が追いやられるのではないか」と危惧して伊周に訴えているのでした。』と言っているのですが、『劇中では名前がまだ出てきませんが』とは。

『光る君へ』より

敦成親王の寝所から呪符が見つかり、円能という僧侶を検非違使が尋問したところ、円能は呪詛の依頼者は伊周の縁者で伊周卿と敵対する者を排除する目的であると白状しました。
首謀者とされる高階光子さまは伊周卿・定子さま・隆家卿の母・貴子さまの妹で、伊周卿の母方の伯母です。
また源 方理(みなもとのかたまさ)卿は伊周卿の嫡妻・幾子さまの兄です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

『権記』寛弘6年(1009年)2月1日条には、『左府(藤原道長)の許に参った。昨日、内裏(だいり/一条院)から持ってきた厭符(えんぶ)を示された。「これは帝皇(一条天皇)の后(藤原彰子)に対して、また若宮(敦成親王)に対して行ったものである」と云(い)うことだ。事は多くは記さない。退出した。』
寛弘6年(1009年)2月4日条には『中宮(藤原彰子)に厭術(えんじゅつ)を施した法師円能(えんのう)を捕え出した。「特に申した事が有った」と云(い)うことだ。』とあります。

『権記』寛弘6年(1009年)2月1日条
『権記』寛弘6年(1009年)2月4日条

また明法博士・令宗(惟宗)允亮公が記した『政事要略』によると、『藤原道長、藤原彰子、敦成親王らを呪詛するために藤原定子の叔母にあたる高階光子や源方理が厭符の製作を円能に依頼した。』とあるそうです。 

・伊周はなぜ??

>さて、この呪詛は陣定(じんのさだめ)の議題となります。
伊周卿たちの処分が陣定で話し合われました。
「意見を述べよ」との道長卿が言い、行成卿が「縁者は死罪が相当と思われるが、まずは明法博士に調べさせるべきと存じます」と言います。
次に公任卿は「円能も還俗させた上で同じ罪に問うべきであろうと存じます」と意見を述べます。
隆家卿は「明法博士の勘申に従うべきでございましょう」と提案し、藤原顕光卿、藤原公季卿、藤原実資卿、藤原道綱卿がこれに同意しました。
次に道長卿が、「伊周の処遇をどうするべきか」と一同に尋ね隆家卿は暗い面持ちになっています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

陣定で『呪詛の首謀者、実行者は死罪』と決定しました。
「明法博士の勘申では、呪詛の首謀者と実行者は、律の規定により死罪でございます」と道長卿が帝に伝えます。
帝は「伊周は呪詛には関わっておらぬが…」とお思いになりながらも道長卿に相談して処分を検討されます。
道長卿は「伊周については、参内停止が相当かと存じます。公卿たちから白い目で見られる中参内するのはかえって酷。伊周のためでございます」と帝に進言しました。
帝は「そなたが呪詛されていたのに、寛大なことだ」と仰います。
道長卿は「自分の事はともかく、中宮さまと敦成親王さまが呪詛されたことは許しがたい。されど厳しい罰を与える事でこれ以上恨みを買うような事は避けたい」と言います。
帝も「分かった。そうしよう」と進言を受け入れられました。
寛弘6年(1009年)2月20日。
伊周卿は参内停止。首謀者の高階光子さまと源方理卿は官位剥奪。円能は還俗させた上で禁獄という処分が下されました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

その夜帝は藤壺にお渡りになりました。
帝は「伊周はなぜ朕を悩ませるのか」と仰います。
また帝は「そなたと敦成は大事ないか」と彰子さまにお尋ねになり、彰子さまは「何事もございませぬ」と答えます。
帝は半身を起こされて、彰子さまに「そなたは敦康がおるため敦成が狙われておると思うておるのか?」とお尋ねになりました。
彰子さまは「分かりませぬ。されど、私の敦康さまへの思いは変わりませぬ。」と答え、帝は「まことか?」と問われます。
彰子さまは「藤壺で寂しく過ごしておりました頃から私にとって敦康さまは闇を照らす光でございました。」といいます。
さらに彰子さまは半身を起こし、帝のお顔を見つめ「その思いは敦成が生まれましょうとも変わる事はございませぬ。私はお上のお心と共にありたいと願っております」と言います。
帝は彰子さまを抱き寄せその髪を撫でられました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>あの温厚な行成ですら、呪詛は死罪だと言い切る。
>その上で明法博士(みょうほうはかせ)に調べさせると提案します。
>公任も、円能を還俗させ、罪を問うべきだと続きます。
律令では、呪詛をした者の罪状は絞首刑に当たります。ただ罪一等を減ずる措置により、2月20日、高階光子さまと源方理卿には除名(朝廷から与えられた財産を没収したうえ官位を剥奪)、円能には還俗(僧籍を剥奪)のうえ除名の処分が言い渡されました。
明法博士は律令制下に於いて大学寮に属した令外官で、陣定などの朝議に際して法律的な見解を記した明法勘文を作成・提出する事が重要な職務でした。
平安時代中期は、医療や科学が未発達の時代で、祈祷により病を治したり雨乞いをしたりしました。
陰陽師や山岳信仰を起源とした修験者や僧侶が活躍する時代でもありました。
呪術は貴族の生活になくてはならない技能とされましたが、呪詛は人命を脅かす凶悪な犯罪行為として奈良時代から幾度も禁止令が出されました。
大宝元年(701年)に制定された大宝律令のうち、現在の刑法や刑事訴訟法に当たる『律』の第7章『賊盗律(ぞくとうりつ)』の中で、呪詛は謀反、反逆、殺人、強盗、窃盗と並ぶ凶悪犯罪と明記されていました。
呪詛行為を実行済みで、標的が死亡した場合には、「謀殺(ぼうさつ/計画殺人)」として、絞首刑(こうしゅけい)よりも一等重い斬首刑(ざんしゅけい)が宣告されました。
また、標的が死なないまでも、体調を大きく崩した場合は殺人未遂として軽くとも2か年の徒刑(強制労働刑)が課せられました。

公任卿が「円能も還俗させた上で同じ罪に問うべきであろうと存じます」と意見を述べましたが、律令の編目に『僧尼令』という僧尼に関する行政と刑罰の規定があり、僧侶による破戒行為・犯罪に対しては還俗(徒罪相当以上)もしくは苦使(杖罪・笞罪相当)と呼ばれる閏刑が採用されました。

>それでも寛大な措置であるのは、恨みを買いたくないからだと言いつつ「伊周は参内停止相当だ」ときっぱり言い切りました。
>帝が伊周は関わっていないと庇うものの、公卿から白い目で見られるのはかえってかわいそうだ、伊周のためだというのが道長の理屈です。
道長卿は伊周卿の参内停止相当について、「公卿たちから白い目で見られる中参内するのはかえって酷。伊周のためでございます」としながらも
その理由として「自分の事はともかく、中宮さまと敦成親王さまが呪詛されたことは許しがたい。されど厳しい罰を与える事でこれ以上恨みを買うような事は避けたい」と言います。
平安時代の人々が恐れたものの一つに『御霊』があります。
非業の死や政争に敗れ亡くなり、自分が受けた仕打ちに恨みを持ち祟る様な人物の魂の事を『怨霊』といい、天災や疫病の発生の原因とされました。
『怨霊』を神として祀る事でそれを鎮め慰めることによって、鎮護の神『御霊』とし、平穏と繁栄を実現しようとする信仰を『御霊信仰』と言います。

『権記』 寛弘6年(1009年) 2月6日によると、道長卿は暗殺計画の噂よりも呪詛事件の方がよほど恐ろしかった様で「わが身の大事だ」と出仕を渋り6日後に政務復帰しています。

