大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』第48回~
12月中旬です。すっかり気温も寒くなりついに最終回となりました。
皆様健康には充分お気を付けください。
さて、どうする家康48回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。
・初めに
>マザー瀬名と信康が現れ、家臣団と共にえびすくい。
>もう、一体、ナンノコッチャ?
>我々は何を見せられているのか?としか言いようがない斜め上展開にさすがに驚きを隠せなかった方もいらっしゃるのでは?
最期の最期まで人様の正室を『マザーセナ』呼ばわり、本当に人物に敬意がありませんね。
貴方は瀬名さまと信康さまの登場や素襖姿の家臣一同が若い時分の姿で現れたのを現実と思っているのでしょうか。
家康さまの前に出てきた瀬名さまや信康さま、信康さまの婚礼で居並ぶ三河家臣団はすでに故人です。
瀬名さまと信康さまは家康さまが『戦なき世を成し遂げた事』について労をねぎらい、たまたま会話を聞いていた迷い込んだ竹千代の『祖父が狸でもましてや神でもないという事』を見抜いていると言います。
そして場面は永禄5年(1562年)の岡崎城、信康さまと織田家から輿入れした五徳さんの祝言の場面に移ります。(ここに三河一揆以来追放の身だった本多正信さんやまだ家臣ではなかった井伊直政の姿はなく、出てきた人物の中で渡辺守綱さんだけが存命です。)
家康さまが於愛さん存命時に話そうとして笑い転げて話せなかった『鯉の話』が家臣団との思い出としてここで語られます。
織田家から祝儀として贈られた鯉を家臣の誰かが捌いて料理に仕立ててしまいます。
織田信長公を恐れて青ざめた家康さまは鯉を捌いた者を必死に探します。
主だった家臣に聞きまわり、ついに鳥居忠吉公が犯人と分かります。
家康さまは刀を抜いて斬り捨てようとしますが、忠吉公は「ひょの、御手討ちにしてくだされ」と処されることを意に介しません。
家臣たちも「信長に媚びへつらうならまだしも信長の鯉にまでへつらっていられるか」と鯉のあらいを前にうれしそうで、家康さまは刀を納めました。
家臣団がそれぞれ謝辞を述べた後、縁もたけなわとなり酒井さんを筆頭にえびすくい踊りが始まります。
そのような楽しかった思い出を駿府城の自室の上座に座り最期の夢に見た後、涙が頬を伝い家康さまは75歳の生涯に幕を下ろしました。
夢現の岡崎城では楽しそうにえびすくいを踊る家臣がおり、濡れ縁に座った家康さまと瀬名さまの前にははるか数百年後の東京が広がっているのでした。
>今回は、絶望感で頭を抱えたくなる、主役による子供時代の回想シーンから始まりました。
>いい大人が人形を持って走り回るって、どう見てもバカっぽくて……
>なぜ子役を使わなかったのか、しみじみと切なくなります。
勝手に絶望していればいいのではないですか。
OPアニメーションでは狸が兎に変じて駆け出していきます。
そして木彫りの兎と侍の人形を手にして、待て待てすばしこい兎めと、一人で遊ぶまだ元服したばかりの元信(後の家康)さまが野山を走ります。
回想で出てきた松本さん演じる松平元信(家康)さまですが、第一回初登場時が瀬名さまと祝言を挙げる直前だったのですでに元服していると思います。
天文24年(1553年)14歳で元服し弘治3年(1557年)に瀬名さまと結婚します。
演じる松本さんは40歳ですが、この時の家康さまは13歳の少年です。
また、幼年期の竹千代時代は川口和空さんが演じています。
竹千代時代は子役、元服してからは松本さんという事だったのでしょう。
大人の俳優さんが10代から役を演じる事は他作品でもあります。
>人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し――。
>最近は、後世の創作として知られますが、むしろ家康の偉業を出さなくて正解だったかもしれませんね。
>穢されてしまいそうなので。
『人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し』とナレーションが入り、幾多の戦場へ出て経験を積む元信さまは元康・家康と名を変えます。
『「遠き道」のその果ては、また命を賭した戦場(いくさば)にございました』とナレーションが再び入り、大坂夏の陣が始まりました。
『青天を衝け』でも徳川慶喜公と渋沢栄一さんが唱和していた『神君御遺訓』ですが、これは、徳川家康公ではなく後世の創作とされています。(『最近は』とありますが最近ではなく、昭和58年(1983)に放送された『徳川家康』でご遺訓は「後世の創作」ということが広く伝えられています。)
徳川光圀公作として伝えられていた『人のいましめ』の教訓文を、幕末期に一部改めたのち『東照宮御遺訓』と改題され民間に流布されていったとの事です。
『神君御遺訓』を出さなくともこのドラマ自体が家康公の偉業にまつわる話を取り上げているのですが穢れとは。
・もはや穢れ?
>最終回のタイトルは「神の君へ」。
>次作へのエールとかで……
>いやいや、来年の関係者さんは『呪いになるので近づかないで!』とか思っているのでは?
>援軍というのは、強い軍勢が味方をしてくれるからこそ意味がある。
『神君(神の君)』とは『神格化された君主』という意味です。
歴史上、特筆すべき活躍をした人物などは、人物神として神格化し信仰する場合があります。
日本の場合、江戸時代では特に徳川家康公を意味しますが、源頼朝公を指す事もあり家康公を東照神君、頼朝公を鎌倉神君と呼び分ける事もあります。
元和2年(1616年)、危篤となった家康公は神号や葬儀に関する遺言を天海僧正ら側近に託します。
家康公死後、神号を巡り『明神』としたい以心崇伝和尚や本多正純公と争い、『権現』を主張します。
結果家康公の神号は『東照大権現』と決定され久能山から日光へ改葬されました。
作中では天海僧正が源頼朝公の功績が描かれた『吾妻鑑』を手に取り、「かの源頼朝公にしたって実のところはどんなやつか分かりゃしねえ」「人ではありませぬ。大権現!」と言い、家康さまの神格化のために事務方の徳川家臣を動員し公式史書の編纂に取り掛かっています。
>こんな視聴率ワースト2位の大駄作に応援されたって、足を引っ張られるだけでしょう。
>燃え盛った船が自軍に近づいてくるようなもの。
>全力で追い返しましょう!
>特に来年は「穢れ」を気にする平安時代の人々ですから、追い返すための祈祷でもするのではないでしょうか。
貴方は自分の書いた作品やレビュー記事に対して他人から『呪いになるので近づかないで!』『全力で追い返しましょう!』『穢れるから祈祷しましょう!』と言われたらどう思うのでしょうか。
仲間内で楽しんでいるところに他人に土足で踏み込まれ、『穢れているから追い出しましょう!』と心無い言葉で扇動されるのがどれほど辛い事か全く考えた事が無いのでしょうね。
だから賛同してくれる人がいなくなるのではないですか。
・最後まで結局女、女、女……?
>女を三つ重ねて書くと「姦しい(かしましい)」となります。
>性差別的ではあるものの、今回は使いたい。
>女が集団でいることが「姦しい」のではありません。
>女、女、女……と、そういう話ばかりをしている男が「姦しい」のです。
『姦しい』はおしゃべりな女性が3人寄れは騒がしくなるという意味です。
男性が一人女性と関わったり話をするという意味はありません。
勝手に貴方の都合に合わせて言葉を改変しないでください。
>最終回でも、自称“男勝り”な阿茶の前でカッコつけています。
>晩年の死を覚悟した演技がこれ?
>本当にいつもいつも女といる場面ばかりですね。
阿茶さんは交渉事に長け、かつては戦場にも同行するなど家康さまにとって大変信頼のおける側室の一人です。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では豊臣の使者である常高院さまや大蔵卿局と会見して和議の成立に尽力した方です。
ただの性的な対象になる女性ではなく奥向き諸事一切を仕切る役割を持った女性です。
>阿茶に塩対応をされながら、あの話を聞かせて欲しいと言われます。
>鯉――どうでもええ……心の底からどうでもええ……。
家康さまは阿茶さんに戦支度を手伝わせています。
「わしに言いたいことがあれば今じゃぞ、これが最後かも知れん」と家康さまが言うと、阿茶さんは「ありませぬ。私は最後と思うておりませぬので」と答えます。
阿茶さんは家康さまが豊臣家という『乱世の化け物』を根こそぎ討ち取りともに散る覚悟をしているのを察したのでしょう。
阿茶さんは家康さまに陣羽織を着せかけながら、「ひとつだけ」と言います。
「よろしければあのお話をお聞かせ願いとうございます」と所望したのはかつて家康さまが於愛さんに話そうとして笑い転げて話せなかった『鯉の話』でした。
「あれは信康と五徳の・・・」と家康さまが語り始めました。
貴方が『心の底からどうでもいい』のはどうでもいい話です。
物語にとって大事な話だから挿入されたのだと思います。
・どうしようもない大坂の陣フィナーレ?
>無駄に鯉を引っ張ってから、夏の陣を迎えている大坂城へ。
>本作はゴチャゴチャと時系列をいじくるのが大好きで、それが全く効果的でないのが特徴ですね。
>セリフ処理で説明されるばかりの大坂方の苦戦。
慶長20年(1615年)4月18日家康さまは京・二条城に入っています。
5月5日、家康さまは京を発ち大阪に向かうために阿茶さんに戦支度を手伝わせていました。
阿茶さんが『鯉の話』を所望したので「あれは信康と五徳の・・・」と昔語りを始めただけで時系列が飛んでいるわけではないですが。
5月6日、大坂城では大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を道明寺で迎撃しようとした後藤又兵衛の討ち死に、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した長宗我部盛親公が敗走し行方知れずになっている知らせが届いていました。
今回は徳川方視点の大坂夏の陣であり、大坂方は茶々さま・秀頼公はじめ城内や真田信繁公の動きを中心に描いているのでしょう。
>真田信繁は、無駄に父・真田昌幸の言葉を思い出していますが、2人の部屋が違和感ある。
>なぜこんなにも灯りをつけているのでしょう。
>当時の油代は、まだ高いものですよね。
>今年の大河ドラマと認定したい『大奥』では、綱吉時代から夜間の娯楽が増えてゆきます。
>油代を贅沢に使えるようになるほど泰平の世になった証といえる。
>そういうことすら、この名ばかり大河は表現できない。
また『大奥』と比較ですか。
徳川綱吉公が将軍職に在任していたのは延宝8年(1680年)から宝永6年(1709年)です。
真田親子がまだ九度山に留め置かれ且つ真田昌幸公存命時は慶長16年(1611年)です。
70年近く先の時代と比較することの方がズレていると思います。
道明寺の戦・八尾若江の戦の敗戦を聞きながら真田信繁公は父・昌幸公が囲碁で卑怯な手を使い、「戦とは汚いものよ」と言っていたことを思い出していました。
昌幸公が卑怯な手を使おうとしたため、信繁公は「汚い」と言い手を伸ばして押さえようとしましたが昌幸公はその手を取り、「戦はまた起こる」と言い、「ひっくり返せる時は必ず来る。信繁、乱世を取り戻せ。愉快な乱世を泳ぎ続けろ」と息子に乱世を泳ぐ事が真田の性だと説きます。
高野山での昌幸公の配所は1里ほど麓の細川という所でしたが、九度山に移されます。
流人でしたが九度山の善名称院(真田庵)では昌幸公・信繁公の屋敷が別々に造営され家臣の屋敷も近くに造られるなど厚遇され、昌幸公の生活は信濃にいる長子・信之公や関係の深かった蓮華定院、管理をしていた和歌山城主・浅野幸長公からの援助で賄われていたそうです。(柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書(新装版)〉)
しかし生活費に困窮し、信之公に援助金の催促をするため10年余の間に20余通の書状を出しているそうです。(上田市立博物館『真田氏史料集(第10刷)』上田市立博物館)
九度山真田庵に籠り囲碁を打っている真田親子ですが外の風景は夕暮れであり、明かりをつけないと暗がりになるのでしょう。
また最低限の生活費は上記のような援助をもらっているのではないでしょうか。
平安から戦国時代にかけての灯明油は荏胡麻(えごま)が主として用いられ、主に寺や神社で使用されることが多く、室町時代に入ると近郊の農村から来た商人や農閑期を利用した農民の出稼ぎなど、寺社の祭礼に合わせて出店されたそうです。
九度山は高野山が近いので油を買い求めても不思議ではないと思います。
・恥を知らないパクリセンス?
>本作の特徴に“恥ずかしげもなくネタパクリ”というのがあります。
>「愉快な乱世を泳ぎ続けよ」
>これは要するに、乱世を渡っていく様を船・真田丸にたとえた“パクリ”ですね。
>三谷さんの足元にも及ばないのは明白すぎるのに、よくもこういうことをしますよね。
>そうやって狡猾に大河ファンに目配せするのがたまらなく嫌だ。
貴方の知っている船は大海原を出港・水面を航行するのではなく水中をバタバタと泳ぎ回るのですね。
船に例えられた『真田丸』は『船出』『出港』と表現されています。
『どうする家康』では「乱世を泳ぐは愉快なものよ」と真田親子は言っています。
これまでに33回、42回、46回にて登場しており、うち33回、42回は昌幸公の言葉です。
真田昌幸公は武田信玄公・勝頼公に仕え、武田滅亡後も絶えず謀略を巡らせ『汚い戦』を繰り返し表裏比興と呼ばれながら、信州・上田を守り続けてきました。
権謀術数で織田・豊臣と対峙してきた父の言葉を思い出しながら、信繁公が大坂で乱世を泳ぎ生きていく事しかできない自分と重ねたのでしょう。
パクリだと書き込む前に表現の違いをよく考えましょう。
・どうしたのかこのヘアメイクは?
>それにしても、このドラマのヘアメイクはどうなりましたか?
