見出し画像

芳春、初単著!静かに心揺さぶる怪奇恐怖譚『実話怪談 怨環』著者コメント・試し読み

静かに心揺さぶる、聞き書き実話怪談。

内容・あらすじ

「禍いは、とても美しい姿をしているの。
だから魅入られてはいけない」

人魚を見たという女性。
井戸の底を揺蕩うそれは、恐ろしき凶兆だった…
「人魚」より

子供の頃に見た忘れられない街の景色。だが、再び訪れるとそこは墓場で…「景色」
酒蔵が神社に奉納する酒を選ぶ秘儀。酒樽に耳をつけると歌が聞こえてきて…「歌声」
行き止まりの道の先が見えてしまう少年。行って確かめてみたい衝動にかられるが…「行先」
水音を流しながら見えない何かに質問して録音する交霊実験。すると奇妙な声が…「名前」
喧嘩した兄弟。やがて兄はある夢を見始め、弟は不眠に。奇妙な符合の真相は…「監視」
突然家にやってきた従兄。黒子の位置に違和感が…「偽者」
椿柄の着物に異様な執着を持つ女性。祖父の遺品整理でその理由が…「振袖」
幼い頃に人魚を見たという女性。以後恐ろしいことが…「人魚」
錫杖を持った不吉な僧侶の影。父も祖父も僧侶の祟りによって死んだというのだが…「怨環」
ほか、魂に深く食い込む珠玉の35話収録!

著者コメント

視界の端に人影が映る。
あれ、と思って直視するとそこには誰もいない。
そういう経験は誰しもに少なからずあるのではないでしょうか。
大抵は「気の所為」で終わってしまう日常の些細な出来事が、時として説明のつかない不思議や身の毛もよだつような悍ましい怪異に繋がってしまう──。
そんな怪しい日常の狭間に巻き込まれてしまった人々の「奇」の物語が、残暑に落ちる陰となりますことを願っております。