『権記』 寛弘六年(1009年) 二月六日

時代考証・倉本一宏氏によると、『道長・彰子・敦成呪詛事件で伊周は朝参停止(隆家はお咎め無し)、高階光子と源方理は官位解却など罰せられたが翌年には全員赦免されている点が不可解。
敦康親王の後見を務める伊周を失脚させ親王を後継者から外す為に道長が事件を捏造した可能性がある』との事です。
(『藤原伊周・隆家:禍福は糾へる纏のごとし』倉本一宏 (ミネルヴァ日本評伝選))

>帝は中宮と閨を共にしながら、なぜ伊周は朕を悩ませるのかと打ち明けています。
>中宮は「敦康様への想いは変わらない」と告げる。
帝は「伊周はなぜ朕を悩ませるのか」と仰った後、「そなたと敦成は大事ないか」と彰子さまにお尋ねになっています。
彰子さまと生まれたばかりの敦成親王を心配されたのでしょう。
彰子さまは「何事もございませぬ」と答えます。帝は彰子さまに「そなたは敦康がおるため敦成が狙われておると思うておるのか?」とお尋ねになり、彰子さまは「分かりませぬ。されど、私の敦康さまへの思いは変わりませぬ。」と答えています。
定子さま出自の皇子敦康親王の存在が、敦成親王の命を脅かしていると彰子さまが考えるのではと帝はお思いになったのかもしれません。

・人はなぜわかりあえぬのか??

>まひろは月を見上げつつ、ききょうの言葉を思い出していました。
まひろさんは藤壺の縁先に立ち、ききょうさんの言っていた「私は如何なる世となろうとも、皇后定子様のともし火を守り続けてまいります。私の命は、そのためにあると思っております故」という言葉を思い出していました。
そこへ宮の宣旨がやって来て、「藤式部はいつも月を見ておるのう」と声を掛けました。
まひろさんは宮の宣旨に「お役目ご苦労さまに存じます」と挨拶しました。
宮の宣旨は「何を思っておるのだ」と尋ねました。
まひろさんは「その時々ではありますが、今皆様はどういう気持ちで宮仕えをなさっておられるのかと考えておりました」と答えました。
宮の宣旨は側に近づくと「そなたは何のためにここにおる」と尋ね、まひろさんは「帝の御ため、中宮様の御ため」と答えます。
宮の宣旨は「生きるためであろう?」と言いました。
さらに宮の宣旨は「物語を書くなら里でも書ける、ここで書くのは暮らしのためだと思っておった」と言います。
まひろさんは頷き、「父は官職が無く、弟も六位の蔵人でございます」と打ち明けました。
宮の宣旨は「藤式部には子もおったな。うまく行っておらぬのか」と尋ね、まひろさんは「なぜお分かりになるのですか」と訊き返します。
宮の宣旨は「お前のような物語は書けぬが、私もそれなりに世のことは学んで来た故」と答えます。
まひろさんは「子を思う気持ちはなかなか届かぬ様です」と言います。
宮の宣旨は「夫婦(めおと)であっても親子であっても、真に分かり合う事はできないのではなかろうか、寂しい事だが」と答えます。
そして宮の宣旨は「今日もよく働いた、早く休もう」と夜空を見上げ、自分の局へ戻っていきました。
まひろさんは「お休みなさいませ」と挨拶をして見送ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まひろのようぬ物語は書けないけれど、それなりに世の中のことを学んできたと説明する宮の宣旨です。
『まひろのようぬ物語』ではなく宮の宣旨は「お前のような物語は書けぬが、私もそれなりに世のことは学んで来た故」と答えています。
『ような』が『ようぬ』になっていますし、宮中の様な公の場で上司である宮の宣旨が部下の女房を『まひろ』と本名では呼ばないと思います。

・心を病んでゆく平安の人々?

>兄の様子を危惧したのか。隆家がズカズカと大股で屋敷に入ってゆきます
藤原隆家卿は兄・伊周卿の屋敷を訪ねました。
出迎えた伊周卿の妻・幾子さまに「一体どうなっているのだ、兄上は」と尋ねました。
狼狽える幾子さまを余所に隆家卿は兄の部屋へ入りました。
隆家卿は伊周卿がたくさんの形代らしき木片が散らかる中で呪詛を行っているのを目撃しました。
形代には道長卿の名が書かれていました。
伊周卿は部屋に入ってきた隆家卿に目を遣りましたが、気にも留めず呪詛の言葉を唱え形代に刃を突き立て続けています。
隆家卿が「何をしておる!」と叫び、兄の呪詛をやめさせようとしますが、伊周卿は取り憑かれた様に呪詛を続けます。
ついには凄まじい形相で道長卿の名を書いた形代を歯で噛み割ろうとします。
咥えた形代を手で割り、尚も呪詛を続ける伊周卿の様子はもはや正気と言えず、隆家卿は目を伏せました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>兄の様子を危惧したのか。隆家がズカズカと大股で屋敷に入ってゆきます。
>「何をしておる!」
>伊周は、呪詛をしておりました。
隆家卿は出迎えた伊周卿の妻・幾子さまに「一体どうなっているのだ、兄上は」と尋ねてから兄の部屋に入っています。
そこにはたくさんの形代らしき木片が散らかる中で呪詛を行っている伊周卿がいて形代には『道長』と呪う相手の名が書かれていたため、呪詛をやめさせようとしたのでしょう。
寛弘6年(1009年)2月の呪詛事件であわや死罪に処される重罪が明るみになるところでしたし、何よりも参内停止の処分が下された後、さらに呪詛に傾倒していく伊周卿の尋常でない姿に隆家卿は放っておけず力ずくでも止めようとしたのではないでしょうか。

>ちなみに呪詛の呪文は本物をそのまま唱えると危険なので、一部変えているそうです。
>それでも伊周役の三浦翔平さんは体調が悪化したそうで
せめて参照記事を貼っては如何でしょうか。
5日、奥州市江刺の江刺体育文化会館で行われたトークショーに制作統括の内田ゆき氏、伊周卿役の三浦翔平さんが登壇されました。
呪詛のシーンを撮る日は『呪詛デー』と呼ばれ、『SNSでは「伊周は一体いつまで呪詛を続けるのか」と話題になっているが、三浦いわく「呪詛は疲れる。エネルギー量をあげていかないと……」とかなり消耗度が高い様子』だったそうです。
また、内田氏曰く、『(劇中に登場する)呪詛の文句も陰陽法師の先生が少し変えたとおっしゃっていて、理由を尋ねたら本当に効いてしまうからだと』との事で、撮影中は『“呪詛返し”をくらったのか、あまり体調が良くなかったです。風邪もよくひいたし、けがもしたし。こういうことは軽々しくやっちゃいけないんですよ。お祓に行こうと思っています。』と仰っています。
放送も呪詛部分はそのものの字幕が出ない様になっていますね。

>私も寺社仏閣に参るときは、大河が無事で進行できるよう願っています。
『寺社仏閣』となっていますが、まず頭の二文字『寺社』だけで既に神社と寺院の両方を表しており、寺社仏閣では、寺院、神社、寺院、寺院と言っているのと同じことになってしまうのではないでしょうか。
『神社仏閣』の方が適切かと思います。

>『源氏物語』の呪詛といえば六条御息所ですが、彼女は勝手に生き霊になってしまうのであって、自発的に呪ってはいません。
>流罪にせよ、しょうもない恋愛沙汰でそうなってしまう。
『源氏物語』の登場人物・六条御息所は才色兼備で誇り高き年上の元東宮妃(未亡人)でした。源氏の君を愛するあまり嫉妬に駆られプライドが傷付き、もがき苦しんだ末に生霊と化します。
第四帖『夕顔』では、源氏の君は六条御息所の非の打ち所がない振る舞いや嫉妬深さに息苦しさを覚え、可憐な夕顔の花に惹かれ隣家の女主人・夕顔の許に通います。
人気のない「某の院」で逢瀬を楽しむ源氏の君と夕顔でしたが、美しく気高い女人が怨めしそうに枕元に立ち、夕顔は冷たくなり亡くなってしまいます。
ここで読者は、嫉妬深い六条御息所の生霊が夕顔を襲ったと思う事になります。