清々しいほどに容姿叩き、ルッキズムですね。
他に他人を見るところはないのでしょうか。
>無駄に汚らしい信繁。
真田信繁公は5月6日の道明寺合戦の折、毛利吉政公とともに後詰として着陣しており、後藤隊の総崩れとともに後退してきた兵を収容して誉田村付近に後退し、そこで徳川方の伊達隊と激しく交戦しています。
真田隊は茶臼山まで引き上げますが、(『長澤聞書』)その後いったん大阪城に退いています。
なので最終決戦の時に泥と血にまみれていてもおかしくないと思います。
>やりすぎアイラインの秀頼。
秀頼公を演じる佐久間さん、宣材写真を見る限りもともと涙袋のようなものがあり、照明によってクマのような影ができるだけだと思います。
>厚化粧の茶々。
茶々さまのヘアメイクは『葵 徳川三代』で小川眞由美さんが演じられていた茶々さまを意識しているそうです。
人物デザイン監修の柘植氏によると、茶々さまはヘアメイクも総かつらと濃厚なメイクを投入し、『古き良き時代劇スタイルの復興』『古典的大河ドラマ美学の再現』を目指したそうです。
お召し物の伊達襟もオマージュされていますね。
>秀頼の甲冑の質感もおかしい。
>こんなペナペナした甲冑はみとうなかった。
秀頼公の具足は『仏胴具足』と思われます。
仏像の胸のように、継ぎ目が見られない作りの甲冑の胴を『仏胴』と言います。
家康さまが初期につけていた金陀美具足も仏胴です。
仏胴は、構成の違いによって2種類に分類されます。
1つ目は、腹面に1枚、背面に1枚の鉄板だけを用いる『一枚張打出胴』、2つ目は表面に漆などを塗り表面を滑らかにした胴で『塗上仏胴』、皮や織物で包んで平らにしてある『包仏胴』があります。
・どうかしているぞ! このVFXは!?
>相変わらず青空がないVFX。
>『大奥』のラストシーンは爽快な青空だったのに、どこかのゲームで見たようなショボい背景しか描けない本作は何なのか。
>視聴者をバカにしているとも思えてくるし、以下の記事のような小賢しい言い訳にも虫唾が走ります。
>ここは結果が全ての世界ではないんですか?
空はその場の天候や時間によって変化するし、戦場だったり城の中だったり人物の心情を反映したものだったりするので全部青空ではおかしいのではないですか。
大坂夏の陣の大坂ですが、城内にいた徳川方の内通者が放火し出火。
千姫が救出されたころには大坂城が炎上しています。
火の手が上がった時間は、およそ午後2時~3時頃、天守に燃え移ったのが午後4時半過ぎとされており、その様子は京からも遠望できたといいます。
大坂城から上がる炎が京から視認できるほど炎が上がり城内を焼き尽くしており、周囲が火の粉や灰で煤けていても不思議ではないと思います。
戦が終わり家康さまが大坂城の方角に手を合わせている場面では厚い雲が切れ、間から日の光(所謂天使の梯子)が差し込んでいます。
変わって松平信康さまと五徳さんの祝言の折の岡崎城の場面では、明るく一同が座る床には日の光が反射し影が伸びており晴れている事が分かります。
家康さまの逝去後、夢現の中の岡崎城でえびすくいを舞う家臣と濡れ縁に座り東の空を見ている徳川夫妻の場面では遠くに現代の東京を望み、日が昇ってだんだん空が白んでくる『暁の空』になっています。
『大奥』チームでは『広がっていく海と広がっていく光り輝く未来』を表現するための大海原と進む船に合わせた動きですね。
大河の戦場シーンとは全く違う光景とチームのご苦労があると思います。
演出統括の加藤拓氏曰く、バーチャルプロダクション(VP)を本格導入して、ロケを減らすという選択は働き方とつくり方の劇的な改革に取り組むチャンスと思ったのだそうです。
47回コラムでも書きましたが、『問題は技術ではなく、やる気』『小賢しい言い訳』、まるで戦前の『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』という精神論のようです。
現場の苦労やできない事をすべて無視し理想論だけで語り、制作に携わらない赤の他人なのに自分の思い通りにならないという理由で無理難題や理不尽を通そうとする。
少しは現場がどういった状況かも考えてはいかがですか。
加藤氏曰く、『ドラマ制作において、バーチャルプロダクションの運用をいかにサステナブル(持続的)なものにしていくかが今後の課題なんだそうです。
オープンセットのように破棄するコストもかからない、倉庫で保管する必要もない、ずっと使える、かつユニバーサルフォーマットな資産だがVPかロケかではなく、いいとこ取りをしながら、視聴者にとっても現場で働く人間にとっても魅力的なドラマを作っていけたらと思います。』との事です。
今後もっと普及し制作現場の助けとなり、いい作品ができる事を願います。
・史上最低の合戦シーンだった
>その後の合戦シーンも最低でした。
>誤魔化すためのスモークがもうもうと立ち込めていますが、本作スタッフは、現実世界の物理を思い出していただきたい。
スモークではなく真夏で雨の降っていない戦場で砂塵が舞っているからだと思います。
スタジオの安全上消防法で火を焚くことが不可能。
コーンスターチやスモークで霧や土煙を表現するのは演出手法ではないですか?
>剥き出しの刀身で切り掛かる連中。
>鎧に当たったら折れます。
信繁公が「家康の首を取れ!」と叫ぶのが聞こえ、敵が来るのを待っていた家康さまは「家康はここにおるぞ!」と応じます。
徳川本陣になだれ込んだ信繁公と真田の兵は目指すべき敵の姿を視認します。
真田隊を待ち受ける家康さまは「さあ来い、共に行こうぞ」と言い、鉄砲隊が真田の赤備えを撃ちますがそれでも彼らは向かっていきます。
血で顔を真っ赤に濡らした信繁公が家康さまを視認しギラギラとした表情で見つめ、太刀で敵を叩き伏せながら進んできます。
この時信繁公は徳川の甲冑武者に太刀を叩きこんでいます。(兜の鉢を殴りつけています)
その後ろではおそらく顔を狙いに行ったであろう真田兵が槍を持った徳川の兵に防がれています。
戦っているのだから刀は抜き身に決まっているのではないでしょうか。
>甲冑斧重さを意識しないで駆け巡る兵士。
>関節の動きもおかしい。
>ナンバ走りなんてできるわけもない。
『甲冑斧』とは何でしょうか?
大鎧に比べて当世具足は軽量化がなされ、兜の立て物も引っかかってもいいよう壊れやすい材質(木や和紙を漆で塗り固めたもの)でできています。
大将クラスの甲冑で10㎏~20㎏程、足軽などではもっと軽量だと思います。
重量は20㎏未満と軽量で動きやすいため走る事もできると思います。
当世具足は鎧の中では最も優れた防御力を持ちながらも製造が容易で、軽くて動きやすいという特徴を持っています。
胴当ての下に数枚の金属板を組み合わせた垂れがついており、太腿を保護しつつ足の動きを妨げないようになっています。
肩にも装甲がついており、肩や上腕を保護しつつ自由に腕が動くようになっています。
籠手や脛当ては肘・膝から下を覆っているだけなので上腕部や太腿には装甲がありません。
防御の薄い首周りや脇は致命的な弱点です。
なので鎧通しと呼ばれる短刀で腋や太ももなど防御の薄い部分を狙って刺突するため組討をする事もあります。
兜は頭部を完全に覆う鉢状の部位に首を覆う『錣(しころ)』という部分があり完全に首を覆ってしまうことがなく、首は自由に動きます。
『どうする家康』では平八郎さんが当世具足に加え面頬を付けていました。
打撃武器(槍や太刀)を使う場合には兜や胴を狙って叩きつけ一撃を喰らわせる事もあるかと思います。
>信繁が下馬して戦うとは何事ですか。
>機動力が落ちて自殺行為ですから、武将はそうそう下馬しないでしょ。
>なのに馬から落ちて叫ぶってなんなのか……
>知略の底が完全に抜けている。
『馬から落ちて叫ぶ』とは?
徳川本陣に攻め入り金扇馬印を倒した後、徳川本陣の陣幕の奥に乗り込んだ時には徒歩だったのですが。
・だが、家康もどうかしていた?
>徳川家康がぬぼーっと立っている。
>すぐ側で激闘が行われている気配はあるはずなのに、大丈夫なのか。
>メイクとは関係なく、うっすらむくんだ顔。
>二日酔い?
>年老いた総大将が一人で座っているのに、チンタラとしている真田信繁はなんなのか。
>馬上疾走して切り掛かればいいのに、信繁役は乗馬ができないのでしょうか?
一番上で『ぬぼーっと立っている』と言っているのに途中では『年老いた総大将が一人で座っている』とは?
『馬上疾走して切り掛かればいいのに』とありますが、『葵~徳川三代~』のような大規模なロケができない環境であり、スタジオ内での撮影で馬を疾走させるのは限界があるのではないでしょうか。
そこまで言うなら貴方が天候の影響を受けないロケ地を確保して資金提供し俳優さんに乗馬指導して差し上げればいいのでは。
松本さんの体重増加については「ラジオ深夜便」で放送中の「もっと、どうする家康」にてこの様に語っていらっしゃいます。
また瀬名さま死後、中剃りになる前に撮影開始以来初めて1週間の休みをいただいたそうですが、「これからの話的にちょっと体型を絞ろうかと思って。物語の前半は家康は柔らかい性格だから、そこから絞ってシュッとした体型になったら面白いかなって」と役作りのために1日9時間の過酷なメニューを繰り返し、わずか1週間で4.8kgもの減量をしたそうです。
>そして家康は、信繁に向かってトンチンカンなことを言う。
>「家康はここじゃあ! さあこい! 共に行こうぞ!」
>敵に囲まれても動じず、むしろ乱世の亡霊たちと一緒に死のうではないか!とカッコつけているわけですね。
>ここでようやく家康の周囲に護衛がやってきて銃を構える。
>しかし、そこへ突入していく信繁。
>馬も乗らずに歩いて向かってくるなら、何か信繁に決めゼリフでもあると、まだ画面がピリッとしそうなものですが、そうはならない。
>この家康は、何より若いイケメンが目立つことを嫌いますからね。
家康さまは天王寺口の徳川本陣に姿を見せると、兵たちに敵から見えるように金扇馬印と旗を前に出すように命じます。
両軍の戦いが徐々に激化し、大野治長公は牢人たちに「金扇を目指して一気に駆け上がるように」と命令しますが、徳川軍も負けじと戦い、大坂方はなかなか近寄れません。
激戦の中大坂方は一旦下がりますが、その中で真田信繁公は「引くな真の武士(もののふ)どもよ、我に続け!」と叫び兵を進軍させついには徳川本陣に攻め入り、三方ヶ原の戦以来倒れていない金扇馬印を倒します。
ここまで信繁公は得物の大千鳥十文字槍を携えていますが、何かの理由で手放したのでしょうか。天幕の奥へ進んだ時には太刀を抜き放っていました。
信繁公が「家康の首を取れ!」と叫ぶのが聞こえ、敵が来るのを待っていた家康さまは「家康はここにおるぞ!」と応じます。
信繁公と真田の兵は天幕の奥深くまで攻め入り、徳川方は火縄銃を撃ちこれに対抗します。
家康さまは鬼の形相で斬り進む信繁公を見た家康さまは「さあ来い、共に逝こうぞ」と言います。
家康さまは両手を大きく開き、信長公、信玄公、秀吉公と言った戦国乱世を生き抜き対峙し薫陶を受けた人たちを浮かべ、心で「乱世の亡霊たちよ、わしを連れて行ってくれ」と叫んでいました。
家康さまは『乱世の生き残りを根こそぎ引き連れて、滅ぶ覚悟にございます』と茶々さま宛の書状に書き綴っていました。
乱世で覇を唱えた人々や戦う事でしか意義を見出せぬ真田のような牢人たちの思いも背負い、手段を選ばぬために恨まれようとすべてを終わらせ死ぬ覚悟でいたのだろうと思います。
作中徳川本陣へ突撃する真田隊ですが、「引くな真の武士(もののふ)どもよ、我に続け!」「家康の首を取れ!」が信繁公による決死の真田隊の攻勢を物語る決め台詞ではないかと思います。
5月7日、天王寺口では徳川軍と豊臣軍が激しい攻防戦を繰り広げます。
徳川家康本陣を攻める真田隊は、寝返りの虚報を流布して徳川軍の動揺を誘い徳川本陣へ接近。
真田隊は、3回にわたって突撃を繰り返しました。
本陣は大混乱を来し、戦を知らぬ若手も多かったためろくに戦闘もできず、家康公の周りには兵がほとんどいなくなり3里も逃げた旗本がいたほどでした。
三方ヶ原以来倒れる事のなかった金扇馬印は倒され家康公自身も切腹を口走り逃げ出します。
馬印を倒してしまった旗奉行は家康公を見失い、後にこの旗奉行は詮議され、閉門処分となりました。
>そういやダリ髭の井伊直政は最終回欠席でしたね。
>別に見たいワケではないですが、なぜいなかったのか?という点は気になる。
>徳川四天王が不在な方が不自然でしょう。
家康さまが今際の際に見た『信康さまと五徳さんの祝言での鯉の思い出話』は永禄10年(1567年)。
信康さま・五徳さんともに9歳での祝言でした。
井伊直政は永禄4年(1561年)生まれなのでまだ6歳です。
『井伊家伝記』によれば井伊直政公が家康公に見出され井伊氏に復姓し徳川家に仕官したのは天正3年(1575年)です。
永禄10年(1567年)の岡崎城の思い出なのに井伊直政が大人の姿でその場にいる方が不自然ではありませんか。
>岡田信長が、しょうもないボーイズラブ要員で史上最低ならば、もこもこ衣装の阿部信玄も、単なるチンピラ風情にしか見えなかったムロ秀吉も、できれば思い出したくなかった。
思い出したくないのならなぜ『どうする家康』をわざわざ見るのでしょう。
嫌なものをわざわざ見て後から「別に見たいワケではないですが」「思い出したくなかった」とグチグチ言い募る、鬱陶しいだけです。
自分の機嫌は自分で取れないのなら一切大河ドラマを見るのをやめレビューを書かない方がよいのではないかと思います。
大河ドラマは貴方の機嫌を取るものではありません。
・どうするマザーセナ直伝の供養儀式?
>それにしても、家康の奇妙な手の動き、ポーズは何なのか?
>NHKプラスでトップ画像に持ってきていることから(→link)、お気に入りのカットではありそうです
>ジョジョ辺りでも意識しているんですかね?