試し読み1話

振袖

 それは、黒地に紅白の椿の柄をあしらった正絹の振袖だった。
 葯と花糸の部分を金糸の刺繍で表した大きな椿の花が、宵闇の中で幾つも咲き乱れているようなその振袖に、優美子さんは一目で心を奪われた。
 あれを着ていたのは誰だったか――。少女の頃、祖父の家で見た光景が、いつまでも瞼の裏に焼きついて離れなかった。
 私も大きくなったら、ああいう綺麗な椿の振袖を着せてもらおう。
 幼い優美子さんのささやかな憧れは、やがて強い執着となって蟠った。
 七五三、卒業式、成人式。友人の結婚式。
 ことあるごとに、優美子さんは黒地に椿の柄の振袖が着たいと言い募った。
 母親はそのたびに幽霊でも見たような蒼い顔をして、縁起が悪いから駄目だと言った。
 普段は聞き分けの良い優美子さんが、椿柄の振袖のことになると人が変わったように駄々をこね、大人になっても泣き叫んだ。
 普段は何とも思わないのに、時々どうしようもなく恋しくなる。
 着たくて着たくて堪らなくなる。そうなると、我を忘れてしまうのだ。自分でも何故こんなに椿柄の振袖に執着するのか不思議だったし、常軌を逸した執着に怯えもした。
 数年前の暮れに、母方の祖父が亡くなった。卒寿を超えての大往生だった。
 一人娘の母は、祖父の言いつけで家を継がずに外へ嫁いだ。
 祖父は常々、自分の死後は先祖代々住み繋いだ家を壊して更地にするよう母に言い含めていた。この家は自分の代で終わり。それが祖父の口癖だった。
 正月明け、遺品整理の為に優美子さんは母親とともに祖父の家を訪れた。
 祖父の使っていた部屋でアルバムや小物を整理していると、思い出話がぽつりぽつりと溢れてくる。優美子さんの脳裡に、またあの椿柄の振袖のことが過った。
「――そういえば、あの女の人誰だったん?」
 優美子さんが幼い頃、お正月は親類や祖父の友人などがこの家に集まって賑やかにしていたものだ。
 その中に、鮮やかな紅白の椿の柄の振袖を着た若い女性がいた。あの人の着ていた振袖が欲しい――。
 抗い難い欲求が、どんどん優美子さんを支配していく。
「あの人が着てた振袖、この家の何処かにあるんじゃないんかね? ちょっと探してみる。もし見つけたら私が貰ってもいいよね」
 不穏な優美子さんの様子に、母親が顔を顰めた。
「……あんたまた何言い出すん? 椿の振袖なんて着てる人はいなかったよ。大体長くおじいちゃん一人で住んでた家に、そんな振袖がある訳ないがね」
「確かに振袖を着た人がいたんだってば。黒地の振袖ですごく華やかなん。私、絶対にああいう着物を着るんだってそう思ったもの。あれはまだこの家にあるはずだよ」
 食い下がる優美子さんに、母親はますます眉間の皺を深くする。
 その表情を見ると、無性に腹立だしい気持ちになった。
「……七五三のときも成人式のときも、縁起が悪いって着せてくれなかったよね。私ずっと着たかったのに、椿の柄」
「今更そんなこと言っても仕方ないがね。一体どうしたん」
 母親に嗜められて、優美子さんは黙った。
 思えば昔から、あの女性が着ていた椿の振袖に強く惹かれていた。
 同じような椿柄の振袖が着たいと何度も訴えたが、苦い顔をした母親に駄目だと諭された。過去の苛立ちがまた燻ってきて、優美子さんは祖父の部屋を飛び出して階下に下りた。
 古い日本家屋のメインは、庭に面した二間続きの広い和室だ。
 優美子さんは、その和室に入って座り込むと溜め息を吐いた。
 立てた膝の間に顔を埋めて目を閉じると、かつての賑やかな正月の光景が蘇ってくる。
 幼い日、祖父の家に集まった親類や友人達の中に確かに椿柄の振袖を着た女性がいた。
 黒地にふんわりと丸い紅白の椿が花開いた美しい着物。
 その振袖に見惚れていた優美子さんは、立ち上がって和室を出ていく女性の後をついて行ったのだ。
 親類達が集まっている二間続きの和室の横の広縁を渡り、左手に折れると玄関に繋がる廊下がある。
 その廊下の右手側に、四畳間が一つあった。意匠を凝らした化粧梁のある畳敷の部屋は、祖父の母――つまり優美子さんの曽祖母が生前使っていた部屋だった。
 振袖の女性はその部屋に入っていく。優美子さんも続いて中に入る。
 襖を開けた瞬間、鮮やかな椿の花模様が目に飛び込んできた。
 ハンガーにかけられた振袖が、蝶のようにひらひらと揺れている。
 ――あれ、変だな。
 思い出を振り返っていた優美子さんは、おかしなことに気付いた。
 自分は、椿の振袖を着た女性を追って四畳間に入ったのだ。
 女性が着ていた振袖が、ハンガーにかかっているはずがない。
 そもそも着物をハンガーにかけるのも妙な気がした。
 記憶違い? しかし大きな椿の柄の入った袖と裾が揺れている印象があまりにも強い。
 ――振袖を着た人なんていなかったよ。
 母の言葉が、不意に耳朶を掠めた。
 ……本当に誰も振袖を着ていなかったのなら、私が見た女の人は誰?
 衣擦れの音がして、優美子さんははっと顔を上げた。
 二間続きの和室の横にある広縁を、誰かが歩いている。
「……お母さん?」
 優美子さんの呼びかけに、返事はなかった。
 祖父が亡くなってから、この家には誰も住んでいない。
