俺の家の話(男塾〜バラック小屋時代)

とくになんてことない昔の話なんだけど今考えたら過酷だったと思い出したので書き殴り

大田区の研修施設

かれこれ25年くらい前かな、大学を出て会社員になって上京してきた。

大学時代はだらだら研究室に入り浸って朝から晩までインターネットしてたので(当時昼にインターネットするには学校の回線or市内まで電話してモデムだった)就活全然していなくて、夏くらい?に研究室に遊びにきた先輩に勧められるままにその先輩のいる会社受けて何も考えずサクッと入社。

東京に出られること、ITの仕事ができること、慣れれば転職すりゃ良いやってめちゃくちゃ世の中舐めてたし本当に適当だったな。

いわゆる金融業界でIT部門採用。
営業採用もごちゃまぜで入社即1ヶ月研修施設に缶詰。
それはいいんだけど、知らん人と2人1部屋だった。
学生の頃は日々友達が泊まりにきてた&泊まりに行ってたので全然大丈夫だと思ってたけど、相部屋の奴ととにかく相性悪くて1ヶ月きつかったなあ・・

いや、些細なことなんだけど、そいつはトイレを流さなかった。
大も小も何故か全く流さない。
これ、文化の違い?朝起きて黄色く濁ったトイレを流すことから始まるのまーじキツいし何度かキレても全く改善されなくて、最後イライラで頭おかしくなってたな。

ちなみに金融系で8割型が営業採用だったので研修終わったら告知なく全国各地に散っていくってリアルダーツの旅を目の当たりにしてドン引きした。
東京に暮らしたいって出てきた身としてはあの過酷さは理解できなかった。

さらにちなみに、業界的にめちゃくちゃ離職率高くて就任後半年後研修ですでに辞めた人がチラホラいた。たしか3年で半分も残らないって言ってたな。まあ自分は営業じゃないけどすぐ辞めたし。

そんなこんなで1ヶ月の研修が終わって予定通りIT部門に配属、予定通り杉並区の寮に案内された。

杉並区の寮

今思い返せば東京に出てきて最初に住んだのがここで良かった。
東京の地理を少しづつ理解できたしなんだかんだ会社へは1時間弱で着いたし新宿へも一本で出られるし高校の頃からの友達が隣駅に住んでたし。
ここから本編。

その寮は男塾だった。
200人くらいの都内勤務の若手男性社員が入寮しており1人に与えられた部屋は和室4畳と小さい押し入れのみ。部屋には扉がついてて鍵はかかるけど扉の下が3cmくらい空いてて廊下歩いてる音はまる聞こえだし冬は寒いしおちおちAVなんて見てられない。
そもそも狭すぎてテレビも置けなかった。

ただし家賃は格安、光熱費込みで6000円で30歳半ばまで居られる、それを過ぎたら家賃は爆上げされる、みたいな仕組みだった。
会社としてはとっとと結婚して寮を出ろってメッセージなんだけど家賃高くても居着いてるヌシはいるわけで。

ご飯事情


食堂はみんなの食堂で前日に名簿に⚪︎をつけると朝飯と夕飯を作ってくれる、給与天引き、朝飯150円・夕飯500円とか格安だったな。
なぜか食堂のおばちゃんと娘が寮の中の離れに住んでて毎日ハイカロリーな飯を準備してくれる。
そして飯を前日オーダーする仕組み上、残業やら飲み会で少なからず廃棄が出るので食堂のおばちゃん一家はそれを食べ続けてびっくりするほど体格が良かった。(オブラート表現)
とはいえ極貧だったので住んでる間、食堂にはお世話になった。
マヨネーズとケチャップが使い放題だったので同期と毎日マヨネーズケチャップライスを食ってたな。マヨとケチャップの最強配合を目指してた。

お風呂事情

当然にみんなのお風呂、大浴場。
営業部隊は17時が定時でわりと早く帰ってくる、自分らIT部隊は残業ありだいたい21時過ぎとか?遅い時間に寮に着く。荷物を置いて食堂で飯食って、同期とウダウダ話して風呂に入るころには豚骨スープになっている。
リアルに白濁してちぢれ毛が浮きまくってる湯船、さすがに入るのは無理だったので平日はほぼシャワーのみだった。
そのお風呂が24時まででボイラーがいきなり止まる。シャワー浴びてても急に水になる。ちょっと飲み会あっただけで風呂に入れなかった。
そんな時に編み出したライフハックが「洗面所は24時間お湯が出る」ことを利用して洗面所で全身洗ってシャンプーするってやつ。
24時をすぎると酔っ払った寮生が洗面所に並んで体と頭を洗ってた。