第九帖『葵』では、源氏の君が参加する賀茂祭を見るため牛車で正妻・葵の上が出かけます。
六条御息所の牛車と『車争い』になり、葵の上の従者たちは御息所の車を傷つけます。
大恥をかかされた六条御息所は葵の上を大変憎むようになります。
最初こそすれ違いばかりだった源氏の君と葵の上ですが、彼女は妊娠していました。
ところが葵の上の容態が悪くなり、
世間では「六条御息所の物の怪では」と噂されているのが耳に入ってきます。
他人の不幸を願うなどしないのに無意識で取り憑いてしまったのではと御息所は思い、自分の心を見つめて苦しみます。
葵の上は難産の末に男の子を産んだ後息を引き取ってしまいます。
源氏の君の文から葵の上への憎しみの感情から彼女に取り憑いたのを自覚した御息所は消え入りたい気持ちになります。

当時は物の怪の類が人に取り憑いて、病気にさせたり死なせたりするものだと信じられていました。
しかし、紫式部は物の怪が取り憑いて苦しむ人の心の鬼や疑心暗鬼などではないかと考え、物の怪について『紫式部集』で次のように詠んでいます。
葵の上に取り憑いた御息所の声が夫である光源氏にしか聞えなかった事で源氏の君の疚しさが御息所の生霊を見せたと考えたのかもしれません。
作中、道長卿が呪詛事件を重く見て事件の首謀者や伊周卿の罪を減じたのは恨まれている自覚があったからかもしれません。

『紫式部集』

さて藤原伊周卿ですが、演じている三浦翔平さんのインタビュー内で『伊周は子どもに対してはすごく厳しい人間だったけれど、父親に対しては尊敬が、母親に対しては甘えがあった』『母親(高階貴子さま)が亡くなる瞬間に立ち会わせてもらえなかった恨みは、相当強いものがあったと思います。ききょうが「御母君、お隠れになりました」と言いにきた時に、伊周の精神崩壊が始まったような気がします。』と仰っています。
家族をとても大切に考えていたからこそ、かつての栄光を忘れられず執着するあまり、呪詛に傾倒していったのではないでしょうか。
三浦さんは『道長の一族に恨みを宿す事で自分の気持ちを納得させようとしていたのかな、と思います。』とも仰っています。

・道長と頼通の使命?

>頼通が道長に呼ばれてきました。
道長卿は嫡男・頼通卿を呼び、今後一族が実現させなければいけない目標を打ち明けました。
道長卿は「これから我々が成すべき事は敦成さまを次の東宮に成し奉る事。一刻も早く即位いただく事だ」と言います。
頼通卿は父の決断を真剣な表情で聞いています。
さらに道長卿は「本来、お支えする者がしっかりしておれば帝はどの様な方でも構わぬ。帝のお心をいたずらに揺さぶるような輩が出てくると朝廷は混乱をきたす。いかなる時も我々を信頼してくださる帝であってほしい。それは敦成さまだ。」と言います。
その理由について、道長卿は頼通卿に「家の繁栄のためではないぞ」と念を押します。
そして「成すべきは、揺るぎなき力をもって民のために良き政を行う事だ」と主張しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>政治体制として、摂関政治が清廉潔白から程遠いことも指摘せねばなりません。
>今年の大河ドラマは、いくらなんでも摂関政治を悪く描きすぎだとも言われるようですが、さて、どうでしょう。
何見氏は第5回レビューで『脂ぎった口調で言う兼家には、何の政治的ビジョンもありません。花山天皇とその側近の方がよほど真っ当だ。』と言い、第11回レビューでは『『三国志』で悪党とされる曹操と共通しています。』『帝を担ぎ上げ、傀儡にして政権を運営するのですが、ここから先に日本史と中国史の違いがあります。日本史は傀儡として利用していく。中国は己の一族が新たな王朝を開く。』と言っていましたが『摂関政治を悪く描きすぎ』なのではなく、何見氏が悪いものだと捉えて叩きたいだけではないでしょうか。
その割に肝心の『摂関政治』には触れないのでしょうか。
天皇が幼少、病弱などで政治を行う事ができない場合、天皇を補佐しながら政治の重要事を判断する役職を『摂政』、成人した天皇を補佐して政務を行う役職を『関白』と言います。
自分の娘を天皇に入内させ、生まれた男児を次の天皇にすることで『外祖父』となり、大きな影響力を及ぼしていこうとする様になりました。
これを『摂関政治』といいます。

大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第5回~
大河コラムについて思ふ事~
『光る君へ』第11回~

>藤原道長はもっと若い頃から陰険奸悪な策士だったという見方をする研究者もいます。
>政治体制からすると、『貞観政要』のような漢籍を「理想として掲げただけではいけない」のだとつくづく思います。
誕生した皇子は后の実家で后の父が教育・後見するというのが平安時代の慣例でした。
作中、道長卿は「敦成さまを次の東宮(皇太子)になし奉ること。一刻も早く即位いただく事だ」と頼通卿に言います。
一条帝の後継者を見据えての事ですが、現状東宮居貞親王が次の天皇となります。
道長卿は現在彰子さまが養育する亡き定子さま出自の敦康親王を排除し、東宮・居貞親王についても即位後早期の譲位を迫り、自分の孫の敦成親王を後継にして天皇の外戚として道長卿や頼通卿たちが一層、権力を行使しやすくなる体制を目指す事を画策したのでしょう。
その理由について、道長卿は頼通卿に「家の繁栄のためではないぞ」と念を押し、「成すべきは、揺るぎなき力をもって民のために良き政を行う事だ」と言います。
かつて道長卿の父・兼家卿は「民の暮らしなど知らんでよい。なまじ知れば思い切った政などできぬ」と撫民よりも一族の繁栄を願いました。
道長卿も『家の繁栄のためではない』としながらも、結局『我々にとって都合のよい帝を頂点に据えて藤原氏が政を行う』事になるのでしょう。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>主人公であり、ききょうも酷評した光源氏。
>彼は兄にあたる天皇入内を控えていた朧月夜と危険な逢瀬を重ね、失脚しそうになります。
>そこで先手を打ち、自ら都落ちをしてしまい、
(中略)
>これは重大深刻な政治闘争に巻き込まれ、潔白なのに死んでしまった屈原と嵆康にとっては侮辱そのものと言える。
(中略)
>しかも、罪にしたって心底くだらない。
>ゲス不倫で干されたくらいで、何を悲劇ぶっているんでしょうか。
『兄にあたる天皇入内を控えていた朧月夜』とはどういう意味でしょうか。
人物紹介をするならきちんと書いてください。
『源氏物語』の朧月夜は権勢を誇っていた右大臣の六の君で姉は弘徽殿女御という名門の姫君でした。
朧月夜は尚侍として弘徽殿に入り、行く行くは源氏の君の異母兄である東宮(後の朱雀帝)の女御として入内予定でした。
後に源氏の君との関係が発覚して入内は取り止めになります。
東宮の母で朧月夜の姉・弘徽殿女御は桐壺の子である源氏の君をよく思わず、右大臣も源氏の君の政敵だったため、源氏の君は須磨に逃げる様に隠棲します。
『ゲス不倫で干されたくらい』と言いますが、一夜の密会ならいざ知らず、右大臣邸で藤の花見で再会し変わらず恋文を交わし関係が続き、右大臣の目撃で発覚。
しかも朧月夜は東宮に入内する后がねで、権力の誇示や家の栄達が約束されていたのを壊される形になったのだから、東宮の母・弘徽殿女御の怒りは相当なものだったのではないでしょうか。
この後、光源氏は官位を剥奪され、流罪を待つ身となり自主的に須磨に隠棲しました。
源氏の君の行動は不義密通にとどまらず政の動向にも関わる事で、ただの『心底くだらないゲス不倫』ではないでしょう。

源氏物語12帖『須磨』13帖『明石』に引用された屈原と嵆康について。
右大臣の娘で入内予定だった朧月夜との密会が露見し自ら須磨へ隠遁した後、船旅が心細い源氏が詠んだ歌に讒言で追放され身を投げた屈原の故事を踏まえて絶望感を高めています。

また、源氏の君は明石で七絃琴で竹林の七賢・嵆康縁の『広陵散』を弾きます。

・道長が思うがままの除目?