>いや、乱世の亡霊たちとチャネリングして、あの世に送るための儀式かな。
『マザーセナ』といい『チャネリング』といいカルトが好きなんですね。
貴方がカルト宗教だと思っていればそれでいいのではないですかね。
家康さまは浄土宗を熱心に信仰し天海僧正の勧めで日々日課念仏を書き綴っていました。
戦が終わった後大坂城の方角に手を合わせており、全てを終わらせ豊臣を滅ぼした後彼らを弔う気持ちがあったと思います。
家康さまは両手を大きく開き、心で「乱世の亡霊たちよ、わしを連れて行ってくれ」と叫んでいました。
真田の猛攻を迎え撃ちながらも心の中で信長公、信玄公、秀吉公と言った戦国乱世の亡霊と対話していたのかもしれません。
>全てはマザーセナの教え……
>儀式の後、六文銭マスコットが落ちて、死体がゴロゴロで、スピリチュアルパワーは永遠に不滅です。
信繁公は家康さまに斬りかかろうとしましたが、何者かの反撃を受けます。
信繁公は安居神社で休息をとっていたところ、松平忠直勢に討ち取られたそうです。
そして戦後の引き上げた陣地で信繁公が身に着けていた六文銭を大野治長公が見つけます。
因みに天王寺口の戦いでは大野治長公は全軍の後詰として布陣しています。
秀頼公に出陣を直訴する為、離脱し大坂城に向かいますがこの時豊臣の象徴である千成瓢箪の馬印を掲げたまま城に戻り、その姿を見た大坂方が敗戦と勘違いするという失態を演じてしまいます。
真田家が家紋を六文銭としたのは信繁公の祖父・幸隆公と言われています。
幸隆公は『戦場ならば、いつ死んでも構わない』という決意を家紋に込めたのだそうです。
『六道の岐(ちまた)で使用する路銀』『あの世でお金に困らないように』『三途の川の渡し賃』などの理由によって死者と共に埋葬されるお金です。
六文銭はあの世で使うための冥銭であり、それが落ちていたという事は常に付けていた真田信繁公がすでに討ち取られたことを意味するのでしょう。
戦局の流れも解説せず『六文銭マスコット、死体がゴロゴロでスピリチュアルパワーは永遠に不滅』そんな浅はかな語彙力と理解しかできませんか。
>相も変わらぬムカつく口調で「生き延びちゃった〜」と舐め腐ったことを言う正信。
>松山ケンイチさんご本人が考えた口調のようですが、制作陣の皆さんも納得されていたんですかね?
>理論立てて戦略や戦術を語れるならば、言葉で知謀を見せられるなら、下手な小細工は不要だと思うのです。
>今更ながら、彼らの首が取られなかったことが不思議です。
乱戦の末真田隊が壊滅した頃、家康さまと正信さんは茶臼山の真田の陣にいました。
正信さんは普段は参謀ながら老体にムチ打ち戦ったのでしょう。
抜き身の脇差を持ったまま疲労困憊でその場に座り込んでしまい、家康さまも側に座り込みます。
「また生き延びてしまいましたなあ」と正信さんがつぶやきます。
その時「大坂城の天守が燃えている」と知らせが入ります。
「とうとう終わるんですな。長い長い・・・乱世が」と正信さんは感慨深げです。
その頃大坂城では侍女たちが負傷兵の手当てに追われており、秀頼公や茶々さまたちが山里丸に逃げ込んだと正純さんからの知らせが届きます。
天王寺・岡山の戦は毛利隊・真田隊の徳川本陣への突撃などもあり、馬印が倒され家康公の馬廻り衆が逃げ出し手薄になるほどの激戦で理論立てた戦術や小細工が通じない死力を尽くした総力戦です。
『今更ながら、彼らの首が取られなかったことが不思議です。』とありますが、家康さま・正信さん主従が亡くなるのは翌年です。
自分が気に入らないから歴史を変えられると思っている貴方は傲慢ですね。
>そして気がつけば、大坂城が一気に燃え盛っとる!
>あんだけ燃えるには相当な時間がかかりそうですけど!
>正信が変な呪文を唱えていて、もはや合戦というより、カルトの教義対決。
豊臣軍は多くの将兵を失って午後3時頃には壊滅し、大坂城本丸に総退却します。
裸城になっていた大坂城に殺到する徳川方を防ぐ術は無く、次々となだれ込みます。
『徳川実紀 第一編東照宮実記附録』によれば、大坂城台所頭を務めた大角与左衛門が徳川方に寝返り、手下に命じて城の大台所に火を付けさせました。
上記でも書きましたが、火の手が上がった時間は、およそ午後2時~3時頃、天守に燃え移ったのが午後4時半過ぎとされており、その様子は京からも遠望できたといいます。
家康さま・正信さん主従が茶臼山で知らせを聞いたときは『大坂城の天守が燃えている』だったので午後4時半過ぎの事で、京からも視認できるほど本丸全体に延焼していたのだと思います。
本多正信さんは終生熱心な一向宗(浄土真宗)門徒だったそうです。
変な呪文ではなく、供養のための経だったのではないでしょうか。
>何より秀頼さん、結局あなたは出陣しないんですか!!
秀頼公は徳川家の公式史である『台徳院殿御実紀』によると、『母に守られる息子』の様なイメージとは正反対の勇猛な人物だったそうです。
しかし大坂冬の陣・夏の陣を通じ、一度も出陣することはありませんでした。
大坂夏の陣では大野治長公などが秀頼公の出馬を待ち説得に当たりました。
『大坂御陣覚書』によると、真田信繁公らが徳川本陣に捨て身の攻撃を開始した頃、秀頼公も甲冑を着て兵を率いて大坂城外に向け進軍を開始します。
しかし機会を逸し、真田隊が壊滅・敗走した知らせを受け城内の桜門辺りで引き返してしまったそうです。
豊臣方の軍勢はすでに撃退され総退却してくる中、秀頼公が出馬してもどうしようもなかったのでしょう。
>あれだけ戦いを煽っておいて、結局、自分はメイクを濃くして、ダイナミック拡大自殺宣言をしただけじゃないですか。
豊臣秀頼公ですが、演じる佐久間さんにはもともと涙袋があり、照明の加減で下瞼に影が差しているように見えるだけだと思います。
また舞台化粧というものがあり、普段とは違うメイクを時代劇などでは施される事もあります。
大坂城内では大野治長公から「千姫を返す」との申し入れがあり、常高院さまが使者として城に入ります。
茶々さまは「輿を用意しているから出るように」と千姫を促しますが、千姫は「嫌でございます。私は殿と義母上とともにおります!私は豊臣の妻じゃ!行くならば殿も義母上もご一緒でなければ」と譲りません。
千姫が秀頼公に「殿。一緒に出ましょう」と促しますが、秀頼公は「余は最後まで豊臣秀頼でありたい」と言います。
千姫は秀頼の手を取り頬に当て「ただ殿と共に生きていきたい」と涙ながらに訴え常高院さまにも秀頼公と茶々さまの説得をしてくれる様願います。
しかし、茶々さまは「お千を頼んだぞ」と言い残し秀頼公や家臣などとともに城と運命を共にします。
千姫は大坂城を脱して天王寺口の徳川本陣へ連れられて行きました。
秀頼公は豊臣家当主として死をもって責任を果たそうとしているだけですが、ダイナミック拡大自殺宣言とは。
・どうかしている千姫?
>茶々と共に鉢金つきの鉢巻を巻いていますが、いかにも銀紙を貼り付けたようで格好よろしくない。
鉢金は相手の攻撃から額を防御する目的と、 汗や血が自分の目に入らないように鉢巻の中心部に金属を打ち付けた(もしくは縫い付けた)ものです。
千姫や茶々さまの鉢巻は金襴をあしらった錦なので、あくまで城内に敵がなだれ込んだ時の防御で戦場に出るわけではない彼女たちの最低限の装備なのだと思います。
戦に格好いいとか悪いとか言っていられないと思います。
>そしてお初が千姫をなんだかんだで連れ出した、と。
>これだけ派手に火が回っているのに随分と余裕を感じさせます。
大野治長公から『千姫を返す』との申し入れがあり、常高院さまが使者として城内に入っており茶々さまは「輿を用意しているから出るように」と千姫を促しています。
千姫は侍女たちと共に大坂城を脱出し、戦地を突っ切って茶臼山の家康公の本陣まで赴き、祖父に秀頼公と茶々さまの助命嘆願をします。
火の手が上がった時間は、5月7日のおよそ午後2時~3時頃、天守に燃え移ったのが午後4時半過ぎとされています。
千姫が大坂城を脱出した時まだ豊臣一門が籠る山里丸曲輪には火が回っておらず、まだ天守にも燃え移ってはいなかったのではないでしょうか。
現代の地図上では大坂城から茶臼山まで5.1㎞ほどあり1時間12分かかります。
茶臼山の徳川軍本陣に着いた時には天守が炎上し史料の時刻に合わせると午後4時半以降という事になり、時間経過が伺えます。
>坂崎直盛もいないのに、千姫があっさり家康のもとへ。
坂崎直盛公は元和元年(1615年)大坂夏の陣による大坂城落城の際に千姫を大坂城から救出しました。
秀頼公・茶々さま母子、嫡子・国松の助命は聞き入れられませんでしたが秀頼公と側室との間に生まれた娘の助命が叶い、千姫の養女となった後出家し、天秀尼を名乗り鎌倉の東慶寺に入ります。
元和2(1616)年、千姫は姫路城主本多忠政公(本多忠勝公の孫)に嫁ぎます。千姫の救出を家康公が命じた際、「救い出した者には千姫を与える」と言ったという噂があり、これを真に受けた坂崎直盛公がその約束を反故にされた事を怒り、千姫が忠刻公と再婚する際その行列を襲い千姫を奪おうとする計画を立てます。
事が露見し、改易を恐れた家臣団が直盛を殺すという事件が起こり、坂崎家は改易・取り潰しとなります。(千姫事件)
千姫事件は元和2年(1616年)9月の事であり、作中では元和2年(1616年)4月の家康さまの逝去を以て終幕としており、千姫の助命嘆願をメインとした逸話にはあまり影響がないのではないでしょうか。
>必死な命乞いを始めますが、あれだけ啖呵切っておいて、全てが遅い、遅すぎる。
>もう死んでいるのでは?
千姫の啖呵とは?
「嫌でございます。私は殿と義母上とともにおります!私は豊臣の妻じゃ!行くならば殿も義母上もご一緒でなければ」「殿。一緒に出ましょう」「ただ殿と共に生きていきたい」と言っていた事でしょうか。
大野治長公からの依頼で常高院さまが使者として大阪に入り、茶々さまは千姫が逃げるための輿まで用意し、秀頼公は豊臣の当主として城に残り千姫を逃がしました。
千姫の祖父・家康さまへの必死の助命嘆願は父・秀忠公の将軍権限での助命拒否もあり叶いませんでした。
5月7日に大野治長公は家臣を使者として遣わし、千姫を脱出させた上で自身以下家臣が切腹する代わりに秀頼公・茶々さまの助命嘆願を行います。
助命は叶わず、翌8日に秀忠公は秀頼公らに切腹を命じました。
山里丸を包囲した井伊勢が午の刻(午前12時ごろ)に鉄砲を放つことでこれを伝え、これにより秀頼公ら32人は自害。
山里丸の蔵には火が放たれました。
秀頼公や茶々さまをはじめ豊臣一門が自害したのは5月8日であり、まだ亡くなっていません。
・どうしようもない命乞い?
>家康が千姫を助け起こすセリフも演出も、祖父と孫娘というより、イケメンと美少女なんですよね。
>しかも、千姫が助命を頼む理由が「秀頼まじイケメン! 推してる人多いし、ファンがいるから貶さないで!」というような趣旨のようで、彼女の必死さが無駄になっている。
>もっと他に言葉はなかったのか……。
また『孫のような年齢の女性に話しかけるなんて気持ち悪い!』『ファンクラブ、喜び組要員!』でしょうか。
千姫は天王寺口の徳川本陣に連れてこられました。
出迎えようとする祖父・家康さまに、秀頼公と茶々さまの助命嘆願をします。
「豊臣にはもう戦う力はない、この期に及んでお二人を死なせる意味がどこにありましょう!」と千姫は主張します。
「秀頼を深く慕っておるんじゃな」と言う家康さまに千姫はなおも「多くの者があのお方を慕っております。あのお方は夢を与えてくださいます。前途ある若き才を救ってください。」と涙ながらに訴えます。
千姫の助命嘆願は『多くの者に慕われて夢を与えられるような前途がある若者』が不穏な牢人を集めて世の中を荒らすような乱を起こしたという事で徳川幕府としては秀頼公・茶々さま母子以下豊臣家を到底認めるわけに行かない主張であったと思います。
>それに対して家康がボソボソと意味がわからないことをいうと、秀忠が泥を被ると言い出す。
>その際、父の言葉を遮るのが見ていられません。
>あまりに無礼ではありませんか。
>まぁ、今回に限ったことではなく、本作の脚本家って、人の言葉をぶった斬るのが本当に好きですよね。
>秀忠の理由にしても、ただカッコつけたいからのようで、千姫は「父上もおじじ様も鬼!」とか言い出す。
>そして豊臣の天下を盗み取った化け物だとキンキン喚いています。
家康さまは「ここで挫ければ、ここまでやって来たこと全てが・・・」と言い淀みます。
『多くの者に慕われて夢を与えられるような前途がある若者』が不穏な牢人を集めて世の中を荒らすような乱を起こした事により『乱世の化け物』を処さなければいけないのは分かっていても孫娘の必死の願いに家康さまは揺れています。
それを見た秀忠さまは「将軍として自分が命を下す」と言い、「秀頼には死を申し付ける」と断言します。
冬の陣では大筒での砲撃を断行する父を涙ながらに止めていた秀忠さまでしたが、『この世で最も愚かで醜い人の所業である戦』をこれ以上続けないために将軍として責任をもって処分を下し「最後くらい、私に背負わせてくだされ」と高齢である大御所の父に代わって政務を執る事を誓ったのではないでしょうか。
そんな事情を理解できない千姫は夫や義母の助命が叶わず「そんな父と祖父は鬼じゃ鬼畜じゃ、豊臣の天下を盗み取った化け物じゃ」と怒りを露わにし、侍女が連れ出すも激しく抵抗するのでした。
「これは、姉と秀頼様がお選びになったことでもあるのです」と常高院さまが伝えますが千姫は泣きじゃくり「秀頼さまを返せ」と言い侍女に連れられ下がっていきます。
皆が下がった後、家康さまは1人大坂城に向かって手を合わせ、空では雲間から光が差しています。
何見氏は46回レビューで下記の様な事を言っていました。
『秀忠はむしろ千姫を突き放しています。嫁いだからには婚家に殉じろ!と頑なな態度でした。孫娘の悲運が申し訳ない家康が、そんな我が子を抑えながら、千姫救出の手立てを考えています。』と主張しているという事は『大坂夏の陣』で徳川の勝利が決定した時、千姫が夫・豊臣秀頼公と茶々さま、大野治長公などの豊臣家臣の助命を何度も懇願し、家康公が秀忠公の意見を聞き、秀忠公が助命を拒否したという『駿府記』の逸話を知っているという事になります。
しかし、48回の作中で家康さまに代わり秀忠さまが将軍権限と責任において豊臣一門の助命を拒否したという描写がありましたが、逸話採用が都合の悪い事なのかさも知らないかのように『父の言葉を遮るのは無礼』と叩いています。
この様な事があるので貴方の歴史ライターとしての主張は信用できません。
・どういう炎なの??