娯楽事情

とにかくプライベートな空間が少なくて食堂でテレビ見るか同期の部屋に集まってダベってたな。
200人くらい人がいるからゴミ捨て場に行けばその日のジャンプは拾えたり(極貧生活)、同じ部署のロン毛の先輩からヤバい本が回ってきたり。
今と違ってフィジカルメディア全盛期、時代を感じる。

サクセスしようぜ①

とにかく待遇が悪くて若手は寮にぶち込んどけって流れだったのでそりゃフラストレーション溜まるよね、寮の先輩方にはマルチ商法が蔓延していた。

とある日、夕飯の時に同じ部署の先輩が話しかけてきた。
「ちょっといい話があるんだけど聞きに来ない?」
その先輩、寮に10年以上住んでるであろう40前半、小太りで低身長で同期から”低空”って呼ばれてた。会社で歩く時常に低空飛行だったからね。

ともあれ低空の部屋にお呼ばれしたら4畳の部屋に二段ベッドが組まれててPCと椅子があり、段ボールがたくさんあった。低空やおら話し始める。

  • このまま勤めてても給料は上がらないよ

  • あくせく働いて自分の時間も取れないよ

  • 早いうちからお金が入ってくるビジネス始めるといいよ

  • 今のうちにがんばって残りの人生楽しもう、サクセスしようぜ

はい、来た来た、これ、マルチじゃん!昔から話だけは聞きがじっていたので大興奮。低空の話を興味津々に聞くふりして全力で聞き出す。

  • Nスキンって化粧品のマルチらしい

  • 自然環境にやさしい化粧品の定期購入を取るとバックがある

  • その人が他の人に定期購入させてもバックがある

  • 低空が化粧品を売ったのは親と親戚のみで毎月数百円のバックがある

  • 毎月化粧品がダースで送られてきて部屋中の段ボールはそれ

噂に聞いてたマルチ商法ど真ん中でニマニマしながら想定問答集のようにヒアリングしまくる。いや入社数ヶ月の若手に得意げに語るなよ、月々数百円で親族売るなよ、そんなことだから低空ってあだ名になるねんで、ってその場ではつっこめない。

だいたい聞き取りが終わり、「考えときまーす」って部屋を後にした。
帰り際に試しに使ってみなよってシャンプーを渡されて、数日間使った後にきっちり4000円を請求された。カツアゲじゃん。
いや、とにかく低空みたいに寮のヌシになってる時点で人生サクセスしてるとは到底言えないし(大失礼!!)、そもそも売ったのは親族のみでどんだけお情けで買ってもろてるねん。
後輩に金たかるなよってボケ思ったけど噂に聞いてたマルチを体感できたので全力でいじる事にシフトしちゃったな。
当たり前に同期に情報共有してしばらく低空をいじる流れができた。とても自然に。

その後、低空に会うたびに「先輩、今日はサクセスしてますか?」って声かけまくって途中から本当に嫌な顔された。
ついに話しかけないでくれって真顔で言われた。
自分を慕ってくれてるはずの後輩から毎日マルチの進捗確認されるの耐えられなかったのかな、知らんけど。

低空が今どうしてるかはわからない、サクセスしてるかな?

サクセスしようぜ②

低空でマルチ商法への免疫ができて会うたびに「サクセスしてる?」っていじり飽きた頃に別の同期から声がかかった。
なんでもそいつの友達にすげー人がいるから会ってみないか、って。
あ、これもアレだなってわくわくしながらアポを取ってもらう。

たしか水道橋のホールだったかな?想定通りにマルチの集会に参加させられた。驚いた事にここもNスキンだった。
同じような洗脳トークが繰り広げられるけど、次はマンツーマンじゃなくて集団相手だ。スピーカーの力量が試される。

  • 自然環境にやさしい化粧品を使うことで地球のためになる

  • 自分の時間をいかに有効に使うかで人生の成功が近づく

  • 時間管理を上手に管理して1日を2倍にするための凄い手帖もある

  • 人脈を活かす事でサクセスできる、成功者も大勢いる

  • 俺はサクセスしててロレックスつけてるし金持ってる

はいはい、同じパターンね。
なぜかセミナーの終わりには拍手が巻き起こり寒すぎて死にそうだった。
ある種思い描いてたマルチ商法のセミナー、これはこれで経験値貯まったって実感もあり。

そんな王道トークに興奮を覚えつつセミナーが終わり個別面談タイム。
ちょっとめんどくさくなって帰ろうとしてたんだけどロビーで捕まってしまい近くのファミレス、ボックスシートへ。大興奮。