>3月4日、臨時の除目が行われました。
(中略)
>道長の思い通りの人事です。
寛弘6年(1009年)3月4日。
臨時の除目が行われ、藤原実資卿が大納言に任ぜられました。
また藤原公任卿と藤原斉信卿は権大納言、藤原行成卿は権中納言になりました。
既に権中納言であった源俊賢卿を加え後世に言うところの『一条朝の四納言(しなごん)』となりました。
道長の嫡男・頼通卿も若くして権中納言に昇進しました。
「全て道長の思いを反映した人事だった」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

頼通卿は実資卿に「父の話を聞くにつけ私は実資さまをご尊敬申し上げておりました」と話しかけ、実資卿もまんざらでもない表情で「そうなの?」と言います。
さらに頼通卿は「力を尽くします故どうぞ諸事ご指南下さいませ」と頼みました。
実資卿は「ならば、駒牽(こまひき)の上卿(しょうけい)の次第にするか、射礼(じゃらい)の上卿が良いか。一からやるとなると大変だ。今からやるか?」と乗り気です。
しかし、頼通卿は「おいおいお願いします」と言い、実資卿は「指南とはおいおいするものではない!」と叱ります。
実資卿は「精進されよ」と言い去っていき、その後ろ姿に頼通卿は一礼します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

同じ日。
まひろさんの父・藤原為時公が8年ぶりに正五位下左少弁に叙任されました。
堤中納言邸では辞令を届けた勅使が邸を出て行き、いとさんと乙丸が嬉しそうに見ています。
為時公が仏前に辞令を置き、手を合わせています。
いとさんが「左少弁へのご任官おめでとうございます」と任官祝いの挨拶をしています。
為時公も緋色の束帯を着て「8年ぶりだ」と感慨深げです。
いとさんは為時公に「左少弁に出世したのも左大臣さまのお計らいなのでしょうか。内裏でも土御門殿でもずーっとご一緒ですものね。」と尋ね、為時公は戸惑っています。
そして「再びアレなんでございましょうか?」といとさんの声がつい大きくなります。
そこに賢子さんがやって来て無邪気に「アレって何?」と聞きます。
為時公は慌て気味に賢子さんに「母上が書いた物語が中宮様にお幸せをもたらしたので、その父上である左大臣さまが、ご褒美で偉くしてくださったのだろうと話しておったのだ」と説明します。
賢子さんが「左大臣さま紙をくださった方?」と尋ねると為時公は「そうだ、よく覚えておるのう」と答えます。
さらに賢子さんは「左大臣さまと母上はどういうお知り合いなの?」と尋ねます。
為時公は「母上の才をお認めくださった恩人だ」と言い聞かせています。
賢子さんは「それで『アレ』なの?」と不思議がり、為時公もいとさんも返答に困っています。
賢子さんはそれ以上は問わず、「おじじ様、左少弁へのご任官、おめでとうございました」と祝いの言葉を述べ為時公も頷いています。
賢子さんが去り、為時公といとさんが落ち着かない様子で目で追っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>御指南をお願いしたいと頭を下げられると、いきなり指南し始めます。
>駒牽(こまひき)の上卿(じょうけい)の次第、射礼(じゃらい)の上卿の次第かと言い出すのです。
(中略)
>多くの人にとって初めて聞くような歴史用語を流すことには意義があるでしょう。
>そんな儀礼があったのだと伝え、興味を惹くだけでも意義はある。
頼通卿から指南を頼まれ、実資卿は「駒牽(こまひき)の上卿の次第にするか、射礼(じゃらい)の上卿(しょうけい)が良いか。」と言いますが、『駒牽』『射礼』『上卿』についての解説はないのでしょうか。
実資卿を『有職故実に通じる』と評し『そんな儀礼があったのだと伝え、興味を惹くだけでも意義はある』というなら年中行事などもきちんと説明してこそ何を指南しようとしたか分かるというものでしょう。
『駒牽(こまひき)』は信濃、上野、武蔵、甲斐の4国の御牧(勅旨牧)から献上された馬を宮中で天皇が御覧じ、馬寮や貴族たちに馬が分給され、彼らが牽く儀式です。
初めは8月15日に行われましたが、後に朱雀天皇(923年〜952年)の国忌(天皇の父母の忌日)により、16日に改められました。

『権記』寛弘6年(1009年)8月16日条には『左府の許に参った。内裏に参った。信濃の駒牽(こまひき)が行なわれる。三日間を限る廃朝であるので、勅定に随って決定することになった。』とあります。

『権記』寛弘6年(1009年)8月16日条
『月次公事屏風一双』左双
(右端から2枚目が駒牽)

『射礼(じゃらい)』は毎年1月17日に、建礼門に於いて親王以下五位以上および左右近衛、左右兵衛、左右衛門府の官人などが弓を射る儀式です。
まず、15日に親王以下五位以上の官人から射手候補30名を選抜し更に調習を行って20名に絞ります。これを兵部手結(てつがい)と呼びます。
『年中行事絵巻』に描かれた『射遺』とは、前日に行われた『射礼』の儀式に参加できなかった六衛府の武官が、改めて射る儀式です。

『年中行事絵巻』巻四「射遺」

『上卿(しょうけい)』は平安時代以降、朝廷の行事を担当奉行する上首の公卿の事です。
節会など大行事には大臣が、小公事には大・中納言、参議が上卿となりました。
(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

・倫子の疑念がついにあらわになる?

>道長が、頼通の婿入り先を倫子に相談しています
夜、土御門殿では。
道長卿が頼通卿の婿入り先を亡き具平親王の娘・隆姫女王に決めようと倫子さまに相談していました。
倫子さまは夫の身繕いをしながら「私より頼通の気持ちを聞いてやってくださいませ」と窘めますが、道長卿は「あいつの気持ちはよい。妻は己の気持ちで決めるものではない」と答えます。
倫子さまは「殿もそういうお心でうちに婿入りなされましたの?」と尋ねます。
道長卿は「男の行く末は妻で決まるとも申す」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

夫婦は夜具に座り、さらに会話を続けます。
道長卿は「やる気の無かった末っ子の俺が今日あるはそなたのおかげである」と倫子さまを労い、「隆姫女王もそなたの様な妻である事を祈ろう」と言います。
倫子さまはにっこり微笑み「殿、子供たちのお相手を早めに決めてその後は殿とゆっくりしとうございます。二人っきりで」と言うと道長卿に寄り掛かり、道長卿も「そうか…」と言います。
道長卿は「嬉子(よしこ)はまだ3歳だ」と言います。
しかし「威子(たけこ)は年が明けたら裳着です」と倫子さまに言われ、道長卿は年月の経過の早さを実感しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>嬉子(よしこ)はまだ3歳だと、暗に倫子の案を遠ざけるかのような道長。
>またも笑い、年が明けたら威子(たけこ)は裳着だと続けます。
>ここのすれ違いは、実に残酷でした。
「子供たちのお相手を早めに決めてその後は殿とゆっくりしとうございます。二人っきりで」と倫子さまが寄り添い、道長卿が「嬉子(よしこ)はまだ3歳だ」と言います。
しかし、倫子さまに「威子(たけこ)は年が明けたら裳着です」と言われ、道長卿は年月の経過の早さを実感しています。
何見氏の書き方では倫子さまが言った「威子(たけこ)は年が明けたら裳着です」という台詞も道長卿が言った様に見えます。