>大坂城が燃えています。
>一体どういう世界観なのか、炎が都合よく燃え、熱も感じさせないようだ。
5月8日秀忠さまは秀頼公らに切腹を命じ、山里丸曲輪もついに炎に包まれていました。
『炎が都合よく燃え、熱も感じさせない』とありますが。
5月7日大坂城内の台所から出火した炎は天守に移り夜通し燃やし尽くし、翌8日山里丸曲輪にも火が放たれます。
どこが都合よく燃えているのでしょうか。
本物の炎を使っていた実例として、映画『魔界転生』があります。
ラストシーン、江戸城の紅蓮の炎は、特撮やCG等は使わずスタントもなしで、実際にセットを燃やして撮影され長丁場の撮影時間中ずっと炎の中で耐えたり手の甲を火傷したり俳優さんもスタッフも命がけだったそうです。
現在なら危険すぎて撮影許可が降りないであろうシーンだったそうです。
現在ではロケやセットなどで炎を使いたい場合、火災予防条例により『火災とまぎらわしい煙又は火炎を発するおそれのある行為』などはあらかじめその旨を消防長(消 防署長)に届け出なければならないという制限があり、俳優さんの安全のためにバーチャルプロダクション(VP)やCGを使っているのだと思います。
>豊臣秀頼はカッコつけて自害。
>今まで見てきた切腹シーンの中でも、これほど“お芝居”に見えるものはなかった。
>刀を刺した瞬間の「ぶしゃ!」というサウンドエフェクトがあまりにも安っぽい。
『“お芝居”に見える』→切腹シーンはお芝居です。芝居をしているのに芝居に見えるとは。
効果音(SE)とは、舞台や映像などで演出の一環として付け加えられる音のことです。
刀を振るう音や打撃音は聞き手がイメージしやすい環境音や効果音として重要です。
『サウンドエフェクトがあまりにも安っぽい。』と言うならば貴方が安っぽくない『私が考えた最強のSE』を作って提供して差し上げればいいのではないのですか。
>ここで近づく茶々も意味がわかりません。
>最愛の我が子の介錯を邪魔して、彼女も十分鬼です。
>血を浴びて変な顔をする様子が、しみじみとくだらない。
秀頼公は脇差を自らの腹に突き立て腹を掻き切りました。
苦しい息づかいをしながら、茶々さまに「我が首をもって、生きてくだされ」と言い、大野治長公が声を上げ介錯します。
茶々さまは秀頼公の首に手を触れ、「見事であった」と褒めます。
自分の首と引き換えに母を救いたかった秀頼公、茶々さまが秀頼公に寄り添ったのは彼の立派な切腹と大野治長公による介錯を見届けた後で邪魔はしていません。
>そして一斉の切腹タイム!
>酷いサウンドエフェクトと斬首三昧。
>わけのわからんセリフを吐く大野治長。
秀頼公が自害すると残った家臣らが「お供いたしまする」と後を追って、次自害していきます。
家臣や牢人衆が次々と殉死し、大野治長公が介錯をして行きます。
治長公は介錯のために太刀を振り上げ「徳川は汚名を残し、豊臣は人々の心の中に生き続ける!」と叫びます。
当主の自害をきっかけにその死に殉じようと次々に家臣が自害し、血と炎の中で果てていく様はまるで1991年放送の大河ドラマ『太平記』22回鎌倉炎上での北条一門の東勝寺での自害の場面をほうふつとさせます。
北条家と豊臣家、どちらも最期は炎の中で一族郎党もろともその命を散らしていく御家であり、今際の際の演出など少なからず参考にするものがあるのではないかと思います。
>そして切腹タイムの最後は、ピロピロしたストリングスと酷いサウンドエフェクトで、茶々と治長の自害を彩ります。
炎に包まれながら秀頼公はじめ家臣や牢人衆、女性たちに至るまで次々と自害し、ついに残るは茶々さまと大野治長公のみになりました。
治長が自らの腹に刃を突き立てると茶々さまがその刃を治長公の体へと沈めていきます。
茶々さまは太刀で首を刎ね介錯するような術を持たず、せめて短時間で逝ける様出血量を増やすために深い傷を負わせ止めを刺しているのではないかと思います。
この二人は乳姉弟であり、ずっと側で寄り添った同志のような存在だったのではないでしょうか。
ついに大野治長公が果て、ただ一人残された茶々さまは頬に返り血を付け、「日ノ本か…ハハッ」とこれからの徳川の世を嘲笑します。
・またかよ、死ぬ死ぬ詐欺!?
>茶々が不貞腐れたように吐く台詞も酷い。
>「日ノ本はつまらぬ国になる! 人目ばかりを気にし、陰でのみ妬み嘲る」とかなんとか、このドラマの何が嫌かって、脚本家が、批判者に対してあてつけるようなセリフを入れることですね。
>劇中のセリフに乗せて「なんでこんなにがんばった私を叩くの!」と愚痴るようなことを言う。
『脚本家が、批判者に対してあてつけるようなセリフを入れる』
『劇中のセリフに乗せて「なんでこんなにがんばった私を叩くの!」と愚痴るようなことを言う。』
お得意の被害者仕草でしょうか。
批判どころか製作スタッフや俳優さんや視聴者やファンを中傷している自覚はおありですか。
茶々さまは「つまらぬ国になるであろう。正々堂々と戦うこともせず、万事長きものに巻かれ、人目ばかりを気にし、陰でのみ妬み、あざける。優しくて、卑屈なか弱き者たちの国。己の夢と野心のために、形振り構わず力のみを信じて戦い抜く!かつて、この国の荒れ野を駆け巡った者たちは、もう現れぬ。」と天を仰ぎ笑みを浮かべています。
「茶々は、ようやりました」と満足気に言い頸動脈を切り、その場に崩れ落ちました。
>まずは、長すぎるから端的にまとめてください。
>これだけ炎が燃え盛っている中で延々と喋れないでしょ?
>煙で喉をやられる可能性もありそうですし、酸欠にもなりそうだ。
『長すぎるから端的にまとめてください』
貴方のレビューも長すぎるうえに蛇足なので端的にまとめてください。
大坂夏の陣で敗れた後、炎上する大坂城での豊臣一門の滅びゆく様は中盤の見せ場です。
最初からもう勝ち目がないと自害するためにそこに留まっているのだから煙を吸って喉が潰れようと酸欠になろうと構ってはいないのではないでしょうか。
これまでを振り返ったり独白するのはドラマでの演出であり、現実とは違うものだとした方がいいと思いますが。
>そして茶々も、マザーセナと同じく頸動脈を切って終わる。
一般に体内の血液の20%が急速に失われると、出血性ショックという重い状態になり30%を失うと、生命に危険を及ぼすとされています。
この時点で生存者は茶々さま一人であり、切腹もできず介錯をしてくれる人もいないので、太い動脈である頸動脈を掻き切り大量出血で死に至る方法を選んだのでしょう。
頸動脈を掻き切る自害は瀬名さまや茶々さまなど女性に限らず『秀吉(1997年)』での渡哲也さん演じる織田信長公、『功名が辻(2006年)』の舘ひろしさん演じる織田信長公が頸動脈を掻き切る自害をしています。(渡さんの場合は御病気のため切腹シーンが不可能だったというのもありますが)
>家康が手を合わせる……いや、もう、しつこいって!
茶臼山の徳川本陣では、燃え盛る大坂城に家康さまが手を合わせます。
その時空の雲間がから日の光が差し込み始めます。
家康さまは浄土宗を信仰しており、我が手で滅ぼした敵とはいえ豊臣一門が浄土に行けるよう手を合わせたのだと思います。
・日本史知識がないなら、なぜ、大河を書いた?
>それにしても、無駄に長い茶々の台詞はなんだったのでしょう。
>ネットのエコーチェンバー現象と重ね、海禁政策といった家光時代以降の政策まで批判しているように見受けられました。
>明治以降、家康を貶めるためにこうした物言いは往々にしてありましたが、今時、こういうスタンスはいかがなものか。
演出の村橋監督曰く、「茶々が最後に一人でこぼす台詞『日ノ本か。(戦国の世が終わり)つまらぬ国になるであろう』がとても素晴らしかったのですが、彼女個人の想い以外を背負っての台詞だったので、『最後に彼女が<一人の人間>に戻る瞬間をつくりたい』と古沢さんにお願いして書いていただいたのが、おそらく亡き市(北川の1人2役)との会話であろう『茶々はようやりました』という最後の一言でした」「彼女も戦国という時代の被害者の一人として死んでいくことは、最終回の中盤以降に家康の贖罪意識を描いていくためにも、必要なことだったと思います」との事です。
茶々さまはあくまで徳川家に敵対して力の強いものが覇権を握る乱世を続けようとした側の人です。
戦国の世が終わり、ただ戦う事だけを生業とした牢人衆を引き込み、『秀吉公以来の天下簒奪をもくろむ徳川から天下(日ノ本の統治権)を取り戻す』という考えの元2度に渡る乱を起こし、滅びの道を歩みました。
『明治以降、家康を貶めるための物言い』ではなく、端から徳川家による安寧の世を享受できない人たちであり『己の夢と野心のために、なりふり構わず力のみを信じて戦い抜く!かつてこの国の荒れ野を駆け巡った者たちは・・・もう現れまい』と乱世以外では生きられぬ事をを嘆きながら精一杯生きたと滅んでいったのだと思います。
実際は3代・徳川家光公の治世に『島原の乱』が起き、伊達政宗公、水野勝成公、 立花宗茂公、 真田信之公など乱世を生きた生き残りがまだまだ多い時代なのですが。
>『青天を衝け』でも、オープニングでしばしば家康が、自分の世代以降の政策を自分のもののように語っていました。
>劇中では徳川慶喜も、徳川家茂やその他別人の功績を掠め取っていました。
>どこまで徳川幕府が嫌いなのか。
「こんばんは。徳川家康です。」から始まる徳川家康公の登場はほぼ毎回幕末期の日本や世界の情勢を踏まえ神君として俯瞰的な立場で簡単な解説をするものでした。(日本史の授業の導入の様な)
1回では「よく明治維新で徳川は倒され近代日本が生まれたなんて言われますが、実はそう単純なものじゃない」
「古くなった時代を閉じ、いまにつながる日本を開いたこの人物こそ、わが徳川の家臣であったと、ご存知だったかな」
と言っています。
『徳川慶喜も、徳川家茂やその他別人の功績を掠め取っていました。』
どこでどのように慶喜公が家茂公やその他別人の功績を掠め取ったか歴史の流れからどのような人物であったか歴史ライターとして公平な視点で説明をお願いします。
あと天狗党の乱で当時一橋家当主だった慶喜公が水戸藩士の処分に介入できず幕閣の田沼公に一任した経緯があるのに、さも天狗党の処分を下したかのように吹聴した事について訂正は無いのですか。
>まるで「悪いことはアンチのせい。
>よいことは推しと私のおかげ」のような思考回路ですが、脚本家は「歴史はフィクション」「興味がない」とか明言してしまう前に、今からでも勉強をおすすめしたい。
徳川幕府の事すら理解せず歴史上の人物を叩き棒に使ったり、ひどい中傷をする貴方の方が日本史知識をアップデートできていないのでは。
・そしてここであの酷いナレーションが神の君を褒める?
>「かくして戦なき安寧の世が訪れました」と富士山と江戸の町のようなアニメーションが流れます。
>何が嫌か?って「全ては神の君のおかげ」とキンキンナレーションで何やら押し付けてくところ。
>肝心のアニメにしても、その安っぽさときたら、無料で入手できる画像素材から引っ張ってきたような色合いで、精巧さのカケラも感じられません。
もうすでに春日局兼ナレーション担当の寺島しのぶさんの声を『キンキンナレーション』、アートディレクター菱川勢一氏(DRAWING AND MANUAL)の仕事を『安っぽさ』『無料で入手できる画像素材から引っ張ってきたような色合い』『精巧さのカケラも感じられません』と中傷していますね。
そういう所がプロの仕事に敬意がない、人の気持ちを分かろうとしない人と言う判断をされる基では。
大坂夏の陣が幕を閉じ、「かくして天下泰平、戦無き安寧の世が訪れたのでございます。全ては神の君のおかげ」とナレーションが入り安寧の徳川の世となった江戸の町がアニメーションで展開します。(OPタイトルバックとほぼ同じですね)
安藤広重の浮世絵『名所江戸百景 する賀てふ』のオマージュかと思われます。
富士山は、江戸の町からよく見えただけではなく、徳川家康公の開府以来の新興都市である江戸の都市計画においても、ランドマーク的な重要な役割を果たしたそうです。
>茶店の老婆も鬱陶しいだけ。
>その老婆に対して、雑な関西弁で絡み、家康の悪口を喋る連中も見てられない。
>このドラマは陰口を叩く場面が本当に多かった。
翌年、元和2年(1616年)江戸は活気に満ちあふれ、城下ではかつて浜松で団子屋を営んでいた老婆が皆に団子を振舞いながら、「大御所様も三方ヶ原の戦で負けて逃げた折にこれを勝手に食って、金を払えとわしゃ追いかけたんだわ」と三方ヶ原の戦での昔語りをはじめ、一同が湧きます。
それに乗じ一部の者たちが「天下掠め取りよった腹黒い狸やさかいな」と言います。
それを聞いた老婆は彼らに一発お見舞いするのでした。
団子屋の老婆、お元気ですけど彼女三方ヶ原の頃から浜松城下で団子屋を営む老婆でしたがおいくつなんでしょうか・・・
どうやら家康さまの悪口を言った人たちは言葉遣いからして上方の方でしょうか。
上方(大坂)はかつて豊臣家が治めていた土地であり、元和偃武が成り徳川の世となってもまだ大坂の陣の翌年の事であり、『太閤はんの豊臣から天下を掠め取った』というイメージがあるのでしょう。
かつては浜松に移ったばかりの徳川を警戒し、石が入った団子を売りつけたり悪口を吹聴していたこの老婆、家康さまに許され今ではすっかり愛あるイジリに代わったようですね。
因みに浜松には家康公が三方ヶ原で敗走している途中茶屋で小豆餅を食べたが武田の追撃を逃れるため無銭飲食をし、代金を払わせようと茶屋の老婆が追いかけてきたという伝承があり、現在でも『小豆餅』『銭取』と言う地名があります。
『茶店の老婆も鬱陶しいだけ』
老婆に絡む者たちに文句付けながら貴方が一番ひどい事を言っているのはどういう了見でしょう。
『家康の悪口を喋る連中も見てられない。』
貴方毎週『どうする家康』レビューと題して松本さん他出演者やスタッフ、松本さんのファンや作品を好きな視聴者を散々中傷してきてますよね。
そんな貴方が人の行動を正義ぶって叩き、嘆ける様な品のいい事をしているでしょうか。
・もう麒麟には近寄らないでください?