ボックスシートの最奥に座らされて化粧品の定期購入しろ、箱で仕入れて売るとサクセスできる、って下級担当者が詰めてくる。
のらりくらりかわしてるとさっきステージで話してた⚪︎⚪︎さんが来てくださるって流れになりロレックスつけてサクセスしてる人が登場してクロージングにかかる。
この時に「凄い手帖」を見せてもらうと1日の24時間に線が引いてて30分刻みで予定が書けるようになってる。なんと1日が48時間になるらしい。
思わず吹き出してしまった。

この手帖が3万円で買えるので一緒に使いましょうってガンガン来るんだけど本当に薄給で極貧だって毎月の手取りが14万程度で明日の飯も食えないって伝えたら残念そうな顔されて勧誘は終わり。
あまりに貧乏でマルチにすら相手にされなかった。悲しいね。

(ちなみに10年後くらいにサクセスしようぜ③があります)

寮を出る事にした

そんなこんなで色々あった男塾、冬のボーナスが出たタイミングで出る事にした。

出る理由はありすぎるけどインターネットがろくに使えないのが一番の問題だった。
寮の部屋には特殊な電話回線しかなくてモデム繋いでも激遅だし電話料金も高い。いやモデムとか電話とか時代すぎる。
早々に転職活動して第二新卒枠狙ってたけどプライバシー無さすぎてそれも難しそう。
なんでもいいから家で自由にインターネット使える環境に移って勉強したかったし転職もしたかった。

とっても薄給極貧なので会社に通える東西線沿線で遠く遠く、最果てに行かないと住める部屋がない。
都内はまず無理、じゃあ遠くならどうかなとコツコツと調べてたどり着いたのが「京成津田沼のバラック小屋」次の章へ続く。

京成津田沼のバラック小屋

冬のボーナスが出たタイミングで部屋を探して不動産屋と契約して正月に実家に帰省して親に保証人になってもらって引越し。
入寮半年で寮を出る前例がなかったりで会社とは揉めた。
あんまり考えずに契約しちゃったし引くに引けないので会社も折れた気がする、どう振り返っても問題児だった。
ただこのまま寮にいてサクセス(笑)する気が全くしなかったのも事実。

ちなみに冬のボーナスといっても当たり前に少なくて毎月切り詰めた貯蓄と合わせてギリ過ごせるかどうかって感じだった。
今となっては無謀だけどあんまり何も考えてなかったな。

引越し先を探す条件として東西線沿線、ある程度広い、インターネットが自由に使えるってよくわからん軸で探してたんだけどちょうど目にした情報に
習志野市のケーブルテレビのインターネット回線が初期費用無料で引ける、月額も安い、回線速度も早くて24時間使える、となってて津田沼の習志野市寄りでケーブル回線が引ける部屋を探し始めた。

地理的に津田沼駅周辺って船橋市なんだよね、かつ家賃も高い。
少しズレると家賃も下がるし習志野市になる、で、コツコツ探して京成津田沼駅のアパートを紹介された。
不動産屋で見た間取りは広めの1K(キッチン6畳と寝室6畳みたいな)収納充実、風呂とトイレも別、ベランダも広い、そして家賃も4万と格安。
もう一瞬で決めますって勢いで実際に内見してみたら、え、農家の納屋の2階??
戦後みたいなバラック小屋で1階には農具とかトラクター置いてる。
2階に2部屋作ってて住めるようになってた。
大家さんはすぐ隣の大きな敷地の大きな家に住んでてとてもやさしい老夫婦だった。この時、不労所得ってのを痛烈に意識した。

寮住まいに夢も希望も見出せなくてバラック小屋での生活が楽しくなりそうってワクワクしたな。

引っ越しの日

独房みたいな寮暮らしでそんなに荷物はないにしても寝具とか着替えとかそれなりの荷物。休みをとって引っ越し便を待つ、ちなみにいちばん安いプランで時間おまかせにして夕方くらいまで何もない寮でポツンと過ごした。
引っ越し屋のにーちゃんがトラックに乗せてくれて何故かレインボーブリッジ渡って千葉方面へ。今思えばサービスしてくれたのかな。

暗くなったくらいにバラック小屋について荷物運び込んで一息。
お風呂の沸かし方も分かんなくておっかなびっくりガスつけて水圧激弱のバランス釜シャワーを浴びて新生活をスタートさせた。