>道長の語る「デキる男は妻で決まる!」というセオリーは、実は道長自身が確立していったともいえます。
>打毱の時に公任も同じ趣旨のことを語っていたので、誤解されやすいともいえるし、道長はこのときの公任から影響を受けたのかもしれません。
『栄華物語』によると、道長卿と倫子さまの長男・藤原頼通卿が村上天皇の第七皇子・具平親王の娘・隆姫女王と結婚する事になった時、道長卿は「畏れ多い」と言いながらも「男(おのこ)は妻(め)がらなり(男というものは、妻の家柄によって良くも悪くもなる)」と喜んだそうです。
平安時代の結婚は『通い婚』または『婿入り婚』で妻の実家がものをいう時代でした。
道長卿の嫡妻・倫子さまは宇多天皇の血を引く宇多源氏・源雅信卿の姫君であり、当時の朝廷の中枢であり、右大臣であった兼家卿とのパワーバランスを図るためもあったかもしれません。
また、土御門殿などの財産を有した雅信卿の婿になる事で道長の政治的・経済的基盤の形成に大きな影響があったのではないでしょうか。

『光る君へ』より

作中では、かつて打毬の際の品定めで藤原公任卿が「女こそ家柄が大事。そうでなければ意味がない」と言いました。
当時の公任卿は関白家の子息であり、家柄に釣り合う嫡妻を娶る事が必要だったのでしょう。
公任卿の嫡妻・敏子さまは村上天皇の第五皇子である昭平親王(あきひらしんのう)の姫君です。

『光る君へ』より

>父の兼家にせよ、兄の隆家と道兼にせよ、実は妻の身分はさほどに高くありません。
(中略)
>父と兄に倣うのであれば、道長はまひろを妻にしてもそこまでおかしくなかったといえる。
(中略)
>まひろには、身分の違いで妻にできないから妾になるよう迫った。
>そのまひろに断られ、失意を抱えたまま倫子と明子で妥協する――
>ここまで罪深い大河相手役も、そうそういないように思えてきます。
道長卿が倫子さまと結婚した永延元年(987年)当時、まひろさんの父・藤原為時公は六位ながらも散位中です。
倫子さまの他、東三条院藤原詮子さまの推挙で明子さまとも結婚しますが、六位無職の中流貴族の娘とは釣り合わず妾止まりかと思います。
『源氏物語』での源氏の君と葵の上、源氏の君と女三の宮の様に、家格の釣り合いや嫡妻と妾の線引きがあり、感情だけでは貴族の結婚は語れないと思います。
だからこそ右大将道綱母・藤原寧子さまが「あの方との日々を日記に書き記し、公にすることで、妾の痛みを癒やしたのでございます」と『蜻蛉日記』を語ったのではないでしょうか。

・陰鬱な現実に、陰鬱な物語を?

>そのころ、まひろは構想を書きつけています。まひろさんは藤壺の局で紙に文字を書きつけ、構想を練っていました。 

宿命
密通
不義
幸 不幸
出家 

まひろさんは紙を見ながら考え込んでいましたが、そこに道長卿が訪ねて来ました。
まひろさんは構想を夢中で練っていましたが、道長卿に気づいて一礼します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は「邪魔をしてよいものかどうか迷っていた」と言います。
まひろさんが「父の官職ありがとうございます」と為時公の左少弁任官の礼を述べると道長卿は「空きが出た故」と答えます。
道長卿はまひろさんに「お前の娘は幾つになった?」と賢子さんの年齢を尋ねます。
まひろさんが「11でございます」と答えると道長卿は「敦康様と同じか、間もなく裳着であるな」と言います。
そこでまひろさんは道長卿に「娘の裳着に左大臣さまから何か一ついただけないでしょうか」と尋ねると、道長は「ん?ああ、分かった。考えておく」と答えました。
また道長卿は「裳着が済んだら賢子も藤壺に呼んではどうか、お前の娘だからさぞかし聡明であろう」とも言います。
まひろさんは戸惑いますが、道長卿は「うん、人気の女房になるやも知れぬ。亡き定子さまの登華殿の様に」と一人思いを巡らせるのです。
そしてまひろさんに「お前に人気がないと言うわけではないぞ」と付け足しますが、まひろさんは「私は私の物語に人気があればよろしいのです」と答え、道長も頷きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>『源氏物語』を構成する要素ですが、改めてなんなのでしょう。
>確かに『源氏物語』は傑作です。
第33帖「藤裏葉」までで権力の絶頂を迎えた源氏の君の前半生を書き上げたまひろさん。
新たなプロットには『宿命』『密通』『不義』『幸 不幸』『出家』とありますが、第34帖「若菜」以降の女三の宮と柏木、源氏の君の因果応報を書こうとしているのでしょう。
第34帖「若菜」、第35帖「若菜下」、第36条「柏木」は若い頃の光源氏が犯した不義という罪が、今度は妻である女三の宮と柏木との密通、そして不義の子の出産、女三の宮の出家という形で自らに返ってきます。

『源氏物語絵色紙帖』 若菜上 詞菊亭季宣
重要文化財 京都国立博物館

>しかし読んでいると、なんでこんなに重苦しくて辛い話を読まねばならないのかと憂鬱になることはあります。
(中略)
>どうしたものでしょう。
>来年大河舞台の江戸っ子たちは、「『水滸伝』みてーに、ヤベー奴らが集って暴れる、そういう明るい話が読みてェわけよ!」となるのもやむなしでしょう。
>日本文学史でいうと、陰気な上方、陽気な関東になると思います。
まだ
放送されてもいない来年の大河ドラマ『べらぼう』の作家性と比べ勝手に『陰気な上方、陽気な関東』とレッテル貼りしていますが、『べらぼう』を叩き棒にして『重苦しくて辛い話を読まねばならないのかと憂鬱になる』『明るい話が読みてェわけよ!』と言うなら『源氏物語』を読んだり『光る君へ』を視聴するのを止めれば良いのではないでしょうか。

>するとまひろが、硬い顔のまま、娘の裳着に左大臣様から何か一ついただきたいとねだってきました。
>おねだり下手なまひろにしては珍しい。
>実の父の形見にでもするつもりでしょうか。
裳着は初潮を迎えた後の10代前半の女子が成人した証として初めて裳を付ける儀式で、結婚などが許可されました。
裳を着せる役は腰結(こしゆい)といい、一族の年長者である徳望のある者から選ばれました。
賢子さんの表向きの父である藤原宣孝公は既に亡く、賢子さんの出生は不義の結果であるため、実父とされる道長卿を裳着に呼ぶわけにもいかず、「娘の裳着に左大臣さまから何か一ついただけないでしょうか」と祝いをお願いしたのではないでしょうか。

さらに道長は、裳着を終えたら娘を藤壺に呼び出すことを提案します。 
>さすがに引き攣るまひろの顔。
まひろさんが出仕した際、道長卿は 「賢子を女童として内裏に来させてもいい」と言っていました。
目を掛けている貴族の息子は童殿上、娘は女童として早くから御所に仕える事もありました。
その件は若くして宮仕えする事を懸念する為時公がまひろさんを諭し立ち消えになりました。
道長卿は裳着を終えたなら成人であるため出仕を提案したのでしょう。
しかし、道長卿との関係を疑われるまひろさんは賢子さんの出仕でさらに贔屓が過ぎる事を考え表情が固まったのかもしれません。

・おじさんのセクハラは千年前から迷惑です!?