>小栗旬さんの南光坊天海が出てきました。
>無駄使いとはまさにこのこと。
『もう麒麟には近寄らないでください』
もうすでにクランクアップもし、最終回を迎えた作品なのにこの先どうやって麒麟に近づけるというのでしょうか。
貴方が事あるごとに『どうする家康』を見ない、語らないを貫けば済む話ではないでしょうか。
『我らは有象無象の声に惑わされることなく、正しく君の偉業を伝えて行かなければなりませぬ』とナレーションが入り、場面は紫法衣を纏う南光坊天海僧正が主導での東照社縁起編纂事業の部屋となります。
文官の「若き頃はどうすればええんじゃと右往左往し、酒井忠次殿、石川数正殿に叱られること数知れず・・・」という提案に「駄目。」と駄目出しをし、「井伊直政が幼き頃、大御所様の命を狙わんとし・・・」と言う案には「碌なのがねえ」とうんざりして言います。
天海僧正は家康さまの偉業を称える公式史料をと考えているようです。
それを聞いていた稲さん(当時存命で江戸にいたとも伝わる)が「鳥居元忠を伏見に残す際、別れの盃を交わして涙を流し」と案を出します。
天海僧正は「そういうの、こういうやつをもっと集めよ皆の衆」と言いますが、そこへ入ってきた秀忠さまは「立派な話ばかり残すと言うのも、如何なものか」と苦言を呈します。
「世間では、狡猾で恐ろしい狸と憎悪する輩も多うございます。かの源頼朝公にしたって、実のところはどんなやつか分かりゃしねえ。周りがしかとたたえて語り継いで来たからこそ、今日、全ての武家の憧れとなっておるわけで・・・」と天海僧正が意図を説明します。
秀忠さまが「だがのう、人は誰しも間違ったり過ちを犯したりするものであろう」と反論しますが、僧正は「人ではありませぬ。大・権・現!」と主張します。
元和2年(1616年)危篤となった家康公は神号や葬儀に関する遺言を天海僧正らに託します。
家康公死後、神号を巡り『明神』としたい以心崇伝和尚や本多正純公と争い、『権現』を主張します。
結果家康公の神号は『東照大権現』と決定され久能山から日光へ改葬されました。
作中の東照社縁起編纂事業は天海僧正の主張の様に神号を『権現』とし神格化するための作業だったのでしょう。これが無意味無駄遣いでしょうか。
>(笑)で誤魔化していますけど、要は、これ「俺でなきゃダメなの?誰でもよくない?」と思っていた証であり、よくぞ公式サイトに掲載したなぁ、と思います。
公式HPでの小栗旬さんのメッセージ全体は以下画像のようになっています。
老僧のメイクが巧妙で、演じているのが小栗さんだと分からないと話題になっていましたが。
元和2年(1616年)の時点で天海僧正は80代の高齢であり、かつらやメイク合わせの際今回の役柄が高齢だという事をきちんと分かっていなかったそうで、「かつらやメークを合わせていくうちに『果たしてこれは、私であるべき役なんだろうか?』っていうクエスチョンが浮かんだまま、撮影当日にたどり着きました(笑)」との事です。
何見氏はそこだけを切り取り、『話題作りのためだけに小栗さんを登場させるなんて失礼極まりない話であり、今年の制作陣には真っ当に作品を仕上げる矜持がない』と叩いていますが、肝心なのはその後です。
「でも、お気づきになった方もいらっしゃると思いますが、劇中で『源氏物語』と『吾妻鏡』を持たせていただけたので、大河と大河の橋渡しと言いますか、何かしらつなげる役割も果たせたのかなと思っています」「1シーンでどんなことができるか分かりませんでしたが、連綿と続いてきた時代や人の繋がりを感じさせる役を演じて、いい経験をさせてもらいました」と小栗さんはコメントされています。
勝手に自分の都合の悪いところを切り取り本人の意図を曲げて伝えようとするのは非常に悪質です。
>最後の最後で話題作りのためだけに小栗さんを登場させるなんて失礼極まりない話であり、今年の制作陣には真っ当に作品を仕上げる矜持がないのかと問いたくもなる。
作中、天海僧正は『源氏物語』と『吾妻鏡』を手に取り「かの源頼朝公にしたって、実のところはどんなやつか分かりゃしねえ。周りがしかとたたえて語り継いで来たからこそ、今日、全ての武家の憧れとなっておるわけで・・・」と言います。
『吾妻鏡』は初代将軍・源頼朝公から6代将軍・宗尊親王までの鎌倉幕府の公式史書です。
写本のうち、最も有名な『北条本』は南北朝時代金沢文庫で作成された時点で散逸が始まっており、小田原北条家から筑前・福岡藩黒田家を経由し徳川家の手に渡り、江戸幕府により『吾妻鏡』研究が進められ今日に至ります。
また『源氏物語』は写本が多く作られ単なる『女子どもの手慰み』から重要な教養となっていき、江戸時代には版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになります。
また『源氏物語』意匠の調度品や着物、香道の流行によって『源氏香』など由来する呼称が使われる様になるなど文化に影響を与えます。
また『源氏物語絵巻』が平安時代末期に作成され、これは国宝指定され尾張徳川家の重宝として徳川美術館に所蔵されました。
天海僧正を演じられた小栗さんも「劇中で『源氏物語』と『吾妻鏡』を持たせていただけたので、大河と大河の橋渡しと言いますか、何かしらつなげる役割も果たせたのかなと思っています」と仰っていますが、単なる話題性や大河同士の橋渡しだけでなく、歴史を編纂し語り継ぐ事で残る文化の変遷や江戸幕府の関わり、後世どのように歴史上の人物が語られてきたかを知るうえで重要な橋渡し役を演じてくださったのだと思います。
・どうするサプライズ?
>『どうする家康』の場合、松本潤さんが強引に頼み込んだようなサプライズばかりで、しかも露骨に『鎌倉殿の13人』を意識している。
>佐藤浩市さん。
>大竹しのぶさん。
>小栗旬さん。
>こんな調子だから「主演がキャスティングを左右する」という文春砲の信憑性が増してゆくのです。
『同じサプライズにせよ『大奥』の方がはるかに上出来です。』
ここでもまた『大奥』との比較でしょうか。
貴方は嫌いな作品をいちいち晒して下げないと『大奥』を評価できませんか。
双方の作品にかかわった方々に重ね重ね失礼です。
また『鎌倉殿の13人』に出演していたからと言って『どうする家康』に出てはいけないなどと言う制約はなく、現場の要望と俳優さんの意思によるものが大きいと思います。
勝手にキャスト予想やあらぬ妄想をして『勘弁してくれ』と言い、『「主演がキャスティングを左右する」という文春砲の信憑性が増した』と貴方がそう思い込みたいだけではないでしょうか。
真田昌幸公を演じた佐藤浩市さんは公式ガイドブックや相関図にも『家康さまに何度も苦杯をなめさせる乱世の怪物、真田家当主』として写真付きで載せられており、サプライズではないと思います。
佐藤浩市さんは出演が決まった時のお気持ちを『主役を務める松本潤君とは、昔から家族ぐるみで付き合いがあったので、応援したいという気持ちもありました。ですので、微力ながらお手伝いをさせてくださいという思いで、出演を決めました。』と語っておられます。
また、大竹しのぶさんは『私のラジオ番組(R1「大竹しのぶのスピーカーズコーナー」)に出てくれたんです。その時、皆さんより一足先にドラマのDVDをもらって第 1 回を見たのですが、彼がこの大河ドラマの主役を演じるにあたって、相当な覚悟を持ってチャレンジしていることがわかったので、ぜひ応援したいな、私にできることはあるかな、と考えていたんです。ですから、こうしてお声がけいただいて、潤君が一生懸命取り組んでいる作品に出られることを、友人としてとてもうれしく思いました。』と仰っています。
(小栗さんは公式HP で語っていらっしゃいますので上記項目を参照してください)
・小道具班はもう……
>あの和綴の『吾妻鑑』『源氏物語』の薄っぺらさはどうしましたか。
>あれだけの長編物語が、一冊だけペロっと出てくる点も意味不明。
>いやわかりますよ、去年と来年への目配せでしょう?
『吾妻鑑』『源氏物語』が薄い和綴じの冊子である事の何がいけないのでしょうか。
下記のサイトでは古活字版で印刷された最古の『源氏物語』である『10行本 源氏物語』の画像が掲載されており、1冊単体では巻ごとの和綴じ冊子になっています。
『吾妻鏡』は初代将軍・源頼朝公から6代将軍・宗尊親王までの鎌倉幕府の公式史書で徳川家の手に渡り、江戸幕府により『吾妻鏡』研究が進められていました。
『鎌倉殿の13人』最終回では、若き家康さまが愛読している『吾妻鑑』の承久の乱の項を読んでおり、うっかりお茶を零してしまうという場面がありました。
天海僧正が手に取った『吾妻鑑』には一回水に濡れ、表紙がよれて乾いた後の皺とタイトル部分にシミがあります。
『源氏物語』は、紫式部の書いた原文を手で書き写した「写本」によって、広まりましたが写本は貴族など一握りの知識階級の間に秘伝のように伝わっていくだけであり、活版印刷が16世紀末イエズス会の宣教師来日などを契機にもたらされパロディー小説が大ベストセラーになるなど、江戸時代の出版文化によって『源氏物語』の大衆化に貢献していきます。(こちらは再来年大河の『べらぼう』にも繋がっていくかもしれません。)
天海僧正が手に取った『源氏物語』は元和2年(1616年)家康公の逝去に伴い、九男で尾張徳川家藩主・徳川義直公に約3,000冊の蔵書の一つとして分与された『駿河御譲本』と呼ばれる『源氏物語』の一巻だと思われます。
これは正嘉2年(1258年)5月、金沢流北条氏初代・北条実時公(北条義時公の孫)が『源氏物語河内本』を借用して写本させ、金沢文庫に納められていたものといわれています。
北条実時公は2001年大河ドラマ『北条時宗』にて池畑慎之介さんが演じています。
現在は重要文化財に指定され、名古屋市蓬左文庫の所蔵となっています。
また、『源氏物語』のタイトル部分に『夕顔』と記されており、この巻が『源氏物語』五十四帖の巻のひとつ、第4帖の『夕顔』と分かります。
上記で紹介したサイトにもありますが、幻の源氏物語絵巻とされフランスで発見されたという『盛安本 源氏物語絵巻』も『夕顔』でした。
>小道具班はもう疲弊しきっているんだろうなぁ。
>ニコライ・バーグマン押し花が呪いのアイテムとなって、小道具班のHPを奪ったのかもしれませんね。
ついにニコライ・バーグマン氏の作品を呪いのアイテムと言い始めましたか。フラワーアーティストであるニコライ・バーグマン氏のフラワーアレンジメントはれっきとした商品であり、ストーリーに全く関係ない気に入らないドラマ作品を馬鹿にするための叩き棒に使うのは失礼であり、言い様によっては中傷や業務妨害になると思います。もはや『呪いのアイテム』とまで言っているので立派な中傷ですね。
・どうしようもない、春日局の格差?
>春日局も出てきました。
>有能な乳母というよりも、すっかりマザーセナ教団の女ですね。
>それにしても、神田伯山さんを意識したなんてよくも言えますね。
>だったら神田さん本人にナレーションを依頼したら良かったのではないですか。
従三位の位階と『春日局』の名号を後水尾帝より賜るのは寛永6年(1629年)の事で元和2年(1616年)の時点ではまだ『福』です。
福(春日局)兼ナレーションである寺島しのぶさんは語りの方向性を決める仮収録の前日、たまたま神田伯山さんの講談を鑑賞し、その余韻のまま語ったところ監督が採用したそうです。
この経緯を知らない松本さんから「伯山さんの講談みたいな語りもいいね」と声掛けされる偶然もあったそうです。
語りの設定(実は春日局による後世の語り草だった)を知らされたのは、終盤で「やはり、この使命感のある役どころを意識し、極端に熱意を出していこうと思いました」と役に入り込んだとの事です。
春日局が正式に竹千代(家光公)の乳母として上がったのは慶長9年(1604年)ですでに瀬名さまは亡く、彼女が竹千代に語って聞かせるのは実際の家康さまの人生の実態とズレのある『神君家康公』の偉業です。
どこが『マザーセナ教団の女』でしょうか。
だからこその『ナレーションと実態のズレは春日局が神君伝説を語っているから』という構造であり、語りのオマージュをしたからと言って伯山さんご本人を採用したかったわけではないと思います。
「全ては天が私たちにお授けくださった神の君が、この金色の具足をまとったその日から、天下泰平のため邁進してくださったおかげでございます」とナレーションの語りが入り、その語りは竹千代(のちの家光公)の乳母・お福(のちの春日局)の言葉へと変わります。
お福が竹千代に『神の君』の逸話を語って聞かせています。
「我らはそれを受け継ぎ、未来永劫、徳川の世を守ってゆかねばならぬのです。若君ならばできまする!竹千代様には偉大なる神の君の血が受け継がれておられるのですから、ようございますな。竹千代さま!」と言い終え、振り向きますがその場に竹千代はおらず、本多正信・正純親子が残されています。
「終わりましたか。結構なご高説でございました。福殿」と正信さんが頭を下げます。
竹千代は廊下で絵を描いていました。
「しかと聞いておられたのか」詰め寄るお福。
「神の話なんぞ聞きたかないや」と正信さんに絵を渡し、「何と罰当たりな」と𠮟りつけるお福を余所に竹千代は逃げて行きました。
正信さんに渡した絵は正信さんの癖である扇子を首にトントンする狐でした。
「面白き若君でございますなあ」と正信さんは笑いますが、お福は若君の教育に頭を悩ませている様でした。
>ナレーターの正体をラストで明かすサプライズは、朝ドラ『らんまん』の方が遥かに上。
>本当に上っ面をパクるしかできないドラマです。
>春日局当人の描き方にしても、『大奥』の斉藤由貴さんとの格差に失笑しかない。
何度も言っていますが、貴方は嫌いな作品を語るのにいちいち他作品を比較に出し『Aに引き換えBは』をやらないと語れないのですか。
何かにつけ比較することでしか評価できず、他人の好きなものを平気で踏みにじり、自分の好きなものだけを押し付けるようでは反感を買われるだけで作品の紹介にもならないと思います。
>神の君が死にそうだというのに、祈ることすらしない連中に、ほとほとゲンナリです。
>なぜ本作の登場人物は他人を思いやる行動を見せないのでしょう?
