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心の外側に世界は存在するのか?─唯識無境の教え─

心に「内」も「外」もあるのか

「心の外側の世界」の存在を否定するという教えが仏教にはありまして、これを「唯識無境」と言います。
「ただ、識のみにして、境は無い」ということを言っているのですが、
「識」というのが私たち一人一人の心の営みのことで、「境」というのは「心の外側に存在する」と私たちが思っている世界のことです。
 
「心の外側」という発想が私たちにはありますよね。
というか、心が何かを捉えるという場合、大抵それは「心の外側に存在するもの」と考えているはずです。
今、あなたが見ている端末の画面も、毎日勤めている会社も、いつも顔を合わせている家族も、心の外側に存在するものと考えていないでしょうか。
 
「いや、本当にそうか?実はこれらも心の中の存在なのではないか?」
そう疑ったことはあるでしょうか。
そう疑ってみても本当はいいはずなのです。
今、心の外側を見ているのか?
もしかして、心の内側を見ているのか?
そもそも心に外側も内側もあるのか?
改めてそういうことを考えてみたら、確証が持てなくなってこないでしょうか。
今あげた疑問に自信を持って答えられる人は、実は誰もいないはずなのです。
 
実のところ、「心」と「世界」の区別は非常に曖昧なのです。
曖昧なままで、心も次々と展開してゆき、それに伴ってこの世界も展開してゆき、私たちの日常は繰り広げられているのです。
 
しかし、その曖昧さも起きて然るべき疑問も、いつしか置き去りにしてしまい、私たちは明確に「心の外」と「心の内」とを分けて、「心の内側」と「心の外側の世界」とが、別個独立して存在するものと考え、その前提であらゆる思考を働かせるようになっているのです。
つまり、「心」と「外界」とが対立構造を持って存在する。そんな世界観で生きているというわけです。

すでに歪められた世界に没入している?

このように、「心」と「外界」とが分けられて、それぞれが独立した実体を持って存在すると考えられた世界観を仏教の言葉で「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」と言います。
「遍計(へんげ)」は「遍く計らう」ということで、遍く全てに対して計らいを為して、この世界を自分勝手に解釈しているということです。
心の内側と外側に明確な区別があって、それぞれが独立した実体を持っているという私たちの考えはまさに「遍計」と言われるものです。
そのような解釈によって、心の外側に確固とした実体を持って存在すると考えられた、「家庭」や「会社」や「学校」や「社会」などは、いずれも執着の対象となってしまいますから、それを「所執性(しょしゅうしょう)」と言われます。
この「所」というのは受け身を表す言葉で、執着「される」ということを意味します。つまり執着の対象となるということです。
執着を受ける対象として、あらゆるものを心の外側の存在として私たちは見ているということです。
 
執着というのは実にままならないものですよね。
心が極めて不自由になってしまうのが「執着」という状態と言えます。心が色々なものに縛られて、思考が極めて狭まってしまうことになってしまうのです。
いわば「極端思考」に陥ってしまうのが執着なのです。
一度、会社を「嫌なものだ」と考え始めたら、その考えに何もかも支配されてしまいます。
よく、日曜日の夕方になると気持ちが憂鬱になると言いますよね。
これは週末が休みの人の場合ですが、まだ日曜日ですから別に会社にいるわけではないのです。会社から電話がかかってきているわけでもない。メールが届いているわけでもない。
何も思考をそこに縛られる必要はない、ただ、今の休日の時間を楽しんで過ごせば良いわけですよね。そんなことは百も承知なのですが、それでも心に影を落としてしまうのです。
「月曜から会社に行かなければいけない」
この強迫観念が、今の楽しみに影を落としてしまう。
「そんなこと、今は考えなくていいじゃないか」
と言ったって、考えずにいられない。それは心がそこに縛られ、支配されてしまっているわけですね。
これは、職場がひどいブラックで、人間関係もギスギスしていて、仕事も苦痛を伴うというような場合に限らないのですね。
それなりにやりがいを感じられる場面や楽しく同僚とおしゃべりするような場面があるような職場でも、「会社で働く時間は嫌なもの」という観念に少なからず心が縛られてしまうわけです。
考えてみれば、色々と損しているわけですよね。
会社で過ごす時間に、本当はいくらでも価値を見出す余地があっても、ことごとく「早く終わってほしい」と耐える時間にしてしまう。
休日を目一杯楽しめばいいのに、「会社に行かなきゃ」という強迫観念に心が支配されてしまう。
このように、心が縛られて不自由になってしまう状態が「執着」と言われる人間の惑いなのですね。
良くも悪くも、心が極端に陥って束縛されてしまう。
それが会社に対しても家庭に対しても物に対してもお金に対しても人に対しても、同様の状態に陥ってしまうわけです。