>ふと、昨年の大河ドラマ『どうする家康』を思い出しました。
>あのドラマでは「お市と淀の母娘が家康に恋をしている」という不気味な設定を展開していました。
柴田勝家公に嫁いでいたお市さまは、初恋の相手である家康公の援軍を待っていました。
幼い頃から母と家康公が交わした「必ず助けに行く」という約束を聞いていた茶々さまはお市さまを助けに来なかった家康公に対して憎悪を募らせ「徳川殿は嘘つきという事でございます。茶々はあの方を恨みます」と言います。
茶々さまは、復讐を果たすため豊臣秀吉公の側室になり、以来豊臣家の天下のために生きているかの様に立ち回ります。
母の想い人であり憧れだっただけに、いつしか母の思いと自分の思いが混同していき、茶々さまの中で家康公は理想の『憧れの君』として推すべき偶像になっていきました。
徳川方にも事情があるとはいえ助けてほしい時に助けてくれなかった絶望は激しい恨みに変わっていったのでしょう。
ところで何見氏は放送時『時代を超えても気持ち悪い、母と娘の二代にわたり恋心を抱くという設定。こんなしょーもない妄想を、いかにもすごいことを思いついちゃったと出してくる、このドラマ制作者は一体何を考えているのでしょう。』と言っていましたが、『光る君へ』でも花山院が同時期に母娘を妾として男子を孕ませた事について『時代を超えても気持ち悪い』などとは言及していなかったと思いますがお得意のダブスタでしょうか。
花山院は作中こそ出家前でしたが実際は、出家後の事であり、好色の趣味を止めることなく同時期に母(中務)娘(平平子)を妾とし双方男子を成しています。2人の皇子を世の人は『母腹宮(おやばらのみや)=清仁親王』『女腹宮(むすめばらのみや)=昭登親王』と呼んだそうです。

『光る君へ』より

>あれは要するに、おじさんの「俺はいくつになっても若い女にモテモテ!」というファンタジー描写でしょう。
『温泉地の土産におっぱいチョコレートを買ってきて、女性社員に「キミは何色なのかな〜」と言いながら渡してくる。宴会で用意された「気の利いたイベント」が、お色気コンパニオンだった…』などと、女性を性的な視点でしか見られず、平気でセクハラ妄想を商業ブログで金を取って垂れ流す何見氏の方がおぞましいと思いますが。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第47回

・あかねを「和泉式部」として藤壺の華とする?

>警戒心を募らせたまひろは策士ぶりを発揮します。
まひろさんは「藤壺の人物者になりそうな人なら良い人がおりますわよ」と新しい藤壺の女房にあかねさんを推薦しました。
藤壺に来たあかねさんは廊下を歩いて庭に咲き誇る藤の香りを楽しみ、その後中宮大夫・藤原斉信卿に挨拶しました。
宮の宣旨は「今日よりそなたを和泉式部と彼女を呼ぼう」と口上しますが、あかねさんは「別れた夫の官職は嫌でございます。亡き思い人は親王さまですので。宮式部(みやのしきぶ)でお願いします」と言います。
しかし宮の宣旨は「文句を言うでない」とあかねさんを諭し、「今日からそなたは和泉式部だ」と決めてしまいました。
あかねさんは仕方なくそれを受け入れ、「中宮様の御ために精一杯お仕え申し上げます。どうぞよしなにお願いします」と口上しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

左衛門の内侍は「藤式部があの人を呼んだのね」と不満げです。
馬中将の君も「私たちには才がないからか」と面白くなさそうに言い、左衛門の内侍は「2人でこれから才があるのをひけらかすのよ」とさも嫌そうに言いました。
あかねさんは、まひろさんに想い人・敦道親王との思い出を綴ったものを見せました。
まひろさんは「お書きになったのね」と、それを詠みました。
あかねさんは、まひろさんの言った『書く事で己悲しみを救う』を拠り所としてそれを書いた様で「まひろさまのあの言葉がなければ、わたしは死んでいたかもしれません」と言います。
まひろさんは「楽しみに読ませて貰うわね」と言います。
あかねさんは「これを書いているうちに、また生きていたいと思うようになりました。書く事で命が再び息づいて来ました」と話します。
まひろさんは「あかねさまの命がこの中に息づいているのですね。胸が躍ります」と笑顔を見せます。
あかねさんが「まひろ様も『源氏の物語』をお書きになることで、ご自分の悲しみを救われたのでございましょう?」と尋ねます。
まひろさんは「物語にそのような思い入れはございません、頼まれて書き出した物語ですので。されど書いておればもろもろの憂さは忘れます」と答えました。
あかねさんに「お仕事なのですね」と言われ、まひろさんは「ふふふ…」と笑います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

あかねさんの人気で若い公卿たちが藤壺に出入りする様になりました。
ある初夏の日、女房たちが庭の藤の花の下で貝合わせをしていました。
それを帝と彰子さまがご覧になり、時折目線を合わせていらっしゃいます。
貝があかねさんの所に回り、あかねさんが隣の頼通卿に目を遣り「お先に」と耳元で囁きます。
そして頼通卿の番。
双方の貝殻がぴたりと合い同じ絵柄が現れ、あかねさんや異母弟の頼宗卿から祝福を受けます。
風に藤の花びらが散り、花吹雪となります。
その風はまひろさんの局にも届き、原稿を飛ばそうとしました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>藤壺にふさわしい人気者の女房候補、しかもこぼれ落ちるほどのセクシーさを誇る女性を挙げる――そう、あかねです。
>まひろの腹黒さ全開ですね。
(中略)
>それを踏まえると、色気全開の彼女を、本人の承諾前に差し出すまひろはどういう性格なのかと突っ込みたくなります。
まひろさんは「藤壺の人物者になりそうな人なら良い人がおりますわよ」と女房に推薦しているのですが、何処に『セクシーさを誇る女性』『色気全開の彼女』などと性的な視点で見ているでしょうか。
紫式部は和泉式部を『適当に詠んだ歌でも、必ず人の心をつかむ一節があって、目に留まるが男性関係にルーズで感心しないところもある』と評価しています。
嫌いな作品は『おじさんの「俺はいくつになっても若い女にモテモテ!」というファンタジー描写』をけしからんと言っておいて、さもまひろさんがセクハラのために推挙した様に言うのは如何かと思います。

『紫式部日記』和泉式部と清少納言

>あかね気持ちを切り替えたようです。
>ただ案の定、他の女房たちは“変人天才枠”に不満そうですが……。
女房の名前には興味がないのでしょうか。
左衛門の内侍は「藤式部があの人を呼んだのね」と不満そうに言い、馬中将の君も「私たちには才がないからか」と面白くなさそうです。
左衛門の内侍は「2人でこれから才があるのをひけらかすのよ」とさも嫌そうに言っています。『変人天才枠”に不満』なのではなく、才をひけらかされる事が不満なのです。

>あかねの色香にすっかりカチコチになってしまい、画面越しに動揺が伝わってくるようですが……
>大丈夫なのでしょうか。
貝合せの貝があかねさんの所に回り、あかねさんが隣の頼通卿に目を遣り「お先に」と耳元で囁いたり、藤の花を見上げながら頼通卿にピタリと寄り添ってほほをよせているのてすが、これが嫌いな作品なら『宴会で用意された「気の利いたイベント」が、お色気コンパニオンだった。そんなおぞましいセンス』と喚き散らすのではないでしょうか。

・我が子を頼む母の思い?