 今家の中にいるのは、祖父の遺品を整理しに来た自分と母親だけのはずだ。そして母親なら、優美子さんの呼びかけに必ず返事をする。
 古い板張りの床が軋んでいる。誰かが歩いてくる。
 和室と広縁を隔てるのは、下半分が硝子張りになった雪見障子だ。
 優美子さんは息を呑んで、雪見障子を見詰めた。
 ゆっくりと現れたのは、あの振袖だった。
 黒地に紅白の椿の柄。
 優美子さんは振袖を着た何者かが広縁を通り過ぎるのを、声も出せずに見送った。衣擦れの音と微かな足音が響いている。
 振袖の誰かは、曽祖母の四畳間に向かっているようだった。
 優美子さんは意を決して立ち上がると、広縁に出て四畳間に向かった。
 優美子さんは引き手に指をかけると深呼吸をして開け放った。
「――っ、いやああああっ!!」
 刹那、優美子さんは絶叫した。
 化粧梁に帯締めをかけて、長い黒髪を振り乱した若い女が首を吊っていた。大輪の椿を咲かせた袖と裾が、ゆらゆらと揺れている。
 ハンガーにかかってたんじゃなかった……!
 その場にへたり込んで頭を抱えた優美子さんは、幼い頃にこの部屋で見た揺れる振袖の正体に気付いた。
 全身が総毛だち、恐ろしさにぶわりと冷汗が滲む。
「ちょっとどうしたん!?」
 母親に声をかけられて、我に返った。
 まだ二階の祖父の部屋で掃除を続けていた母は、階下から響いた娘の尋常ならざる悲鳴に驚いて駆け付けた。
「――あ、あれ、あの女の人!」
「何? 何もないがね、よしてよ」
 母親に縋り付いて四畳間を指さした優美子さんは、狼狽える母の言葉に恐る恐る振り返った。
 西日の差す畳敷の小さな部屋には、首を吊った振袖の女などいない。
 部屋の奥に設えられた掃出窓の向こうに、たわわに赤い花をつけた椿の木が並んでいた。
「私、今見たの! 本当に見たの! そこの梁に首括った女の人が……」
 半狂乱になって訴える優美子さんに、母親も震えながらこんなことを言った。
「……あんたが見たの、きっとひいおばあちゃんだよ……あんたの執着が怖くて言えなかったんだけど」
 優美子さんの曽祖母は若くして亡くなった。その死因が縊死であることを、優美子さんは母から聞いて初めて知った。
 曽祖父は家業の養蚕を盛り立てて、家を栄えさせた。商才はあったが、女癖が悪かった。
 親の勧めで曽祖母を嫁に迎えた後も、外に妾を置いてそちらに入り浸りの生活だったそうだ。
「親に無理矢理添わされた嫁なんかには興味がなかったんかしらね……ひいおばあちゃんがお嫁に来るときに着てきた花嫁衣装の振袖も、ひいおじいちゃんがお妾さんにあげちゃったって言うんだから」
 そう言うと母親は一枚の古い写真を見せた。
 曽祖父母の婚礼のときに撮られたものが、一枚だけ祖父のアルバムに残っていたらしい。
 曽祖父の顔は、墨で塗り潰されていた。祖父がやったのだという。
「……この着物」
 曽祖母の着ている着物は、椿の柄だった。白黒だが、優美子さんには元の色が鮮明にわかった。黒地に、鮮やかな紅と白。
 曽祖母の振袖は、曽祖父が勝手に持ち出して妾に下げ渡してしまった。
「……悔しかったんだろうねぇ、ひいおばあちゃんは。嫁入り衣装まで他の女に渡しちゃう夫の家で一人で子供を育ててさ。きっとその振袖の代わりに、庭に椿を植えたんだいね」
 母親は、写真の中の曽祖母の顔を労るように指で撫でた。
 結局、妾が早くに病死した為曽祖父は渋々家に帰ってきた。
 椿の振袖も曽祖母の元に戻ってきたが、それから間もなく彼女は首を吊って命を絶った。
 件の振袖を身に纏って。
 正月三が日のことだという。
「……振袖はどうなったん?」
「昔は亡くなった人には経帷か子着せるから、振袖は脱がしたんだって……まあ一度妾に渡ったものを一緒に棺に入れるのもね……ひいおばあちゃんのお葬式の後、お寺に持っていってお焚き上げしてもらったって聞いたよ」
 だからもう、この世にないんさ。
 母親がそう言った瞬間、強い風が吹いて窓硝子がガタガタと音を立てた。空っ風と呼ばれる、この地域特有の突風だ。
 優美子さんが庭を見遣ると、まるで嵐の後のように曽祖母が植えた椿の花が全て落ちていた。
「……何これ……こんなことってあるん?」
 血のように点々と地に落ちた赤い花を見て、母親が呆然と呟いた。
 優美子さんは、椿柄の振袖への執着から覚めた。
 曽祖父の写真を墨で塗り潰した祖父は、生まれ育った家を嫌っていた。それでも跡取りとしての役目を果たし、曽祖母が亡くなった正月には多くの人を呼び賑やかに過ごした。
 もしかしたら優美子さんの祖父は、孤独を抱えて自死した自分の母親を少しでも慰めたかったのかもしれない。

祖父の家は、祖父の遺言の通りに取り壊して更地にした。
 今では駐車場になっているという。

ー了ー

朗読動画

近日公開

著者紹介

芳春 Hou Syun

湘南在住の柴犬愛好家。金魚鑑賞と住宅展示場で建材を眺めるのが趣味。
大学時代に民俗学を齧り、フィールドワークで各地の伝承や風習を聞いて回ったことがきっかけで怪談蒐集に
興味を持つようになる。
以来前向きに生きる為の糧になるような、不思議な実話を集めている。

好評既刊