❖私の中で共鳴する七つの大罪❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年11月7日)
(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)
憤怒にまつわる出来事。昨日の夕方、いつも利用するカフェにて。どこかでお酒を飲んできたであろう歳上の男女四人組が入ってきて、近くの席に座った。既にテンションが上がっているので、会話の声量が大きい。まあ、週末だし、そんな人たちもいるのは理解できる。特に気になったのは、4人の中で一番出来上がっている男性。年長者で、聞きたくなくても聞こえてくる会話の内容から、ご意見番のように振る舞っていた。上機嫌に拍車がかかり、ますます声量が大きくなる。お酒が入ると、音に鈍感になると聞いたことがあるし、楽しく会話しているわけだし、仕方がないかと、まだ流せた。しかし、その年長者が、今度はスマホを取り出して誰かに電話をかけ、今まで以上の声量で会話をし始めた。さすがに周囲の席の他の客も、ちらちらと彼らを見るようになっていた。ようやく店員の一人が声をかけてくれた。「他のお客様がおりますので、お静かにお願いします」。無事に静かになったと安堵したのも束の間。電話先の相手に、再び大きな声で「静かにしろって怒られちゃったよ〜」と、そしてまた声量が大きくなっていく。この年長者に憤怒する部分は当然あったが、それ以上に憤怒したのは他のメンバーから聞こえてきた発言だった。他のメンバーが年長者をなだめるように発した言葉に私の憤怒メーターは急上昇した。「また店員さんに怒られるから」。この発言を完全に額面通りに捉えるべきではないが、あくまでも店員に怒られるかどうかが主たる問題であって、今どれだけ周りの迷惑になっているかの認識が前面に出ていないように感じた。発言から透けて見えるのは、店員に怒られなければ大丈夫という認識である。店員に指摘された時点で、指摘したのはなぜなのか、問題の核心の「自分たちがうるさい状態にある」ということに気づいていないことに憤怒した。わざと気づいていない振りをしているとしたら、非常に残念である。これ以上、憤怒メーターが上がっては困るので、私はすぐに店を出た。この出来事を自己分析の材料として捉えた場合どうなるか。キリスト教の「7つの大罪」で考えてみた。ヒエロニムス・ボスの絵画『七つの大罪と四終』の力も借りて、レーダーチャートを作成した。確かに私は大いに憤怒した。だから憤怒は最大値の10だが、そうやって仲間と盛り上がれている状況を羨ましく思っている自分もいて嫉妬もあったと感じる。そして、店の雰囲気を自分寄りにしておきたいという強欲もそれなりにあったし、どこかでそんな衝動的な彼らを見下すような傲慢さがあったのも事実である。店を出た後、気持ちの矛先はコンビニでの衝動買いに繋がって、若干暴食ぎみであった。