>身勝手で自分本位。
>人を思いやる気持ちがまるで見えないから感情移入もできない。
本多親子とお福が語る部屋に阿茶さんが入ってきます。
「やはりお加減すぐれぬご様子で」とお福が言い、「江戸から見舞いに来ていただいたのに申し訳ない」と謝辞を述べます。
家康さまは病に倒れ、駿府で床に臥せっていますが、お福と阿茶さんの会話から本多親子と竹千代、そしてお福が江戸から駿府に見舞いに訪れた事が分かります。
近頃は阿茶さんが一人で家康さまの世話をしている様です。
天海僧正による家康さまの神格化への用意の影響もあるのか晩年は『大御所様』と畏れられ、『粗相があったりもしものことがあったりした場合に、罰を受けるのではないか』と、若い者たちは怯えている様です。
ここでの『粗相があったりもしものことがあったりした場合に、罰を受ける』は大坂夏の陣の戦後処理もあり、牢人衆の追尾が後々10年以上に亘って行われ、大坂方に与したり内通の疑いのある大名なども改易や自刃に追い込まれていました。
そういう厳しい処分もあり、粗相への処罰を恐れてすっかり若手が近づきにくい環境になっていたのでしょう。
家康さまは神格化され「誰しも神の世話などはしたくないのが道理かも知れない」と阿茶さんが言います。
彼女が家康さまの世話を務め本多親子が見舞いに訪れるのは、一番お側に仕えてきた人たちという面もありますが、家康さまの『神君』ではない人となりを知っているからでしょう。
>阿茶は歳を取らない一方、正信は息子に背負われています。
元和2年(1616年)の時点で天文23年(1554年)生まれの阿茶さんは62歳、天文7年(1538年)生まれ正信さんは78歳です。
彼らは10歳以上の年齢差があり、正信さんは持病の膝痛(若い時分は仮病の様に都合の悪い時だけ出ていましたが)が酷くなったのでしょうか。
長い廊下を息子の正純さんに背負われ、杖をつきやっと家康さまの寝所へ入ります。
この時の本多正純さんの肩衣袴は『真田丸』で本多正信さん役を演じた近藤正臣さんがお召しになっていた衣装ですね。
>女が歳を取らないのは、作り手の趣味でしょうかね。
>姦しいとはまさにこのことでは?
『女が歳を取らないのは、作り手の趣味』
若い時分と比べ、大坂夏の陣の際甲冑の着付けを手伝う阿茶さんの顔には目じりや頬に皺が刻まれ白髪が増えています。
ただ夫の世話をしているだけの阿茶さんが『姦しい(うるさい)』のでしょうか。
貴方は女性がこの世に存在しているだけで疎ましいのですか。
>そして家康が病床につくと、正信が挨拶。
>悪目立ちするBGMを受け、手を握ることでしか表現できないセンスがひどいです。
正信さんは杖をつき寝所へ入ると「大御所様」と呼びますが反応がありません。
反応がないのを見て正信さんは「殿」と呼びかけ家康さまの床の側に座り「儂のような者を信用してくださり深く感謝している。儂もすぐに参ります。まっご迷惑かも知れませんがな。」と話しかけます。
そして正信さんは家康さまの手を取り、「まことにご苦労様でした」と頭を下げます。
すると、家康さまが手を伸ばし、正信さんの手を握りました。
貴方は病が進行し危篤状態になり、床に臥せ手を伸ばす事しかできない状態の人に対して手を握る以外に何をすればいいと思っているのですか。
注目すべきは正信さんの手を握り返す家康さまの場面。
彼の手は特殊メイクにより病に侵され年老いて痩せ筋張った手になっています。
・狸は雑食です?
>「天が遣わした神の君、あるいは狡猾でおそろしい狸!」
>そんな語りも入りますが、狸はしょせん雑食。
>恐ろしいわけがない。
>妖怪狸だってせいぜい、ぶんぶく茶釜ですよね。
>「狡猾でおそろしい」のであれば「奸雄」あたりの言葉ではいけません?
>こんな小中学生でも気づきそうな恥ずかしい言い回しをして、どうして平気な顔をしていられるのか。
退出した正信さんを阿茶さんが案内します。
「天が遣わした神の君・・・あるいは狡猾で恐ろしい狸・・・、いずれも皆から畏れられる人にあらざるものとなってしまわれてた、お幸せだったのでございましょうか」と言います。
正信さんは、「戦無き世を成し、この世の全てを手に入れた・・・が、本当に欲しかった物、ずっと求めていた物は・・・」と言って、寺から聞こえる鐘に手を合わせます。
正信さんは終生熱心な浄土真宗の門徒だったそうなので、主君の往生を願い手を合わせたのでしょう。
『狸親父』とは『年老いてずるがしこい男をののしっていう言葉』です。(精選版 日本国語大辞典)
『狸はしょせん雑食』などと言葉を額面通り取りドヤ顔で『雑食』と言っていますが、生態を知りたいわけではありません。
かつて家康さまは前田利家公に若い者に『大蛇』の様に畏れられていると言われていましたが、兎、虎、狸、大蛇。
家康さまを動物に例えたら鵺ができそうです。
『妖怪狸だってせいぜい、ぶんぶく茶釜』とこれまたドヤ顔で語っていますが狸の民話・伝説は多くあります。
伊予国・松山には天智天皇の御代より狸が住み着き、その松山の狸の総帥が『隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)』です。
天保年間の阿波国では大和屋に務める万吉という者に狸が憑き、その素性を語り始め、『金長(きんちょう)狸』という206歳になる付近の頭株であると名乗ります。
万吉に憑いた金長は、人々の病気を治したり易を見たり大評判となります。
格を持たぬ金長は修行に出て抜群の成績を収めますが修行先とのいさかいから阿波狸合戦と呼ばれる戦に発展する伝説があります。
讃岐八島ではある狸が矢傷で死にかけたところを平重盛公に助けられ、恩義から平家の守護を誓い、その子孫が『太三郎狸(たさぶろうたぬき)』を名乗り平家滅亡後、屋島に住み着き屋島に凶事が起きそうな時屋島寺住職に知らせたため屋島寺の守護神となった伝説があります。
これらの狸伝説は『平成狸合戦ぽんぽこ』に於いても採用されていますね。
>大河ドラマで天下取ったぞ! でも世間には理解されない♪ くすん……とでも言いたいんだろうな。
>本作は、最初から最後まで執拗なナルシシズムが非常に気持ち悪かった。
>不愉快なハラスメント気質の上司に付き合わされたカラオケのよう。
>そんなバカみたいなノリについていける人もいますけど。
>悪徳宦官みたいなムーブは、個人的に近寄りたくありません。
皆から畏れられる人にあらざるものの例えとして阿茶さんは『狡猾でおそろしい狸』と挙げます。
白兎の様にか弱く若い時分は大国の将に囲まれて対峙していた家康さまがいつしか『狡猾で恐ろしい皆から畏れられる人にあらざるものとなった』事を阿茶さんが嘆いているという場面です。
本人が望まずとも、極端な偶像化がたびたび語り継がれ今際の際に於いても『神君』として神格化が図られ、敵や若手からは人外の様に畏れられ忌避される存在となった本来の姿とは乖離した家康さまのどこが『不愉快なハラスメント気質の上司』でしょうか。
・セーブポイントでアイテムを使うと怨霊が出てくるシステム?
>もはや主役が死ぬだけ。
>にもかかわらず執拗に引っ張る展開があまりにもダルい。
そんなに嫌々見ていて「執拗に引っ張る展開があまりにもダルい」と残り放送時間が気になって仕方ないのならそこでテレビを切って金輪際大河ドラマにかかわる事を辞めてしまえば楽になれるんではないですか。
悪徳宦官みたいなムーブは、個人的に近寄りたくないのではないですか。
貴方こそ『世間には理解されない♪ くすん』となっている不愉快なハラスメント気質ではないですか。
>家康は病床で何かを削っているし、放送時間は残り何分なんだ?と、気にしていたら、光が差し込み、襖が開き、マザーセナと松平信康がでてきたぁああ!!!
>やっぱり、やりよった。
病に倒れ余命幾ばくもなくなった家康さまは床に臥せています。
そして元和2(1616)年4月17日。
家康さまは床から出て木彫りの『獏』を彫っています。
すると、伏せていた部屋の上座『武者隠し』と呼ばれる部屋の戸が開き、「もう隠れなくてようございましょう」と瀬名さまと信康さまが現れます。
瀬名さまと信康さまが出てきた場所は襖ではなく『武者隠し』です。
『武者隠し』とは書院造りの帳台構え、またはそれに続く部屋の事で警固の武士を控えさせたといわれます。 (出典 :小学館 デジタル大辞泉)
>あの木彫りはマザーセナを呼ぶアイテムだったんですね。
>セーブポイントでアイテムを使うと、霊を召喚できるシステムを実装しているのが駄作の典型。
獏はゾウの鼻、サイの目、体がクマで、尻尾がウシ、足はトラという龍や麒麟などと同じ『縁起のいい霊獣』『神聖な幻獣』です。
豊臣秀吉公を祀る京都市の豊国神社宝物館には秀吉公の使用と伝えられる『獏御枕』が所蔵されています。
久能山東照宮公式Xによると、『空想上の動物獏は古代中国では金属を食べるという伝説があり戦争が起こると食糧の金属が武器に使われてしまい餓死してしまうそうです。
東照宮の獏の彫刻には平和の使者 獏と共存せよ、平和を維持せよ、との教えが込められている様です。
・マザーセナ教団よ、永遠に?
>他の大河でも、この手の“お迎えが来る”というセンスはありました。
>今さら何の驚きもない。
>あるのは圧倒的なカルト感と姦しさ。
>女優と近づきたい主演が呼んだのか?と、またもや文春砲が頭に浮かんできます。
『圧倒的なカルト感と姦しさ』
女性に対して『姦しい』という表現が好きですね。
もはや女性をカルト化された性的消費する対象で忌み嫌うものとしか見ていないのではないですか。
家康さまが床から出て木彫りの『獏』を彫っていると、伏せていた部屋の上座『武者隠し』と呼ばれる部屋の戸が開き、「もう隠れなくてようございましょう」と瀬名さまと信康さまが現れます。
命日の元和2(1616)年4月17日であり、正信さんが見舞いに来た時には危篤状態で手を握り返す以外できない家康さまが床に座り獏の彫り物をしている時点ですでに夢現の状態に入っていたのかもしれません。
「おまえたち・・・」と戸惑う家康さまの前に瀬名さまと信康さまが座ります。
信康さまが「戦なき世とうとう成し遂げられましたな」と言うと瀬名さまが「私の言ったとおりだったでしょう。成し遂げられるのは殿だと。ご立派なことでございます」と褒めます。
すると廊下から御簾を少し開けて孫の竹千代(のちの3代将軍・家光公)が祖父の部屋を覗いています。
そして信康さまは幼い甥が描いた絵を手ににこやかです。
竹千代が描いたのは切り株に座る白兎の絵でした。
この絵は3代将軍・徳川家光公が描いた『兎図(下)』をオマージュしたものですね。
絵を御用絵師の狩野探幽に学んだとされる家光公はとても味のある絵を多く残しています。
瀬名さまは「あの子があの子のままで生きていける世の中を貴方様がおつくりになったのでしょう。貴方が御生涯をかけて成し遂げたのです。」
瀬名さまは竹千代の本質を見抜いたのでしょう。
彼の絵を見て「存外見抜かれているかもしれませぬな。貴方が狸でもましてや神でもないという事を。」と言います。
竹千代はお福が言って聞かせる『神の君』の話には目もくれず絵を描いていました。
人の手で作られた『神君家康公』の偶像ではなく、生身の家康おじじ様が誰と話しているのか知りたい、どういう人か知りたいという思いが強かったのではないでしょうか。
ここの場面、家康さまは今際の際の夢現をさまよっている可能性がありますが、御簾から部屋を覗き、絵を献じる竹千代は完全に生者の立場で、彼の感受性の高さを表しているのかもしれません。
家光公は祖父の姿を頻繁に夢に見て、その度に姿を幕府御用絵師の狩野探幽に描かせています。
「みんな待っておりますよ私たちの白兎を」と瀬名さまが言うと家康さまは目を閉じました。
そして場面は永禄5年(1562年)の岡崎城、信康さまと織田家から輿入れした五徳さんの祝言の場面に移っていきます。
>文春砲によれば松本さんに対し、有村さんはそっけなかったとか。
>感謝祭にも出ておりません。
>それも納得できる報道が放映日翌日にありました。
また『文春が言うんだから間違いない!』『文春砲の信憑性を増すばかり』ですか。
もう歴史ライターの看板をさっさと下ろしゴシップ専門になればいいのではないですか。
もう文春記事ほとんど誰も気に留めてないと思います。
キャスト配置に対して『強引とも思えるキャスティング』しつこいオマージュ』と叩きながら、いざ自分の思うような出演が無ければ企画やご本人の事情も考えず『文春の信憑性だ』と全く論拠がなさそうな記事を貼り、しつこくわめいているのは誰ですか。
47回ではSnow Man宮館さん、48回ではキンプリ高橋さんですか。
『仲良くさせていただいている』なら別にいいではないですか。
貴方は自分が気に入らないからと論拠のない記事を鵜吞みにして人のいいご縁すらぶち壊すような節度のないひどい人間なのですか。
>「望んでしたことはひとつもない」なんて言いますけれど、側室オーディションなんてノリノリでしたよね。
>蒸し風呂でわいせつ行為に及んだ時も望んでなかった?