バラック小屋での暮らし

誇張なく木造2階建、下は農家の納屋のバラック小屋だったので今の生活からは想像できないいろんなことがあった。

風呂はバランス釜、温度調節なんて出来なくて水or熱湯が出る。
お風呂入る時は浴槽に水を張って沸かすんだけど居眠りしようものなら浴槽が沸騰する。バラック小屋に3年くらい住んでて数回沸騰させた。
最初に沸騰させた時は釜から汚水と黒い塊が湧いてきてある意味いい掃除になったのかも。

トイレは和式にプラスチックの洋式便座を被せた謎仕様でいちおう洋式??と言っていいのかな。
ちゃんとした風呂とトイレに憧れたなあ。本当に貧乏で貧乏で、それでも金がないなりに楽しむことを覚えた。
トイレはレインボーの電球に変えて異空間にしたり、月に数回は銭湯行ってゆっくり浸かってみたり。

キッチンは普通、ステンレス、2口コンロ、独身用の小さい冷蔵庫を置いてた。自炊も好きだった。
ある日、朝ごはんのスイカのヘタを流しに置きっぱなしで会社に行って夜戻ってきたら暗闇からただならぬ気配が。
部屋中に蟻がいてスイカのヘタにたかっててひいって回れ右、コンビニに殺虫剤を買いに走りゴーストバスターズばりに部屋中の蟻を駆除した。
それ以来ゴミは小分けにしてビニール袋に入れる事が癖ついた。

バラック小屋でもなぜかベランダは広くて2畳くらいかな?雑に鉄骨で組まれてて上にはプラスチックの大きな庇がついてて雨が吹き込まなくなってた。洗濯した服は全部ベランダで干しっぱなしにしてベランダから服を着てた。たまにはベランダに出てビール飲んだり音楽かけたり。
バラック小屋のベランダはクローゼットでありリビングだった。

ケーブルテレビのインターネットは引っ越し前に連絡して契約も済ませて1週間程度で工事終わって回線が来た。
当時としては回線は激速であらゆるダウンロードとかファイル交換とか(時代、、)寮暮らしで途絶えてたインターネットがある生活が復活していちばん嬉しかった。
学生以来ぶりにWEB周りの技術の勉強再開してなんとなく転職への足掛かり作り始めた。

部屋はとにかく寒くて冬に灯油ストーブを導入した。
賃貸木造アパートでNGなんだろうけど大家さんも黙認してくれてた、というか灯油のポリタンクを持って上がってる時に寒くなったねえって声かけてくれたりあんまり分かっていなかったのかも?
冬はストーブで餅焼いたりおでん煮込んだり。洗濯物もよく乾いた。
ちょっと実家みたいな感じで石油の燃える匂いとか火が燃える柔らかい暖かさとか懐かしかった。

津田沼周辺での暮らし

ちょうど高校時代にカメレオン(マガジンのヤンキー漫画)読んでた世代で津田沼を歩くとロケ地?の歩道橋とか駅舎とか、いちいち興奮した。

津田沼と隣駅の船橋はその頃よく遊んだな。

津田沼。
先日閉店したイトーヨーカドーももちろん常連で会社早く終わった日は半額のお惣菜を買い叩いたし屋上のゲームコーナーも知ってる。
ヨーカドーの向かいにあるマルイはその頃まだ元気でマルイカード作ってスパークリングセールで徐々に値下げさせる冬物アパレルを買い叩いて翌月の支払いに追われたり、駅出たところにあるパルコはスタバ出来た時に1ブロック行列ができたの眺めに行ったり、駅南のダイエーはある日銀行強盗があり野次馬に混じって解決まで歩道橋で見守ったり。
駅から少し歩くところにあるなりたけってラーメン屋が好きで当時流行してたちゃっちゃ系のど真ん中、冬場は月一で食べに行ってたな。

船橋。
雨の日は京成線で京成船橋→船橋から東西線→勤務先まで行ってた。
梅もとって立ち食いそばは雨の日ゆで卵サービスなので朝ごはんは梅もとが定番。
総武線の終電で船橋まで来れてそこからタクシー乗り場で待ってた数人で白タク乗って運んでもらったり。金をたかられたら殴って逃げようとか小声で話しつつ、全くもって無事だったけど。

京成大久保。
京成津田沼の隣駅で自転車でも電車でも行きやすいし学生街で過ごしやすくてよく行ってたな。
もうなくなっちゃったジーパンセンターサカイの京成大久保店で学生の頃買えなかったアメカジをよく買ってた。
何の肉かわからんくらい激安の焼き鳥屋で焼き鳥買いまくって家で焼き鳥パーティーしたり、弟が泊まりにきた時は1500食べ放題みたいなもんじゃ屋でもんじゃ初体験して店中湯気でモクモクにしたり小さいヘラの使い方分かってなくて手を火傷したり。関西人にもんじゃはハードル高かった。