>源俊賢が、高松殿にやってきた頼通を出迎えています。
頼通卿が高松殿を訪ねました。
頼通卿は酒を勧められ一気に飲み干し、源俊賢卿は「お見事なる飲みっぷり」とそれを褒めます。
明子さまも頼通卿を歓迎しているかの様です。
頼通卿が異母弟・頼宗卿を「頼宗は頼もしい弟」と褒めます。
俊賢は「いやいや、頼通さまは金峯山でも凛々しきお姿であった」と褒め、「頼宗は遠く及ばぬ」と言います。
頼宗卿は「兄上は藤壺でも大層な人気で」と言います。
俊賢卿曰く、頼通卿の人気は内裏でも噂になっていました。
「女房の間でも熱い眼差しを受けていたと評判だ」と言う頼宗卿に、頼通卿が「余計なことを申すな」と言います。
明子さまは「これからも頼宗をお引き立てくださいます様に」と頼通に頭を下げました。
頼通卿は「それは父上に。私にはそのような力はありません」と言います。
明子さまは「これからは頼通さまの世でございましょう。道長さまがお若い頃より道綱さまを大事にされておられます様に、頼通さまも頼宗を引き立ててやってくださいませ」とさらに酒を勧めました。

『光る君へ』より

>いい飲みっぷりだとおだてる様は、実資が日記で腐したような“追従気質”を思わせます。
源俊賢卿は『一条朝の四納言』として朝廷の中枢を担っていました。
四納言の面々は道長卿の政権を積極的に支えていますが、道長卿と距離を保っていた藤原実資卿の日記『小右記』寛弘2年5月14日(1005年6月23日)条には、「右衛門督以下恪勤上達部伺候云々、以七八人上達部世号恪勤上達部、朝夕致左府之勤歟」と記されています。
「恪勤」には職務に精励するとともに、高官に仕える身分の低い従者の意味があり、『道長に追従する公卿』を批判したものと思われます。
また源俊賢卿については、道長卿との姻戚関係や立ち回りの巧みさから実資卿からは『貪欲謀略其聞共高之人也(貪欲、謀略その聞こえ高き人)』と批判される事もありました。
作中では、道長卿に土御門と高松の子供たち同士が争う事のない様に釘を刺されているため、明子さまも嫡男・頼通卿の前で表立って我が子の方が素晴らしいと競う姿勢を抑えたのでしょう。
明子さまが頼通卿に「これからは頼通さまの世でございましょう。道長さまがお若い頃より道綱さまを大事にされておられます様に、頼通さまも頼宗を引き立ててやってくださいませ」と言います。
かつて藤原寧子さまが我が子道綱卿の栄達を望んだ様に、明子さまも我が子・頼宗卿の出世を願う事を優先したのではないでしょうか。

・藤壺の宮にあまえる皇子だと??

道長が、敦成親王を抱いています。
寛弘6年(1009年)5月。
道長卿が腕に敦成親王を抱き「重くなったのう」と言いつつ藤壺を訪ねて来ました。
藤壺では鈴の音が響き、敦康親王が舞を舞っていました。
敦康親王は彰子さまの膝の上に倒れ込み「お許しを」と言います。
彰子さまに「お立ちくださいませ」と言われても親王はなかなか立とうとせず、それを道長卿が目にしました。
道長卿は土御門殿で『光る君の物語』の中の一節に目を通し、こめかみに指を当て何か考え込んでいます。

光る君は幼心にもささやかな花や紅葉に添えて、藤壺をお慕いする心をお見せになります

『源氏物語』第一帖「桐壺」

道長卿は内裏で行成卿を呼び、「敦康親王の元服の日取りを陰陽寮に決めさせよ」と命じました。
道長卿は日取りが出たらすぐに帝に奏上するつもりでいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

同年6月。
頼通卿と隆姫女王の結婚が決まり、さらに彰子さまの第2子懐妊が明らかになりました。
「その年の6月頼通と隆姫女王の結婚が決まり、続いて中宮・彰子の懐妊が明らかになった」と語りが入ります。
これを機に帝は伊周卿の参内停止処分を解きますが、伊周卿は参内しませんでした。
道長卿は彰子さまと敦康親王に元服の日取りを告げました。
しかし敦康親王は、「帝に元服の延期をお願いしてみる」と言い出します。
敦康親王は「中宮さまがお戻りの時、ここでお迎えできるように」と言い、彰子さまは「元服なさってもここにいらしてくださっていいのですよ」と答えます。
彰子さまに「明るいお顔でお見送りくださいませ」と言われた敦康親王は悲しそうな顔で「はい」と答え、「お健やかに元気なお子をお産みください」と言って笑顔を見せました。
道長とまひろさんはそんな敦康親王に目を向けました。
そして彰子さまは出産のため再び土御門殿に下がり、倫子さまと赤染衛門が彰子さまの里下がりを出迎えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

帝は道長卿に「中宮が子を産むまで敦康の元服は延期する様に」と仰います。
既に元服の支度は進んでいます。
帝は「出産と重なっては都合が悪かろう」と仰り、道長卿は「どちらも無事に進むよう意を用いております」と答えます。
しかし帝は「これは朕の願いである」と仰り、道長卿も仕方なく承知しました。
道長卿は改めて日時を陰陽師に諮り、元服後の敦康親王の住まいについても「お任せくださいませ」と述べました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

藤壺でボヤ騒ぎがあり、一時的に敦康親王が伊周卿の邸に移りました。
「敦康親王さま、脩子内親王さま、お久しゅうございます」と出迎えに出て来た伊周卿はひどく咳込み背中が曲がっています。
挨拶も碌にできず、傍にいたききょうさんが驚いています。
敦康親王が「如何致した?」と声を掛けますが、伊周卿は「お気遣いなく。私は大丈夫でございます」と弱々しい声で答えます。
敦康親王は「近頃 左大臣は私のことを邪魔にしている。中宮さまに皇子が生まれたゆえ致し方がないが」と打ち明けました。
伊周卿は「敦康様は自分がお守りするゆえ、どうかご安心くださいませ」と言います。
伊周の嫡男・通雅卿が「藤壺の火事とて誰の仕業か分かりませぬな」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

伊周卿は土御門殿に出向き、道長卿を訪ねました。
伊周卿はひどく咳込みながらも道長卿に「敦康様を帝から引き離し申し上げるのはやめていただきたい。先例から考えても次の東宮は、帝の第一の皇子敦康親王様であるべきです。それを帝もお望みのはずにございます」と呂律も回らぬ力のない声で言います。
さらに伊周卿は「どうか、帝のご意志を踏みにじらないでくださいませ」と床に這い蹲る様に頭を下げました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

しかし道長卿は「帝の思し召しで参内を許されたにもかかわらず、なぜ内裏に参らなかった」と伊周卿に問いかけます。
伊周卿は俯いたまま小声で「お前の…せいだ…」と呟きます。
そして「何もかも、お前のせいだ!」と顔を上げ声を振り絞って叫びました。
その表情は目の焦点が合わない鬼の様な形相になっています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は立ち上がり、「今後お前が政に関わることはない。下がって養生いたせ」と告げました。
伊周卿は『八剣や 花の刃のこの剣…』と道長卿を呪詛し、形代を書かれた呪符をその場に撒き散らして「ハハハハ…」と哄笑します。
土御門殿の家司たちが伊周卿を取り押さえますが、伊周は正気を失いなおも呪詛を止めず呪符を道長卿に向けて撒き散らしまします。
家司たちに取り押さえられ去っていく鬼の形相の伊周卿を彰子さまの里下がりのために土御門殿にいたまひろさんが目撃しました。
その様子を見に廊下に出た道長卿は、庭を挟んだ対面にいるまひろさんと向き合わせになりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>すると道長は、敦康親王が中宮の膝に甘える様を目撃してしまいます。
>孫をあやしつつ目線を動かせない道長。
>その後、慌てるように『源氏物語』を読み返しました。
外孫である敦成親王をあやしていた道長卿が、彰子さまの膝の上に倒れ込み「お許しを」と言い敦康親王甘える様子を目撃し、土御門殿で『光る君の物語』の中の一節に目を通していますが、その内容は解説しないのですか。