>たまたま尻に手が当たったと言い張る痴漢みたいな言い様ですね。
>しみじみと気色悪いんですよ。
政略結婚や正室主導で選ばれ公的に認められた側室とお万さんのような正室の許可を得ず庶子を産んだ女性の扱いの区別が分からず、男女の関わりや子を成して跡継ぎや血縁関係を増やす大名同士の政策すら理解せず、『わいせつ行為!』『気色悪い!』と性的視点でしか見られないのでは歴史を語っても説得力がありません。
お万さんは自身の実家である池鯉鮒神社を再建したいという事もあり、家康さまを浴室で直接誘惑し、子を成します。
しかしこれは浜松の奥向きの中で許される事ではなく、本来側室の許可を出すべき正室の瀬名さまを怒らせ、お万さんは身籠ったまま浜松城を追われます。(同時に家康さまも石川さん・酒井さんに叱られ二人から瀬名さまに報告が行く事態になっていました)
時が経ってしっかりと我が子の於義伊を庶子の立場で育て、豊臣の人質として送ります。
長じて於義伊は結城秀康公となり越前松平家当主となります。
分からないのならアリバイ!マウント取り!などと喚かず調べてきちんとしたレビューで紹介するのが歴史ライターの仕事では。
・どうする柳生十兵衛?
>まともな大河ならば、主役の子役を使い回すところ。
>それをこのマヌケ駄作は、初っ端からデカすぎる竹千代として本役が走り回ったから、それすらできない。
>無計画の極みです。
天文24年(1553年)14歳で元服し弘治3年(1557年)に瀬名さまと結婚します。
回想で兎の木彫りを持ち森を走り回る松平元信(のちの徳川家康)さまを演じる松本さんは40歳ですが、この時の家康さまは13歳の少年です。
また、幼年期の竹千代時代は川口和空さんが演じています。
竹千代時代は子役の川口さん、元服してからは松本さんが演じる予定だったのでしょう。
『鎌倉殿の13人』ではまだ元服前の万寿(源頼家公)を金子大地さん、金剛(北条泰時公)を坂口健太郎さんが演じ、特に10歳の金剛を演じた坂口さんは『成長著しい金剛』と言われました。(テロップ付きでネタにもされましたが)
>もう、この時点で柳生十兵衛を呼んできて欲しい。
>竹千代相手に剣術指導をビシバシとして欲しい。
元和2年(1616年)時点で竹千代(家光公)は12歳です。
柳生宗矩公の子息である柳生十兵衛三厳公は慶長12年(1607年)生まれでこの時10歳です。
元和2年(1616年)10歳で父について2代将軍・秀忠公に謁見し、元和5年(1619年)13歳で竹千代(家光公)の小姓として仕官します。
まだ元服も仕官もしていないのに剣術指導をしろとは?
>結局はマザーセナ教団名物である白ウサギを持ち出します。
『みんなも待っておりますよ、私たちの白兎を」と言う瀬名さまの言葉ですが、この場合の『白兎』は『神君家康公』の偶像ではなくまだ家臣に口うるさく諫言され半べそで逃げ回ったりどうすると自問していた頃の家康さまを指すのでは。
>しかし、死にかけた神のもとに孫も自由に出入りできるんですね。
>そんなゆるい警備だから『柳生一族の陰謀』ラストで、十兵衛が家光を生首にできるんですよ!
>これは夢じゃ、夢でござーーーーーるーーーーーー!
>すみません、錯乱してしまいました。
御簾から部屋を覗き、白兎の絵を献じる竹千代は完全に生者の立場です。
竹千代が描いた切り株に座る白兎の絵は3代将軍・徳川家光公が描いた『兎図』をオマージュしたものです。
家光公は祖父の姿を頻繁に夢に見て、その度に姿を幕府御用絵師の狩野探幽に描かせている逸話があり、神でも狸でもないお爺様の本性を見抜く感受性の高い子という位置づけなのではないでしょうか。
上記で書きましたがこの時竹千代は12歳。
10歳である柳生十兵衛公はまだ小姓として仕官していません。
『柳生一族の陰謀』全く関係ありません。
勝手に歴史の流れに沿っていない本編とも全くかすらない妄想でキレたり悦に入られても困ります。
・鯉、心の底からどうでもいい?
>名前も覚えたくないどうでもいい家臣Aと Bが若君御祝言の日だと言い出す。
>目覚めたら若返っていたという作りが、転生もの漫画のようでいかにも安っぽい。
何見氏は一切ドラマの登場人物を覚える気が無く、逸話も心底どうでもいいと言い放つようないい加減な人間の様ですね。
歴史上の人物や逸話に興味がない、歴史に敬意を払えない質な様なので今後も期待は持てないでしょう。
>そしてどうでもいい鯉の話になる。
>信長から贈られた鯉を木下藤吉郎が運んでくる。
>その大事な鯉をなくしちゃった♪ で、それでドタバタしている。
永禄5年(1562年)の岡崎城、信康さまと織田家から輿入れした五徳さんの祝言の場面に移ります。
眠っていた家康さまを彦さんと七さんが慌ただしい様子で叩き起こします。
2人とも素襖を着けており家康さまはそれを不思議がりますが、信康さまと織田から輿入れしてくる五徳さんの祝言の日だと分かります。
岡崎城内では、皆が忙しそうに立ち働いています。
老年の家康さまが若返ったのではなく、ここでは永禄5年(1562年)の思い出が鮮明に蘇っているのだと思います。
「信長の姫など要らん、祝言など挙げん」と逃げ回るまだ9歳の信康さまを、酒井忠次さんの妻・登与さんや侍女たちが追いかけ、着替えさせようとします。
「姫様はこちらへ向かっておるのか」と家康さまが尋ねますが、彦さんが「のんきなことを言っている場合ではござらん、大変でござる」と青ざめ、七さんは「池の鯉が・・・」と言い淀みます。
その池を泳いでいたはずの鯉は祝儀として織田信長公が贈ったものでした。
美濃攻めの陣中から木下藤吉郎さん(秀吉公)が運んで来た鯉は、『両家の絆と繁栄の証』として信長公自ら選んだものでした。
鯉は大中小の3匹で大が信長公、中が家康さま、一番小さいのが信康さまなのだそうです。
「万が一、鯉の身に何かあったら、そん時ゃあどうなるか・・・わしゃ知らんで・・・気ぃつけや~せ」と真っ黒な瞳で言い髪に挿した花を家康さまに渡します。
「なぜよう見張っておかぬのか!」と家康さまは大慌てし、家臣のいるところを回り鯉を探します。
大久保忠世さんも探しているらしいのですが、忠世さんが差し出したのは、身を捌かれ骨だけになった鯉でした。
誰かが食べてしまったようで、酒井忠次さん、石川数正さんも深刻に受け止めています。
その時渡辺守綱さん(1616年時点でまだ存命です)が入って来て織田の使いの話では花嫁の五徳さんの到着だけでなく信長公も同行しているとの事でした。(ここで挿入される画像が信長公が矢継ぎ早に矢を放つ姿でありなかなか戦闘意欲の高い画力でした)
「贈った鯉を見るのを楽しみになさっているそうで」と守綱さんは言い、いよいよ家康さまは落ち着かなくなり於大さまにも尋ねます。
於大さまは「誰か知っておるか」と侍女たちに尋ねるも、「誰もいなかった」との返答です。
そこには笄が落ちており『本多』と刻まれています。
家康さまは武器庫にいる平八郎さんに尋ねます。(ここではこの時期に存在しない平八郎さんの鹿角脇立兜と黒糸威胴丸具足、小平太さんの黒手時代塗三十二間筋兜と黒糸威二枚胴具足が存在しているのが現実ではない世界の証拠なのではないかと)
夕べは小平太さんと槍の稽古をしていただけであり、「確たる証がある」と、家康さまが笄を差し出しますが、「俺が笄を落とすような間抜けとお思いか」と平八郎さんが答え、小平太さんも「本多家は平八郎だけではござらぬ」とフォローします。
小平太さんから「呑兵衛殿こと忠真叔父上と夏目殿は、夕べ遅くまで酒を飲んでいた」と聞き、彼らに尋ねますが(夏目さんはここでも名前を間違われ訂正しています)夏目さんと忠真叔父上の肴はあぜ豆でした。
忠真叔父上は寝入っており、笄を見せても「水を飲みに行っただけ、わしはもう酒を断ったんじゃ」と七さんと殿を間違えまた寝る始末です。
夏目さんがここで鯉に目がない人物として鳥居忠吉公の名を挙げます。
忠吉公は「いくら自分でもあの宝物を食うたりはいたひまへん、多分」となぜか自信なさげです。
あやふやな態度の忠吉公に家康さまは家臣一同の前で抜刀し成敗しようとします。
織田家中の到着のタイミングで「食うた」と忠吉公が言い、「誰かが首を差し出さねばならぬのならこの老いぼれから」と背中を向け家臣たちは成り行きを見守ります。
結局家康さまは、大事な家臣と鯉を引き換えにできなかったのでした。
酒井さんや石川さんが今後のことを尋ねると「正直に言うしかない。逆鱗に触れたらそんな相手ならこっちから縁組みなど願い下げじゃ」と家康さま。
「では鯉を食うてもお許しくださるのか?」と尋ねる忠吉公に、「鯉は所詮鯉。食うて何が悪い」家康さまは答えます。
家臣たちの緊張がほぐれて笑顔になり、酒井さんが、「そのお言葉待っておりました」と楽し気に言います。
於大さまが「よう申した」と言い、「殿からお許しが出たぞ」と声をかけると侍女たちが鯉の洗いを持って現れます。
登与さんが「これで晴れて鯉が食べられますな」と言い、笑い声に包まれます。
「何が宝物じゃ、ばかばかしい」と平八郎さん。
小平太さんは「信長にこびへつらうならまだしも、信長の鯉にまでへつらっていられるか」、彦さんが「大事にしたってどうせ死ぬんじゃ。さっさと食っちまったほうがええわ」と言います。
実は家臣一同で「ほんの戯れ」で殿を担ぎ上げており、(要はドッキリですね)「お許しを」と夏目さんが謝ります。
「今から信長に謝るのはわしなんじゃぞ」と言う家康さま。
酒井さんは「美濃攻めで忙しくここに来られるはずがない」と告げ、家康さまは安堵し、「主君を一同でからかうとは何という家臣どもじゃ」と言うと「それがひょのと家中のよいところじゃ」と忠吉公が言います。
「あのまま手討ちにしたらどうするつもりだったんじゃ」と家康さまが聞くと「さようなことはなさらぬと信じておりました」と小平太さん。
「皆、殿というお人とそのお心をわかっている」と平八郎さん。
家臣一同が礼を述べ、家康さまは涙を流し床に座って「心より感謝申し上げる」と謝辞を述べます。
その時若いはずの家康さまの表情が老いた家康さまの様に変化し、元和の駿府では年老いた家康さまが座して一礼しています。
その時「お幸せでございますな、殿」と瀬名さまが現れます。
「わしは幸せ者じゃな」と家康さまが涙を流しつつ笑うと老いた家康さまもまた涙を流しつつ座っていたのでした。
>もう腐った鯉を口に詰めて始末したくなる連中だ!
>くそたわけが!
>まさか、本作の光秀を肯定的に思い出してしまうなんて一生の不覚です。
一見美しい花々をちりばめた鯉の洗いですが、(何見氏はこういうのはお嫌いでしょうが美しいです)よく見ると紫の花がありそれは『桔梗』の花です。
まるで腐った魚を料理に出した疑いをかけられ饗応役を罷免される恥をかかされ恨み骨髄だった明智光秀さんを連想する仕様の様ですね。
もちろん捌きたての新鮮な鯉ですが。
>実際に、鯉を食べた家臣をかばった逸話はあるそうです。
>それを素直に流せばよいのに、古臭いセンスで長引かせる。
『鯉のエピソード』は講談『鈴木久三郎 鯉の御意見』にもなっている逸話、江戸中期の兵法家・大道寺友山の著書『岩淵夜話』の逸話です。
鯉を食べ家康公に諫言をした鈴木久三郎は『どうする家康』には登場していません。
於愛さんに話した時は家康さまが笑い転げて話せず、殿を担ぎ上げ軽口も叩ける古の三河武士仕草だらけの楽しかった出来事として、最終話で真相が明かされたのですが。
ここで新規に久三郎を出すと三方ヶ原の身代わりにまで言及する事になり話が散らかってしまいます。
(三方ヶ原の身代わりと言えば夏目さんと忠真叔父上がおり、寝入ってしまう忠真叔父上の傍らに藁の虎の人形がありました)
対比として処分や家康さま自体を恐れ話しかける者は古参のみで『孤独な老いた臨終間際の家康公』を配置していますね。
・教祖を讃えよ!?
>要するに教祖・家康を讃えたいらしい。
>家臣団が蘇ってどんちゃん騒ぎ。
>一体このドラマはなんだったのか?
>結局、アイドルのプロモビデオだったんですかね。
>セットもVFXも、衣装も改めてひどいと思う。
>テンポも悪い。
>長い原作をテキパキとつなげた『大奥』の後に本作を見るのは、ただただ苦行。
苦行なのに48回もずっと繰り返し何度も見て長ったらしいテンポの悪い同じ内容の中傷をただただダラダラと繰り返すだけのレビューを書けてえらかったですね(褒めてません)
家臣団は蘇っていませんよ。
一度亡くなった者が蘇れるはずがないでしょう。
命日の元和2(1616)年4月17日であり、正信さんが見舞いに来た時には危篤状態で手を握り返す以外できない家康さまが床に座り獏の彫り物をしている時点ですでに夢現の状態であったと思います。
家臣に「心より感謝申し上げる」と謝辞を述べ幸せ者を自覚した時点で若かった家康さまの表情がどんどん老いて同じ姿勢で床に座していた時点で命の火が消えたのだと思います。
>ひどいBGMを背景に、かっこつけた家康が死ぬ。
>妙に光があたった状態で死ぬ。
>そしてえびすくい。
>しつけーーーーー!