ちなみにジーパンセンターサカイは本八幡に本店があると知ってその後何度か買い物したなあ。

京成津田沼。
住んでたから当たり前に地元だったんだけど家から5分圏内に酒が充実しているセブンイレブン・やたら熱い銭湯・激安の焼肉食べ放題・美味くも不味くもないちょうどいい定食屋、あやしげなレンタルビデオ、と一通り暮らすには十分だった。
津田沼から徒歩15分くらいかな?歩ける時はよく歩いてて帰り路のあの空気感、ああもう懐かしい。

転職した話

寮を出てバラック小屋に住み出して半年くらいで転職した。
某大手企業のハウスベンダーでWEBなんでもやれます、ポテンシャル採用、みたいなのに気楽に引っかかった。
仕事場は同じく東西線沿線で最初の会社にも程近いので出勤事情はあんまり変わらなかった。

少しは人並みの給料が出るようになりボーナスも普通に出るようになって少しづつ生活が充実してきた。20台半ばくらい。

最初に入った会社は金融系のシステム子会社に出向って所属で汎用機+COBOL、リールテープでプログラム納品して紙でデバッグみたいな古典的な環境。ぎりぎり新しい技術はOracleとVBAっていわゆるクラサバ環境の走りだったかな。

基本的なコンピューティングについてたくさん勉強させてもらったんだけど流石に会社の花形がCOBOLの勘定系で、これなら早いうちに準第二新卒枠を狙った方がいいと思った。(ゴミ)
ちなみにその会社は他の会社と合併、システム子会社は3回くらい母体が変わって名前も変わってるけど1人だけまだ同期が働いてる。元気にやってそう。

バイクの大型免許をとった話

大学時代は中免でSRをカスタムして乗ってた。当時カフェレーサーってのが流行ってましてね。
就職のタイミングでSRは手放してもっぱらベスパに乗ってた。
近所うろうろするには原チャリは都合よかったし18の夏休みにバイトして買ったベスパ。可愛かったんだよ。
就職のタイミングで上京する時は関西から2日かけてベスパに乗って走ってきた。これはまた別の話。(あんま記憶がない)

ともあれ、社会人になって金ができたら大型免許を取ってでかいバイクに乗るんだと漠然と思ってて、まあ転職してボーナスも少しは出るようになったので津田沼にある教習所に入校した。
少し前に大型免許が免許センターでの一発試験から教習所で実技試験になったタイミングで会社いきながら免許取れるじゃんって気楽に考えてた。

ただ、本当に大型免許取るのは苦労した。
数年ぶりの一本橋もクランクも慣れなかったし、大型バイクはシンプルに重かった。社会人しながら教習所に通うのも時間確保大変だったな。
ともあれ1年弱かな、途中通わなくなってしまって再開してを繰り返しつつなんとか免許取得。
卒研受かったその帰りにすぐ横にあるハーレー売ってるバイク屋でハーレーを契約した。2年ローン。無利子。
(予算の都合で883にしたよ、取り回し良くて乗りやすい!)

千葉ツーリングとか当時始まったばかりのロッキンジャパンのフェスに茨城まで行ったり、がっつり毎日乗るって感じにはできなかったけどハーレは買ってよかったな。

さらばバラック小屋

あんま後先考えないでバイク買っちゃって、もともと乗ってたベスパとハーレーを家に置けないってことが判明して(後で判明するな!!!)、津田沼のバラック小屋はほどなく出ることになる。
引っ越し先はバイク2台置ける家ってなかなか険しい条件だったので引っ越し先を探すのは難航。
それはまた次のお話。
to be continued →

追記 あの頃の家のその後

その後、といっても杉並とか津田沼から離れて10数年後にふと懐かしくなって家を見に行ったことがある。

杉並の男塾はファミリーマンションになってた。
たぶん寮の形式を維持できなくなったんだろう。時代にもそぐわないし。
ネット証券が台頭してきて店舗がある証券会社は大変な時代になった。
あの頃みたいに数百人単位で社員取ってないだろうね、流石に。

津田沼のバラック小屋は跡形もなく綺麗な木造アパートが新築されてた。
一階の農家の納屋も含めて住居になってていわゆる土地活用ってやつだね。
言うて駅から10分かからない立地で条件いいし家賃4万×2部屋のバラック小屋にしておくのはもったいないよ。


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