この世の悍ましきと忌まわしきを煮詰めに煮詰めた禍事怪談『怪奇異聞帖 地獄ねぐら』著者コメント&収録話「山神」全文掲載
「あいつ、たった四日で真っ黒に溶けちまいました」
古墳から出てきた勾玉。
盗んだ作業員を襲う恐るべき呪いとは?
「黒汁」より
あらすじ・内容
人柱の家、廃墟の座敷牢、全室事故物件のアパート…
禍々しさが炸裂する最凶怪談!
この世の悍ましきもの、忌まわしきものを限界まで煮詰めた地獄の怪談集。
・顧客の家に突如飾られた油絵。左耳を手で覆う少女の絵だが、以降住人の耳に異変が…「玄関先」
・秘密の地下室があると聞いて忍び込んだ廃墟。隠し階段の奥にあった座敷牢と謎の水場は…「廃墟の地下室」
・民俗学の調査を兼ねて訪れた祖父母の家。妙に冷える畳が気になって調べると裏にびっしりお札が…「お札の部屋」
・建築作業中に発見された古墳。副葬品の勾玉を盗んだ作業員の行く末…「黒汁」
・怪我人が続出する古民家の解体。開かずの間の大黒柱の下には注連縄と骨が…「贄の柱」
他、抗えぬ負の魔力に酔いしれたし。
著者コメント
1話試し読み
山神
ブレーキをメンテナンスされていない自転車が、キーキーと音を立てながら頭の中をぐるぐると何周もしている。
何て騒がしいんだ。今すぐその金属の軋む音を止めてくれ。機械油を注すくらいできるだろう――いや、こんな山の中を自転車が走っているはずはない。きっと猿のようなものが音を真似ているのだ。
意識が戻ると、葉山さんの全身は熱に包まれていた。
――夢だったのか。
どこもかしこも痛い。寒気もある。多分熱が三十八度を超えている。だるいを通り越してつらい。立ち上がることもできない。
周囲は真っ暗だ。すぐ近くの叢から、盛大に虫の声が響いてくる。夏の終わりだが、山
では季節が足早に巡っていく。
あのとき、水の流れに飛び込んだのは間違いだったのだろうか。それとも逃げ切ることができたのだろうか。
朝早くから出かけた趣味の山歩きで道に迷った。自分の感覚では、山深くまで分け入ったとは思えなかった。ただ、予定していたハイキングのルートからいつの間にか外れていたようで、気が付くと暗い木々の底で途方に暮れていた。
慣れた山だからと、気を抜きすぎていた。
迷ったら今来た道を戻れば良いという単純な話なのだが、山の中ではなかなかそれが難しい。
あちら側から見た光景と、こちら側から見た光景も違うし、光の加減でまるで風景が違って見えてしまう。特に植林された杉林は、似たようなまっすぐな木立が並んでいて、方向感覚が狂わされる。
迷宮の中に一人取り残されたようなものだ。
――こちらだろうか、それともあちらだろうか。
いや、迷って適当に進むのは不味い。
その時々で気まぐれで判断を変えていたら、辿り着けるところにも辿り着けなくなる。
たとえ遠回りだったとしても、愚直に尾根を目指すべきなのだ。そうすれば、必ず登山道か何かに辿り着ける。
ただ、それを行うための携行食は心許なく、山の奥には熊も出る。
熊に遭ってしまったら――。
過去の熊災害の報道を思い出し、心が萎えていく。
だが、ここで立ち止まっていても、状況が良くなることはない。
絶望感を引きずりながら、それでも杉の間を注意深く歩いていく。何処かで人が立ち入った痕跡が見つけられれば、それを辿って林道まで出られるかもしれない。その希望に縋りつきながら、とにかく前へ前へと進んでいく。植林されているのだから、人が足を踏み入れているのは確実なのだ。だから、ここはまだ人間の領域で、人里の延長に当たる。
そう自分に言い聞かせる。
まだ時刻は昼過ぎだが、森の底は暗い。
セオリー通りに尾根に向かって歩いているつもりだったが、恐らく蛇行し続けて、想定しているよりも、更に山深いところにまで来てしまっている。
沢があれば、それを辿っていくこともできるのだが――。
葉山さんはそのとき、視線のようなものを感じた。
山の中で気を張り詰めながら過ごしていると、見られているという感覚に敏感になるのだろう。
猿か何かだろうか。それとも鳥か?