どうしてこのような執着に陥るのかといえば、それはあらゆるものを「心の外側の存在」として独立化し、実体化させてしまったからなのです。
実体化された対象にこそ執着が向けられて、それらに心が縛られてしまう。
そのような執着の対象となる世界を「遍計所執性」と言われるわけですね。

「無明」の自覚から自由への歩みが始まる

このような「執着」という状態に陥ることを仏教は戒めるわけですが、それは「ただ執着するな」と言うばかりではどうしようもないのですね。
「するな」と言われてしなくなるなら苦労はないですよね。
「心が囚われるまい」と思っても囚われてしまうものなのです。
嫌な人のことなんて考えるまいと思っても、考えずにいられない。
そういう抗い難いものが執着です。
その執着を「するまい、するまい」と考えても余計にドツボにハマってしまうばかりですよね。
 
仏教は、そもそも執着の対象となるような世界を、自らの計らいによって作ってしまっていることを問題にするのです。
それが先ほど述べました「遍計所執性」です。
自ら計らい、勝手に解釈してしまい、執着の対象となるような世界を作ってしまっている。
この「計らい」という惑いを問題にせねばならないのです。
人間には共通して、そのような歪めた世界観を作ってしまうという惑いがあるということです。
 
どうして私たちは、こんな風に世界を解釈して歪めてしまい、執着の対象としてしまうのでしょうか。

その根本原因を仏教では「無明」と言われます。
これは、「本来の世界の真相を知らない」という、人間の根本的な無知のことを言います。
「無明」とは暗いということであり、知らないと言うことです。ですから「無知」と言い換えられます。
別にこれは私たちを馬鹿にしているわけではありません。人間が普遍的に抱えている根本的な、世界の真相に対する無知を浮き彫りにしているのです。
最初に述べました通り、私たちにとっては世界の姿も心の姿もあまりに曖昧で、曖昧なまま展開してゆき、その真相も仕組みも知らずに振り回され、流されているような状態なのですね。
そのような無明の中にあって、世界の真相を知り得ない。
知り得ないから、計らいにより安易に作り上げた「心」と「外界」という構造に心の拠り所と見出そうとしてしまうのです。
 
もし世界の真相を明確に知っていたならば、それが何よりの拠り所となるのです。
ですが無明であるために、その拠り所が失われているような状態なのです。
だから、無明の中で計らって作られた遍計所執性の世界にしがみつかざるを得ないのです。
 
この現状を受け入れるかどうか。それがここで問われてくるのです。
 
「本当は、世界の真相に対して曖昧で、世界がどんな姿をしているのかを知らずにいる」
この自らの根本的な無知をいかに受け入れられるかが問われていると言えます。
「心」と「外界」との対立構造をなす世界観が、実は自分の計らいで作り上げた観念上の産物に過ぎないことを自覚できるかが問われているわけです。
この自覚から、世界の真相を知るための歩みが始まるのです。
 
世界の真相は、この「心」と「外界」の対立構造に囚われているうちは想像もつかないような様相を呈しており、仏教ではそれを「唯識」と説き明かされています。
 
「世界はただ識のみにして、外界は存在しない。」
最初に紹介しました「唯識無境」という仏教の教えです。
 
ここで「識」と呼ばれる私たちの心の営みは、「外側」や「内側」という線を引くような実体を持つ存在ではなく、今のこの一瞬に「起きてくる」ものだと言えるものです。
この文章を読まれているあなたに、今まさに「起きている」働きが、「識」であり心の営みです。
そういう今の現実に素朴に向き合うと、実体を持って存在し、外と内と線を引いているような固定した心など、どこにも存在しないことに気が付きます。
ただ、一瞬ごとに、新たに起きてくる「認識」とも言うべき心の営み、すなわち「識」の作用が、連続的に相続しているだけのことなのです。
 
このような認識作用の連続のことを、「識の転変」と言われます。
「転」も「変」も変化してゆくということです。刹那ごとに、新たに起きてくるということです。
 
この識の転変によって作られてゆく自己と世界の仕組みを詳しく解明されている学問が「唯識」と言う学問です。
このような学びを深めることは、ただ知的好奇心を満たすだけではなく、遍計所執性に陥ってあらゆるものに心が縛られてしまう不自由な生活を根本的に変えてゆく足掛かりを得ることとなるでしょう。

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