『光る君へ』より

まひろさんの声で「光る君は幼心にも、ささやかな花や紅葉に添えて、藤壺をお慕いする心をお見せになります。」 と流れました。

幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。こよなう心寄せきこえたまへれば、

『源氏物語』第一帖「桐壺」

最初は母を慕う気持ちだった元服前の源氏の君。
しかし5歳しか変わらない藤壺への想いはやがて恋慕に変わって行きました。 

そして源氏の君は父・桐壺帝の后である藤壺と不義密通を犯します。
まひろさんが『桐壺』を書いた時はまだ出仕前でしたが、道長卿はあまりにも似かよう状況に危機感を募らせ、行成卿を呼び敦康親王の元服の日取りを陰陽寮に決めさせる様に命じるのでした。

『光る君へ』より

紫の上の境遇に、「私も幼くして入内してここで育ったゆえ」と自らを重ね合わせた彰子さまは『光る君』に一条帝を重ね、「光る君の妻になるのがよい」と言っていたので道長卿の懸念は完全に解釈違いなのですが、中宮ともうすぐ元服しようかという親王が親しくしている様子は傍から見ればさながら藤壺女御と源氏の君に見えたのでしょう。

『光る君へ』より

>まひろも「お気づきになりましたか」とでも言いたげな諸葛孔明顔をしていますが、自分のせいだと理解しているんですかね?
まひろさんが『桐壺』を書いた時はまだ出仕前でした。
そこから一条帝のお目に留まり出仕が決まり藤壺で執筆活動が始まりました。
道長卿は彰子さまを慕う敦康親王の姿と『桐壺』での源氏の君の様子が、あまりにも似ているために危機感を募らせているのです。
その状況はまひろさんが『桐壺』を書いたせいでしょうか。
書いた当時に現在の状況をまひろさんが予見できるでしょうか。

>ききょうの絶望の滲んだ顔が切ない。
>『枕草子』で輝いていたあの美しい人がまたも散ろうとしています

藤壺でボヤ騒ぎがあり、敦康親王が伊周卿の邸に移りました。
出迎えに出て来た伊周卿はひどく咳込み背中が曲がっていました。
挨拶も碌にできず、傍にいたききょうさんも驚くほどの変り様でした。
伊周卿が初めて描かれた『枕草子』二〇段「清涼殿の丑寅のすみの」では中関白家全盛期が描かれます。
伊周卿の容姿は大変ふくよかだった様で、装束のセンスの良さが光っており、清少納言の目にはたいそう煌びやかに映っていた様です。

一七九段「宮にはじめてまいりたるころ」は清少納言の宮仕えをして間もない頃の事で、新人でガチガチに緊張していた清少納言をからかって楽しんでいる場面が描かれます。

・MVP:藤原伊周?

>自分が持ち上げられないから、周りを貶めることで勝ちを狙う――
>そういう人はいくらでもいます。
(中略) 
>陰謀論にハマる人々を馬鹿にしようとウォッチを続けた結果、ものの見方がこじれていき、自分自身が別の陰謀論に陥る。
>日頃の投稿は全く評価されないのに、ヘイトを書き込むと反響が大きく、それに溺れてゆく。
本人はフィードバックを得られてウキウキしているものの、初めのうちはともかく、進むにつれて文体がおかしくなっていきます。
(中略)
>しかも「それはおかしいのでは?」と指摘すると、それこそ伊周のように「お前のせいだああああ!」と激怒し、論理が破綻して、逆恨みしてくるのでどうしようもありません。
『陰謀論にハマる人々を馬鹿にしようとウォッチを続けた結果、ものの見方がこじれていき、自分自身が別の陰謀論に陥る。』
『ヘイトを書き込むと反響が大きく、それに溺れてゆく。』
『「それはおかしいのでは?」と指摘すると、それこそ伊周のように「お前のせいだああああ!」と激怒し、論理が破綻して、逆恨み』
全て何見氏の自己紹介でしょうか。

・大河ドラマと現代型呪詛?

>NHKドラマには「反省会」ハッシュタグがあります。
(中略)
>検索避けか、嫌いなドラマに変なあだ名をつけて、ずっと朝から晩まで文句をつけている人もいます。
>すると何か染み付いてしまうらしく、どんどん意地悪な書き込みに堕ちてゆきます
>私の場合、対策としてはこうなります。
悪いニュアンスがあるならば、固有名詞と同じ音をしつこく書かない。
>私はドラマの名前をあえて出さないか(例:2015年大河ドラマ、新札プロパガンダ大河ドラマ)。 
>パロディにせよ毎回ひねるか(例:『どうして家康』、『どうしようもない家康』、『どうかしているぞ家康』)。
>言霊と言われたらアホくさく聞こえるんでしょうけど、呪詛にしたくないとは思っています。 
『検索避けか、嫌いなドラマに変なあだ名をつけて、ずっと朝から晩まで文句をつけている人もいます。』と反省会タグを揶揄した数行後に『変なあだ名をつけて、ずっと朝から晩まで文句をつけている』何見氏は朝から晩まで呪詛に堕ちた人ではないでしょうか。
この他にも『マザーセナ』『レーシック於愛』『スイカバーの妖精』『ビッグモーター秀長』と人物を侮辱する様なあだ名を付けていましたが。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第34回
大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第47回

>まひろ同様、アンチに徹するにせよ、心の慰労にとどめ、呪詛に突っ込まないようにします。
>ここで書くにとどめ、SNSには投稿しないように距離をとるようにしています。
言っている事とやっている事が違って支離滅裂ですが、なぜ商業アフィリエイトブログでお金を取って大河ドラマレビューではなくゴシップや『私は反省会とは違うの自慢』しながら他人に向けて呪詛の様な言葉を吐いているのでしょうか。

>昨年の大河ドラマはジャニーズ主演であるためか、褒めると分厚いファンダムが賛同していました。
>そのことに気を大きくしたファンが、私を含めた批判的な視聴者を陰謀論まじりで貶し始めたのです。
ただの何見氏の何十年も前からの私怨を全く関係の無いファンや俳優さんにぶつけ誹謗中傷しつづけていれば反論されたり忌避されるのは当たり前です。

>ほんとうに伊周は、反面教師としてためになる存在ですね。
反面教師ではなく、気に入らないものや周りの人を罵倒して愉悦に浸るための叩き棒にされる伊周卿が本当に気の毒です。

・『光る君へ』の成し遂げたこと?

>過去大河の男性脚本家は、雑誌や新聞連載、ラジオで大河の意図を語ることがしばしばありました。
>彼らの場合は何も言われず、「彼女ら」の場合ばかりそう言われるとすれば、その時点で偏見があるのではないでしょうか。
(中略)
女性が語りすぎる、でしゃばりすぎる。そう言う前に、同じことを男性がしても果たしてそう思うかどうか。立ち止まって考えて欲しいところです。
脚本家がメディア媒体で制作意図を語り、男性なら何も言われず、女性なら問答無用で叩かれるという事について具体的に例を挙げてください。
作品が合わない、脚本家の意見があまりにも偏ったものであるなど視聴者が感じるならば男女関係なく批判されると思います。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
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