どちらにしろ禽獣の視線に違いない。
頭を上げて周囲を観察すると、一際太い杉の根元にそれがいた。正確には、いた、というのは誤りだ。最初は何かが置かれているように思えた。それの半分程を苔が覆っていたからだ。
大きさとしては、ボーリングのボールほどだろうか。
そんな丸いものが五つ連なっている。植物の根が偶然そのような形になったのかとも思ったが、興味を持って観察すると、それは石造りの顔だということが分かった。
お地蔵さんの頭部のようなものだ。それが連なっている。
人工物だ。
良かった。これで助かる。
葉山さんは、まずそう考えた。
誰がこんなものを置いたのだろう。かつては何かの信仰があったのかもしれない。
過去にこの石仏のようなものが信仰を得ていたとするならば、必ず近くに道、又は集落の跡があるはずだ。
どちらにしろ、山から抜け出すためのルートを得るためのヒントぐらいにはなるだろう。
集落の跡であれば、屋根さえあれば、最悪雨が降っても一晩過ごすこともできるかもしれない。
もう少し高いところから地形を見てみたい。彼はそう思って足を踏み出した。
すると、背後でガサと落ち葉を踏むような音が聞こえた。
野生動物だろうか。猪、ましてや熊などがいたとしたら――。
全身から汗が噴き出る。
慌てて振り返ると、先ほどの石仏から何本もの、細くて真っ黒な腕のようなものが生え
ていた。
まるで蜘蛛かザトウムシかのような細い腕だが、それがうねうねと動いている。そして、その先には、幼児ほどの大きさの人間の手が付いている。それが、握ったり開いたりを繰り返している。
蟲の集合体にしたって、大きさが尋常ではない。
その悍ましさに、葉山さんは慌てて踵を返した。
この場から早く立ち去らないと。
ただ、それを見た瞬間に禍々しさに意識を持っていかれそうになったのだ。
逃げないと。逃げないと。
足を踏み出せ。前に前に。
背後からは何かが近付いてくる気配が伝わってくる。
何故かその正体を確認したいという気持ちが湧き出した。確認を取りたいが、先ほどの石仏の頭に腕が生えたものが追いかけてきているのだとしたら、それはこの世のものではないだろう。
山には人智を超えた何かがいる。何かがいるのは理解している。
それに関わりを持ってはいけない。
だが、見たい。どうしても確認したい。知りたい。
そう思う理由はよく分からない。一目散に逃げ出したのに、何故こんなにも惹かれるのか。
転ばないように、足を挫かないようにと注意を払いながら足早に進んでいく。
その途中で、かつて自分を山歩きに誘ってくれた老ハイカーが繰り返し教えてくれた言葉を思い出した。
山からすれば、こっちが異物だ。だから、関わりを持とうとするな。見ようとするな。知ろうとするな。
その言葉はもっともだと思う。思うのだが――。
葉山さんは、欲望に打ち勝てなかった。
立ち止まって、振り返る。
振り返ると、五つの頭と目が合った。まるで糸を通した数珠のように全て連なっており、それが横一列になってこちらを見ている。全ての頭部から腕が生えており、それで地面を這いずっている。
ただ、苔むしていた頭部は、今やどれも暗褐色をしており、先ほどの何処か平穏ささえ感じられた石仏のような印象とはまるで違っていた。
しかもその全ての顔が邪悪な笑みを浮かべている。
釣り上がった口角、下がって皺のよった目じりから、残忍な愉悦が伝わってくる。
――捕まったら食われる。
葉山さんは恐怖に飲まれ、泣き出しそうになった。
欲望に打ち勝てなかったことを、こんなに後悔したことはない。
今なら熊に出くわしたほうがまだマシだ。そのほうがまだ納得できる。
あんな得体の知れないものに生きたまま腑を貪り食われるのは嫌だ。
せめて――逃げねば。
もう夜が近付いてきていた。上空を見上げれば、夕焼けに色が染まり始めた青空が見えるが、足元は真っ暗だ。
さく、さく、さく。
背後に張り付くようにして、あいつが追いかけてくる。
あんな細い手で、どうしてついてこられるのか。
果たして何処まで追いかけてくるのだろう。
体力が尽きかけ、諦めが心を支配しようとしたとき、水の音が聞こえるのに気付いた。
何処かに沢があるのだ。
もしあいつが水を渡れないとしたら――そうだ。石造りの地蔵の頭のようなものではないか。きっと水に沈む。沈んでくれ。
水音を目指して斜面を滑り降りていく。
立ち枯れた木の幹や、枝葉が折り重なり、進みづらいことこの上ない。
だが、白く飛沫を上げているのは確かに水の流れだった。
南無三!