元和2(1616)年4月17日、孤独な老いた家康公は「わしは幸せ者じゃな」と自覚し涙を流しながら床に座していました。
悪夢を食べる幻獣・獏に誘われ、息子の結婚という人生最良の日を浮かべ、家臣や家族に人の扱いをされた乱世の怪物と渡り合い幸せだった日々を思い出しながら家康さまは逝去します。
享年75歳
岡崎城。
2人の婚礼を祝って、酒井さんが音頭を取りえびすくいが披露されます。
舞う5色の紙吹雪が散華の様です。
酒井家の史書『御世紀』には長篠の決戦を前にして徳川軍の陣中が不安な状況に陥っていた時に、酒井忠次公自らが狂言を披露して家臣たちを笑わせる事で、徳川軍の士気を高めた事が記されています。
戦場では仲間を笑わせ鼓舞し士気を高める役割をし、祝宴では三河武士の芸として舞われたのでしょう。
三河武士の締めくくりとしては最良の芸と思います。
>「なんてよき光景でしょう」
>マザーセナがそう言います。
>遠くに何らかのタワーのような塔とビル群が見える。
>つくづく最低のお遊びでした。
えびすくいの様子を見ながら瀬名さまは「まるで戦などないみたい」と言い、家康さまは「わしが成したいのは今日この日のような世かも知れんな」と言います。
「是非ともあなたが作ってくださいませ」
「わしには無理じゃろう」
「フフ・・・ただの白兎ですものね」
「ハハッそうじゃ。フフフ・・・だが、この者たちを見ていると、いつの日かそんな世が来るような気がするのう」
「まことに・・・」
「わしは信じるぞ。いつかきっと、そんな世が来ると」
「フフ・・・はい」
「いつか、きっと・・・」
濡れ縁で夫婦睦まじく語る2人の目の先には、暁の空が赤く、現代の高層ビルや東京タワーが立つ東京の姿が広がっていました。
東京タワーの立つ芝方面には徳川家の菩提寺・増上寺があります。
>もはや耐えきれず、『首』の予告編を見直しました。
>「さっさと死ねよ」
>「どうせお前、死ぬけどな」
>そう口にする秀吉に同意します。
>本作の口直しには北野映画『首』が最適です。
>駄作はとっとと記憶から焼き消し、次へ向かいましょう。
駄作と罵るような嫌いなものをわざわざ全編48回に渡り見て、禄に歴史事項も調べず、都合の悪い事は紹介もせず。
好きな作品まで意図も考えずに嫌いな作品を罵る材料に使う。
他作品を罵るような意図はないのに勝手に切り取られ利用するとは失礼にもほどがあるのでは。
・七縦七擒?
>しかし、似たようなことを七度やられてもくどいのです。
>なぜ、この話をするのか?
>というと、結局このドラマは同じ話を使いまわしていると気づきました。
>今川氏真。
>武田勝頼。
>織田信長。
>豊臣秀吉。
>石田三成。
>そして茶々と豊臣秀頼。
>全員が、だいたい家康とわかりあっている設定です。
>で、家康は悪くないのに、相手が何かやらかして自滅するように滅びる。そういう同じことの繰り返しよ。
>なぜそうなるかというと、それしかパターンがないのでしょうね。
で、各陣営が徳川軍と関わった戦やそれに至るまでの経緯やなぜその行動に至ったか、貴方は事細かく説明できるでしょうか。
調べるのが面倒化または持論に都合が悪いため『家康は悪くないのに、相手が何かやらかして自滅の繰り返し!それしかパターンがない!』と言い張っているだけでは。
また、『このドラマは同じ話を使いまわしている』と言いますが、貴方は義務教育で教わる同じ事で何度トンチキな叩きを繰り返したでしょうか。
筆の持ち方に至っては6回です。
そしてくどくて面白くもない文春砲。
いい加減訴えられた方が身の為だと思います。
・どういう「コア層」なのか?
>知識や教養、時事問題では、何か価値のあることは言えない。
>そのくせドラマの見当違いな感想、ゴシップの類、どこぞで仕入れた下劣なネタをしゃべりまくることで、自分は世間ずれしていて賢いと主張したいタイプ。
>本作は、そういう層をピンポイントに狙ったということでしょうか?
『ドラマの見当違いな感想、ゴシップの類、どこぞで仕入れた下劣なネタをしゃべりまくることで、自分は世間ずれしていて賢いと主張したい』
貴方の事でしょうか。
間に挟まった『大奥』語りはよい感想だと追うのでぜひ別記事を立ててきちんとした嫌いの者の叩き棒にしないレビューをしてください。
『ハラスメント上司が鼻をほじりながら書いているような不快』な記事を書かないように。
>それがこの『どうする家康』では、ただひたすら下卑ていて汚らしい感情ばかりが目につく。
>ニタニタしながら相手を見下し、マウントを取る時ばかりにリアリティがある。
>たまにいい子ぶりっ子したことを言い出すものの、脚本家が学生時代に面接対策で捻り出したような偽善そのもの。
>心の底からそう思っていないと伝わってくる。
『ニタニタしながら相手を見下し、マウントを取る』と思っているのは貴方だけで実はあなたの行動が透けて見えているだけだと思います。
マウントを取られていると思うならなぜそれ以上にきちんと調べて知見を得て歴史ライターとして誠実に向き合わないのでしょう。
貴方は脚本家の学生時代を知っていて面接対策まで見てきた様に分かるのですか。
・学級委員長をからかいたい心理をどうする?
>脚本家自身の反映なのだとすれば、彼はなんて素晴らしい人なのかと思えました。
>思想として根底にあった朱子学も、理解度がとても高い。
>一本筋が通っている。筆を握り、スッと線を引く。
>そんな端正で爽快感のある美しさがありました。
>けれども、だからこそか。
>『麒麟がくる』をどうしても認めたくない、しつこいアンチが一定数います。
(中略)
>要するにミソジニーだろうと思います。男性が活躍する分野にいる女性を敵視し、やたらと叩く。
>典型的な心理ですね。
>そんなミソジニーの影に「学級委員長タイプのいい子ちゃんw」を嫌う幼稚な心理も伺えます。
朱子学だろうがミソジニーだろうが貴方の自尊心満たすアイテム扱いや叩き棒にされて『Aに比べてBは』をやるから嫌われるんだと思います。
まったくお門違いの記事をくっつけて無理筋で叩こうとし、優越感と被害妄想バリバリの『麒麟』語りするくらいなら別記事を立ててそこでずっと語っていてください。
完全に蛇足です。
>こういう界隈に忖度することがよいことでしょうか?
>ここからの「いいね」欲しさに、無理矢理文章をこねくり回す歴史好きとは何でしょうか?
>歴史ではなく、承認欲求が好きなだけではありませんか。
>私は自分の感情を散々否定されてきました。
他人が松本さんやジャニーズのファンだったり大河ドラマが好きだったりしたところで貴方には関係ない。
干渉してほしくない内心に干渉して否定されたくないならなぜそれをやるのですか。
貴方と他人は同じではないです。
自分が『自分の感情の否定』をされて嫌だったのなら他人の感情を全否定しようとするな。
・匹夫の勇?
>『麒麟がくる』みたいな作品を、偽善だと切り捨てたいのであれば、それこそ『首』のような描き方がある。
>あの映画ほどの残虐描写を大河ドラマで描くことは厳しいとはいえ、やりようはあるでしょう。
何度も言うけども大河ドラマは貴方の自尊心満たすアイテムや叩き棒ではないです。
『Aに比べてBは』をやらないと大河が見られないならまっとうなレビューなんて書けないのでTVを切るか好きな作品に籠っていてください。
正直『どうする家康』レビュー内で長々貴方に『麒麟』や『大奥』や『首』語りされる事は反感を買う元だと思います。
>最終回まで、結局悪の尻拭いは秀忠に押し付けたようなもの。
これで3度目ですが。
何度も気に入らないエピソードで持論展開してでたらめを言い不満を喚けば通ると思っているだけではないですか。
孫娘・千姫の必死の願いに家康さまは揺れています。
それを見た秀忠さまは「将軍として自分が命を下す」と言い、「秀頼には死を申し付ける」と断言します。
上記でも同じことを書きましたが、何見氏は46回レビューで下記の様な事を言っていました。
『秀忠はむしろ千姫を突き放しています。嫁いだからには婚家に殉じろ!と頑なな態度でした。孫娘の悲運が申し訳ない家康が、そんな我が子を抑えながら、千姫救出の手立てを考えています。』と主張しているという事は『大坂夏の陣』で徳川の勝利が決定した時、千姫が夫・豊臣秀頼公と茶々さま、大野治長公などの豊臣家臣の助命を何度も懇願し、家康公が秀忠公の意見を聞き、秀忠さまが助命を拒否したという『駿府記』の逸話を知っているという事になります。
持論展開に不必要なもの、都合の悪い事は例え史料に書かれている事・逸話があるものでも歴史をねえ地曲げてもいいと思っている人が『歴史に敬意を持っていない』と脚本家を罵る資格はないと思います。
・袁術は玉璽を持っても駄目なんだ?
>沈む船から降りた生田斗真さん、岡田准一さん、そして風間俊介さん。
>大河でまた見たい俳優がケジメをつけたことは、私にとって朗報です。
>これからもどうかご活躍ください。大河にもまた戻ってきてください。
ジャニーズ事務所は会社名を変えましたが相変わらず侮蔑の意味で使いたいようですが、何見氏レビュー47回では草彅さんを『辞めジャニ』と罵っており、あまりの二枚舌に驚きます。
『青天を衝け』で徳川慶喜公を演じた草彅さんは2017年事務所を退所されており、今は別事務所に所属しています。
本人が不祥事を起こしたわけでもない、契約が切れているなどですでに事務所を退所している人まで『過去があった、所属しているから有罪』と勝手に法的根拠のないレッテル貼りをしたうえ、ファンまで罪を擦り付けるかのように『推し活有罪』と土足で踏み込んで殴りつけ『ご機嫌取りの主演大河』『辞めジャニ』と侮蔑の言葉で呼びました。
好きな『麒麟がくる』『鎌倉殿の13人』『大奥』にもジャニーズ、歌舞伎、宝塚の俳優さんがおられますが、やはり公平な目で見ることはできないようですね。
・兵形象水?
>光秀については、またも『麒麟がくる』が出てきます。
>一体どれだけ、あの優等生が嫌いなのか。
>宣教師は光秀を貶しているのだから、こちらの方がむしろ近いという。
>それはどうでしょう。
>このドラマの光秀は、下劣で、愚かで、小狡く、死者への敬意すらない。
>どうしてこんなに魅力のない人間を、不惑すぎてから信長はわざわざ重用するのかサッパリ理解できません。
>リアリティがあまりに乏しい。
貴方は『麒麟がくる』の光秀を『堅物で、頑固で、融通がきかない。頼られると損なことでも引き受けてしまう優等生』と上記で評価していたのではないですか。
『ドラマの光秀は、下劣で、愚かで、小狡く、死者への敬意すらない。』と急に叩き始め整合性がありません。
仮に『』の中身が『どうする家康』ならば整合性が取れるのですが。
プロのレビュアーなのだから一度公正をきちんとしてください。
ポルトガル出身の宣教師・ルイスフロイスの『日本史』では明智光秀公に「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」、「裏切りや密会を好む」、「刑を科するに残酷」、「独裁的でもあった」など低評価を下した記述が見られます。(『完訳フロイス日本史』中央公論新社)
フロイスは宣教師という立場なのでキリスト教への態度によって人物を評価している様子が『日本史』の中にも反映されているのではないでしょうか。
>みんなが好きなものはともかく褒めよう、取り入ろう。
>否定する奴はめんどくせー。
>嘲笑ってやる。
>そんな、ことなかれの冷笑主義をこじらせた結果、先回りして忖度する。
>私の見るところ、今年は大物大河クラスタが褒めるモードにいるようです。
>ならば褒める方がイージーなんです。
>紫ハートマーク乱舞させる人々も、味方につきますから。
>そうすると、満足感が得られる。
>いいねも稼げる。
>批判者をクズだと貶める瞬間はとても楽しい。
>ハッピーなことしかありません。
『私はこれまでも、これからも、“ぼっちクソレビュアー”で結構です』
貴方がどれだけ『ぼっちクソレビュアー』だろうが構いませんし自業自得だと思いますが、他人が大好きなものや推しを応援してファンで楽しんでいる所に土足で踏み込んできて、『紫ハートマークが気に入らない!群れるのは、そんなに楽しいことなんか!推し活するな!』と私の気に入らないものは叩くムーブを決めていく、非常に迷惑です。
貴方と他人は全く違います。
・登竜門?
>当時の私は新選組推しなので、ともかくその縁の地巡りをしたくてしかたなかった。
>それが同じ班の一人が、ニヤニヤしながらジャニーズ巡りをしたいと言いだしました。
>修学旅行の意味をわかっているのか?
>学問を修めるという意味があるからこその旅行だぞ!
>そう主張したいものの、新選組巡りなんて「キモっw」とでも言われるだろう。
>そう察しました。
>歴史の本を読んでいると本当に小馬鹿にされる。
>そのことは身に染みてわかっていましたから。
>その苦い思い出の修学旅行を、まさか大河ドラマで思い出すことになろうとは。
>長い歳月を経て、私も言いたいことは山ほど増えましたが、あれ以来、ジャニーズファンとは距離を置いています。
>私が彼らを嫌うというよりも、彼らがこちらを小馬鹿にすることが察知できました。
>むろん全員ではありませんが、ジャニーズファンの方がたは、私の不快感と怒りを刺激する才能をお持ちの方が実に多い。
つまり、学生時代の『縁の地巡りをしたかったのに!ジャニーズ巡りをしたいとか宣ったジャニファンに小馬鹿にされた!
奴らは新選組巡りなんて「キモっw」と思われて小馬鹿にするに違いない!
ジャニーズとファンは不快!』というつまらないルサンチマン拗らせて私怨で推しが出演する大河ドラマを楽しむジャニーズファンだけでなく、ドラマの製作スタッフや出演俳優さん、考証の先生方、歴史好きで詳しい大河クラスタすら誹謗中傷していた事に呆れます。
商業サイトは私怨を垂れ流す場ではないと思いますが。
それも歴史系商業サイトで垂れ流していけないような侮辱や業務妨害の様な暴言を平気で繰り返し流してだれも責任取らないっておかしいでしょ。
自分は大切なものや思いを踏みつけにされて怒るのに、他人を小馬鹿にして侮辱して論拠のない情報で中傷していい理由にならないわ。
>「大河ドラマの記事を書いて金を儲けているくせに、批判するとは何事だ!」
>一体なんなのでしょう。
>批評家の存在意義すら理解できないのか。
>そう苦々しく思ったところで、気付きました。
>相手を罵倒するようで、実は己の与している状況をうっかり明かしてしまったのでは?
>なかなか興味深いことです。
盛大なブーメランでしょうか。
そっくりそのまま貴方にお返しします。
貴方の個人的な恨みを無関係の誰かに責任転嫁しないでください。
※何かを見た氏も『とりあえず、辰年の大河ドラマ『光る君へ』が天翔る竜の加護を得られるよう、神社にでも参拝してきます。』と仰っているので『最高の大河でした。ありがとうございました。』と私はNHKにお礼のメールを入れさせていただきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?
今年1年間、拙いコラムを読んでいただきましてありがとうございました。