葉山さんは水に飛び込んだ。
きっと逃げ切れたんだよな。
だが、今は発熱で全身の震えが止まらない。
水に飛び込んだときに、渓流の水を飲んでしまったのか、腹の調子も悪い。
背にしていた荷物は全て流れてしまっており、もう手元には何も残っていない。
携行食で糖分を摂取できれば、少しでも体温を上げられるのだが、手元にないもののことを思っても徒労だ。
暖を取ることもできない。季節がまだ夏だったことが、不幸中の幸いだ。凍死はないからだ。
耐え難い頭痛と、全身の痛みに、震えながら岩の陰で丸くなっていると、上流のほうから音が聞こえてきた。
ぺた。ぺた。ぺた。ペち。ぺち。ぺち。
岩の表面を、沢山の手のひらで叩いているような音だ。
何かを探っているようにも思えた。
音は次第に岩の上のほうに向けて移動していく。
――手のひら?
こんな夜中に誰が。
その瞬間飛び起きた。あれが追いかけてきたのに違いない。
だが、次の一歩が踏み出せなかった。
三半規管がおかしい。
ぐるりと視界が回る。そのまま膝を突いてしまった。
逃げないと。
気持ちだけが焦るが、身体が動かない。
その背に、腰に足に、小さな手のひらが絡み付いた。冷たい手だった。全身を這うようにして、無数の手が上へ上へと移動していく。
声を上げて身をよじっても、振り解くこともできない。
生きたまま臓腑を貪り食われる恐怖に、葉山さんは大声で謝り続けた。
だが、首の後ろに触れた指先の冷たい感触が、葉山さんの最後の記憶だという。
翌朝、葉山さんは救急搬送されている最中に意識を回復した。
指の先が痛い。そう思ったが、すぐにまた眠りに落ちた。
入院は二週間に及んだ。
後日、周囲に確認すると、彼は登山道の入り口に荷物もなく、泥だらけになって倒れていたらしい。
全身がびしょ濡れで、声を掛けても反応せず、高熱を出していることや、全身が擦り傷だらけということもあり、救急搬送されたのだという。
何故、彼が登山道の入り口にまで辿り着けたのかは、本人をはじめとして、誰にも説明できなかった。
また、彼の両手の爪は何が理由か全て剥がれており、左手の人差し指と中指の二本は凍傷で壊死していた。
夏の終わりに凍傷になった理由については、医師も首を傾げるばかりだった。
こちらも今に至るまで理由は不明だという。
―了―
著者紹介
神沼三平太(かみぬま・さんぺいた)
神奈川県茅ヶ崎市出身。大学や専門学校で非常勤講師として教鞭を取る一方で、全国津々浦々での怪異体験を幅広く蒐集する。主な著書に『実話怪談 揺籃蒐』『実話怪談 凄惨蒐』、ご当地怪談の『甲州怪談』『湘南怪談』、三行怪談千話を収録した『千粒怪談 雑穢』など。近著は、若手実力派二人と組んだ『怪談番外地 蠱毒の坩堝』(若本衣織、蛙坂須美/共著)。その他共著に「恐怖箱 百物語」シリーズなどがある。